スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 2014.03.05 Wednesday
  • -
  • -
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

なぜ中東で騒乱が相次ぐか (2)空前の好景気の落とし穴

  回は、中東諸国に政治への不満を表出させるメカニズムが、他地域と比較して、構造的に欠けていたことを取り上げました。ただし、それはいわば長年蓄積されてきたものであり、今回の一連の出来事の背景としては指摘できるものの、なぜこのタイミングで連鎖反応的な騒乱が発生したかは説明できません。そこで取り上げるべきは、中東諸国を覆う未曾有の経済変動です。



  2000年代に入って、新興国の成長による需要の拡大や、世界的なカネ余りによる投機的な資金移動で、世界レベルでエネルギー、食糧価格が高騰してきました。2008年には国際的な原油価格が1バレル100ドルを上回るという異常事態に発展。原油価格の高騰は日本など輸入国にとっては深刻な問題でしたが、逆に産油国にとっては「濡れ手に粟」の大もうけです。労せずして巨額の収入を得た産油国は、空前の好景気に沸きました。近年、国際的なスポーツイベントがドバイなど中東諸国で開催されたのは、この好景気を背景にします。

  ただし、原油価格の高騰は産油国にとって痛し痒しというところがあります。つまり、価格下落によるリバウンドです。かつて、1970年代に史上初の石油危機が2度発生し、産油国は急速に経済成長しました。ところが、価格が上がりすぎると需要は低下します。原発の開発や省エネ技術の普及などの効果により、1980年代に先進国で需要が低下すると、原油価格が急落しました。「逆石油危機」です。このとき、産油国は原油価格が上がりすぎることの危険性を認識しました。しかし、2000年代の空前の好景気のなか、この教訓が危機感をもって語られていたようには思えません。

  逆石油危機の時より事態が深刻化したのは、いわゆるグローバル化の影響と無縁ではありません。2000年代の金融市場の発達は、中東諸国も例外ではありませんでした。ドバイやカタールを中心に世界の投機資金が流入し、好景気に拍車がかかりました。ところが、好景気は一方でインフレをもたらします。原油価格高騰と連動するように、中東諸国では他地域よりインフレが加速しました。いくら好景気でも、これは低所得層に大きな打撃をもたらします。



  ところが、リーマンショックを発端とする金融危機で、事態は一変しました。当面の利益を確保するため、エネルギー分野につぎ込んでいた資金を回収する投資家が続出。これにより、エネルギー価格は急落するとともに、産油国では急速なインフレの収縮に向かいました。物価の下落は一見よいことですが、物を作ったり売ったりすることによる利益を減らすことになります。したがって、急激な物価変動は、必ずしも低所得層にとってよいことではありません。

  さらに悪いことに、新興国での経済復興が急激に進んだこともあり、一旦収まっていたエネルギー、食糧価格が再び急激に上がり始めたのです。一旦落ち着き始めていた物価高騰の影響は、やはり中東の低所得層を直撃することになりました。なかでも、食糧価格の高騰は、もはや危機的な状況です。



  つまり、2008年前後からの世界規模での経済変動によって、最も乱高下の幅が大きかったのは、中東諸国だったのです。リーマンショック以前からのインフレのなかで、低所得層の生活は徐々に苦しくなり、あとは世界的な変動に翻弄され続けてきた。この状況下で、ひたすら好景気に浸る高所得層、あるいは政府そのものに対する憎悪が増幅しない方がおかしいわけです。振り返ってみれば、空前の石油収入が今回の一連の騒乱のお膳立てをしていた、と言えるでしょう。



なぜ中東で騒乱が相次ぐか (1)民主化と縁遠い地域

 東諸国の変動はとどまるところを知りません。これをみるにつけ、忸怩たる思いがよぎります。

 以前、エジプトやチュニジアの騒乱を親米独裁者の国に特有のものととらえ、同様の事態はヨルダンやモロッコで起こりえると述べました。確かに、ヨルダンやモロッコでも反政府運動は起こっていますが、ペルシャ湾岸の産油国でも、反米の国でも同様の事態が起こっています。なかでも、リビアではカダフィ体制が風前の灯です。

 高校生の頃、東西冷戦が終結しました。大学生になって、なぜ当時の国際政治学者たちが冷戦終結を予測できなかったのか、不思議に思いました。しかし、いまやそれが我が身に返ってきています。なぜ、中東の変動を予測できなかったか。しかし、後悔先に立たず。今できることは、「なぜ中東で騒乱が相次ぐか」を考えることです。

 まずマクロな視点からいえば、中東が世界規模でみて、地域単位で民主化と自由化に遅れた地域ということが確認されます。1970年代以降、世界には民主化の波が押し寄せました。S.ハンチントンはこれを人類が経験した民主化の『第三の波』と呼びます。この波が訪れた時期は、地域ごとに異なります。時系列的に見れば、

1970年代半ば〜末:ラテンアメリカ、南欧(スペイン、ポルトガル、ギリシャ)
1980年代:東アジア(台湾、韓国など)
1989年(冷戦終結):東欧
1990年代〜:旧ソ連地域、アフリカ

  これで言えば、世界のほとんどが既に民主化の波にさらされてきたことになります。もちろん、それでこれらの地域に、実際に民主的な社会ができあがったとは言えません。ロシアのプーチン首相が、大統領を退きながらも個人的な影響力を隠然と発揮していることは、その象徴です。しかし、それでも野党の活動が合法化され、メディアが普及し、少なくとも定期的に選挙が実施されることは、民主主義の最低限の条件です。つまり、これらの地域は「実質的に民主的な社会」でないかもしれませんが、それに向かうための「民主主義の手続き」は備えていることになります。これは言い換えれば、国民が政府に対する不満を合法的に発散できる機会が、少なくとも選挙の時にはあるということです。

  この「民主主義の手続き」を備えていない国は、いまや少数派です。アジアでは中国や北朝鮮、ラテンアメリカではキューバなどが、その代表格です。ところが、イスラエルやトルコを特殊事例として除けば、中東は地域単位で「民主主義の手続き」の整備が進んでこなかった、例外的なまでの事例なのです。なかでも、資源収入をばら撒くことで政府が支配を維持できる産油国に、この傾向は顕著です。

  クウェートのように議院内閣制の整備を進めてきた国もありますが、産油国では多かれ少なかれ、サウジアラビアに代表されるように、石油収入を握る政府=王族の独裁体制が敷かれています。産油国以外の国でも、産油国に出稼ぎに行った人の送金が国全体の収入の多くを占める国も、珍しくありません。多くの中東諸国では、いわば生活水準を維持するという物質的利益によって、国民の政治への不満を和らげてきたのです。これをレンティア経済と呼びます。

  さらに、産油国であることは、欧米諸国からの民主化圧力を跳ね返す力となってきました。例えば、財政のかなりの比率を援助に頼るサハラ以南アフリカの場合、国際的な民主化要求を拒絶することは、ほぼ不可能です。中東では、仮に選挙が行われても、以前に取り上げたエジプトの選挙のように、野党勢力に対する抑圧が露骨ですが、アフリカと違って欧米諸国の選挙監視団もあまりうるさいことはいいません。

  これらに鑑みれば、中東では地域単位で、合法的な政府批判そのものが抑制されてきたと言えるのです。

(つづく)



エジプト:軍隊の政治への関与が求められる背景

  バラク大統領の辞任を受け、大統領権限が軍の最高評議会に移譲されました。今後、軍の首脳会議である最高評議会を中心に、民主的な選挙の実施に向けたプロセスが始まるものとみられます。

  軍が政治問題においてキーとなる役割を果たすのは、エジプトやアフリカだけでなく、昨年のタイなど広く開発途上国全体でみられることです。軍が物理的な強制力を備えていることが、その理由の一つであることは言うまでもありません。自衛隊を「暴力装置」と表現して釈明を強いられた官房長官がいましたが、事実認識としては間違っていないと思います。

  しかし、単純に「力」があるだけが、軍の存在感を高めているとはいえません。つまり、多くの国において軍隊は最も「近代化」が進んだ組織なのです。この場合の近代化とは、個人をその属性によってではなく、一人の人間として扱うという意味です。特に下士官クラスの場合、演習や留学などで先進国の軍隊との接触頻度が高く、国際的感覚を身に着けていることも、その要因の一つです。

  もともと軍隊というのは、生命のやり取りをする組織です。必然的に、完全とは言えないまでも、政党、企業、大学といった他のどの組織よりも、能力主義が貫徹することになります。そうでなければ、部隊が全滅する、あるいは最悪の場合は国家が滅びるからです。明治維新後の日本で、かつて「朝敵」の汚名を着せられた会津出身者が、ほぼ唯一受け入れられた公職が軍隊だったことは、偶然ではありません。

  一方で、多くの開発途上国では官公庁や企業において縁故主義が蔓延しています。そして、多くの貧困層にとって政治家とは縁故ネットワークの頂点に位置する「汚れた」存在である一方、能力主義で国家のために機能する軍隊には「クリーン」のイメージが与えられるのです。逆に、同じく「暴力装置」の警察が、賄賂など汚職の常習犯となることで、軍隊ほど敬意が払われないのも、開発途上国に共通します。

  ただし、軍隊と一言で言っても、その上層部はやはり縁故主義と無縁ではありません。そもそも、高い収入を前提とする高い教育を受けられる機会がなければ、将校クラス以上に上れません。その意味で、混乱する状況に対して、一時避難的に軍に権限を委ねることはやむを得ないとしても、それが長期化するほど「ミイラ取りがミイラになる」事例は、アフリカに掃いて捨てるほどあります。したがって、国民の支持が高いとはいえ、軍の関与が長期化することは望ましいことではなく、エジプトの民主化は端緒についたばかりなのです。


アメリカのムバラク大統領「切り捨て」

  バラク大統領が次回選挙への立候補を断念したことに、カイロで不満の声があがりました。反政府デモに参加している人は、「即時退陣」を求めているからです。これに対して、ようやくアメリカが重い腰を上げました。オバマ大統領がただちに政権移行を進めるようムバラク大統領に求めたことを明らかにしました。

  前回も触れたように、アメリカをはじめとする西側先進国は民主主義の重要性を強調する一方、政府レベルで友好関係にある独裁政権に対しては寛大な態度を取り続けてきました。その意味では、西側先進国政府にとって今回のデモは、中東における自らの協力者を失いかねない、好ましからざる事態であったといえます。

  にもかかわらず、オバマ大統領がムバラク大統領をいわば「切り捨てる」決定をしたのは、なぜでしょうか。色々と考えられますが、一つにはムバラク大統領を支持する内外世論があまりに乏しいことです。アラブ世界のなかでも、西側に寄り添う現体制に対する評価は必ずしも高くありません。西側の市民レベルでも同様です。このままエジプトの現体制を擁護することは、それでなくとも国内の支持率低迷に悩まされているオバマ大統領にとって、あまりにリスクの高い話です。

  タラレバの話をしても仕方ありませんが、仮に前任のブッシュJr大統領だったら、誰がなんと言おうとムバラク大統領を支持したでしょう。「テロとの戦い」を最優先に掲げ、それに協力する者を「味方」、非協力的な者を「敵」と識別していた彼からみれば、いかに独裁的であっても、ムバラク大統領はエジプト国内のイスラーム主義組織鎮圧に力をそそぐ「味方」だったのです。

  しかし、全ての問題を「対テロ戦争」の文脈でしか判断しない弊害は明らかです。中国のウイグル自治区やロシアのカフカス地域で行われている強圧的な鎮圧を、テロリストの掃討という言辞によって西側が黙認したことは、記憶に新しいところです。欧米諸国内部でも、これに対する懐疑が定着しています。ブッシュ路線からの転換を至上命題とするオバマ大統領にしてみれば、その意味からも今回の「切り捨て」方針は必要だったといえるでしょう。

  一方で、親西側の独裁政権が市民の力によって倒されそうな状況は、西側諸国政府にとってイラン・イスラーム革命の教訓を思い起こさせるものです。その意味で、公式にはエジプト国民の自主性に任せるポーズをとりながらも、西側に近い政権の誕生を暗に促すことになると思われます。ただし、それは一歩間違えれば、現在は反米一色でもない反ムバラク勢力の反米感情を一気に燃え上がらせる危険をはらんでいます。独裁者支援と民主化要求のダブルスタンダードのツケを清算できるかは、西側の今後の出方にかかっているといえるでしょう。


必然としてのエジプト騒乱

  日、知人にエジプト情勢について尋ねられました。反政府、反ムバラク大統領のデモ隊が大規模化し、一部が暴徒化。外国人は国外退去を余儀なくされています。知人に対するそのときの細かい返答は忘れましたが、一言で言えば「驚くにはあたらない」ということです。

  エジプトは、その前にやはりデモによって大統領が失脚したチュニジアと、多くの点で類似します。独立以来、中東のなかでは比較的宗教色を排した国家としてやってきたこと、西側先進国と良好な関係にあること、経済的な対外開放が進んでいること、そして独裁的な大統領が長年支配し続けてきたこと、です。

  このうち、特にエジプトはイスラエルと国交をもつ数少ない中東の国です。パレスチナ問題を念頭に、アメリカがエジプトに対して寛大な姿勢をとってきたことは、周知の事実。ムバラク大統領の独裁を容認してきたのは、他所で「民主化」を要求し続けているアメリカなど西側先進国なのです。もちろん、そのなかに日本も含まれます。

  一方で、対外開放が進むほどに格差は拡大します。そして、政府がそれを救済しないなかで勢力を拡張するのはイスラーム主義組織です。エジプトでは、20世紀初頭にイスラームの教えに基づき救貧活動を行う「ムスリム同胞団」が結成されました。これは各地のイスラーム主義組織のルーツでもあり、例えばパレスチナのハマースも、ムスリム同胞団パレスチナ支部から分裂した組織です。

  ムスリム同胞団そのものは救貧をメインにする、いわば穏健なイスラーム主義組織です。ただ、その勢力拡張は世俗主義のムバラク政権にとって必ずしも好ましいものではありませんでした。2005年の議会選挙で、ムスリム同胞団は政党として非合法のまま候補者を擁立し、454議席中88議席を確保しました。ムバラク政権はこれを当初黙認したものの、選挙が近づくにつれムスリム同胞団系候補への暴行や襲撃が相次ぎました。これが、ムバラク政権とイスラーム系組織との摩擦をさらに大きくしたことは、言うまでもありません。

  西側先進国と良好な関係の独裁者に支配される状況のもと、イスラーム主義組織が社会に鬱積する幅広い不満を吸い上げる。その様相は、西側に近ければ近いほど顕著です。その意味では、もし次に同様の事態が発生するとするならば、
エジプトやチュニジアとの類似性が高いという点で、反西側のシリアやリビア、あるいは潤沢な石油収入をばら撒くことで国民の支持を集められるペルシャ湾岸諸国ではなく、ヨルダンやモロッコといった国があげられるのです。


コートジボアール騒乱は「終わりの始まり」か?

   西アフリカのコートジボアールで、大統領選挙の結果を巡って死傷者を出す混乱が続いています。昨年10月から11月にかけて実施された大統領選挙で、現職大統領のローラン・バグボ候補の敗北と、野党RDR(共和国連合)党党首アラサン・ワタラ候補の勝利が、独立選挙管理委員会によって発表されました。しかし、バグボ大統領は選挙結果を受け入れず、ワタラ氏と別々に、それぞれが大統領宣誓式を行うという事態となったのです。両陣営の支持者は、お互いに衝突を繰り返し、大統領選挙の決選投票が行われた11月だけで173名以上が死亡したと伝えられています。混乱を恐れた人々のなかには、近隣諸国へ難民として脱出を図る人も急増。リベリアだけで既に1万人以上がコートジボアールから逃れてきています。

  この異常事態に、近隣諸国で形成される「西アフリカ諸国経済共同体」(ECOWAS)の代表団として、ベナン、シエラレオネ、カーボヴェルデの各大統領が揃ってコートジボアールを訪問。ワタラ、バグボ両氏と面会しました。
AFP通信によると、このとき3大統領はバグボ氏に対して、退陣しなければ武力行使も辞さないと最後通牒を突きつけたということです。

  ECOWASは「経済共同体」という名称ではあっても、1990年代には西アフリカ域内の安全保障を担当する地域機構として、広くその名が知られました【
六辻彰二(2004)「西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の紛争管理メカニズム」】。1990年代、冷戦終結の余波を受けて、西アフリカ諸国では内戦が頻発。しかし、1990年代の国際社会は、アフリカに無関心でした。そのなかでECOWASは、地域大国であるナイジェリアを中心に、シエラレオネやリベリア、ギニアビサウ、コートジボアールなど内戦に陥った国に平和維持部隊を派遣し、場合によっては反政府勢力の掃討作戦まで展開しました。そのほとんどで内戦終結に道筋をつけることに成功したことで、ECOWASは経済面よりむしろ安全保障面での機能が、国際的に高く評価されるに至ったのです。

  アフリカの国に部隊を派遣することは、多くの域外国が避けたがるだけでなく、植民地支配の歴史もあって、受け入れる側にも強い抵抗感があります。その意味で、近隣諸国からなるECOWASの部隊の派遣には、軋轢を最小限に食い止める効果が期待されます。なかでもECOWASの特徴としてあげられるのが、強制的に介入できる権限です。ECOWAS加盟国は1999年の「紛争予防・管理・解決・平和維持・安全保障メカニズム議定書」で、必要な場合に受入国の同意がなくてもECOWASが軍事的に介入できることに合意しました。これは、受入国の同意なしに介入できなかったために虐殺を阻止できなかったルワンダやソマリアなどの経験を反映したものですが、いずれにしても強制的な介入を容認している点で、ECOWASの紛争管理メカニズムは特異なものといえます。

  ただ、ECOWASの軍事介入には、宿命的な難しさがあります。どういった場合が「必要な場合」なのか、については明確に定められていないのです。そのため、そのときどきの情勢によって左右されざるを得ず、特に介入される側から「恣意的な判断」と批判されることは免れないのです。今回も、バグボ氏はECOWASの介入が、自分を快く思わない西側諸国の差し金だと強く反発しています。今回、最後通牒を突きつけられたバグボ氏は、大統領だった2003年、全面的な内戦に直面してECOWASに軍事介入を要請し、それによって自らの立場を保全した経緯の持ち主ということに鑑みれば、歴史の皮肉を感ぜざるを得ません。

  いずれにしても、今後の推移は予断を許さないものの、各地で戦闘が沈静化していたこともあり、しばらくみられなかったECOWASの平和維持活動が再び始まろうとしています。多くのアフリカ諸国は、この数年、5パーセントを上回る経済成長率を示しながらも、その内部に従来から抱える地域・エスニシティの間での対立や脆弱な政府といった問題を克服しきれていません。これらがアフリカの内戦を引き起こしてきたことに鑑みれば、今回のコートジボアールの騒乱とECOWAS部隊派遣の可能性が、西アフリカの小康状態の「終わりの始まり」でないことを願うのみです。



CHINAFRICA Watch (1) カーソン補佐官の苛立ち 

   ウィキリークスによる情報の意図的な流出は、情報社会において起こるべくして起こった出来事と言えるでしょう。その是非は、一先ず置いておくとして、公開された情報のなかには、「やっぱり」というものも珍しくありませんでした。今回、アメリカ国務省でアフリカ問題を担当するJ.カーソン(Johnnie Carson)補佐官が、「アメリカにとって中国は、アフリカにおいて、『道義を欠いた』(with no morals)競争相手だ」と、2月にナイジェリアで開かれた会議で述べていたことが明らかになりました。
http://www.iol.co.za/news/africa/china-has-no-morals-in-africa-1.999361

  2009年の1年間で、中国はアフリカに14億4000億ドルを投資したと言われます。2000年の2億2000万ドルと比較すると、その増加が顕著であることは、明らかです。さらに、投資を含め、援助などの総計では、2009年の末までに93億ドルをアフリカにつぎ込んだとも伝えられています。その一方で、スーダンのアル=バシール大統領、ジンバブエのムガベ大統領など、国民に対する人権侵害を理由に欧米が非難を強める国家元首とも、中国が良好な関係を保っていることは、これまでにも何度も取り上げたとおりです。

  このような状況に対して、カーソン補佐官は「アフリカでの中国は、中国自身のことを第一に考えている」と発言。これは、中国によるアフリカへの関与が、資源や食糧の確保だけでなく、台湾問題をめぐる支持確保といった、自国の利益のみを追求するものだ、と示唆したものです。さらに、カーソン補佐官は「米国は民主主義と資本主義を推し進めようとし続けているが、中国の権威主義的な資本主義が政治的に挑戦しようとしてきている」とも続けました。この情報流出に関して、中国政府は公式のコメントをしておらず、現在この情報にアクセスすることもできないようです。

  もちろん、アメリカをはじめとする欧米諸国も、アフリカで「公正中立」に振舞ってきたわけではありません。1990年代以降、日本を含めて西側先進国はアフリカに対して、民主主義と資本主義を「強要」してきました。頼みもしないのに、これらを押し付けられたアフリカ側には、欧米諸国に対する不満が潜在的に大きくあり、これが中国など新興国への接近の背景にはあります。

  いずれにしても、カーソン補佐官の発言は、資源や食糧価格が高騰するなか、アフリカにおける中国の目覚しい台頭に対する、欧米諸国の苛立ちを象徴するものなのです。また、これがアフリカでの発言であったことは、現地アフリカでも中国に対する複雑な感情があることを物語ります。中国企業の進出によって雇用が生まれるといった期待があっても、その多くで従業員のほとんどが中国人という現状に、不満が鬱積しつつあるからです。

  アメリカが言う「G2」時代を目前に控え、中国のアフリカにおけるプレゼンスは、ますます増大することと思われます。軍事的手段よりむしろ、外交的な手法でアメリカと対決する中国にとって、アフリカは大票田。アフリカにおける中国の動向は、世界政治全体に関わる要素となってくるのです。今後、
"CHINAFRICA  Watch"では、中国からのものを含めて、日本のメディアがほとんど伝えない中国―アフリカ関係に関する情報を、定期的に掲載していきます。


ウガンダ連続爆破テロ:アフリカ内部の亀裂は深まるか

   ールドカップ南ア大会はスペインの優勝で幕が下りました。決勝戦のスペイン−オランダ戦は、17世紀の無敵艦隊帝国スペイン対新興海洋国家オランダの対決を髣髴とさせるものでした。それはさておき、決勝戦が行われていた11日、ウガンダで連続爆破テロが発生しました。現在のところ、確認されている死者は74人。現場はサッカーのテレビ観戦が行われていた飲食店2軒でした。


  ワールドカップの開催前から、各種の勢力によるテロの発生を懸念する声はありました。しかし、実際に発生したのは南アではなく、アフリカ中央部のウガンダ。12日に犯行声明を出したアル=シェバブ(Al-Shebab)はソマリアの反政府勢力で、国際テロ組織アル=カイーダとの連携も指摘されています。ちなみに、「自爆テロ」ではなく仕掛けられた爆弾のようです。いずれにしても、アフリカ人同士の間でテロを行う側とその被害にあう側が出たことは、事態の深刻さを物語ります。





  アル=シェバブは欧米諸国が支持するソマリア暫定政府と敵対しています。1990年代から内戦が絶えなかったソマリアには現在、アフリカ連合(AU)から6000名の平和維持部隊が派遣されていますが、これはウガンダとブルンジの兵士によって構成されています。しかし、この部隊がソマリアの首都モガディシオで民間人を殺害したとして、アル=シェバブは「アラーの敵」ウガンダ、ブルンジに対する聖戦を呼びかけていたのです。


  ウガンダが位置するサハラ砂漠の南端は、北にイスラーム圏、南にアフリカ圏を分割するラインが東西に伸びている一帯です。学生時代にアフリカを旅行していて、スーダンからウガンダに南下したとき、女性が飲食店でビールを飲んでいる姿をみて、「イスラーム圏から出た」と実感した覚えがあります。キリスト教徒とムスリムが必然的に対立に至るわけではありませんが、ウガンダにもやはり反政府的なイスラーム組織があります。これでウガンダが部隊を撤退させるとは想像しにくいのですが、その分だけウガンダ国内でも宗教・宗派間の対立が激化する可能性があります。


  サハラ砂漠南端に位置する一帯では、ムスリムの人口が急激に増えているといわれます。海外投資が増加し、急激な都市化が進む一方で、雇用機会はさほど増えず、物価の上昇も手伝って、貧困層の生活は悪化しています。アラブ諸国やヨーロッパと同様に、生活支援を行うイスラーム系の団体は、貧困層にその勢力を伸ばしつつあります。これらの団体は、欧米諸国から支援を受ける自国あるいは隣国政府もまた、敵とみなしているのです。南アでの開催やガーナのベスト8など、ワールドカップでその将来に楽観論が広まったアフリカですが、その足元では着実に混乱と憎悪の芽が生まれているのです。


南アの治安の悪さに思うこと

   ールドカップ開催を目前にして、南アフリカの治安の悪さが話題になっています。これに対して、「そんなの気にすることない」といった、やたら勇ましいのか無責任なのか分からない発言をするコメンテーターもいます。しかし、残念ながら、今回のワールドカップが終わるまでに、観戦に行った観光客のうち、なんらかの犯罪被害にあわずに帰れる人がどれほどいるかには、悲観的な予想をせざるを得ません。

  
  私が初めて南アに行ったのは、1995年のことです。アパルトヘイトが終結し、南アが新しい船出を始めた直後のことでした。しかし、アパルトヘイトの終結は、逆に政府による強権的なまでの治安維持を不可能にし、人の移動の自由化は、都市への人口流入と貧困層の急増をもたらしていました。そのため、当時すでにヨハネスブルグは、その治安の悪さで大陸中に悪評をとどろかせていたのです。なかでも海外旅行に慣れていない日本人客の10人に9人はホールドアップされる、といった噂が飛び交っていました。私自身は被害にあいませんでした。というのは、ヨハネスブルグでは国際バスターミナルからホテルのピックアップサービスを頼み、白人居住区から一切外に出なかったからです。


  私自身の対応は、やや極端だったかもしれません。しかし、現実に私の直後に南アに旅行に行った大学の後輩は、着くなり強盗の被害にあい、怪我などはなかったものの、とんぼ返りで帰国せざるを得なくなりました。あれから15年たち、アフリカでは犯罪がさらに深刻化しています。なかでも大陸随一の経済大国である南アには、周辺国から不法就労者が集まり、それに付随して銃や麻薬の流入も顕著です。南アだけでなく、アフリカでは日本大使館員が移動の際、車の助手席に自動小銃をもった警備員を常に同行させる国も珍しくありません。


  アフリカで犯罪が急増する背景には、貧困の蔓延があります。景気がよくても就労機会には限界があり、世界銀行の統計では、2008年段階で1日2ドル未満の生活を強いられる貧困層は、人口の約34パーセントにおよびます。一方で、1990年代に内戦が多発したアフリカには、「需要」を当て込んで世界中から拳銃や自動小銃などの小火器が流入しました。2000年代に入って、多くの内戦は収束に向かいましたが、小火器の回収はほとんど進んでいません。国によって差はあるものの、AK-47カラシニコフが100ドル以下で簡単に買える国がほとんどです。


  治安の悪さは、南アだけでなくアフリカ全体が抱える社会問題の縮図なのです。冒頭にいったように、日本人だけでなく、多くの国の観光客が何らかの被害にあうと予想されます。その意味では、アフリカ大陸初のワールドカップ開催という栄誉と引き換えに、南アは「犯罪大国」という不名誉なレッテルを貼られるというコストを負担せざるを得なくなったのです。中国でのオリンピックが格差や人権侵害といった問題を逆にクローズアップしたように、開発途上国での国際的ビッグイベント開催は、光が強いぶん、影がくっきりと浮かび上がる効果があるのかもしれません。

チーター世代の台頭が意味するもの

   昨日、チーター世代を取り上げました。20〜30歳代のチーター世代の台頭がアフリカにもたらすインパクトは、単に欧米で仕込んだスキルや知識をアフリカに持ち込む、というだけのものではありません。チーター世代の台頭は、アフリカにおける社会のあり方そのものに変容を迫る可能性をもっています。そのインパクトを理解するうえで重要なのは、アフリカで若年層がどのような位置づけであるか、という点です。


  ほぼ大陸全土に渡って、アフリカの社会では年長者が敬われます。農村などで何か決めるときは、成人男性なかでも首長(chief)、長老(elders)などの年長層の意見が尊重されます。これと逆に、多くの場合、若年層や女性には、そのような場で発言権が保証されていません。そのほかにも、一般に財産の相続は成人男性が優遇され、年長層ほど財産が多い一方で、若年層や女性が土地などを利用する権利は制限されています。いわば、アフリカの若年層は、政治的、社会経済的な権利が保障されていない場合がほとんどなのです。

  
  アフリカ諸国にも「法のもとの平等」に基づく公式の憲法や法律がありますが、農村では慣習法(customary law)と呼ばれる伝統的なルールがいまだに力を持ちます。慣習法とは、いわば昔から伝わる「村の掟」のようなもの。そのルールを運用するのは年長男性で、若年層や女性に不利な内容も稀でありません。財産がないことを理由に若年層が結婚できず、一夫多妻制のもとで年長層男性が何人も妻をもつ、という事態も頻繁にみられます。


  これらの政治的、社会経済的な権利が制限される状況は当然、若年層の不満を募らせます。1991年から2001年まで続いたシエラレオネの内戦で、政府の打倒を目指した革命統一戦線(Revolutionary United Front: RUF)は、民族や宗教を越えた若年層の自発的な参加で勢力を拡張させました。RUFは特段の理由もなく村々を襲撃して年長層を殺害したり、手足を切断するなどの蛮行を働きました。これが非難されるべきことは言うまでもありませんが、他方でここからは、シエラレオネの若年層が年長層中心の社会のあり方に、漠然と大きな不満を抱いていたことが見て取れます。




  もちろん、世代間の対立が内戦にまで発展したケースは、決して多くありません。しかし、年長層が政治、経済、社会のあらゆる領域で力を握る状況に、若年層が不満を抱く素地があることは、アフリカの多くの国で共通します。海外でビジネスのノウハウや技術を身につけ、多かれ少なかれ資金力を備えたチーター世代の出現は、アフリカの「伝統的な社会」のあり方を変容させる契機となり得るのです。その意味で、アフリカ諸国の指導的立場にある年長層(カバ世代)にとってチーター世代の台頭は、国力の向上を促す一因となる一方で自らの立場を危うくしかねないという、二律背反する意味をもっているといえるでしょう。



iPad用の電子書籍アプリを作りました![佐門准教授と12人の哲学者]


公式サイト

カレンダー

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>

最新エントリー

カテゴリー

アーカイブ

プロフィール

search this site.

sponsored links

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM