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  • 2014.03.05 Wednesday
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  • by スポンサードリンク

日本の文化風土とメンタリティ その1:日本人は「前向き」か? 

  世論調査を行っている米国ギャラップ社は、世界148カ国で各1000人ずつに電話でアンケート調査を実施して、国民の「前向き度」を測定しました。アンケートの質問項目は以下の五つで、これに肯定的な回答をした人が多い国ほど、ギャラップ社は国民が「前向き」(positive)と評価しています。

・昨晩はよく眠れたか?
・昨日は一日、敬意をもって扱われたか?
・昨日は声を出して笑ったか、あるいはよく微笑んでいたか?
・昨日は何か興味あることを学んだか、あるいはしたか?
・昨日は一日、楽しんでいる感覚があったか?

  もちろん、これだけで測るのは短絡的だ、という意見もあり得ると思います。しかし、この手の調査を包括的に行った例はほとんどなく、各地域、各国の全体的な傾向を把握するうえでは、有効な資料といえるでしょう。さて、その調査結果によると、国民が最も前向きな国はパナマパラグアイで、質問項目にイエスと回答した人が全体の85パーセントの同率首位でした。6位のタイ、8位のフィリピン以外の上位10カ国は、この2カ国を含めてラテンアメリカ諸国が占めており、その地域性をうかがうことができます(ランキングはこちら)。

  このランキングを色分けして表した地図を、AFPが作っています。ただし、ギャラップ社の調査の趣旨からすれば、AFPの「幸福度」という表記はやや意訳に過ぎるもので、ここはあくまで前向き、ポジティブと捉えるべきでしょう。

  ところで、この調査結果のうち、日本はイエスと応えた平均値が72パーセントで、全体のうち59位。先進国のうち日本を下回る国は、イタリア(65パーセント)、ギリシャ(63パーセント)、韓国(63パーセント)だけです。ただ、上位を占めるのがラテンアメリカ諸国であることに象徴されるように、所得水準などの経済状況だけが「前向き」度を決定づけているわけでないことは強調しておく必要があります。実際、エネルギー需要の高まりで好景気に湧くカタールは日本よりわずかに高い46位で74パーセント、成長著しいシンガポールに至っては最下位で46パーセントです。

  調査対象が148カ国ですから、大きく分ければ、日本は「前向き度」で真ん中より上に入ることになります。この結果をみて、「こんなに先が見えない状態なのに、意外と高い」と思う人もあるかもしれません。実際、客観的にみれば、日本に明るい材料を多く見出すことは困難です。「失われた10年」ののちデフレは一向に収束せず、債務残高はGDPの2倍を越えて世界一の水準。1ドル80円台の円高傾向も収まらず、果ては震災、原発、周辺国との領土問題、高齢化、教育など、課題や問題を挙げ始めれば、キリがありません。

  しかし、私自身はこの順位を、まずまず順当な結果と言っていいと思います。つまり、客観的な条件と主観的な評価は、基本的に一致すると限らないという前提に立てば、そのギャップこそが日本人の精神性あるいは物の考え方(メンタリティ)を表しているといえるでしょう。ただし、それはラテンアメリカ的な「前向き」あるいは「楽観主義」が広く浸透しているという意味でなく、この調査結果が日本的な「現状を受容する」、あるいは物事に「執着しない」というメンタリティを反映しているという意味です。

  一言でいえば、日本で支配的な思考様式は、その良し悪しにかかわらず、「現状肯定」型といえるでしょう。つまり、「理念や考え方に照らして、それに矛盾する社会や現実を悲観し、いかにその変革を図るか」より、「多くの矛盾や問題があるとしても、既存の社会や現実を原則的に所与のものと捉え、そのなかでいかに生きていくか」を優先させるメンタリティです。景気の悪化や財政赤字の拡大、放射能汚染の問題や領土問題などで政府の不手際が露呈しても、テレビの前やネット上で不満を言うことはあっても、それ以上のアクションを起こす人は稀です。2011年に格差是正を掲げた「ウォール街占拠運動」が世界規模で広がったときも、日本ではほとんど何もありませんでした。もっと卑近な例でいえば、余程支障が出ない限り、理不尽な言動をする隣人や同僚・上司に、それを改めるよう強く求めることはあまりなく、「あの人はああだから」といって済ませることは、多くの地域や職場であることです。

  日本の歴史は、この「現状肯定」のメンタリティに突き動かされてきたといえます。幕末から明治維新にかけて、それまで朝廷、幕府が共有していた「鎖国」という国是は、欧米列強の圧倒的な軍事力の前に翻されました。このとき、(国内を二分する争いがあったとはいえ)既成事実化された「開国」のもとで、明治新政府が「欧米列強による植民地化の脅威」という現実認識のもとに、「欧米と同等の力をもつことで国を守る」という、極めて現実的な判断をしたことは、「現状のなかでいかに生きるか」を優先させるメンタリティの産物といえます。また、敗戦後それまでの「八紘一宇」などのスローガンがきれいに忘れ去られ、「鬼畜」呼ばわりしていたアメリカ軍が進駐した各地で少なからず歓迎されたことも、あるいは(団塊世代の人からは「そうではない」と言われそうですが)学園闘争をしていた人たちの多くが、自分の就職活動の時期が近づいた途端、既存の秩序への批判をいとも簡単に引っ込めていったことも、同様です。つまり日本では、周囲の環境が変化したとき、それに適応することが得意なメンタリティが支配的であり続けたといえるでしょう。

  そうだとすれば、ギャラップの調査結果で、日本の順位が高すぎず、低すぎない位置に来たことは、不思議でありません。ただ、それは「前向き」というより、「清濁合わせて現状を受け入れる」メンタリティといえます。いずれにせよ、その結果、日本ではラテンアメリカ的な楽観主義が生まれにくい一方、世紀末的悲観主義に陥ることも稀です。バブルがはじけた1990年代、人気になったのがモツ鍋でした。不況が長期化した2000年代、ビールに代わって発泡酒、第三のビールが人気を博しました。決して楽でない状況の中でささやかな楽しみを見出すことに、日本人は長けていると言っていいでしょう。また、震災の後、他の国であれば大規模な暴動や略奪行為が発生したかもしれない状況下、多くの被災者が概ね順序良く、秩序をもって避難所生活を忍んだことは海外で驚きをもって伝えられていましたが、これもやはりこのメンタリティを表しているといえます。(つづく)

米国の銃規制がもつグローバルな意味

12月14日、米国コネティカット州の小学校で、児童を含む26人が殺害される銃乱射事件が発生しました。米国では開拓時代の伝統と独立戦争の歴史から、「市民の自衛する権利」が憲法に明記され、銃器の保有が権利として尊重されてきたため、銃の保有を規制することは政治的にデリケートな課題でした。しかし、この数年、銃の乱射事件が相次ぎ、今回小学校までが標的にされたことは全米を揺るがし、オバマ大統領はついに銃規制の必要性を明確に打ち出し始めました

しかし、これに反対する意見もあります。なかでも、銃規制に強硬に反対する勢力としてあるのが、全米ライフル協会(NRA)です。NRAはスポーツハンティングの愛好家の集まりで、「市民の自衛する権利」を強調しています。その会員は400万人以上おり、主に会費から成る資産は2億ドルを上回ります。全米有数の資金力と動員力を背景に、NRAはこれまでも銃の規制が政治問題となるたび、議会に働きかけるロビー活動を通じて、銃への規制を阻んできました。

その論理は、「銃が悪いのではなく、悪い使い方をする人間が悪い」というものです。これに基づき、NRAは青少年への銃の使い方などの教育を行っており、さらに今回の事件では「不道徳なTVゲーム」や、ハリウッドの「暴力的な映画」が殺人を助長していると批判しています。銃そのものが意思をもって人を撃つわけでなく、それを悪用する人間がいるから悲劇的な事件が発生するのは確かで、その点でNRAの論理には一理あると言わざるを得ません。

とはいえ、物事の発生には、その大きな背景となった遠因と、直接的な契機となった近接因があります。犯罪が発生した背景に、その生い立ちや環境に犯人が影響を受けたことがあるのは確かでしょうが、その手元に銃がなければ、「銃による殺人」は発生し得ません。その意味で、社会に銃が溢れていることが、銃犯罪を起こしやすくする、少なくとも一因であることは確かでしょう。

実際、今回の事件を受けて、米国内部ではNRAに厳しい視線が向けられており、Facebook を削除するなどの対応に追われています。ところが、「意味のある貢献をする用意がある」として開かれた21日の記者会見で、NRAのウェイン・ラピエール副会長は銃犯罪の脅威から子どもを守るために、米国の全ての学校に武装警備員を配備することを提案しました。これはNRAが「銃によって安全を確保する」という、従来からの主張を基本的に変更していないことを示すものです。

今回のNRAの反応に、米国内では賛否が分かれていますが、いずれにせよ、これまでになく米国内部で銃規制が本格的に政治問題になったことだけは確かなようです。

一方で、この問題は、ひとり米国だけの問題ではありません。「市民が自衛する権利」を擁護する歴代政府のもと、米国は世界最大の武器輸出国であり続け、これが世界の紛争地帯に武器が流入することの、大きな原因の一つであり続けてきたのです。

一人で携行、使用できる拳銃、自動小銃、手榴弾などは、小型武器(small arms)と総称されます。冷戦時代、これらは東西両陣営がそれぞれ、流通を厳しく制限していましたが、1989年の冷戦終結後は「商品」として扱われるようになりました。特に米国では、冷戦時代にそのビジネスを規制されていた兵器メーカーが、政府や議会へのロビー活動を通じて、戦闘機などハイテク兵器を除いて、原則的に兵器の自由貿易を促していったのです。

その結果、コカコーラなどと同じく、兵器もライセンス生産が行われるようになり、開発途上国に先進国なかでも米国の兵器とほぼ同じ小型武器を生産する工場が立ち並ぶことになっただけでなく、「需要のあるところに供給が発生する」という市場の論理のもとに、中東やアフリカの紛争地帯には、必要以上の小型武器が流入することになりました。1991年から2001年までの世界における武力紛争の死者は600万人といわれ、その約半数が小型武器による死者と推計されます[Ted C. Fishman (2002) 'Making a Killing', Harper's Magazine, 305(1827), p.39]。また、詳細なデータは不明ですが、現代でもシリア、イラク、アフガン、コンゴ、マリ、ソマリアといった紛争地帯でも、単価が安く(Small Arms Surveyによると、アフガニスタンではAK47が10ドル前後で手に入る)、入手が容易な小型武器が、戦闘の中心になっていることは確かです。

小型武器が、いわば「実質的な大量破壊兵器」であるという認識のもと、EUやカナダの主導により、1998年に欧州安全保障協力機構(OSCE)で、製造・移転に関する管理、輸出基準の策定、過剰蓄積の削減といった、小型武器の拡散を防止する管理体制の構築が合意されました。OSCEには、米国のほか、やはり兵器の大輸出国であるロシアも加盟していますが、この際には両国は正面からの異議申し立てをほとんど行いませんでした。冷戦時代に、東西両陣営が加盟する国際機構として設立されたOSCEは、潜在的な敵対国同士が、情報の交換などによって相互の信頼醸成を図り、不測の武力衝突を回避することを目的とします。そのため、この場にあっては、米露といえども、小型武器の拡散防止に正面から反対することはできなかったとみられています。

しかし、小型武器の拡散を取り締まる、よりグローバルな取り組みが進むにつれ、米国はロシア、さらに中国とともに、これを実質的に骨抜きにする方向で関与を強めてきました。2001年、国連で開催された小型武器拡散防止のための会議は、正式には「小型武器の非合法取り引きのあらゆる側面に関する国連会議」といいます。この名称が象徴するように、小型武器の流通を世界的に規制しようとするEU、カナダ、さらにアフリカ諸国などの取り組みは、米露中の抵抗により、国連での討議は「非合法取り引き」に限定されることになったのです。その結果、同会議の「行動計画」では、小型武器への識別ナンバー打刻の徹底や、流通管理の記録を強化するなどの取り組みが盛り込まれましたが、それは裏を返せば、「合法的」であるならば兵器流通を取り締まることはするべきでない、ということを意味します。つまり、買う、買わないは「消費者」の自由で、供給サイドは違法な製品でないことを明示すれば、それでよい、ということです。ここに、「銃が悪いのではなく、悪い使い方をする人間が悪い」というNRAの主張と同じ論理構造を見出すことは容易です。実際、NRAメンバーは2001年の国連での会議にもNGOとして参加し、「市民の自衛する権利」を盾に、小型武器の流通規制に反対する論陣を張っています。そして、いまでも主に「合法的」な売買により、中東やアフリカの紛争地帯に小型武器が流入する状況が続いているのです。

良かれ悪しかれ、米国の政治体制は、資金力や動員力のある企業や団体の影響力が、政府や議会の意思決定を大きく左右するものです。そのなかで、ボーイングなど兵器メーカーとともにNRAは、小型武器の拡散を防止することによる紛争管理に消極的な、米国の対外政策の基盤になってきたといえるでしょう。それは、少なくとも結果的には、世界の紛争地帯でのゲリラ組織などによる武装活動を、市場を通じて間接的に支援してきたことを意味します。

力によって初めて守られる生命や安全があることや、「自衛する権利」そのものは否定できません。また、NRAのみを悪役に仕立てあげることも、米国内部の犯罪や、開発途上国での紛争に関する、その他の要因を覆い隠すことになるため、慎まなければなりません。とはいえ、人の善意にのみ期待してほぼ無制限に販売することを求め、問題があれば「使い方が悪い」という論法で当事者のみを非難することは、それが武器という本来人を殺傷することを目的とする道具であるだけに、無責任と言わざるを得ません。まして、米国民の「自衛する権利」が結果的に他国の安全を脅かす一因になっているとなれば、尚更です。銃規制を求める米国内部の世論の推移は定かでありません。しかし、仮に今後、この流れが拡大していけば、米国の対外政策にも少なからず影響を及ぼすものとみられるのです。

「与党の党首を野党が支持する」危険性

  12月16日の衆議院選挙で54議席を獲得した日本維新の会の橋下代表代行が、首班指名において自民党の安倍総裁を支持するべきという主旨の発言をし、これに対して石原代表が反対して、最終的に石原代表への投票で一致しました。この方針の転換を「撤回」と表現した毎日新聞などに対して、橋下氏は「議論の過程をオープンにしたまで」として、「『撤回』の撤回」を求めています。

 「撤回」でも「修正」でも、内容からすれば「退却」と「転進」ほどの違いしかないと思いますが、いずれにしてもこの一連の出来事が、橋下氏の「民主主義」の危うさを象徴すると言えることは確かです。

 橋下氏の「この選挙結果は尊重しなければならない」という主旨には同意します。いかなる結果であれ、自由かつ公正に行われた選挙である以上、それがこの国の意思決定主体である議会の構成を決定付けるものであることは確かです。それは、「ゲームのルール」である選挙を尊重することに他なりません。しかし、「これだけ大勝した自民党、公明党が出した首班に従っていくのが、多数決、民主主義の原理」であり、それが「民主主義のイロハ」とまで言われると、そこには正面から反対せざるを得ません。

 通常省略形で言われる「民主主義」は、「自由民主主義」が正確な言い方です。つまり、日本を含む西側先進国で一般的な「民主主義」とは、自由主義と民主主義が融合した概念です。このうち、自由主義は「少数者の権利」、言い換えれば「思想信条、身体、財産などに関する個々人の権利を保障するべき」という考え方です。これに対して、民主主義は「多数者の主権」、言い換えれば「多数派の意見を全体の意見にすべき」という考え方です。

 どちらも、今の社会を形作る基本的な原理でありながら、両者は鋭く対立するものです。歴史を振り返れば、いずれか一方が優位を持った結果、社会全体に負の影響を及ぼした例は枚挙に暇がありません。19世紀のイギリスで「法の下の平等」が確立され、個々人の権利が保障されながらも、参政権が大土地所有者に限定されていたことは、自由主義が民主主義に優越する、不平等で固定的な貴族政を存続させました。一方、革命後のフランスで、少数派である旧体制支持者が、弁護される権利など個人の権利が事実上無視された革命裁判で処断されたことは、民主主義が自由主義に優越する、少数派の排斥を厭わない全体主義をもたらしました。いずれかの原理が一方的に優位を占める危険性を人間は学んできたのであり、そのために両者がバランスを保つ必要があるのです。

 この観点からすると、(それをすることは自由とはいえ)首班指名において与党の党首を推すことは、そもそも野党の存在意義を否定するものです。議会政治において、多数派である与党が意思決定能力をもつことは、「多数者の主権」に適います。例え野党支持者でも、与党中心の議会で決定されたことに従わなければならないのは、この観点から当然です。

 一方で野党は、議会における意思決定能力はほとんどありませんが、一方で社会にある多様な意見、少数派の意見を議会に持ち込む、利益表出の機能を担っています。「議会政治の半分は野党が担う」と言われる所以です。野党が与党と対決することは、「多数者の主権」が「多数者の専制」に陥り、少数者が一方的に抑圧されないようにするために欠かせないのです。いわば民主主義の暴走を抑える、自由主義の防波堤としての役割が、議会政治における野党に課された最大の任務なのです。

 もちろん、「ためにする」反対や批判は非生産的であり、まして景気、原発、TPP、安全保障など、重要事項が山積するなか、意思決定において野党が与党に協力することは必要です。しかし、野党が与党の党首を支持するとなれば、話は別です。それは議会政治を放棄し、全体主義に向かう一歩に他なりません。

 幸いにもと言うべきか、先述のように、石原代表との協議によって橋下氏は主張を引っ込めたようです。政党政治家である石原氏からすれば、首班指名で他党の党首を支持すれば、それは相手との差異が不透明化し、吸収されかねないという警戒感が働いたとしても、不思議ではありません。それはかつて、構造改革を掲げ、自民党の主流派と対立する小泉元総理が就任したとき、民主党の鳩山代表(当時)が国会の質疑で「是非頑張ってほしい」とエールを送ったことが、民主党の存在感を全くなくしてしまったことを思い起こさせるものです。政党政治における戦術という意味においても、橋下氏の判断はまずかったと言えるでしょう。

 今後の展開は注視し続けるしかありません。しかし、いかに政治的決断が遅いとはいえ、だから多数派の意思に全てを従わせるべきという思考は、危険であるだけでなく、社会の異なる利害を調整するという政治家の役割を放棄する、一種の怠慢ですらあります。そして、極めて単純化された主張に乗る支持者が増加することが、これを助長させることになることには警戒すべきと言わざるを得ないのです。

エジプト革命は終わらず:国民投票をめぐる混乱

   月15日、エジプトで新憲法の草案を承認するか否かを問う、国民投票が実施されます。しかし、国民投票を前にエジプトでは、モルシ大統領の政権運営と、新憲法案をめぐって国論が二分しています。4日には、モルシ大統領と憲法草案に抗議する人々が大統領府を取り囲み、警官隊と衝突しました。

  首都カイロだけでなく、アレクサンドリアなど、他の都市でも同様のデモが発生しており、エジプトの体制転換は一つの山場を迎えています。2010年12月にチュニジアで始まった一連の政変、「アラブの春」のうねりのなか、エジプトで30年にわたって権力を握っていたムバラク大統領が失脚したのは、2011年2月のことでした。ムバラクを批判する抗議デモは、最初は大学生をはじめとするリベラルな若年層が中心でしたが、やがてムスリム同胞団に代表される穏健なイスラーム組織がこれをリードするようになりました。

  ムスリム同胞団は、イギリスの経済支配のもとで資本主義経済が波及し、貧富の格差が拡大し始めた1920年代のエジプトで生まれました。以来、ムスリムの五つの義務の一つ、持てる者が持たざる者に自らの富を分け与える「喜捨」の精神のもと、ムスリム同胞団は貧者救済を活動の柱にしてきたのです。しかし、それによって貧困層の間で人気と支持を集めたことで、ムスリム同胞団は時の権力者達から常に警戒されることになりました。弾圧されるなか、ムスリム同胞団のなかからもテロや暴力的な活動に向かう者が現れ、特にムバラク政権のもとでは、両者の対立が激しさを増しましたが、その間もムスリム同胞団は貧者救済を通じて、貧困層の間に支持を広げていったのです。

  つまり、ムスリム同胞団の勢力拡大は、

・政府が本来担うべき医療、貧困世帯への扶助、インフラの整備といった社会サービスの提供、

に加えて、

・ムバラクなど、(イスラエルを支援する)欧米諸国と友好的で、世俗的な権力者への反発と、これを背景とする宗教復興、

を大きな背景にしていたのです。

  いずれにせよ、イスラームの教義というアラブ社会に根付いた求心力と、貧者救済の物質的恩恵を考えれば、ムスリム同胞団が「アラブの春」が波及したエジプトで、無類の動員力を発揮できたことは、不思議ではありません。これを反映して、2011年12月から2012年1月にかけて行われた議会選挙でムスリム同胞団の政党「自由公正党(FJP)」が508議席中235議席を獲得して第1党に踊りで、さらに2012年6月の大統領選挙ではFJPのモルシ候補が当選しました。誕生から約100年をかけ、ムスリム同胞団はエジプトの国家権力を握ったのです。

  しかし、新憲法の採択という、体制転換の大詰めを迎えて、ムスリム同胞団はかつてなく他の勢力と対立しています。ムバラクという共通の敵、あるいは憎悪の対象があるうちは、反ムバラク派の間の摩擦が大きくなることはありませんでした。ところが、モルシ大統領が就任した後、ムスリム同胞団などイスラーム組織と、それ以外の勢力の間の確執が目立つようになりました。

  6月の大統領選挙では、ムバラク政権で最後の首相を務めたシャフィーク氏が、モルシ氏と一騎打ちを演じました。シャフィークの支持者には富裕層や中間層が多く、彼らはいわばムバラク政権のもとでの既得権益層でした。最終的にシャフィークは敗れたものの、これはムバラク政権下でエジプト中に張り巡らされた汚職に基づく利益供与のネットワークが、ビジネスマンや公務員を中心に、根強く残っていることを示したのです。

  この時点では、しかし大学生らのリベラル派やマイノリティであるキリスト教徒などは、旧政権支持者とイスラーム勢力のいずれとも距離を置いていたため、新政権支持者とそれ以外の市民が対立することはありませんでした。それが決定的になったのは、憲法起草委員会でした。新憲法案を作成した憲法起草委員会は、政府や議会の構成を反映して、そのメンバーの多くがイスラーム主義者で、そこでの議論に自分たちの意思が充分反映されていないとして、リベラル派メンバーやキリスト教徒が11月30日の採択を棄権したのです。

  さらに、この憲法草案の採択に先立って、11月22日にムルシ大統領は、新憲法草案の是非を問う国民投票までの期間、大統領の命令は最高憲法裁判所の司法判断を受け付けないとした「憲法令」と呼ばれる大統領令を出しました。これはいわば、大統領に無制限の権限を認めるもので、これを受けて憲法起草委員会は憲法起草の作業を半ば切り上げるようにして、採択に向かったのです。この大統領令に対してリベラル派などは「独裁的」という批判を強め、全土的に新政権支持者との間の対立が広がることになったのです。

  今回の対立の激化は、「革命」後の社会にありがちな側面とともに、それを克服することの難しさを示しています。「革命」後の社会では、同質化と差異化という、相反する二つのエネルギーが充満しがちです。一体感をもって、お互いに協力すべきという考え方は非常時において強調されやすく、「革命」後に新国家を建設するとなれば、その大きさは測りしれません。だからこそ、フランス革命を初めとする歴史上の多くの革命では、国家と国民の一体性や、国民の同質性を強調するナショナリズムが鼓舞されたのです。

  一方で、もともと異なる個々人を一つに束ねるのは困難です。その際、お互いの共通項を見つける一番簡単な方法は、J-J.ルソーが指摘したように、異なる第三者を発見することです。つまり、「我々とは違う者」を「我々」から識別し、排除することで、「我々」の一体性は保たれる、という思考です。しかし、これは容易に「魔女狩り」に行き着きがちです。やはり歴史上の革命では、同質性が強く求められる裏返しとして、「反革命的」な「異分子」とみなされた人々への一方的な糾弾と、ひどい場合には虐殺が横行したのです。1792年9月、革命直後のパリで、バスチーユ牢獄に捕えられていた、旧体制下の支配層で革命に批判的な100名以上の聖職者が、「監獄の清掃」を掲げて乱入した暴徒に殺された「9月虐殺」は、同質化と差異化のエネルギーが急速に結びついた時の混乱ぶりを象徴します。

  昨年吹き荒れた「反ムバラク」の主張は、体制の中核にいた「彼ら」と、そこから疎外された「我々」という、同質化と差異化の結合した見方に基づいていました。しかし、その憎悪の対象であったムバラクがいなくなったとき、反ムバラク勢力は同質性を失いました。もっぱら「敵」との差異化によってのみ同質性を保っていた勢力は、その対象を失ったとき、同質性を失わないようにするために、今度はお互いの差異化を進めがちです。その結果、反ムバラク闘争の過程で大目にみられていた、あるいは不問に付されていた、イスラーム主義者、リベラル派、キリスト教徒などの間の差異が表面化したのです。

  新憲法の草案では、第3条でキリスト教徒やユダヤ人らマイノリティの信仰の自由が、第45条で表現の自由の保護が、それぞれ保障されています。さらに、法律によらない逮捕の禁止(35条)、通信の秘密の保護(38条)など、権威主義体制のもとで常態化していた人権侵害から国民を保護する条項が確認されます。

  一方で、第2条でイスラームが法の精神の根本をなすことが強調されている他、第11条では国家が公共の秩序とともに倫理、公衆道徳、愛国心、アラブ文化なども保護することが明記されています。さらに、第31条では、他者の尊厳を傷つけることが禁じられています。これらの条項は、特定の価値観を国家が強制する契機になり得るとして、さらに(女性の権利などを制約しがちな)イスラームの教義に批判的な言論を取り締まろうとするものとして、リベラル派らから警戒・批判されています。

  とはいえ、イスラーム主義者からすれば、これらは譲れない一線です。欧米諸国では、「表現の自由」の名の下に、預言者ムハンマドやイスラームそのものが揶揄される、あるいは侮辱されることが頻発しています。今年の9月にも、アメリカでイスラームを批判する内容の映画 'Innocence of Muslims' が公開されたことが、その後イスラーム圏で大規模な反欧米デモを引き起こしました。つまり、表現の自由が無制限に許容されると、他者(この場合はイスラームの尊厳を傷つけることになりがちで、それはエジプト社会の混乱をもたらすため、認められないというのが、イスラーム主義者の主張なのです。その意味で、今回の憲法草案が、多分にイスラーム主義の影響を受けていることは確かです。

  イスラーム主義者と、それ以外の勢力の考え方をすり合わせるのは容易ではありません。とは言え、既にみたように、増幅していたムルシ政権への不満が爆発した契機は、一時的とはいえ司法判断を無効にする大統領令にありました。司法関係者に旧政権支持者やリベラル派が多いことに鑑みれば、憲法裁判所がムルシ政権にとって、目の上のたんこぶであることも確かです。しかし、選挙で勝った多数派の決定を問答無用で通すのは、その「ゲームのルール」に対する信頼があり、不満な人たちは次の選挙で違う勢力に投票して政権を交代させればいい、という環境が整備されたあとですべきであって、そもそも憲法すら暫定的なものしかない状況では、相互不信を高めるだけです。なにより、多数者の意思をもってしても奪えない少数者の権利を認めてこそ、民主主義は独裁や全体主義に陥ることを避けられるのです。

  力で抑えられていた社会が、その重石を取り払った時、それまで抑えられてきた自己主張のエネルギーが一度に噴き出すのは、避けられません。そのなかで、「独裁者」に抵抗する時には力を合わせられた者同士の間で、原理・原則の差異が逆に際立ってくることもまた、多くの革命の歴史が示す通りです。しかし、そのように社会が四分五裂し、争いが絶えない状況は、革命後のフランスでナポレオンが国民から求められて皇帝に即位したように、多くの人に力と安定を求めることになりがちです。7日、メッキ副大統領は国民投票の延期の可能性を示唆しました。考え方の相違もさることながら、その手順に不満が集まった以上、モルシ政権の譲歩があって初めて、事態の打開が期待されると言えるでしょう。

メビウスの輪としての北朝鮮「ロケット実験」第2ラウンド

 12月1日、北朝鮮は今月10日から22日の間に、北西部・東倉里(トンチャンリ)の発射場から、観測衛星「光明星3号」を運搬ロケット「銀河3号」で打ち上げると発表しました。いうまでもなく、これは「ロケット発射実験」の名目による、弾道ミサイル発射実験に他ならないわけですが、いずれにせよ北朝鮮は今年4月に発射実験に失敗しており、ミサイル実験を一年に2回行うのは初めてです。ハイペースでミサイル実験を行う背景には、何があるのでしょうか。

 以前にも書いたように、そして多くの識者が指摘するように、北朝鮮のミサイル実験には、内外に向けた二重の意味があります。

 一方にあるのが、対外的な「威嚇」としての側面です。経済が破綻しかかり、飢餓に苦しむ人が恒常的に数十万人もいる状況で、海外からの投資や融資、さらに援助は北朝鮮経済を立て直すうえで不可欠です。しかし、まともに協力を要請すれば、いまの体制は存亡の危機にさらされます。特にアメリカは、援助をするとなれば、民主化や人権保護を前提条件にすることは、目に見えています。その場合、体制の中枢部でいい生活をしてきた金正恩の一族をはじめ、労働党幹部や軍高官は、既得権益を失うばかりか、身の安全すら脅かされるかもしれません。体制の維持という大前提の下で、海外から資金を獲得するために、核ミサイルの保有によって立場を強めることは、周囲から反感を招くことさえ無視すれば、一番手っ取り早い手段であるのは確かです。

 もう一方には、対内的な「ショー」としての側面です。現在の北朝鮮の体制を支える大きな力は、軍にあります。最高指導者といえども、その満足感を引き出さずに、自らの支配を安定化させることはできません。金正日の時代も、1993年の国防委員長就任、1998年の憲法修正にともない、「国家の最高職責」として国防委員長が位置づけられたとき、それぞれノドン、テポドンミサイルが発射されました。最高指導者と軍の関係が節目を迎えたとき、前者が後者を重視しているというアピールをするショーとして、ミサイルや核実験は行われてきました。昨年の暮れ、金正日が死亡し、その後を継いだ金正恩は、2009年に後継者に決まる以前、党にも軍にもほとんど関わりをもっていませんでした。血統による以外、その就任に何ら明確な理由がない後継者にとって、もともと力のある軍への配慮なしに、権力の座にとどまることは不可能です。その意味で、金正恩体制の下で、ミサイルや核実験がエスカレートするであろうことは、当初から予想されていたことであり、日本をはじめ周辺国は、4月と同様に、万全の警戒態勢をとる必要があるでしょう。

 ただし、体制維持の前提そのものは揺るがないとしても、(その最終目的地がどこであるかはともかく)北朝鮮には従来と少し違う方向へ向かい始める姿勢をうかがうことができます。

 まず、北朝鮮の体制内部の変化です。昨年の金正日の葬儀では、金正恩とともに、4人の軍人(李英鎬・元総参謀長、金永春・元人民武力部長、禹東則・元国家安全保衛部第1副部長、金正覚・人民武力部長)が霊柩車に同伴しました。彼らは金正日体制を支えた軍の最高幹部で、いわば金正恩の後見役とも目されていました。しかし、今年の初めから順次、公の場から姿を消し、11月末に金正覚・人民武力部長が更迭されていたことが発覚したことで、全員が一年を待たずに更迭されたことが明らかになったのです。

 このうち、特に李英鎬・元総参謀長は、今年4月のミサイル発射実験を主導したとみられています。金正日の「先軍政治」を主導していた4人が相次いで失脚し、それと入れ違いに勢力を伸ばしたのは、「穏健派」とみなされる張成沢・国防副委員長でした。金正日の妹・金敬姫の夫の張成沢は、やはり金正恩の後見人と目されていた人物ですが、その彼が今年8月、50人の労働党幹部を引き連れて中国を訪問し、中国商務省との間で、中朝国境地帯の黄金坪と羅先の二つの経済特別区の開発に関する管理委員会を共同で成立させることなどに合意したのです。

 4月のミサイル発射実験に対しては、朝鮮半島の核バランスが崩れることを嫌う中国も自重を促す立場をみせました。しかし、北朝鮮がこれを無視して実験を強行したため、その後の国連安保理での北朝鮮非難決議に中国も賛成した経緯があります。ここから金正恩体制の、中国との関係改善を目指し、さらに経済改革を進めようとする意図をうかがうことができるでしょう。

 その一方で、金正恩体制は、アメリカとの交渉を実質的に進める傾向をみせています。つい先日、今年8月にアメリカのCIA(中央情報局)、NSC(国家安全保障会議)関係者が、秘密裏に平壌を訪問していたことが判明しました。これについて朝鮮日報は、北朝鮮がミサイル実験に踏み切った場合、中東での混乱に加えてさらにロムニー陣営に攻撃の材料を与えることを危惧したオバマ政権が、大統領選挙の終結までにアクションを起こした場合は強い対応に出る、言い換えれば、何かアクションを起こすならその後にしてもらうよう、交渉に向かった可能性を示唆しています。真偽は不明ですが、11月の初めにアメリカ大統領選挙が終わり、約1ヵ月後に実験が発表されたタイミングを考えれば、この推測があながち的外れでないように思われます。いずれにしても、ミサイル実験をテコに、北朝鮮が最大の交渉相手とみるアメリカと直接ルートを作りつつあるとすれば、それは停滞してきた米朝交渉が本格化する糸口になるとみられます(ただし、それは日本が蚊帳の外に置かれることを意味する)。

 ただし、関係国、なかでも米中との関係改善を目指すとしても、今回の実験発表のように、北朝鮮が急激な方向転換をするとは考えられません。関係改善を目指すとなると、最初に述べたように、経済的に立場上弱い北朝鮮が相手ペースの交渉に乗らないようにするためには、交渉材料としての核・ミサイルがますます有意性をもつことになります。関係国との関係改善を図るにしても、脅すにしても、いわばメビウスの輪のように、どうしても北朝鮮は核・ミサイル実験から抜け出せない状況にあるのですが、軍内部の人事も、今後の北朝鮮が一本調子で穏健化していくことが考えにくいことを示しています。

 先ほど触れた、更迭された金正覚に代わり、人民武力部長に起用された金格植・元第4軍団司令官は、必ずしも「穏健派」とはいえません。金格植が第4軍団司令官に就任したのは、2009年2月。第4軍団は、黄海にある韓国と北朝鮮の間にある境界線、北方限界線(NLL)を管轄しています。しかし、金格植の司令官就任後、北朝鮮は2009年11月に警備艇によるNLL突破と韓国軍との交戦(大青海戦)、2010年3月に韓国海軍の哨戒艦「天安」の爆沈事件、さらに2010年11月には延坪島砲撃事件を、立て続けに起こしました。その後に人民武力部長に昇格したことに鑑みれば、第4軍団によるこれら一連の攻撃的な姿勢が、その司令官であった金格植によって指導されたとみて間違いないと思われます。だとすれば、金正恩は一方で張成沢に代表される穏健派を、一方で金格植らの強硬派を、自らの両脇においていることになります。この観点から、改革を志向する勢力が台頭しているとしても、軍内部の強硬派はいまだに力をもっているとみてよいでしょう。

 とはいえ、いかなる体制であれ、体制の移行や政策の転換を進めようとする際には、必ずと言っていいほど保守派と改革派の争いが生まれ、これをコントロールせずに、方向転換をすることはできません。また、落下傘式に最高権力者となった金正恩が、(仮に改革志向をもっていたとしても)北朝鮮の改革をリードすることは困難です。ただし、旧体制や軍の影響力の維持を最優先にする保守派であったとしても、第4軍団司令官という必ずしも高くない地位にあった金格植を人民武力部長に据えたことは、北朝鮮首脳部からみれば恩義を与えることになります。これを金正日時代からの古参幹部を一掃したことと併せて考えれば、党に対する軍の影響力はやや低減することになるといえるでしょう。その意味で、今回のミサイル発射実験は、北朝鮮首脳部にとって、軍のなかに生まれているであろう自らの地位低下への懸念を慰撫し、少なくとも離反することがないようにするための効果があるとみられるのです。


「米国が5年後までに世界最大の産油国になる」:そのとき、世界はどうなるか

 際エネルギー機関(IEA)は11月12日の報告書で、シェールガス、シェールオイルの生産により、2017年までに米国がサウジアラビアを抜いて、世界最大の産油国になるとの予測を示しました。頁岩(shale)と呼ばれる泥岩の地層に含まれる油分を抽出して生産されるシェールガス、シェールオイルは、天然ガス、石油の代替として使用できる、非在来型エネルギー源と目されています。

 在来型の石油、天然ガスが中東・北アフリカに偏って埋蔵されているのに対して、シェールはむしろ西半球に多く確認されています。米国エネルギー庁(EIA)の報告書では、2010年1月1日段階で、世界でオイルシェールの埋蔵が確認されているのは32カ国。技術的に抽出可能な量は、6,622兆立法フィートと見積もられています。北米大陸で大規模なシェール開発が進み、それが本格的に輸出されるようになれば、従来のエネルギー輸出国を原油・ガスの価格抑制に向かわせるとも考えられます。

 震災後の日本では、原発存続の是非をめぐって世論が二分するなか、火力発電所の発電量が増えています。世界に目を向ければ、新興国の経済成長により、今後もエネルギー需要は高まりこそすれ、低下することは考えにくい状況です。一方で、在来型の石油や天然ガスには、いつ枯渇するかという懸念がつきまとってきました。この状況下で、本格的に利用され始めたオイルシェールやシェールガスに、新たなエネルギー源としての関心が集まることは、不思議ではありません。日本企業のなかにも、三菱物産のように、既に米国で採掘権を獲得したところもあり、さらに国内でも秋田県や新潟県で採掘試験が行われています。

 ただし、オイルシェール、シェールガスには問題点も指摘されています。その抽出のために、大量の化学薬品を地中に注入するため、土壌が汚染されるだけでなく、染み出したシェール成分が地下水に流入し、
水道水が燃え上がるといった事態が、米国の採掘場の近辺では実際に発生しています。また、あくまでも地下資源であるため、植物から生産されるバイオエタノールのように再生可能エネルギーではなく、地球温暖化を抑制する効果はありません。在来型の原油・ガスの大規模な輸出国であるロシアで、メディアや研究者が「シェール革命」に懐疑的な見方を示しているのは、只の「ひがみ」とも言えません。

 一方で、オイルシェール、シェールガスの本格的な採掘・利用は、国際政治にも小さくないインパクトをもたらすとみられます。特に、IEAの予測通り、近い将来に米国が世界最大の産油国となり、燃料の純輸出国になれば、それは世界のバランスを大きく揺るがすことになります。

 1974年の石油危機以降、米国や日本をはじめとする西側先進国は、エネルギーを安定的に確保する必要性から、サウジアラビアなどペルシャ湾岸の諸国との友好関係に腐心してきました。イランのようにあからさまに敵対的な姿勢をみせない限り、西側先進国は他の地域で行っているような、民主化や人権保護に関する強い要求を、湾岸諸国に対しては控えてきたのです。その結果、在来型の原油の約70パーセントが埋蔵されているこの地域では、サウジアラビアやUAEのように、国王が絶対的な権力をもつ専制君主国家が、いまも生き永らえています。

 一方の湾岸諸国もまた、西側先進国、なかでも世界最大のエネルギー消費国であり、最大の顧客である米国との関係から、石油危機以降、政治的には保守化してきたと言えます。中東における最大の火種であるパレスチナ問題でも、イスラーム世界の一員としてイスラエルを非難するものの、それ以上の関与はほとんどありません。1991年の湾岸戦争で、クウェートを占領したイラク軍に対応するため、サウジアラビア政府が米軍の駐留を認めたことは、湾岸諸国と西側先進国の政治的な結びつきを象徴するものでした。

 この蜜月が大きく転換したのは、2001年の米国同時多発テロと、その後の「対テロ戦争」でした。サウジアラビア王室の関係者から、同国出身のウサマ・ビンラディンに資金が渡っていたことが発覚したこともあり、当時のブッシュ政権は湾岸諸国からの原油輸入への依存度を引き下げることを図りました。

 現代の国際政治は、単純に経済力や軍事力が大きい方が立場上強いとは限りません。「相手との関係が遮断された時に被るダメージや損失」を、国際政治学では「脆弱性」と呼びます。脆弱性が高いのは、関係が切れた時により困る方、ということです。言い換えれば、相手との関係性が壊れた時に、よりダメージの小さい方が、相手に対して強い立場に立てる、となります。家のなかのことを全く知らず、靴下の場所もわからないご主人が、奥さんから離婚を切り出された途端に右往左往する状況で言えば、前者の方が脆弱性が高い、となります。

 グローバルな経済取引が増え、どの国も自らの存立を少なからず他国に依存する状況は、(北朝鮮など一部例外を除いて)ほぼ全ての国が、脆弱性という名のコストを払っていることを意味します。しかし、自国の独立性が損なわれるからそれがイヤだというならば、極論すれば自給自足に戻らざるを得なくなります。したがって、貿易や投資などで、多かれ少なかれ、他国に依存しなければならない状況下で、リスク分散を図って脆弱性を低くすることができるか否かが、その国の独立性、言い換えれば国際的な発言力を左右する、一つの大きな要素となってきるのです。

 この観点から、対テロ戦争を遂行するために、米国が中東産原油の輸入量を減らしていったことは、その賛否はともかく、湾岸諸国への脆弱性を低減させるという意味で合理的な判断だったと言えるでしょう。しかし、原油価格が高止まり、コストの問題もあってバイオエタノールが期待されたほど普及しないなか、米国も最終的には豊富な埋蔵量を誇る湾岸諸国への依存を断ち切ることはできませんでした。これは原油を輸入する側の脆弱性の高さが、米国および西側先進国と、湾岸諸国との間の、微妙なバランスを保つ作用を果たしてきたことを意味します。

 ところが、オイルシェール、シェールガスの本格的な利用の開始と、それによって予測される、米国がエネルギーを自給自足できる状況は、このバランスを崩すことになります。IEAの予測によると、2035年には中東諸国の原油輸出の約90パーセントがアジア向けになるとみられており、その多くがエネルギー需要の高まる中国やインド向けになると想像することに、大きな無理はないでしょう。

 つまり、米国によるエネルギーの完全自給は、その外交的な独立性を高め、湾岸諸国をはじめとする中東、あるいはイスラーム圏に対して、より強硬な姿勢をとることを可能にする一方、これまで比較的穏健な立場にあった湾岸諸国を、西側先進国と必ずしも外交方針が一致しない、新興国サイドに一層向かわせる契機になり得るのです。その場合、例えば現下のシリア情勢をめぐって、西側先進国と中露が対立するような状況は、さらに過熱しやすくなることが懸念されます。その意味で、「シェール革命」は、国際環境の地盤を、まさに頁岩や泥岩のように液状化させる可能性をはらんでいるのです。

シリア国民連合の設立:内外の架橋は成るか

 11月11日、カタールの首都ドーハで、シリアの反体制派が結集した「シリア国民連合」の設立が合意され、穏健派のイスラーム聖職者アフマド・モアズ・アル・ハディブ(Ahmad Mouaz al-Khatib)が代表に選出されました。これはシリア情勢において、どんな意味をもつのでしょうか。

 これまで、アサド政権と対立する諸勢力の代表格として、特に欧米諸国から認知されてきたのは、亡命した在外シリア人たちを中心に構成され、トルコのイスタンブールに拠点をもつ「シリア国民評議会」でした。在外シリア人たちのなかには、欧米や湾岸諸国でビジネスに成功したひともあり、その資金は国民評議会を通じて、シリア国内で政府軍と戦闘を続ける自由シリア軍へも、軍資金として渡ってきました。

 しかし、国民評議会はかねてから、内外の反アサド勢力を結集する力を疑問視されてきました。その最も大きな要因として、国民評議会の主要メンバーのほとんどが長くシリアから離れ、国内との緊密な関係が薄いことがあげられます。のみならず、国民評議会はシリア国内の基準からすれば、多分に欧米志向が強いことも、その一因でした。

 2011年8月に、国民評議会の初代議長に就任したブラン・ガリアン(Burhan Ghalioun)は、もちろんシリア人ではありますが、1969年にフランスに移り、学位を得た、パリ大学の社会学教授。スンニ派のムスリムで、シリアの反体制派に欧米諸国との安易な協力を戒め、内部からの改革を訴えてはいましたが、やはり国民評議会に所属するムスリム同胞団幹部は、ガリアンの議長就任が「シリア騒乱のなかでイスラーム主義者の勢力が広がるのを恐れた欧米諸国に受け入れられるものだったから」と述べました。この証言に象徴されるように、一般的なシリア人の目に、ガリアンがあまりに西欧化されすぎ、自分たちからかけ離れた存在に映ったとしても、不思議ではありません。

 ガリアンは在外シリア人をもまとめきれず、それに代わって今年6月に議長に就任したのは、スウェーデンを拠点に、シリアの少数民族クルド人の権利回復運動を行ってきた、アブデュルバセド・シダ(Abdulbaset Sida)です。クルド人はトルコ、イラン、イラク、シリアなどの一帯で暮らし、固有の文化からいずれの国でも自治権を要求しながらも、各国政府から弾圧されてきた、「世界最大の少数民族」です(米軍によるイラク攻撃後のイラクでは、新憲法のもとで各州に高い自治権が付与され、クルド人の政治的権利も保障されている)。欧米諸国で同情を集めるクルド人を議長に据えたことも、少なくとも結果的には、対外的なイメージ向上に寄与しました。

 一方で、議長がクルド人であるにも関わらず、国民評議会にはシリア国内のクルド人勢力とほとんど結び付きがありません。シリア国内でクルド人の権利回復と民主化を求めているクルド民主党(Kurdish Democratic Party of Syria)からは、やはり少数民族としてのクルド人の権利を制約しているトルコから支援を受けていることを念頭に、「国民評議会にはトルコの影響が強すぎる」とも評されます。結局、欧米諸国を中心に、国際的な認知を引き出したとはいえ、国民評議会は反アサド勢力を結集するには至らなかったのです。

 これに鑑みれば、今回ドーハで、アメリカ国務省やカタール、トルコなどの仲介のもと、国民評議会を柱に、シリア国民連合が結成されたことの意義は小さくありません。議長のハディズは、2011年と2012年に反体制蜂起を支援したとして逮捕されたことがあり、3カ月前までシリア国内にとどまっていました。そのうえ、どの政治組織にも属さず、ムスリム同胞団などイスラーム政党との関係もないとみられています。その議長就任は、海外と国内、世俗と宗派のバランスからみた場合、ごく順当とさえ言えるかもしれません。少なくとも、これによって内外の反アサド勢力が、より結集しやすくなったのは確かです。

 ただし、シリア国民連合が、全ての反アサド勢力を結集することは、基本的に不可能と思われます。内戦発生以来、シリアには近隣諸国から反アサドのスンニ派、親アサドのシーア派の民兵がそれぞれ流入しており、その多くは立場こそ違っても、厳格なイスラームの教義に基づく国造りを志向する点で共通します。これらが半ば自律的に活動することが、シリア情勢を複雑にしているのですが、いずれにせよ、欧米諸国やトルコ、湾岸諸国から支援されるシリア国民連合に、周辺国から流入した、スンニ派の急進的な民兵が合流することは予想しにくいのです。

 とは言え、リビアのケースをみても分かるように、反体制派の結束は、戦闘の観点からだけでなく、国際的な支援や認知の確保の面からも、極めて重要な意味をもちます。今後の展開は予断を許さないものの、シリア情勢は反体制派の有利に、さらに傾いたと言えるでしょう。

南アフリカでストライキはなぜ拡散したか

  年8月16日、南アフリカのマリカナにある、イギリスの資源会社ロンミンが保有するプラチナ鉱山で、ストライキ中の労働者と警官隊が衝突し、34名が死亡しました。これは1994年に今の体制になってから、警官の発砲で発生した、最悪の犠牲者数でした。その後、ストライキは他の鉱山の労働者、さらにトラック運転手など業種を越えて伝播してきました。

  南アフリカは、サハラ以南アフリカ諸国のGDP合計の約30パーセントを占める、地域最大の経済大国。ブラジル、ロシア、インド、中国のBRICSにも正式に迎えられた、世界有数の新興国でもあります。金、白金、クロムなどの採掘量は世界一。昨今の資源ブームを追い風に、急速に成長してきました。しかし、南ア政府によると、金鉱山とプラチナ鉱山の操業停滞による損失は、10月25日までに101億ランド(約12億ドル)。また、トラック運転手によるストは流通の不安定化に繋がり、自動車メーカー各社も工場の操業が滞りました。現地に進出しているトヨタの工場も一時、部品メーカーのストで無期限の生産停止に追い込まれました。これらを受けて、スタンダード&プアーズは南アフリカの格付けを、BBB+からBBBに引き下げました。また、南ア財務相は2013年のGDP成長率予測を、それまでの3.6パーセントから3.0パーセントに引き下げています。

  今回、立て続けにストが発生した背景には、世界共通の景気後退(いわゆるリセッション)だけでなく、南アフリカ特有の事情もあります。

  かつて、南アフリカでは悪名高いアパルトヘイト体制が敷かれていました。白人と非白人は、私的、公的あらゆる面で厳格に区別され、黒人は人口で圧倒的多数を占めながらも、公民権をはじめ、ほとんどの権利が剥奪されていたのです。あまりにも露骨な人種差別体制は、国連による経済制裁の対象にもなり、最終的には1994年に全人種が参加する選挙の実施と、ネルソン・マンデラ率いるアフリカ民族会議(ANC)の勝利で終結を迎えました。いろんな肌の色の人間が集まって一つの国になるという理念から、その後の南アフリカは「虹の国」と呼ばれるようになりました。

  アパルトヘイト時代と比べて、南アフリカには大きな変化がいくつも生まれています。企業には黒人を一定の割合で従業員として雇用することが義務付けられ、黒人中間層が数多く生まれました。さらに、基幹産業である鉱物輸出が好調であることを背景に、これに関わる政府系企業やANC関係者を中心に、「ブラック・ダイヤモンド」と呼ばれる富裕層も登場しました。しかし、その一方で、公営住宅の建設などは黒人居住区が優先され、白人のなかには「プア・ホワイト」と呼ばれる貧困層も出てきています。私自身、白人のホームレスをみた時に、時代の変化を強く感じた記憶があります。

  ただし、人種と所得水準がかつてほど明確に連動していないとはいえ、低所得者に黒人が多く、高・中所得者に非黒人が多いことは、アパルトヘイト時代と大きく変わりません。ジンバブエなど近隣諸国からの移民が増え、より安い賃金で働くことも、南アフリカ黒人の失業の種になっています。これに加えて、南アフリカは世界レベルでみても格差の大きい社会です。世界銀行の統計によると、2006年のジニ係数は67。格差の激しい中国の42(2005年)、ブラジルの57(2005年)などを上回る数値です。

  さらに、この数年の資源ブームと、それに基づく海外直接投資の増加は、低所得者にとって必ずしも恩恵だけをもたらしたわけではありませんでした。投資の流入は物価上昇を呼び、やはり世界銀行の統計によると、昨年のインフレ率は8パーセント。世界平均が5パーセントだったことに比べも高く、これに関しては中国(8パーセント)、ブラジル(7パーセント)と同レベルです。


  貧困と格差に対する不満が増幅したとしても不思議でない状況の下、しかし鉱山労働者たちの声が公式に表出されることは、ほとんどありませんでした。合計34名が死亡したマリカナでのケースも、労働組合が承認していない違法なストライキ(いわゆる山猫スト)であったために、警察の介入を招きました。プラチナ生産最大手のアングロ・アメリカン・プラチナムが1万2000人(10月5日)、金最大手のゴールド・フィールズが8000人(10月25日)の鉱山労働者を解雇したのも、そのストライキが違法であったことが理由でした。多くの鉱山労働者が違法ストに臨んだ大きな背景には、労働組合が彼らの要望を政府や企業に伝えて改善を求めることや、ストライキの実施に消極的だったことがあります。

  1960年前後の独立運動で、その中核を担って以来、多くのアフリカ諸国では労働組合が大きな政治的発言力をもってきました。他のアフリカ諸国とは歴史的背景が違うものの、南アフリカでも反アパルトヘイト闘争でANCと共闘した労働組合は、1994年以降も政府と緊密な関係を保ってきました。しかし、政府と密接なのは労働組合だけでなく、民間企業もまたそうでした。アメリカでは政-財-軍、日本では政-官-財の「鉄の三角同盟」がありますが、南アフリカでは政-労-資(財)がトライアングルを形成しているのです。

  ヨーロッパでも同様の状況があり、コーポラティズムと呼ばれます。国によって違いはありますが、戦後のヨーロッパでは総じて、三者協議のなかで労働組合が賃上げ要求をある程度抑制するかわりに、経営者団体が高い企業税に同意し、それを政府が福祉事業に回すことで、一般国民の実質所得の向上に繋がってきました。

  ところが、南アフリカの場合、この三者のトライアングルは、必ずしも国民に恩恵をもたらしているとは言えません。例えば、労働組合のアンブレラ組織である南アフリカ労働組合会議(Congress of South African Trade Unions: COSATU)は、米誌Forbesによると総資産が227億ドル以上にのぼる、南アフリカ屈指の資産家で企業家のP.モツェペ(Patrice Motsepe)から資金援助を受けているといわれます。企業家から支援を受けること自体、組合の独立性を損なうもので、実際にCOSATUは、鉱山労働者の組合である全国鉱山労働者組合(National Union of Mineworkers: NUM)とともに、今回の事態を招いた責任が鉱山経営者にあると批判しながらも、彼らの自発的なストライキにも反対しています。これに対して、労働者側からは、労働組合に対する批判が公然とあがっています。

  無闇にストライキを行うことは、企業だけでなく、その国の経済全体にマイナスの影響を及ぼすため、褒められたことではないかもしれません。まして、死傷者が出るような騒ぎになるとすれば、なおさらです。とは言え、生活が悪化するなかで、企業はもちろん、労働組合までもが賃上げ要求に消極的な状況が、鉱山労働者たちの怒りを爆発させ、さらに(ストライキ中の鉱山労働者の一部がナイフなどで武装していたという事情があるにせよ)警官の発砲で死者が出たことが、火に油を注ぐことになったことは間違いありません。いわば政-労-資の強固なトライアングルのもとで、「体制側」に回った労働組合に裏切られたという不信感と憤りが、生活苦による労働者たちの不満を爆発させたと言えるでしょう。その不満を共有しているからこそ、国内の地方や業種を越えて、ストライキが伝播しているのです。

  今回の一連のストライキからは、南アフリカの政治的・経済的な変動の兆しをうかがうことができます。ANCは「反アパルトヘイト」で結集し、今の体制の基礎を作ってきただけに、所得やエスニシティにかかわらず、多くの黒人から幅広い支持を集めてきました。しかし、「白人による支配」という共通の打倒目標がなくなったいま、鉱山労働者など低所得者を支援する団体のなかには、既存の労働組合や、それと連なるANCと一線を画した政治勢力の形成を図る動きも出てきており、それがより戦闘的なストライキを主導しているといわれます。労働組合の求心力低下は、今後も同様のストライキが頻発する可能性すら示しています。

  一方、ストライキの拡大を防げなかったとして、J.ズマ(Jacob Zuma)大統領に批判が集まるなか、ANC内部からは鉱山の国有化も検討すべきという声があがりはじめています。海外の投資家に警戒感を抱かせかねない意見ですから、ANCスポークスマンは「国有化はない」と強調しています。しかし、経済が政治を動かすのと同様に、政治が経済を規定することもまた確かです。世界経済が減速し、各国が自国の利益確保に向かうなかで、今後の動向は予断を許しません。

  アパルトヘイト後の南アフリカは、アフリカ随一の経済大国としてだけでなく、国内の融和に努める「虹の国」としても知られてきました。しかし、一連のストライキは、政-労-資の強固なトライアングルに支えられたポスト・アパルトヘイト体制のもとで、社会のなかの亀裂は着実に深まっていることを示しており、その混乱は主に市場への鉱物供給の不安定化を通じて、ただでさえ不透明感のただよう世界経済に、深刻な負の影響をもたらすとみられるのです。

チャベス四選から貧困と民主主義を考える

 10月7日、中南米のベネズエラ大統領選挙で、現職のウゴ・チャベス大統領が四選を決めました。チャベス大統領は、国内では「21世紀の社会主義」を掲げ、主要産業の石油関連企業をはじめ企業の国有化が進められ、それに基づいて低所得者向けの住宅建設などを推進することで、貧困層からの厚い支持に支えられています。その一方で、2003年の国連総会演説でブッシュ前大統領を「悪魔」と呼び、さらにはイラン、中国、ロシア、北朝鮮などとも連携を深める、中南米随一の反米派として知られます。昨年、がん治療のためにキューバの病院に入院しており、健康不安説も飛び交うチャベスの四選がなるか。今回の選挙は、これまで以上に国際的な関心を集めていましたが、結果的には西側先進国の期待に反して、チャベスが勝利したのです。

  今回の再選により、「物価統制や企業の国有化がさらに進む」、という見方があります。10月9日、チャベス四選を受けて、ベネズエラ国債が四年ぶりに大幅安になったことは、投資家の懸念を表すものです。

  その一方で、今回の選挙結果におけるチャベスの勝利は、ベネズエラ国民が「民主主義に基づく独裁」の継続を選択したことを意味します。チャベスのもとで進んだ企業の国有化で、政府による企業管理が強化されるにつれ、高・中所得層などの不満が募り、それにともなって政府批判の急先鋒になった民間メディアが規制されるようになりました。2007年、チャベスに批判的な民放テレビ局RCTVの免許更新が認められず、政府が新たに設立したTVesにその周波数が割り当てられたことは、その象徴です。一方で、2009年の国民投票で大統領の三選を禁止する憲法条項が撤廃されたことにより、チャベスの個人支配は強化されました。いわばチャベスは有権者に選出された「独裁者」なのです。

  批判的な勢力を強権的に抑え込みながら、それでも選挙で勝ち続けてこれた最大の理由は、チャベス大統領が人口の多い貧困層の支持を一手に集めてきたからです。チャベス登場以前のベネズエラでは、富裕層と中所得層、言い換えれば資本家と労働組合間の階級間闘争が政治の中心で、各政党は両者のうちのいずれかを主な支持基盤にしていました。しかし、基本的には企業の正職員でなければ労働組合に加入できないため、都市のインフォーマル・セクターで働く人(つまり法律で保障される正規雇用ではない労働者)や、地主のもとで働く小作農(中南米では大地主制が残っているため、他の地域より貧富の格差が全般的に大きい)は、人口で多数派を占めながらも、既存の政党にその声が届かず、政治的な発言の機会はほとんどありませんでした。「サイレント・マジョリティ」だった貧困層の代弁者として登場したのが、チャベスだったのです。

  チャベスは陸軍少佐だった1989年にクーデタを起こし、規制緩和や「小さな政府」を推し進めていた、当時のペレス政権の打倒を試みました。しかし、クーデタは最終的に失敗。ただ、クーデタが「貧しい人々のためのもの」だったという主張が貧困層の共感を呼び、刑務所に収監されたチャベスの釈放を求める運動にまで発展します。1994年に釈放されたチャベスは政治に向かい、1998年に大統領選に立候補して当選。以来、チャベスは一貫して貧困層の支持を集めて権力を握り続けてきたのです。つまり、チャベスは「既存の政党や政治家から相手にされていない」と感じる多くの人々に焦点を絞ることで、政治的に成功したと言えるでしょう。

  シリアのアサドなどと比較すると、チャベスの場合は少なくとも普通選挙で選出されており、さらにインターネットなどの通信をブロックしているわけでもありません。また、チャベスが進めた1999年の憲法改正によって、大統領を含む公職に就く者に対する解職請求の制度が整いました。したがって、チャベスが一概に民主主義を否定しているとはいえません。

  ただし、チャベスが尊重する民主主義は、「多数者の意志に基づいて統治する」という、いわば「剥き出しの民主主義」です。歴史に名高いフランス革命では、「革命の遂行」という目的のために、少数者の人権は事実上無視されました。「反革命的」とみなされた人間は粛清の対象となり、貴族や教会の財産も没収されました。「多数者による支配」が何より優先される「剥き出しの民主主義」のもとでは、「多数者」に属さない「少数者」の生命、財産、安全などの権利が無視されることも珍しくありません。

  チャベスの場合も、自分に敵対的なメディアや裁判所を「多数の人々の意志から外れたもの」として扱い、その独立性を奪っています。しかし、それは国民の多数派によって承認されてきました。「民主主義に基づく『独裁者』」を支えているのは、世界第五位の原油埋蔵量に裏付けられた資金力です。チャベスは豊富な原油収入をバラまいて貧困対策を進めることで、多数派である貧困層からの支持を集めてきました。その過程で、石油収入を担保に中国から400億ドルの財政資金融資を受けるなど、危うい経済政策も稀ではありません。一方で、貧困層の優遇や経済への規制が、従来からの階級間対立に拍車をかけていることは、想像に固くないのです。

  今回の選挙では、野党連合のカプリレス・ミランダ州知事が終盤に追い上げ、チャベスの得票率は54.42パーセント。一方のカプリレス候補は44.97パーセント。これまでにない、僅差での勝利でした。ここから、チャベスの人気に陰りが見え始めたと指摘されます。その場合、チャベスが膨大な国庫支出を湯水のように用いて支持を集めるこれまでの方針を改め、内外の投資を積極的に呼び込んで筋肉質の経済体質を作ることで、高・中所得層にまでウィングを広げることができれば、五選も危うくないことでしょう。しかし、人気に陰りがみえたとき、核となる支持者にこれまで以上に配慮するのが、政治家の一般的傾向です。その意味では、今後「21世紀の社会主義」がますます進展し、その結果財政が肥大化することも予想されます。最悪の場合、「国民を救うために国家が破綻する」ことすらあり得ます。

  貧困や格差といった問題は、完全に克服することは難しいとしても、政府が率先して取り組むべき課題です。また、多数派の意志が尊重されなければ、少数者が物事を一方的に決めるエリート主義に陥ります。ただし、歴史を振り返れば、フランス革命にせよ、ナチスの台頭にせよ、社会経済的な不満を抱く多数派、なかでもそれまで政治的発言の機会に乏しかったサイレント・マジョリティの声のみを錦の御旗にして突き進む危険は、いくらもあげられます。多数者の意志をもってしても奪えない少数者の権利や自由が保障されない限り、民主主義は最も凶暴な政治体制にすらなり得ます。既存の政党や高・中所得層に対する貧困層の不信感や憎悪をかき集め、それに基づいて独裁的な権力を保持するチャベスのベネズエラは、現代における「社会問題の改善と民主主義の両立」という、歴史的な課題を写し出す舞台になっていると言えるでしょう。

「リーダーなき世界」でのサバイバル

  界のリーダーは誰か。この問いに、多くの人は「アメリカ」と答えるでしょう。確かにアメリカは、経済力、軍事力で抜きん出た力をもち、(それを強制することで批判されますが)「自由」の理念の魅力を備えた、たぐい稀な国といえます。しかし、そのアメリカは、かつてもっていた世界に対する圧倒的な影響力を、いまだにもっているのでしょうか。

  9月のアメリカの失業率は7.8パーセント。歴史的なドル安が続いているのですから、アメリカから見たこの好条件がパフォーマンスにもっと反映されてもいいはずですが、いずれにしてもこれは4年ぶりの低水準です。大統領選挙を控えて、これがオバマ大統領の追い風になるとみられています。しかし、それは観方を変えれば、アメリカ全体が景気回復と格差是正といった、もっぱら国内問題に関心を集中させている状況を物語ります。アメリカ国外に目を転じれば、自ら火をつけたアフガニスタンやイラクからは撤退を急ぎ、シリア問題では中露の反対の前に手も足も出ず、イランへの制裁に各国を巻き込む点では気を吐いたものの、それ以上の措置は取れていません。

  「世界のリーダー」としてのアメリカに疑問符がつくなか、アメリカや日本を含む主要国首脳会議(G8)は、もはや国際秩序に大きなインパクトをもつ会合にはなっていません。特にこの数年、G8の多数を占めるヨーロッパ諸国がユーロ危機で青息吐息。日本も同様で、極度に内向きになりつつあることは、言うまでもありません。

  これに対して、G8に中国やサウジアラビア、インドなどの新興国を加えたG20は、そのGDPの合計が世界の約8割を占める大勢力で、こちらの決定の方がより大きなインパクトがあります。しかし、温室効果ガスの排出規制に象徴されるように、先進国と新興国の間の意見対立も多く、スピーディーな意思決定にはほど遠く、世界をリードするというより、主要国間での利害調整が主な機能となっています。

  一方で、近年のアメリカの政府や学界では、‘G2’の用語がよく用いられていました。アメリカと中国の二大国が国際的秩序を大きく左右する、というのです。しかし、これに対して中国は、「自国はまだ開発途上国で世界中の問題に対応する力はない」という立場を崩しませんでした。いわば、「大国としての責任」をアメリカに背負わされることを拒絶した形ですが、いずれにしてもこれにより‘G2’論も尻すぼみです。

  この状況下、アメリカの政治学者I.ブレーマー(Ian Bremmer)を皮切りに、欧米諸国では1年ほど前から‘Gゼロ’(G-Zero)の議論が出てきました。アメリカは、かつてのような力を発揮できず、またそれに代わる勢力もない。世界をリードする大国が消滅した、というのです。これまでみてきたような状況に鑑みれば、‘Gゼロ’論には一定の真実が含まれているようにみえます。

  ただし、この‘Gゼロ’論は、取り立てて新しい見方でもありません。15世紀から世界を支配してきた欧米諸国では、その優位が損なわれることへの危機感が定期的に浮上します。第一次世界大戦後に当時の新興勢力アメリカ、ソ連の台頭を背景に、ドイツの歴史学者O.シュペングラーが、1918年と22年に、ヨーロッパ中心史観を批判的に考察して著した『西洋の没落』。1980年代に西欧や日本の追い上げにあい、大規模な貿易赤字を抱え込み、その支配的地位への懐疑が芽生え始めたアメリカで、P.ケネディが1987年に著した『
大国の興亡』。いずれも欧米世界の長期的衰亡を指摘したもので、今回の‘Gゼロ’も、「欧米世界の優位の喪失」という認識についてはシュペングラーやケネディを踏襲しており、その意味では近代以降に世界の覇者となった欧米諸国で、動揺の時代に必ずといっていいほど発生する、特有の危機感に基づくものといえるでしょう。

  この「支配的地位の喪失への危機感」を反映して、シュペングラーやケネディに対する欧米諸国内での批判には、ややヒステリカルなものがあったことは確かです。今回の‘Gゼロ’論に対しても、「(特に中国など)他の国がその意思や能力に欠ける以上、アメリカ、EU、日本などの西側諸国が世界をリードする以外にはない」という批判が既に寄せられています。しかし、このタイプの議論は、「それしかない」という価値判断に基づく主張であり、欧米諸国の影響力低下という事実認識を後回しにする傾向が濃厚です。

  もちろん、現在でも経済的に欧米諸国が世界で優位にあることは確かです。科学技術、軍事力、さらに自由や民主主義の普及といった多くの側面で、欧米諸国は他を凌ぎます。しかし、例えば「民主的な社会の方が経済成長に向く、なぜなら国民の要望が政府に反映されやすいから」といった主張を欧米諸国が展開し、開発途上国に民主化を強要しても、急激に経済成長しているのは中国に代表される権威主義的な政府に率いられる国であるように、欧米諸国の理念が通用しない状況が世界に満ちていることもまた、確かなのです。また、「アラブの春」で躍進したのがイスラーム政党であったことは、世俗的な民主主義の普及を前提としていた欧米諸国にとっては「期待はずれ」の結果でした。


  自らの「神通力」が通じない対象が、取るに足らない小さな相手ならば、欧米諸国も鷹揚に構えられるかもしれません。しかし、既にその相手は、自らに迫る勢いをもっており、さらにその相手ぬきには自らが存立できない状況が、より欧米諸国の神経をいらだたせることになります。ノルウェーで移民排斥を訴えた極右青年による銃乱射事件や、イスラームの預言者ムハンマドを侮辱する映像に象徴される、近年の欧米諸国における排他的で攻撃的な姿勢の背景には、この「喪失への危機感」があるといえるでしょう。言い換えれば、近代以降の「成功体験」を否定されることへの拒絶が欧米諸国には渦巻いているのであり、‘Gゼロ’論をめぐる議論はその象徴なのです。

  一方で、‘Gゼロ’論を支持するにせよ、批判するにせよ、欧米諸国の政治的、経済的、軍事的な存在感が収縮つつあることは、最早誰も否定できないでしょう。その意味で、世界はフラット化しつつあるといえます。新興国の経済成長は、欧米諸国自身が推し進めたグローバル化で、投資や製造拠点が各地に拡散して行ったことの産物です。いわば、規制緩和によって全体が流動化する状況が生まれたわけですが、これは1990年代半ば以降の日本国内の状況と同じです。つまり、全体の統制がとれなくなるなかで、「自己責任」が貫徹されるシビアな状態になる、という意味において、近年の日本国内と現代の国際情勢は通じるものがあります。

  戦後の日本は、「西側」としてのアイデンティティを強め、経済的、軍事的に、超大国アメリカへの依存を強めました。それが戦後復興と高度経済成長を可能にしたことは否定できません。しかし、歴史的な円高是正のための日本の為替介入に協調しなかった、むしろ批判したことを想起すれば、アメリカもヨーロッパ諸国も経済的に疲弊し、自国の短期的利益を最優先にする兆候が顕著になっているといえます。そのなかで、さらにアメリカとの友好関係を、何よりも優先させることの意義を見出すことは困難です。

  いわば、現代の国際情勢においては、絶対確実という「鉄板」を期待することは困難で、常にリスク分散を図る必要があるのです。そのなかでは、戦後復興から高度経済成長の「成功体験」にとらわれない柔軟性をもつことが欠かせません。軸足は「西側先進国」であり続けるとしても、欧米一辺倒だった外交・通商関係を、新興国から将来の新興国たる貧困国に至るまで、多様化してバランスを図ることが、「自己責任」時代の国際環境を日本が生き残るうえで、不可欠の素養になるといえるでしょう。その意味では、「欧米諸国が圧倒的に優位な世界」の呪縛から一番逃れるべきは、欧米諸国よりむしろ、日本なのかもしれません。



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