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  • 2014.03.05 Wednesday
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南アフリカ:負の歴史への向き合い方

2月8日、ボツワナを離れて空路で南アフリカへ移動。国際線とはいえ、30人も乗客が乗れないようなプロペラ機で、30分強のフライトでした。

南アフリカでは、いくつかの研究機関をめぐって、意見交換とともに、今後の研究協力についての相談をしました。その一方で、南アフリカのいくつかの見ておくべき施設を訪れる機会もありました。特にフォール・トレッカー・モニュメントとアパルトヘイト博物館は、感慨深いものがありました。南アフリカはこれまでも行ったことがあったのですが、これらを訪れたのは、今回が初めてでした。

このうち、フォール・トレッカー・モニュメントには10日、首都プレトリアの研究機関を訪れた帰りに立ち寄りました。小高い丘のうえに、忽然と現れるその姿には、正直いって異様な雰囲気を感じてしまいました。



ここは南アフリカに入植していたオランダ系のボーア人(アフリカーナー)たちが、19世紀末に新しくこの地に入ってきたイギリス系に追われて内陸に移動していった、英語で言う「グレート・トレック」を記念して作られた施設です。アメリカの西部開拓者たちと同じように、(こちらは牛に引かせて)幌馬車を連ねて荒野をさまよった苦難の歴史を物語っています。



しかし、その一方で、この施設はアフリカーナーの苦難を示す一方、彼らによる南ア支配の正当性を強調する側面もありました。やはりアメリカの西部開拓者たちと同様、最初は現地の人間との間に友好関係がありながらも、やがて摩擦が生まれ、殺し合いに発展し、最終的には白人がこの地を制圧していきました。モニュメント内部の壁には、その顛末が生々しいレリーフに刻まれ、さながら歴史絵巻のようです。






このモニュメントは1937年に建設が始まり、1949年に完成しました。その1年前の1948年、南アでは国民党が政権を樹立しました。第一次世界大戦後、(成人男性)普通選挙が一般的になるなか、それまでイギリス系に比べて、政治的影響力が制限されてきた低所得層のアフリカーナーたちの発言力が高まり、さらに世界的に「民族自決」の潮流が支配的になるなか、黒人たちの政治活動に危機感を募らせたナショナリスティックな運動が一体となり、アフリカーナー主体の国民党が政権を握ったのです。しかし、それはその後、アパルトヘイト体制が本格化することの嚆矢となりました。フォール・トレッカー・モニュメントは、まさにそれと時を同じくして建設が完了し、「南アフリカが自分たちのもの」というアフリカーナーのナショナリズムを鼓舞する聖地となったのです。

一方、11日の午後の便に乗る前に訪れたアパルトヘイト博物館は、フォール・トレッカー・モニュメントに象徴されるアパルトヘイト体制の誕生から崩壊に至るまでを、時代別に、映像や資料を大量に展示しています。なかには、アパルトヘイト時代のフォール・トレックに関する映像もありましたが、「善良な白人 対 悪い現地人(こちらはズールー)」という図式の映画で、かつての西部劇とほとんど同じでした。また、解放闘争を率いたネルソン・マンデラ元大統領の若い頃の写真や映像も多数あるほか、1960年の虐殺、シャープヴィル事件の映像もあり、アパルトヘイトの全貌を知ることができます。博物館の入り口がアパルトヘイト時代を模して白人と非白人に分けられている(もちろんどちらからでも入れる)ところが、気軽な博物館でないことを物語っています。ちなみに、私は非白人の入り口から入りました。



どの国にも、歴史の暗部はあります。それは覆い隠すのではなく、あるいは旧体制の受益者に対する憎悪を募らせるのではなく、ひたすら直視することによってのみ克服できるものであることを、フォール・トレッカー・モニュメントとアパルトヘイト博物館は示しています。

翻って、日本では既にこのアパルトヘイトへの関わり方が忘れかけられています。1980年代、南アフリカはアパルトヘイトを理由に、国連によって経済制裁の対象となりました。白人地主が中心の南アフリカは、冷戦時代にはアフリカ随一の反共産主義国家でした。当初、アフリカ諸国と東側共産圏が主体だったこの経済制裁へは、東西冷戦の緊張緩和にともない、アメリカなど西側諸国も実質的に加わるようになります。ところが、そのなかで日本は南アフリカと貿易を続け、南アフリカ政府からは「名誉白人」という不名誉な称号を、他のアフリカ諸国からは国連総会での名指しの非難を、それぞれ受けることになったのです。

当時の日本政府の原則は、「政経分離」。つまり、政治と経済は別のもので、相手の政治体制に関わらず、我々はビジネスをしているだけ、というものでした。これは、人権侵害が指摘される政府とも経済的な結びつきを強める、いまの中国と基本的に同じです。「相手国の内政に関与しない」という不干渉原則は、相手の独立性を尊重するという意味で重要ではありますが、場合によっては不正義を黙認することにもなります。

果たして、この不名誉な教訓を、その後の日本は活かしているのでしょうか。例えば多くの国が制裁の対象としたミャンマーの軍事政権に対して、外務省の方針は「制裁をしないことで関係を維持し、そのうえで政治・経済的な改革を促す」というものでした。もちろん、何でもかんでも干渉するのは帝国主義的です。しかし、いつ何時も相手に対して口を出さない、というのは不正義の黙認につながります。国内では、子どもを虐待する、あるいはしているかもしれない親権保持者に対して、児童相談所が干渉する原則を構築するために努めてきています。同じような努力を、他国の内政に関与するための原則を作るために政府が行ってきたようには、少なくとも私にはみえません。これを思うと、暗澹たる思いになるのは、私だけでしょうか。

一方で、南アフリカに話しをもどせば、こちらでは負の歴史を将来への糧とする取り組みが随所にみられます。アパルトヘイト後の南アフリカは、人種、民族間の融和に努めてきました。19世紀の帝国主義の時代、アフリカはヨーロッパ列強によって植民地化され、好き勝手に線引きされて、それが現在の国境線となっています。その結果、国内には多くの言語や習慣が混在しています。多くの場合、英語やフランス語といった旧宗主国の言語が公用語として使用されるのですが、南アフリカでやはり見学に訪れた憲法裁判所では、英語を含めて9つの言語を使用できるということでした。これは、歴史を逆転させることができないという前提のもと、誰かを一方的な優位に置かず、他者との共存を図りつつ南アフリカとしての一体性を模索する営為の現れです。

グローバル化が進み、個々人がバラバラになるなかで、社会としてのまとまりが模索される状況は、日本のみならず、世界各国で共通してみられる減少です。南アフリカは、この状況で求められる「多様性の中の統一」を、いち早く経験した国といっていいかもしれません。

ボツワナの中国人社会の一段面

日、アフリカから帰国しました。大学の試験や追試などの合間をぬって、2月4日から12日までのわずかの期間ですが、私の先生と一緒にボツワナと南アフリカを周ってきました。目的は主に、中国のアフリカ進出についての調査です。これは日本の対アフリカ関係を再考するための比較手段としての調査です。

 
ボツワナ大学にて  後ろの立派な建物も中国系企業が建てたもの。
それはともかく、30度の快晴でリーゼントはつらい。


中国のアフリカ進出は、近年では広く知られていますが、それはボツワナでも同様です。ボツワナに居住する中国人の数は、公式には5000人程度となっていますが、現地在住の中国人企業家によると、3万人いるとのことでした。ボツワナの全人口は200万人程度。そこから考えると、膨大な数の中国人が流入している様子がうかがえます。

先述の中国人企業家の協力のもと、中国人の卸売り業者や小売り業者の店を訪れました。首都ハボロネの一角に、中国人卸売り業者が集まる Oriental Plaza と呼ばれる卸売り市場があり、ここに現地の小売り業者が集まってきます。現地に着いた5日に行ったので、日曜日だったのですが、それでも時おりトラックが出入りしており、商業活動の活発さを垣間見ることができました。

オリエンタルプラザ  看板も中国風

その足で一軒の小売り業者のところに立ち寄りました。60がらみの女性店主は、一家郎党を引き連れて福建省からきたとのこと。彼女はボツワナにおける中国人商人の置かれている現状を話してくれました。それによると、彼女のような小売り業者は、最近になってボツワナ政府から様々な規制を受けるようになっています。例えば店舗スペースは1,500平方メートルまで。ボツワナ人を最低4人は雇用すること。さらに、新規の業者に対するビザ発給は限りなく困難になっているとのことでした。


訪れた中国人小売り業者。野菜などの食材、日用品などを扱う。右端は店を
訪れたインド人。インド系も中国系と同様、アフリカ進出が目覚しい。


中国は2003年以降、資源と市場を求めて、国家ぐるみでアフリカ進出を本格化させています。その一方で、溢れかえる人口と、失業問題を緩和させるために、国外進出を図る小売り業者に対して補助金を出しています。Going out と呼ばれるこの政策によって、他の地域と同様、あるいはそれ以上に、未開発の市場を求めて中国人小売り業者がアフリカに押し寄せてきたのです。最初、小売り業者からスタートして、現地で蓄財し、卸売り業に進出するケースも珍しくありません。その結果、多くの国で流通業における中国人業者のプレゼンスはとどまることなく拡大してきました。

しかし、国家ぐるみでの進出は、アフリカで中国に対する反感を徐々に増幅させてきています。ザンビアでは2011年の大統領選挙で、反中国の公約を掲げる野党PF(愛国戦線)のサタ候補が当選しました。アフリカ側の主な不満は、中国の大規模な国営企業が労働者を中国から連れてきているため、現地に雇用がほとんど生まれないことにあります。

ボツワナの流通業のケースにあるように、特定の業種が中国人経営者によって握られることも、アフリカ内部に中国への警戒感を高めさせる要因となっています。件の女性経営者の話にあった、ボツワナ政府による小売り業者への規制は、高まりつつある中国のプレゼンスに対する、アフリカ側からのリアクションを如実に示すものです。

このような規制強化による損失が大きくなったため、件の女性経営者は在ボツワナ・中国大使館に陳情に行ったそうです。しかし、大使館の反応は、「中国政府が保護する対象は国営企業だけ」というものだったと嘆いていました。中国政府は、高まる反中感情に無闇に反発することが、更なる中国批判を招くことを予期して、小売り業者たちにボツワナ政府の規制を受け入れるよう求めているといえるでしょう。要するに、トカゲの尻尾きりのようなものです。

しかし、ボツワナ社会における反中感情が簡単に解消されるとは思えません。中国人は、どこの国でもそうですが、集まって暮らす傾向があります。ハボロネには中華料理屋が多数あり、現地のレストランなどで中国人が食事している光景はほとんどみかけません。このように交流が希薄であることは、現地と中国人社会の関係をさらに悪くする一因ともいえます。

さらに、南部アフリカではHIVの感染率が高く、UNDPの統計によると、ボツワナでは2007年段階で成人の23.9パーセントが感染しています。治安がよく、さらに世界最大のダイヤモンド輸出国として豊かでありながら、そのHIV感染率の高さは、将来的にボツワナの国家基盤そのものを損なう可能性があります。そこへ、中国人が大挙して流入する様相は、確かに「国が乗っ取られる」という警戒感をボツワナ人にもたせたとしても、不思議ではないのです。

多くのボツワナ人が、とても陽気で愛想がいいにも関わらず、中国人の店で雇われている人ほど、やけに不機嫌にみえたのは、恐らく私の気のせいではないと思います。これは私の目には、2000年代に急速に進展してきた中国とアフリカの関係が迎えている、一つの曲がり角を象徴するように映りました。

チョコレートから自由と民主主義を想う

学はそろそろ試験の季節です。それが済むと入試一色に染まります。そんなわけで、各大学で担当しているコマの試験を行っているのですが、先週行った明治学院大学の試験終了後、とある学生にチョコレートをもらいました。2月中ごろに学生と接することがほとんどないのですが、前倒しでバレンタインのチョコレートをもらうのは、個人的には極めて稀です。じゃあお礼は・・・と思ったら、「ブログでの紹介」を希望されました。「それでいいの?」と思いながら、あれこれしている間に、書くのが随分遅くなりました。ありがとうございます、中村さん。ちなみに、これによって成績が左右されることがないのは、言うまでもありません。あくまで念のため。

ところで、チョコレートがカカオ豆を原料とすることは広く知られます。私が(一応)専門にしているガーナは、世界有数のカカオ産地です。しかし、少なくとも個人的には、ガーナで食べたチョコレートが美味しいとは正直思えませんでした。マクドナルドの例がよく知られているように、世界各地に広がるものは、一見したところ同じようであっても、それぞれの土地に応じてアレンジされて、初めて受容されることが一般的です。

これは、何も食べ物に限った話ではなく、理念やものの考え方においても共通します。仏教はその典型で、統一的な経典がないことや、明確な教義がないことも手伝って、伝播する先々の文化や価値観と融通無碍に結びつき、波及していきました。現代の日本では、「葬式仏教」と揶揄されるように、多くの人にとってお寺との結びつきはお葬式や法事といった死に関する領域が主ですが、これは霊魂を否定する最初期のインド仏教にはなかった特徴でした。それが中央アジアを経て、中国の先祖祭祀の習慣と結びつき、日本に伝播するなかで、独自の進化を遂げた結果です。

世界宗教と呼ばれるもののうち、このように仏教はいわば開放度が高いことで知られる一方、キリスト教やイスラームは教義が明確である裏返しとして、伝播した先の土地の文化や習慣と衝突することも稀ではありませんでした。とはいえ、キリスト教やイスラームも全く硬直的とは言えず、それぞれの土地柄と結びつくこともあります。アフリカの、特に農村では、病気になったときに伝統的なシャーマンに祈祷をお願いすることが今でも稀でなく、そのなかにはキリスト教徒もムスリムもいます。これが一神教の教義からかけ離れた習慣であることは、言うまでもありません。土地ごとのセルフアレンジを許容する懐の深さをもってこそ、理念の普遍性が保たれるといえるでしょう。

その意味で、エジプトの選挙結果は自由民主主義の普遍性を占う一つの試金石になるかも知れません。

1月21日、
エジプトの選挙管理委員会が議会選挙の結果を発表しました。このなかで、全議席の3分の2を占める比例代表の議席のうち、38パーセントをイスラーム同胞団系の自由公正党(FJP)が、29パーセントをイスラーム保守派の「ヌール党」が抑えました。これにより、全議席の約半数がイスラーム系政党によって占められ、FJPが第一党となりました。この選挙結果を受け、23日に開かれた初議会では、FJPの幹事長が議長に、ヌール党とリベラル政党の「ワフド党」から1名ずつが副議長に選ばれました。これはいわば、党派を超えて議会が結束し、エジプトの再生を図っていくことを内外に示したものといえるでしょう。

欧米諸国の保守派のなかには、これに懐疑的な声もあるようです。例えば、アメリカ新保守の論客として知られるジョン・ホプキンス大学のJ.ムラヴィックは、選挙が行われる前から、ムスリム同胞団が過去に暴力行為にも加担したことを批判し、イスラーム系政党が標榜する自由や民主主義は、「哲学的なものでなく戦術的なものに過ぎない」(Commentary, Sept. 2011)と断定していました。これに代表されるように、自由や民主主義がアラブでだけは通用しない、なぜなら文化や価値観が異なりすぎるから、という主張は「アラブ例外主義」とも呼ばれます。これは、特定の文化や価値観が固定的で、全く変化しないという前提に立つため、「本質主義」とも呼ばれますが、いずれにしても有名な「文明の衝突」もこの前提に立つ議論といえるでしょう。

文化や価値観の不変性を強調することは、変動が激しい現代において、安心感を得やすい議論かもしれません。アメリカ大統領選挙の共和党候補者サウスカロライナ州予備選挙で、宗教的価値観を重視する
ニュート・キングリッチ候補が、優勢が伝えられていたミット・ロムニー候補を退けたことは、示唆的です。これらの現象は、文明論的に言えば、グローバル化による市場の猛威が個々人を直撃し、国家がこれを充分保護できないなか、近代以降に国家と市場に従属してきた社会が復興しつつあることを示すものと言えるかもしれません。とはいえ、特定の文化や価値観の不変性を強調することは、他者に対する不寛容と表裏一体のものになりがちです。

9.11以降に顕著となった欧米諸国における反イスラーム感情は、しかしそれ以前からも根深くありました。1991年のアルジェリア議会選挙で、イスラーム系団体の「イスラーム救国戦線」(FIS)が勝利するや、独立以来の世俗主義が脅かされることを嫌った軍部が介入し、選挙結果を反故にしました。軍政が敷かれるなか、先進国、なかでも旧宗主国のフランスは、世俗的でフランス語を話すアルジェリアエリート層の利益を保護する政府を支持し、FISへの弾圧を容認したのです。1990年代は欧米諸国がアフリカなど開発途上国に民主化を強く求め始めた時期です。しかし、その一方で、欧米諸国はイスラーム的な主張を展開する政党の勝利を拒絶しました。これが中東・北アフリカにおける、欧米諸国の「自由民主主義」に対する不信感を大きくしたことは否めません。

あれから20年が経ちました。さすがにこの状況下で、エジプトの選挙結果に正面から異議を唱える国はないでしょう。しかし、先述のように、「例外主義」や「本質主義」に基づく、欧米諸国からの警戒感は拭えず、これが欧米諸国とアラブ、イスラーム圏の相互不信に拍車をかけているといえます。

アラブの春の後の各国で、イスラーム系団体が選挙において自由や民主主義を強調したのは、全面的に宗旨を転換したのではなく、支持を広げるための手段であったとみることにおいて、先ほどのムラヴックの主張に異論はありません。これまでにも再三取り上げてきたように、政変の主体が貧困層であったことは、その傍証です。しかし、「だからアラブで民主主義が根付くことはない」と主張するのは短絡的だと思います。

ある程度の規模を得るためには、コアな支持者以外の支持を幅広く獲得することは、聖俗を問わず、いかなる政党であれ一般的な手法です。第二次世界大戦後の先進国では福祉国家化が進展し、保守政党であれ革新政党であれ、これに正面から反対することはできなくなりました。その結果、保守と革新の対立軸が薄れた状況を指して、ダニエル・ベルは「イデオロギーの終焉」と呼びました。これは同時に、あらゆる政党が、党勢の拡大のためには、イデオロギーに固執せず、幅広い政策を取り入れることで、支持基盤を広げるようになったことを意味します。1980年代に環境保護を訴えて台頭した西ドイツの「緑の党」が、勢力の拡大に併せて、「シングル・イシュー・パーティー」からの離脱を図ったことも、この文脈から理解できることです。

つまり、イスラーム系政党が自由や民主主義の価値を擁護し、貧困対策を打ち出すことは、議会選挙という洗礼を経ることで、いわば「イスラーム国家建設」といったコアな支持者しか得られない主張からの転換を図る、言い換えれば「シングル・イシュー・パーティー」からの脱却を図る手法である、と言えるでしょう。そして、このことをもってイスラーム系政党が「本質的に自由や民主主義と親和的でない」と批判しても、それは批判のための批判に過ぎません。なぜならば、国民・有権者にとって重要なことは、その政党の指導者や幹部たちの「本当の思想」ではなく、「何を約束し、何を実行するか」だからです。

日本のチョコレートも、ガーナのチョコレートも、チョコレートである点は同じです。アメリカのマクドナルドと、日本のマクドナルドも、マクドナルドであることは同じです。それぞれに好みや差異はあっても、「どれが本物か」といったことで対立がある限り、それはユニバーサルなものにはなりません。もし、自由や民主主義が普遍的な価値をもつと強調するのであれば、小異を捨てて大同をみる心構えや寛容さこそが必要であり、たとえ迂遠であっても、それしか欧米諸国とアラブ・イスラーム圏の根深い確執を溶く道はないと思うのです。


イスラーム世界における自由と民主主義の可能性

 11月24日、エジプト・カイロで軍による権力の放棄を求める広範なデモが発生しました。当初は、もともと軍による暫定統治に難色を示していたイスラーム勢力の平和的なデモだったものが、ムバラク政権崩壊後も失業や格差といった社会問題が解消されないことに不満を募らせた若年層がこれに加わり、結果的に治安部隊との衝突で数名の死者がでたようです。

  「アラブの春」の一つの象徴であったムバラク体制の崩壊と、その後のエジプトは、生みの苦しみの最中にあるといえます。「独裁者」がいなくなった状況下で、物質的な充足そのものを政府に求めるか、あるいは国民自らが統治の主体となる状態を尊重するか、のいずれかです。

  以前から再三取り上げているように、「独裁者」を打倒することが自動的に「自由」や「民主主義」をもたらすとは限りません。むしろ、社会問題の解消を政治的な変化に求めすぎれば、それが実現しなかった場合に、容易に反動が訪れます。つまり、「どの政府も自分たちの生活をよくしてくれない」という不満です。
  この不満は、しかし逆に、「生活をよくしてくれる政府がよい政府」となり、さらにこの主張を推し進めれば、「生活さえよくしてくれるなら強権的な政府でも構わない」となりがちです。この結果、人々が求める形で、独裁の連鎖が生まれることも稀ではありません。1969年にクーデタでイドリース王政を打倒したカダフィ自身が独裁化したことは、その典型です。

  生活状況の改善を政治に求めること自体は、否定されるべきではないでしょう。個々人の安全や物質的な充足は、単に私的な利益にとどまらず、社会全体の安定や繁栄に寄与するものです。しかし、万人が満足できる一元的な社会環境を想定することは困難です。
  にもかかわらず、社会問題の解決のみを目的化すれば、あり得るはずのない一元的な解決策を求めるあまり、容易に独裁に至ります。「こうするしかない」という解決策の断定的な提示は、時に人に安心感を与えます。しかし、それは結果的に、絶え間のない政治的不安定をもたらしかねないのです。

  ポスト・ムバラクのエジプトが、社会問題の解決のみを政府に求めて「独裁者の連鎖」に陥るか、あるいは手に入れた「自由」を確保するための民主的な政治体制の構築に向かえるかは、いまだ予断を許しません。

  一方で、近隣の諸国からは、1年前と異なる政治情勢の変化が見て取れます。そして、それは中東・北アフリカ地域における、さらに本格的な政治の地殻変動の前触れを予感させるものです。

  「アラブの春」の起点となったチュニジアで10月23日に行われた憲法制定議会選挙では、穏健派イスラーム政党「
アンナハダ」が勝利しました。また、11月26日に行われたモロッコの選挙でも、イスラーム主義政党「公正発展党」が議席を伸ばしているようです。

  これらイスラーム主義政党は、他の世俗的な政党と同様に、中東・北アフリカの諸国で長らく規制の対象になってきました。いずれの国でもイスラーム主義組織は、ムスリムの五つの義務のうちの一つである「喜捨」の精神に基づいて、貧困層への食糧支援や学校・病院建設など、本来は政府の業務でありながら政府が提供できない、あるいは提供しない公共サービスを、代わりに提供することで、貧困層への支持を広げてきました。そのため、各国政府からみれば、イスラーム主義組織や、その政治的部署であるイスラーム主義政党は、自らの支配の正当性を脅かすものであったのです。

  チュニジアやモロッコでこれらの政党が選挙に参加し、多くの議席を占める状況は、イスラーム主義組織の浸透度を物語ると同時に、自由や民主主義といった「普遍的理念」が中東・北アフリカに定着する可能性を示唆しています。

  ドイツの哲学者G.W.F.ヘーゲルは、「普遍」と「特殊」を相克する「個別(真の普遍)」を生む弁証法を確立したことで知られます。ヘーゲルの時代のドイツでは、革命後のフランスの影響を受けた合理主義的・理性的なエリート層と、これに抵抗する民族主義的・ロマン主義的な排外主義勢力との争いが絶えませんでした。一方的に「普遍」を受け入れることは、これに無条件に従うことから「自由」ではない。しかし、やみくもに「特殊」を強調することは、合理性を欠いた「恣意」に過ぎない。

  そこでヘーゲルのたどり着いた境地は、「特殊」のなかに「普遍」の要素を見出すこと、つまりドイツの歴史的特殊性のなかに、「人権宣言」に象徴される普遍的価値観に適う要素を見出すことでした。抽象的な理念を観念的に受容するのでなく、皇帝支配やキリスト教といったドイツの文化や歴史のなかに、それに相通じる要素を見出すことで、普遍的な理念を自らのものとできる。これなら、「普遍」への一方的従属でも、特殊への憧憬といった、合理性を欠いた「恣意」でもない。こうしてたどりついた段階を指してヘーゲルは、「特殊」があって初めて成立できる「普遍」より高い次元にある、「真の普遍」と呼んだのです。当時のドイツが置かれていた環境からヘーゲルの弁証法を読み解けば、そこにはフランス革命が生んだ普遍的理念と、ドイツの歴史的特殊性を接合することに苦闘した姿が浮かんできます。

  第二次世界大戦後、カール・ポパーの著書『開かれた社会とその敵』に代表されるように、特に英米圏でヘーゲルは「全体主義体制を生んだ人間の一人」と位置づけられました。確かに、最終的には個人と国家の有機的結合や官僚支配を正当化する議論に行き着いた点から、ヘーゲルに全体主義的傾向があったことは否定できないでしょう。しかし、他方で「文明国」フランスの影響を受け入れつつ、近代化に立ち遅れたドイツをいかに守るかに苦慮したその問題意識は、いわば近代文明の最先端地で「普遍」の中心地である「ライン河以西」では王道でなくとも、むしろ世界のほとんどの国では、多かれ少なかれ共通するものといえます。戦後の日本も、例外ではありません。

  現代の中東・北アフリカに目を転じれば、多くのひとにとってイスラームは今も社会の規範であり、その善し悪しはともかく、「宗教は個人の精神の領域にとどめるべき」という世俗主義は浸透しきっていません。まして、先述のように、これまで多くの人の生活をイスラーム主義組織が支えてきたことを顧慮すれば、チュニジアやモロッコの選挙結果は驚くものではありません。のみならず、イスラーム主義政党の躍進は、選挙や議会といった近代西欧文明の所産が、イスラームという固有の文化と結合する可能性を示しています。

  「アラブの春」の後、イスラーム主義政党が各国で林立する様相は、欧米諸国からはやや警戒をもってみられています。しかし、およそ200年前にヘーゲルの、「普遍」は「特殊」との結合によって初めて「真の普遍」にたどりつけるという指摘を考えるのに、今日の中東・北アフリカほど意義深いケースは稀かもしれません。「本家」として非欧米地域に民主化や人権擁護を求めてきた欧米諸国には、その観点からも、中東・北アフリカの今後をよく注視してほしいと思います。

アフリカのリーダーが示す光と影

年のノーベル平和賞に、リベリアのエレン・サーリーフ大統領が選出されました。サーリーフ大統領は、2005年の選挙で勝利し、2006年に大統領に就任しました。1984年、ギニアビサウでカルメン・ペレイラが、アフリカ初の女性大統領となりました。しかし、これは軍事政権からの民政移管にともなう臨時大統領職で、しかもわずか数日で軍事政権によって解任されたため、実質的にはサーリーフ大統領がアフリカ初の女性大統領といってよいと思います。

1990年代、リベリアを含む西アフリカでは、冷戦終結後の国際情勢の変動や、経済状況の悪化を受けて、各地で内戦が相次ぎました。このなかで、少年兵の問題や小型武器の蔓延、さらにエスニック・クレンジングと呼ばれた虐殺行為がクローズアップされました。リベリアの内戦は小康期間をはさんで、1989年から2003年まで継続しました。内戦終結の直後に就任したサーリーフ大統領は、勤務経験のあるUNDPなどの支援を受け、戦闘員の社会復帰や女性の社会参画で高い評価を得てきました。それが、今回のノーベル平和賞受賞に繋がったのです。

ノーベル賞の各賞のなかで、平和賞はとりわけ政治色が濃く、ノルウェーひいては西側先進国の意向が反映されやすいのですが、それでもアフリカの女性が同賞を受賞したことは、率直に言って評価すべきことだと思います。

アフリカでは、紛争などの非常時にはもちろん、平時においても、日常的に女性の権利が侵害されています。配偶者の死後、その弟などに「財産」として相続される、あるいは財産相続権が保障されない、土地利用が制限される、親族によって姻戚関係を決定される、などなど。列挙し始めると、かなり長文のリストになってしまいます。

このような女性の権利の制限は、主に慣習法と呼ばれる、国法と異なる法体系によって正当化されています。慣習法とは、エスニシティ(民族)などの単位で、昔から適用されてきた決まりごとの総称です。その運用は、エスニシティの首長が担うことが多く、さらに成文化されていないことがほとんどです。

いわばローカルな社会規範やルールである慣習法は、しかし時に国法とバッティングします。例えば、多くのアフリカの国では、憲法で両性の平等がうたわれていますが、慣習法では一夫多妻制がいまだに認められています。国法と慣習法の間にあるこのような齟齬は、多くの場合、等閑視されています。

アフリカ諸国政府からは、文化相対主義に基づき、グローバルな人権規範を強要されることへの反論もあります。しかしこの反論は、価値基準の相違だけでなく、国内の政治的な背景に由来する部分もあります。アフリカにおいて、首長はいまだに大きな影響力を人々に対してもっており、政府と権力を分有する状態が続いています。そのため、各国政府は欧米諸国からの要請もあって、女性の人権保護に熱心な顔をしつつも、国内政治的には、首長の権限を脅かすような慣習法の規制には踏み込めないでいるのです。[六辻彰二(2010)「現代ガーナにおける女性の権利保護:人権、慣習、政治の交差点」]

いずれにしても、このようにアフリカでは、慣習法という、国家権力とは異なる、いわば社会的な権力による、女性の権利の侵害あるいは制限が常態化しています。裁判所の不足から、民事訴訟に相当する司法手続きが、慣習法で運営される「伝統的裁判所」によって行われることも、稀ではありません。その場合、首長が司法判断を下すことになります。いきおい既存の社会的権力に有利な判決が下りがちですが、ほとんどの貧困層や農村住民にとって、公的な司法へのアクセスが難しいことから、結局は慣習法にのっとって問題を処理せざるを得ないことが多いのです。ただし、これが従来からある、人権の制約に繋がることは、言うまでもありません。

人権の侵害というと、一般的に政府が国民に対して行うものと思われがちですが、近代以降の欧米諸国で人権規範が発達した際にも、やはり家族をはじめ、社会から個人に対する権利の侵害が問題視されました。現代のアフリカでは、いかに国法で「法の下の平等」が謳われていても、実際には女性をはじめ、若年層や移民といった社会的弱者の権利が社会的権力から保障されることは、困難なのです。

ただし、注意しなければいけないのは、「文化相対主義」はアフリカ諸国政府の単なる方便と言い切れない、という点です。原子論的な個人主義に立脚した、近代西欧の人権規範が、世界のどこでも通用するとは限りません。アフリカのように共同体的な紐帯が濃密な地域では、なおさらです。それが誤っていると一方的に断じることは、一種の文化帝国主義にあたります。

とはいえ、グローバルな人権規範がそうであるように、ローカルな文化もまた、万能ではありません。重要なことは、両者の接合です。その場合、人権を制約する文化であっても、個人がそれを受容するかしないかの選択権が実質的に保障されるか、あるいはローカルな文化の文脈でグローバルな人権規範を「翻訳」し、「解釈」して受容するか、のいずれかが必要です。いずれも一朝一夕にできる作業ではありませんが、グローバルな人権規範とローカルな文化のいずれか一方だけを、無批判に受容することが難しい現代にあっては、アフリカに限らず、全ての社会において必要な事柄です。

もちろん、大統領が女性だからといって、それがスムーズに進むとは限りません。しかし、アフリカでは国家権力と社会権力が、それぞれの領分を守って権力を分有し、そのなかで社会的弱者の権利侵害が等閑視されてきました。その意味で、従来の秩序と異なる権力構造が生まれたことで、グローバルな人権規範とローカルな文化の接合が進み、アフリカ社会に大きな変化が生まれる可能性があることを、サーリーフ大統領のノーベル平和賞受賞は示していると言えるのです。

ただし、このような明るい話題がある一方、いわば従来型の「独裁者」は、いまだにアフリカで根強く権力を握っています。社会権力と「住み分け」を行うにせよ、あるいは社会権力を押さえ込むにせよ、その多くは国家権力を独占し、国民の権利を侵害しています。エジプトのムバラク体制やリビアのカダフィ体制は崩壊したものの、カメルーンのポール・ビヤ大統領や、チャドのイドリス・デビー大統領、さらにジンバブエのロバート・ムガベ大統領など、これまた列挙し始めると、かなりのリストになります。

彼らが行っているのはは、文化相対主義で正当化することが困難な人権侵害です。とはいえ、社会権力に基づく人権侵害と同様、一概にそれを批判することが妥当とは限りません。繰り返しになりますが、グローバルな人権規範は、必ずしも万能ではないのです。その意味で、「なぜ『独裁者』と呼ばれる人間が存在できるか」を検討することは、「なぜ人権侵害に繋がる文化があるか」と同様、「普遍的」と目されるグローバルな視点からだけでなく、「特殊」であるローカルな視点からみることにも繋がります。

先週29日、幻冬舎から拙著『
世界の独裁者』が発売されました。米紙『ワシントン・ポスト』が毎年発表している「世界最悪の独裁者ランキング」に準拠して、世界の20人の「独裁者」の素顔を描き出すことを狙いとした本です。いわば「現役」の独裁者に焦点を絞ることで、流動化する国際情勢をみる一つの視点を提供したつもりです。

ご一読いただければ幸いです。

中国で中国の対アフリカ政策を考える

  昨日、中国から帰国しました。約10日間で上海、浙江省、そして新疆ウイグル自治区を回ってきました。日本大学を中心とする共同研究プロジェクト「中国の対アフリカ政策」で浙江師範大学での会合に出席した後、やはり日本大学と新疆の石河子大学との中央アジア関係のシンポジウムに出席してきました。わりとタイトなスケジュールで、そのせいか今日から始まった拓殖大学の授業では、やや足元が怪しい瞬間もありました。


  浙江師範大学での研究会


 浙江師範大学に併設されているアフリカ博物館


   しばらく前から、中国の対アフリカ政策が注目を集めています。特に2003年以降、ダルフールでの内戦でアフリカ系国民を虐殺したとして、スーダンのバシール大統領が欧米諸国から非難を集め、それに付随して中国も批判の対象になりました。国家主権を前面に押し出し、「不干渉」の原則にのっとって、スーダンの内政に関与せず、その油田開発に率先して投資してきたからです。中国はICC(国際刑事裁判所)から指名手配されるバシール大統領と友好関係を保ってきたのです。

  中国の対アフリカ政策は、このように資源を確保するための国家戦略として、なりふり構わずアフリカに進出するものとして描かれてきました。確かに、その側面は否定できません。

  中国は2000年からアフリカ諸国首脳との「中国―アフリカ協力フォーラム」を開催しています。ここでは再三に渡って、"win-win"が強調されています。つまり、中国がアフリカに進出することで、アフリカ側も輸出の増加などによって利益を得られる、というのです。実際、中国の対アフリカ貿易は2003年頃から中国側の入超です。中国はアフリカとの貿易において、440品目を無関税輸入の対象にしています。これは、中国との関係が、輸出を通じたアフリカの経済成長に役立っている、という論拠になります。


  IMF, Direction of Trade Statistics Yearbook.

  ただし、その対アフリカ貿易のうち、中国の輸入の80パーセント以上は、石油を含む天然資源です。そして、大陸随一の経済力をもつ南アや、歴史的に関係が深いザンビアを除けば、主な輸入先は産油国ばかりです。

        中国の対アフリカ輸入額(2009年:100万ドル)
   
  IMF, Direction of Trade Statistics Yearbook.

  言うまでもなく、アフリカの国全てが産油国というわけではありません。一方で、中国からの輸出先は、輸入に比べると、比較的分散しています。その輸出品目は、ほとんどが工業製品です。

             中国の対アフリカ輸出額(2009年:100万ドル)


    IMF, Direction of Trade Statistics Yearbook.

  つまり、中国は特定の産油国から大量に石油をはじめとする天然資源を輸入する一方、アフリカ全土に向けて工業製品を大規模に輸出しているのです。その結果、確かに大陸規模でみた場合、中国との貿易は"win-win"であったとしても、産油国以外のアフリカ諸国にとっては、対中国貿易は大幅な入超という事態になっているのです。資源と同時に、市場をも確保する。しかも、それを "win-win" のレトリックで正当化するところに、中国の戦略性を見出すのは、私だけでないでしょう。

  とはいえ、中国のアフリカ進出に対する欧米諸国の批判を、そのまま受け止めることにもまた、慎重であるべきと思います。ダルフール問題のように、中国がアフリカでの人権侵害に寛容であることは、確かです。しかし、政府による大規模な人権侵害はスーダンだけでなく、赤道ギニア、カメルーン、チャドなどでも日常化しています。ところが、これに関して欧米諸国は黙して語りません。端的にいえば、これらの国がやはり産油国で、しかも現政権が欧米諸国と外交的に良好な関係を築いているからです。

  チャドでは2006年以降、隣国スーダンに拠点をもつイスラーム過激派が散発的に流入し、デビー政権に対して敵対的な武装活動を行っていますが、この掃討作戦にフランス軍が支援を行っています。国民を武力で弾圧する点において、バシールやカダフィと、デビーの間に大きな違いはないはずですが、後者に対して欧米諸国は寛容です。これに鑑みれば、中国の "win-win" と同様、欧米諸国による「人権擁護」もまた、国家利益をコーティングするレトリックに過ぎない、というと言いすぎでしょうか。

  いずれにせよ、19世紀から、あるいはそれ以前から、アフリカを縄張りにしてきた欧米諸国、特にヨーロッパ諸国にしてみれば、中国の進出が脅威に映ることは確かです。これが、中国による進出の暗部を強調する論調が目立つようになっている背景としてあることは、否定できません。その一方で、これら欧米諸国の論調にそのまま従うことが、日本にとって望ましい方向性であるとは思えません。

  繰り返しになりますが、中国のアフリカ進出には弊害もあります。しかし、その一方で、労働者も大量に連れて行く中国の国営企業はともかく、アフリカへ進出する中国の中小企業の雇用者は、80パーセントがアフリカ人であるという報告もあります。つまり、中国の中小企業のアフリカ進出は、現地に雇用も生み出しているのです。

  これに代表されるように、良かれ悪しかれ、中国のアフリカ進出は、両者の相互依存関係を急速に深めています。その実態を見ずして、教条的に中国を批判することは、生産的でないばかりか、欧米諸国とアフリカの関係の暗部を等閑視することにもなりかねません。その意味で、アフリカそのものに視点を置くならば、いたずらに中国を非難する論調に迎合するより、その進出のあり方を、より厳密に検討する必要があります。そして、これは日本自身のアフリカへの関わり方を再考する、一つのヒントになる可能性があるといえるでしょう。



カダフィ体制崩壊が中東・北アフリカにもたらすインパクト

  9月23日、ついにリビアの首都トリポリが陥落しました。反政府組織のアンブレラ組織「国民評議会」側の部隊に追われ、最高指導者カダフィはアルジェリア方面へ逃亡中と伝えられています。彼の胸中に去来するものを測ることはできませんが、恐らく「大量破壊兵器を処分しなければよかった」ということではないでしょうか。

  いずれにせよ、これでリビアの体制が転換することは、ほぼ確実とみられています。内戦中から欧米諸国、あるいはサウジアラビアなどカダフィと対立していた穏健派アラブ諸国からの支援を取り付けた国民評議会の主導で、欧米諸国寄りの国家が建設されるであろうことは、衆目の一致するところです。実際、国民評議会の幹部が、「カダフィを支援してきた」という理由により、中国系企業の石油権益が保護されない可能性に言及し、これに対して
中国政府が保護を要請する事態も生まれています。

  権益の保護がどうなるかはさておき、カダフィ体制が崩壊することは、中国、ロシアといった、これまでリビアと友好関係にあった諸国にとっては、大きな打撃です。逆に、目障りだったカダフィを排除できた上に、石油の埋蔵量で世界7位のリビアへのアクセスを確保できたことで、欧米諸国にしてみれば笑いが止まらない状態、と言うと言いすぎでしょうか。ともあれ、エジプトやチュニジアの新欧米派政権が倒されたあととなっては、中東・北アフリカにおける欧米諸国の重要拠点として、リビアが浮上することになります。

 一方で、カダフィ体制の崩壊は、この地域一帯に少なからず動揺を生むことになると考えられます。なかでも、カダフィの影響を受けた他の「独裁者」たちにとって、リビアの体制転換は大きなダメージとなります。

 1980年代以来、アメリカをはじめ欧米諸国と敵対する一方で、カダフィは地域一帯にその影響力を浸透させるため、近隣諸国の反政府系組織に軍事援助を行ってきました。スーダンのバシール政権に近く、ダルフール内戦の当事者となってきたイスラーム組織「ジャンジャウィード」の幹部の多くは、もともとリビアからの軍事訓練を受けた人間です。また、バシール大統領自身も、ベンガジに設置されていた「世界革命センター」で、カダフィから影響を受けた「独裁者」の一人です。バシール大統領がICCから国際指名手配を受けるなか、一際大きくこれを批判したのは、カダフィでした。

 バシール大統領に代表される、中東・北アフリカの「リビア・コネクション」は、今回のトリポリ陥落によって、総崩れの可能性が大きくあります。これは、一面において中東・北アフリカの安定に資すると考えられます。スーダンだけでなく、ソマリアのイスラーム組織「アル・ジャバーブ」を支援するエリトリアのイサイアス大統領など、地域の不安定要因となってきた「独裁者」たちの、精神的・物質的支援者がいなくなったことを意味するからです。

 ただし、他方では、カダフィ体制の崩壊が地域の不安定化を生む面も、否定できません。スーダンのジャンジャウィードは、ダルフールから追い出したアフリカ系住民が隣国チャドへ難民として逃れると、その難民キャンプを標的に、越境攻撃を繰り返すようになりました。チャド軍とジャンジャウィードの戦闘が頻発するなか、2006年にチャド政府はスーダンとの国交断絶を宣言しました。半年後に両国の関係は正常化しましたが、これを仲裁したのがカダフィでした。

 チャドのデビー大統領もまた、欧米諸国では「リビア・コネクション」の一員とみられることがあります。しかし、実際にはデビー大統領は軍人として、チャドに侵攻してきたリビア軍と戦火を交えた経験もあり、カダフィの影響は必ずしも大きくありません。しかし、それでも仲裁を申し出たカダフィの面子を壊すことはできず、スーダンとの国交正常化に臨まざるを得なかった、というのが実情でした。

 カダフィは各国の非政府系武装組織を支援することで、イスラームとアラブ民族の一体性を強調する「ジャマーヒリーヤ」体制を、地域一帯に拡大しようとしてきました。そのなかで、政府レベルだけでなく、ジャンジャウィードなどの武装組織レベルに至るまで、その影響力を浸透させてきたのです。逆に、例えばバシール大統領は、ジャンジャウィードを必ずしもコントロールしきれていません。したがって、カダフィの退場は、これらの武装組織にとっての重石がなくなったことを意味し、少なくとも短期的には、地域の混乱が過熱する可能性が否定できないのです。


南スーダン独立の意味と課題

 2011年7月9日、南スーダンが独立しました。北部の政府に対して、1955〜72年の第一次内戦、1983〜2005年の第二次内戦を経て、南スーダン住民がようやく手に入れた独立です。

 周知のように、スーダンはもともと北部にアラブ系ムスリムが、南部にアフリカ系キリスト教徒が多く、文化的、人種的な亀裂が大きな国でした。内戦はほぼこのラインに沿って行われ、イスラーム法を強制しようとしたりした北部に対する南部の抵抗、という構図が定着していました。

 この独立に関しては、既に報じられているように、石油権益をめぐる対立が表面化しています。今年5月、南北に帰属が決まっていない境界線上のアビエイに、北のバシール政権が部隊を進駐させたことは、スーダンの石油権益をめぐる南北の大きな課題を浮き彫りにしました。

 さらに、南スーダンの独立と石油に関連して、よく取り上げられるのが米中の角逐です。独立記念式典で、国家単位で祝辞を述べる機会が与えられたのは、アメリカと中国だけでした。これは、アフリカをめぐる「新たな争奪戦(New Scramble)」の縮図でもあります。

 これら石油に関連する課題・問題は、日本でもよく取り上げられるのですが、南スーダンの独立がもつ意味について、あと3つの潜在的なテーマをあげておくことができます。

 第1に、前戦闘員(ex-combatant)の処遇です。1990年代から2000年代にかけて、各地で内戦の嵐が吹き荒れたアフリカでは、戦闘終結後も武器を手放さない若年層が急増しました。1990年代のシエラレオネでは、RUF(革命統一戦線)の若年層が、上層部の決定に反してダイヤモンド鉱山を占拠し、違法輸出を続けました。彼らの多くは内戦以前、失業者でした。RUFの若年層にとって、「失業」を意味する内戦の終結は、受け入れられないものだったのです。

 戦うことしか知らず、他人を見れば「敵」と思ってしまう若年層を、生産的な社会経済活動に再統合できるかは、その国家・社会の安定性に関わる問題です。その意味で、南スーダンの石油は確かに貴重な外貨獲得源ですが、資本集約型の石油産業では雇用に限界があります。農業をはじめ、前戦闘員を雇用できる環境を整備しなければ、「平和になったら生活できなくなった」という不満を増幅させることにもなりかねません。もちろん、そのために教育の拡充が不可欠なことは、いうまでもありません。

 そして、第2に、南スーダン独立が、アフリカ全体にインパクトです。アフリカ諸国の国境線が19世紀の西欧列強による植民地支配の区画に沿うものであることは有名です。1993年にエリトリアが独立しましたが、この場合はエチオピア帝国時代の領土からの独立であったため、厳密には西欧植民地主義の遺産との決別ではありませんでした。南スーダンの独立は、植民地支配の遺産に修正を迫る、初めてのケースといってよいものです。その意味で、かつてセネガルの初代大統領レオポール・サンゴールらが唱えた「アフリカの主体性」を体現した、まさに世界史的な出来事とも評価できるのです。

 ただし、一方で南スーダンの独立は、他のアフリカ諸国政府にとって、必ずしも歓迎しにくい側面があります。多くの国では、かつてのスーダンと同様、宗教やエスニシティによる社会的亀裂があり、なかには分離独立運動を展開する勢力を抱える国もあります。カメルーンでは、旧イギリス領の地域に、旧フランス領地域中心の政府への不満が根強くあります。南スーダンの独立は、これらの勢力をインスパイアする格好の材料となります。したがって、南スーダン独立を契機に、アフリカ中でエスニック、あるいは宗教対立が激化する可能性も否定できません。

 第3に、そして最後に、南スーダン自身の「スーダン化」の可能性です。スーダンで社会的亀裂があったように、南スーダンもまたエスニシティや宗教において単一ではありません。したがって、新生南スーダンが今後、従来の多くのアフリカ諸国と同様に、(多くの場合は人口で多数派を占める)特定のエスニシティを優遇する国家になった場合、「南スーダンからさらに分離独立を求める勢力」が出てこないとも限らないのです。際限のない分裂を回避するためには、単純に頭数で選挙結果を競う民主主義でなく、エスニシティごとに議席や官職を配分する権力分有(power sharing)をはじめとする、アフリカ的アレンジが不可欠です。

 既存の国境線を維持することは、独立期の1960年代以来、アフリカ各国政府間で合意されてきた大前提でした。しかし、「主権・領土の尊重」という原則が、外部から介入されない「独裁者」の支配を蔓延させる温床になった側面も、否定はできません。そして、各国の「独裁者」によって冷遇されたエスニシティや宗教勢力が分離独立を求める、というサイクルを生んできたのです。

 その意味で、今回の南スーダン独立は、植民地主義の遺産と決別するステップであると同時に、独立以来のアフリカにおける国家のあり方を再検討し、新たなモデルを構築するための、大きな一歩となるといえるでしょう。

「戦争の大義」の先祖がえり

  ン=ラーディン殺害で関心がそちらに向かいがちですが、3月半ばから激しさを増しているリビア情勢も、国際社会には無視できないインパクトをもちます。なかでも、その意味として重要なことは、「戦争の大義」の先祖がえりがみられることです。

カダフィ(カッザーフィー)政権が自国民への弾圧を繰り返しているとして、国連安保理で国外の資産凍結など非軍事的な対リビア制裁が決議されたのが2月27日。これをカダフィ政権は一蹴し、反政府側との武力衝突はエスカレート。

続いて3月17日、軍事手段を含む対リビア制裁が決議されると、今度はカダフィ政権は即時停戦を受け入れましたが、反政府側が「停戦は信用できない」として攻撃を続行。結局、双方の武力衝突が止まらないなか、米、英、仏を主体とする多国籍軍が3月19日から始まりました。

ここでの問題は、安保理でなぜ軍事手段を含むリビア制裁が決議されたかということです。公式には「自国民への殺戮を繰り返している」政府は、もはや政府として認められない、というものです。

「自国民の生命や安全といった基本的な人権すら保護できない」とみなされた国家を、「破綻国家」あるいは「失敗国家」と呼びます。「破綻国家」とみなされることは、もはや「一人前の国家でない」というレッテルを貼ることと同じです。「一人前」でない以上、国家が持っているはずの国家としての権利、つまり「主権」もないという論理になります。

1990年代にアフリカのルワンダやブルンジ、さらに旧ユーゴスラビアで民族間の大量虐殺(ジェノサイド)が発生したとき、国際社会はこれを止めることができませんでした。最大の障害になったのが、「主権の壁」でした。国家には、自国内に外国軍隊が入ってくることを拒む権利があるのです。国連のPKO部隊も、受入国の同意がなければ、部隊を展開することはできません。

この壁を破ったのは、1999年のNATOによるコソボ空爆でした。このとき、NATOは「人道的介入」を掲げて軍事介入しました。つまり、「場合によっては」人権の方が主権より優先するというのです。この「場合によっては」という基準として、頻繁に用いられるようになったのが、「破綻国家」だったのです。つまり、一人前の国家でないから、その国は主権を喪失している、だから人権を大義として介入しても、主権の侵害にならない、という論理なのです。

この「人道的介入」は2000年代に入ってみられなくなりました。それは、戦争の大義が「テロとの戦い」になったからです。

「人道的介入」と「テロとの戦い」は、一見無縁のようですが、実は大きくバッティングする概念です。仮に国民の人権を日常的に侵害していても、その政府が「テロとの戦い」に積極的な場合、欧米諸国、なかでもアメリカは全くそれを問題にしなくなったからです。中国が新疆ウイグル自治区のイスラーム勢力を「テロ組織」に指定したことで、これに対する武力を用いた鎮圧に、アメリカ政府が口を出さなくなったことは、その象徴です。米軍がグアンタナモ基地で「テロ容疑者」に虐待を繰り返していたことも、同じです。「テロとの戦い」が活発化するほど、「人道的介入」が行われなくなったことは、当然の帰結です。

奇しくも、5月2日にオサマ・ビン=ラーディンが米軍の奇襲によって死亡しました。2011年に、いわば「テロとの戦い」が一つの節目を向かえたなかで、戦争の大義は1990年代の「人道的介入」に戻ったことになります。

ただし、「人道的介入」には恣意的な側面が拭えません。以下で、各ポイントについて簡単に整理します。

(1)「人道的な危機状況」を、誰が、どのような基準で判断するのかに、明確な基準はありません。その結果、介入する側、つまり先進国の関心が高い、あるいは手を付けやすい国や地域ほど、その対象になりやすいのです。リビアが産油国であり、その油田開発に多くの国が関心を持っていることは、周知の事柄です。イギリスと比べてリビアの油田開発に出遅れていたフランスが、今回やたらと熱心に軍事活動に参加しているのは、故のないことでないのです。

(2)「カダフィ政権が自国民への虐殺を繰り返している」という主張にしても、確かにそういう事態もあるでしょうし、そこにおいてカダフィ政権の責任は免れませんが、一方で忘れてならないのは、「虐殺」と「内戦」の線引きがないということです。「内戦」ならば一国内部の問題として扱わなければならず、介入の根拠にはなりません。TV映像でみる限り、反政府側もかなりの装備を備えた武装組織です。
欧米諸国が「内戦」でなく、「虐殺」と強調したことは、人権を根拠とした介入のために、不可欠の要素だったといえるでしょう。

(3)一方的な虐殺や大規模な人権侵害ならば、スーダンや北朝鮮などでも行われているはずです。にもかかわらず、中国やロシアなどとの関係が深い、あるいは核兵器などを備えている、それらの国は、介入の対象にはなり得ません。つまり、「人道的介入」を強調すればするほど、それは国際政治が結局「力こそ正義」のものなのだ、と言っていることになるのです。

(4)独裁者といえども、国民からの支持が皆無の状況で権力の座にあり続けることはできず、特定の勢力からの支持は必ずあります。つまり、今回のリビアの騒乱は、「カダフィ政権を支持する者 対 カダフィ政権下で疎外されてきた者たち」の間で発生した、武力衝突と見ることが妥当です。しかし、
今回のリビアなどでの騒乱を、欧米メディアでは「革命」のレトリックで表現することが目立ちます。そこには、「一方的に支配する独裁者に対して立ち上がった民衆」のイメージを強化することで、介入を正当化する側面を見出すことができるのです。


カダフィ政権を無条件に支持するつもりはありません。しかし、「人道的介入」が恣意に流れやすく、大国による軍事介入の方便に過ぎなくなりがちなことは、1990年代の経験から学んだはずです。

リビア介入は、目障りだったカダフィ政権を本気で潰すことを目的に、アメリカ、イギリス、フランスが、国連決議という錦旗のもとに、特定の勢力(反政府勢力)を支援するための軍事介入と言えるでしょう。もちろん、それはポスト・カダフィ政権を欧米寄りの政権にするために他ならないのです。


なぜ中東で騒乱が相次ぐか (3)社会問題に由来する政治変動の危険性

  東諸国で頻発する騒乱は、この地域における民主化を促すのでしょうか。その見込みは薄いように思います。イスラームや中東の文化が民主主義になじまない、といった議論もありますが、その当否はここでは置いておいて、日本をはじめとする東アジアと同じように、自由や民主主義は地域に合った形態で普及する、と指摘するにとどめます。

  むしろ問題は、「何を目的とする騒乱か」という点です。前回取り上げたように、一連の反政府運動はいずれも、生活の困窮に対する不満が暴発したものと見るのが妥当でしょう。ロシア革命に代表されるように、生活への不満が大規模な政治変動をもたらした事例は、歴史上にいくつもあります。したがって、貧困と格差が政治的エネルギーを持つことは確かです。しかし、それは仮に既存の政治体制を打倒したとしても、その後に自由で民主的な政治体制を生むことを約束するものではありません。

  20世紀最大の女性政治哲学者、ハンナ・アレントは『革命について』のなかで、アメリカ革命とフランス革命を対比して、後者が無秩序と混乱のなかからジャコバン党やナポレオンによる独裁を生んでいった大きな要因として、社会問題をあげています。つまり、アメリカ革命の主たる担い手は、既にある程度の生活レベルを確保していた「独立自営農民」たちでした。したがって、彼らの目的は既存の体制による圧制からの解放と、その後の自由な政治体制の樹立にあったのです。

  これに対して、18世紀当時、アメリカと比較して、フランスのみならずヨーロッパでは貧富の格差が大きく、フランス革命もやはり「生活上の不満」が大きな原動力となりました。そのため、王政が打倒され、共和制が樹立することに多くの人が期待を寄せたのは、社会問題の解決、すなわち「生活がよくなること」でした。それは必然的に、人口の多数を占める低所得層を中心に、政府に過大な要求をすることにつながりました。同時に、富裕層の財産没収のように、従来の政治体制のもとでうまくやっていた人たちに対する「魔女狩り」も頻発したのです。

  今回の中東諸国における騒乱は、明らかに社会問題を背景としています。生活が苦しい自分たちを、政府が放置することに対する不満です。もちろん、高学歴層を中心に民主化や政治的自由の確保に関心を寄せる人もいますが、これはごく少数派です。どんな政治勢力であれ、ツイッターなどの電子情報を用いる、用いないに関わらず、大規模な人数を動員し、政治的勢力を拡大するためには、人口の圧倒的多数を占める貧困層、低所得層のニーズを反映させる必要があります。

  となると、既存の政治体制を倒した後に生まれる要求は、当然のごとく「生活をよくすること」です。もちろん、汚職に塗れた既存の権力者たちを一掃することで、その富を国民に還元することはできるでしょう。しかし、透明性や答責性の高い意思決定システムが導入されずに、「生活をよくする」ことを目的化すれば、新たな「慈悲深い独裁者」が生まれてくることが、容易に想像されます。

  以前も述べましたが、その善し悪しはともかく、民主主義や政治的自由より生活、というのが貧困層にとっての現実です。であるならば、時間のかかる民主的な意思決定よりも、独裁的でも実行力がある指導者の登場が求められることは、それほどおかしな話でないと思います。フランス革命やロシア革命の歴史は、それを如実に物語ります。したがって、今回の一連の騒乱によって、中東に民主主義という新たな政治文化が根付くかというと、かなり疑わしいと言わざるを得ないのです。




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