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  • 2014.03.05 Wednesday
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選択的夫婦別姓問題を考える

   婦別姓論議に一石を投じることになるのでしょうか。今回、5人が東京地裁に夫婦別姓を認めない民法の規定が、両性の平等を規定した憲法に違反するとして、東京地裁に提訴することになりました。民主党は政権交代以前から「選択的夫婦別姓」制度の検討を掲げてきましたが、政権交代後は党内や国民新党からも異論が噴出し、千葉元法務大臣は何もできない間に議員ですらなくなってしまいました。

  選択的夫婦別姓制度に対する反対意見には、「子どもの姓をどうするか」、「子どもがいじめられるのではないか」や、「昔からの習慣を簡単に変えていいのか」、「お墓など家単位の風習にそぐわないのではないか」といったものをよく聞きます。かなり圧縮して言えば、反対の人は「家族の結びつきが損なわれる」、「夫婦別姓は行き過ぎた個人主義の表れだ」ということを言いたいのだと思います。しかし、この二点に話を絞ってみれば、反対派の主張の脆さが透けてみえてきます。

  第一に、「家族の結びつき」ですが、この主張には「これまで日本では家族が強い結びつきを保ってきた」という前提があるはずです。しかし、姓が同じならば家族の結びつきは強いのでしょうか。「行方不明の高齢者」や「虐待死」などの問題が噴出している昨今、姓が同じというだけで、強い結びつきを保てないことは明らかです。離婚件数も年々増えているなか、従来の家族制度が今も「家族の結びつきを強く保っている」という前提自体が、極めて薄弱な根拠しかないのです。

  確かに、かつての日本では家族が強い結びつきをもっていたのでしょう。しかし、それは個人が家族という集団に属さなければ生きていけない社会だったからです。つまり、氏姓制度にまで遡らなくとも、つい半世紀前まで、家族は労働や生産活動の基盤でした。社会保障も何も発達していない社会環境では、子どもや高齢者の面倒は家族がみるしかなかったのです。しかし、労働環境が多様化し、社会保障制度が発達してくれば、家族という集団がもつ先天的な拘束力は必然的に弱まります。社会環境が大きく変化するなか、個人の意志によって家族や子どもの有無が決定されてくることもまた、必然といえるでしょう。そして、他者に損失を与えていない以上、その生き方がいけないという根拠は何もないはずです。

  その意味で、第二の反対意見「行き過ぎた個人主義」という批判は、「個人主義」という点だけで言えば、決して外れていません。しかし、問題は「行き過ぎ」かどうか、ということです。何をもって行き過ぎと言うかに明確な基準がないことは、明らかです。民法はその国の慣習が色濃く反映されやすい領域です。確かに、夫婦が異なる姓であることは、昔ながらの日本の慣習とは異なるかもしれません。しかし、言うまでもなく、姓を皆が名乗れるようになったこと自体が明治からであり、昔から何一つ変化しない文化や慣習はあり得ないのです。

  むしろ日本の社会は、「権利と責任が個人に帰属する」ことを自覚し、これを保障する、個人主義が確立されていないことの方が問題なのです。それは、親に寄生する「引きこもり」の多さからも、親権の強さゆえに虐待児童の保護が困難な状況からも、うかがえます。したがって、日本にむしろ必要な「個人主義」の強化のためには、家族のあり方に主体的意志を反映させやすい「選択的夫婦別姓制度」が、不可避の選択だと言えるでしょう。


ショーヴィニズムを憂う

   諸事情により、この数ヶ月間、今の日本の水準で言えば限りなく外部の情報に接さないで過ごしてきました(別に収監されてたとかではない)。その間、ごくたまにテレビなどで中国漁船の映像流出に関するニュースも見聞きしていました。電車のなかで、サラリーマン風の男性二人が、声高に「戦争やむなし」みたいな威勢のいい話をしているのも聞きました。そんななか、よく思い出していたのが「日比谷焼き討ち事件」のことでした。

  日露戦争の講和条約、ポーツマス条約でロシア側に譲歩したことに激昂した市民が日比谷公園に集まり、暴徒と化して内務大臣官邸などを襲撃したこの事件は、近代デモクラシーの暗部を如実に物語るものです。『坂の上の雲』でも描かれるように、バルチック艦隊を破ったとはいえ、日本の戦力がもはや限界に近かったこと、逆にロシアがまだ余力を残していたことを、情報に乏しい国民が知るはずもなかった、というのが大きな原因です。もちろん、情報統制のもとで、そのような情報に事実上アクセスできなかった、ということはあるにせよ、ごく限定的な情報で万事を判断し、政府を「弱腰」と決め付ける大きな国民世論が、後に政府をして更なる冒険主義的な海外進出に向かわせることとなったことに違いはありません。

  現代のアメリカ国際政治学には、「デモクラティック・ピース」論というものがあります。「民主主義国家同士は戦争しない」という議論です。その考えは、歴史上の戦争が全て非民主主義国家同士、あるいは民主主義国家対非民主主義国家のものだった、というデータに裏打ちされています。しかし、それは「民主主義国家になれば戦争を回避するようになる」という意味でないことは、アメリカがイラクを攻撃したことに鑑みれば、明らかです。むしろ、国民の意思が表出されやすい民主主義国家は、深慮や忍耐といった観点からすると、あやういものになりがちなのです。

  「日比谷焼き討ち事件」と今回の映像流出事件の類似性は明らかでしょう。もちろん、現在の日本で即戦争という選択肢が現実的でないことは言うまでもありません。しかし、限定的な情報でもって万事を判断し、政府を裁断する、しかもそれを煽る政治家や言論人がある、という点で、両者は居移します。確かに、例の映像は中国漁船が日本側の船舶に体当たりする様子を克明に記録しています。しかし、それのみを観て憤っている人の中に、「尖閣諸島が日本固有の領土である」ことを論証できる人が、実際にどれだけいるのでしょうか。その前段部分を抜きにして、単純に日本の船舶が傷つけられたと怒っても、それは日本側の正しさを証明したことにはなりません。

  日本人のなかにも、尖閣諸島が中国のものであると主張する人があります。http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html

  ただし、中国が尖閣諸島を事実上の統治下に置いた歴史がない以上、それが中国領であるという主張にも与することはできません。だからこそ、日中どちらのものであるかを明確にする努力こそ必要なのであり、それ抜きのショーヴィニズム、つまり偏狭な愛国主義こそは国家をあやうくするものと言わざるを得ません。もちろん、それは日本側だけでなく、中国側にも同様にして当てはまることなのです。



Xから小沢一郎先生への手紙 2

   沢一郎 先生

拝啓

  大変ご無沙汰いたしております。本日の民主党代表選挙をTVで拝見し、筆をとりました。一言で申しまして、改めて先生の偉大さを思い知った次第です。

  今回の代表選挙について、立候補を表明された時からどうにも違和感を感じておりました。正直申しまして、各種世論調査の結果からみても、どう考えても先生の勝機は薄かったように思います。やはり政治とカネの問題があり、幹事長をこのあいだ辞任したばかりで代表というのは、どだい無理がありました。果たして、今日の開票結果では、党員・サポーター票での圧倒的な差が決定的になりました。そして予想されたより国会議員票が僅差だったのは、世論に押されて軌道修正した国会議員が多かったことを示しています。

  これだけみると、明らかに先生は無理な立候補をしたといえます。「菅総理の反小沢的人事への意趣返しだ」とか、「首相になることで検察審査会や検察を牽制することが目的だ」というようなことも、まことしやかにいわれました。しかし、今日の代表選挙を拝見していて確信しました。そんな小さな話ではなく、先生は民主党のために捨て石になられたのですね。

  先生は、ご自身がヒールとして登場することで民主党のメディア露出度を驚異的に引き上げました。実際、自民党の役員人事はどこかに消し飛んでしまいました。それだけでなく、その悪人面をさらすことで「短期間に首相を何度も交代させるのはよくない」という、消極的ではありますが国民による菅総理への支持を呼び起こしたのですね。いわば、「党内実力者同士の一騎打ち」を演出することで、参議院選挙で大チョンボをやらかした菅総理と民主党を助けたということが、ようやくわかりました。

  「敵を欺くにはまず味方から」と申します。先生の深い意図も知らず、本気で先生を支持した鳩山先生や一年生議員たちをみると失笑を禁じ得ませんが、彼らが自らの立場国家と党を考えての行動だったということは信じたいと思います。ただ、思慮が足りなかっただけなのです。

  何はともあれ、結果は先生の思惑通りでした。しばらくは、菅総理にお任せになって、塀の中でゆっくり静養されるのがよろしいかと存じます。季節の変わり目から、ご自愛いただけますようお願い申し上げます。

                                                 敬具

                                                       X

「中国の脅威=日米同盟が重要」の短絡

   シナ海で日中間の緊張が高まっています。その直接的な契機は、尖閣諸島付近で操業していた中国船の船長を海上保安庁が逮捕したことです。日本側の立場は、ここが日本の排他的経済海域(EEZ)だというもの。しかし、同様に中国側はこの海域の領海権を主張しており、今回の事態に抗議する反日デモが発生したほか、東シナ海海底油田の共同開発に関する取り決めのための協議を延期するなど、強い反発を示しています。領海をめぐる争いは、技術の進歩によって海底資源の開発が容易になるとともに、激しさを増しています。


  この海域の領有に関しては、今後の協議に委ねるしかありません。むしろ気になるのは、今回の事態に対して、「だからこそ日米同盟を重視すべきなのだ」という論調が多く見受けられることです。この種の議論は安全保障の専門家に多いようですが、非常に安易としか言えません。日本の「安全保障の専門家」は、戦後日本における安全保障の基本路線である日米同盟を前提としているため、「アメリカか、中国・ロシアか」という二元論に陥りがちです。


  確かに、中国の軍事力は周辺地域で不安感を高めています。経済成長にともなって増大する軍事予算は、既に日本を上回る規模になっています。従来、歩兵中心の人民解放軍は大陸の外での展開に限界がありましたが、海軍・空軍の近代化は中国の軍事的プレゼンスを周辺国に意識させざるを得ません。軍事予算の透明性が低いことも、「中国脅威論」に拍車をかける一因になっています。そして、日本が軍事力でまともに中国と勝負することは、もはや困難と言わざるを得ません。


  しかし、その状況下で日米同盟の重要性をいうことは、アメリカに対する日本の立場をますます弱めるものです。日米同盟は、その片務性からいっても、構造的に日本を従属的な立場に置くものです。そのこと自体は、日本の「専守防衛」の観点からすればやむを得ません。しかし、外部に脅威があるから守って欲しいという意図があけすけに見える状況で、ギクシャクしてきたアメリカとの関係を改善すべきと主張することは、その従属性を高める効果をもたらします。「とにかく強い者にくっついておけば安全」というスネオ的発想には、国家としての独立性や戦略性の片鱗すらみられないと言えるでしょう。


  もちろん、中長期的にはともかく、少なくとも短期的には日本の安全保障においてアメリカ軍の果たす役割は否定できません。そのなかで日本の従属性を少しでも緩和するために、今回の事態の処理において重要なことは、一つには、アメリカの後見を期待する以前に、中国と直接交渉することです。日本との摩擦が経済的な不利益を生むことは、もはや中国首脳も否定できないはずです。もう一つは、「日本を守ってもらうためにアメリカと仲良くする」ではなく、「アメリカに日本を守らざるを得ない状況にもっていく」ことだと思います。その意味で、対アメリカ貿易額そのものは中国に追い抜かれたとしても、技術協力や人的交流によってアメリカとの多元的な関係を築くとともに、意図的にでも「西側の一国」であることを強調して、アメリカに日本を「切らせない」ようにすることが重要になってくるのです。

マニュフェストは遵守すべきか

   昨日、民主党の代表選挙に小沢氏が出馬を表明しました。鳩山前首相もこれを支持する模様です。トロイカ体制でやってきた菅、小沢の両氏が代表選挙で激突する様相に、民主党内の不協和音をみる見解が多くきかれます。特に幹事長辞任後、菅体制のもとで小沢氏があからさまに冷遇されてきたことが、小沢グループの反執行部的な姿勢を強めさせるきっかけになったといわれます。

  ところで、今回の代表選挙は、自民党時代の総裁選挙と同様に、事実上総理大臣を選任するものとなります。その意味で、民主党議員による選挙に対する熱の入れようも、野党時代とは異なることは当然です。しかし、そのなかで財政規律を重視する菅首相に対して、昨年の衆院選マニュフェストの遵守を名目に、「子供手当」の満額支給に代表されるように、歳出拡大を求める意見があることには、首を傾げざるを得ません。

  「マニュフェストは国民との契約であり、それを守らないことは契約違反だ」という主張は非常に分かりやすいものです。しかし、既に今年度予算は過去最大の規模に肥大化しています。その一方で、事業仕分けなどによる歳出削減に限界があったことは、衆目の一致するところです。契約や約束を守ることは大切です。しかし、約束にこだわって国民生活が破綻すれば、本末転倒です。

  第一、約束にのっとって政策を実施するだけなら、政治家はいりません。「国民主権」の原則のもとに、国民の代表たる政治家は、その知見に基づいて国家統治を行うことを委任されているのです。約束をひたすら守るだけなら、政治家自身の知見は約束事の内容を作るだけでよくなり、あとは約束違反がないように、有権者からひたすら管理されるだけになります。統治者が日常的に被統治者の同意に基づいて統治を行う様式は「人民主権」と呼ばれます。しかし、被統治者の意志が一つになることはあり得ないだけでなく、日常的に統治者の行動を管理することは不可能です。フランス革命後の国民公会時代や、ソ連などに代表されるように、歴史的に人民主権は統治者による独裁に容易に転化してきました。

  この観点から、マニュフェストの実施において政治家自身がその知見に基づいて修正を施すことは、現実の財政状況に照らしてやむを得ないだけでなく、憲法に定められている国民主権の理念になんら反しないといえます。むしろ、「昨年の衆院選勝利=マニュフェストに国民が賛意を示した」という論理のもと、逆にマニュフェストを人質に政策実施を強行することは、政治家が自らの責務を放棄することに他ならないのです。


家族崩壊がもたらす意味

  の一ヶ月以上、引っ越しを決意して決行して、さらに後始末をするのに追われていて、全く更新できませんでした。その間、あるいはその直前から、世の中ではいくつかの話題が生まれ、その余波は今も続いています。特に東京足立区での事件を皮切りとする、100歳以上の「親族も行方が分からない高齢者」と、大阪での育児放棄による遺棄致死事件は、大きな社会的関心を集めたものといえます。この二つの出来事・事件は、「家族の崩壊」という言葉で形容されているように思います。


   しかし、これらの事件に関する多くの論調が、個人主義の蔓延に起因する家族の崩壊を憂いていることには、違和感を感じざるを得ません。もちろん、高齢の親の行方を知らないことは、それだけで首を傾げざるを得ないことですし、まして年端のゆかない子供の育児を「自分の時間が欲しかった」という理由で放棄して死なせることは、非難されてしかるべきでしょう。しかし、そこでむしろ問題となるのは、資本主義経済や民主主義の発達によって個人主義が不可逆的に広がりをみせるなかで、法制度や社会システムがそれに追いついていない、ということなのです。


   欧米諸国の経験では、個人の権利意識は、17世紀以降の国家への権力集中と並行して発達しました。それまでヨーロッパでも、教会、地域社会、職業組合、そして家族といった、国家と個人の間にある「中間団体」による私生活への拘束力が絶大でした。なかでも家族間の暴力や収奪は、ローマカトリックによる「家庭の不可侵性」を理由に放置されていたのです。個人が自らの権利を確保することは、これら中間団体による人権侵害から法や裁判によって国民を保護する国家の発達があって、はじめて可能になったのです。 


   今回の二つの事件、特に大阪の事件でよくいわれるのは、「親権の壁」です。しかし、これは今に始まったことでなく、児童虐待で常に問題となる事柄です。親が子供を保護・養育する主たる責任と権利をもつことは、前者が後者を好き勝手に扱ってよいことを意味しないのは、当然です。子供の人権を守るためには、家族という中間団体でなく、国家、すなわちこの場合で言えば児童相談所や警察、により大きな介入権限を与えるべきなのです。行方不明の高齢者に関しても、家族から「元気だ」といわれて、それ以上確認できない制度・システムにこそ問題がある、といえるでしょう。 


   いずれにしても、日本の社会システムは「家族の情愛」を与件として成立していますが、それが与件である保証がない、という前提を受け入れる必要があるのではないでしょうか。もちろん、家族だけでなく、個人間の関係に人情が溢れている社会は理想かもしれません。しかし、TVアニメの「サザエさん」が年を追うごとにウソ臭くなっていくように感じられるのは、私だけでしょうか。既に失われつつある美徳に郷愁を覚えることと、現実の社会に適応した制度を構築することは、両立できるはずです。日本の問題は、ともすれば前者に社会全体の風潮が流れていることにあるように思うのです。

2010年参議院選挙:みんなの党の急伸とその今後

   昨日の参議院選挙での与党が敗北しました。改選議席のうち、与党の獲得議席は民主党44、国民新党0。非改選議席を含めても合計で110議席で、過半数の122議席にとどきません。これに対して野党は、自民党51、みんなの党10、公明党9、共産党3、社民党2、たちあがれ日本1。特に、改選第1党になった自民党とともに、みんなの党の急伸が目立ちます。


  与党が勝敗ラインを下回ったことは、この11ヶ月間にあらわになった政権の迷走ぶりからすれば、さほど不思議ではありません。菅首相の就任で一旦持ち直した支持率が、わずか2ヶ月で約20パーセント下落したことからも、それはうかがえます。その一方で、党勢を伸ばした自民党とみんなの党は、もとは一つであったとはいえ、現在ではその主張内容や支持基盤に大きな違いがあります。「政権の迷走ぶり」が与党大敗に結びつき、そのカウンターバランスとして自民党が党勢を回復させたとしても、なぜみんなの党が浮動票の受け皿になったのでしょうか


  よくある論評に「消費税導入の提案が唐突過ぎた」ことが、与党大敗の一因といわれます。確かに、昨年のマニュフェストで「次回の衆議院選挙までは消費税を引き上げない」としていたのが、菅首相の強い意向で一転して選挙の最大の争点となったことは、引き上げの是非とは別の次元で、拙速の感を否めないものでした。しかし、やはり消費税の引き上げを主張している自民党が改選第1党となったことは、有権者の多くが消費税引き上げに必ずしも反対していないことを示しています。その意味で自民党は、財政赤字に歯止めをかけるために消費税率アップも止む無し、という有権者の受け皿になったという側面があります。

  
  とはいえ、当たり前ですが消費税率のアップに全員が同意しているわけではありません。支持、不支持は分かれるでしょうが、構造改革路線を堅持するみんなの党の「消費税の増税よりコスト削減」の主張は一番わかりやすかったかもしれません。特に東京、千葉、神奈川などの都市部で、20〜30歳代を中心に得票を重ねたことは、社会保障や公共事業と縁遠い一方で、企業や労働組合といった既存の組織に糾合されにくい人々の自由主義的な要望にマッチし、そもそも「大きな政府」を望まない人々の受け皿になったといえるでしょう。やはり消費税率のアップに反対していた共産党や社民党が議席を伸ばせなかったことは、労働組合や既存の団体による集票力の停滞とともに、このような階層の無党派層への浸透を図れなかったことを示しています。


  いずれにせよ、今回の選挙でみんなの党が台風の目になったことは間違いありません。ただし、いわゆる無党派層のうち若い世代を中心に支持者を伸ばしたことは、今後の行動の制約要因ともなります。つまり、二大政党との差異化を図って勢力を伸ばしたわけなので、これらとの連立を組んで政権に入ることは困難です。「差異化」という最大の武器を失うことになるからです。11ヶ月前の国民新党と異なり、固い支持基盤があるわけでないので、アピールポイントの喪失が議席に反映されるスピードも早くなります。その意味で、政権・与党とケース・バイ・ケースの協力と対立を繰り返しながら、みんなの党は万年野党の道を歩まざるを得ないと考えられるのです。


「郵政の再国有化」は民主主義の否定か

   ある雑誌で、竹中平蔵氏が「郵政の再国有化は民主主義の否定」と主張していました。竹中氏に限らず、この主張は時々聞きます。その主な根拠は、「2005年のいわゆる『郵政解散』で民営化の是非を国民に問い、それで自民党が勝ったのは、つまり国民が民営化を支持したということだ。それを覆すことは、民意に反する」というものです。しかし、果たしてそうなのでしょうか。


  「郵政の民営、国営のいずれがベターか」という政策上の問いをひとまず置くと、その再国有化が民主主義に反する、という主張は成立しないといえます。まず、日本をはじめとする先進国の代表制民主主義(間接民主主義)体制のもとでは、主権者は「国民」です。「国民」とは国民個々人を指すのではなく、その総体を意味します。そして、政治家は「国民の代表」です。代表制とは、「国民のなかで見識の優れたものを選んで統治を任せる」制度です。実際には「?」という人も多く、「見識が優れている」かどうかは保証の限りでありませんが、少なくとも制度の理念としてはそういうことになっているのです。


  政治学のABCであるこの前提に立つと、たとえ当時の自公政権が郵政を主たるテーマにしたとしても、2005年選挙は「国民の代表」を選ぶものだったことにかわりはなく、決して「郵政民営化の是非をテーマとした国民投票」ではありませんでした。つまり、他の選挙と同様に「統治を委任する対象」を選んだ選挙に過ぎず、その選挙の結果生まれた政権による決定内容が後に不都合になれば、次回以降の選挙で別の候補に投票することを前提としていました。言い換えれば、2005年選挙で国民は「郵政の民営化」の恒久化に同意したわけでないのですであるならば、「国民の代表」が実施した郵政の民営化を、時間を空けて再び「国民の代表」が国営に戻したとしても、それは代表制民主主義の原則に反するものではない、ということになります。


  付け加えれば、代表制であることは、政治家は国民から「統治を委託」されているのであり、その決定が常に国民からコントロールを受けることを認めるものでありません。常に国民からの要望を反映させるのであれば、それは政治家が国民の「代表」でなく「代理」になることを意味します。これは、共産主義的な人民民主主義の考え方ですが、実際には多様な国民の意見を政策決定に逐一反映させることは不可能で、結局は「政策決定者の意見が国民の意見である」という倒錯した状況、言い換えれば独裁が生まれます。


  近年では、「民意」という言葉が独り歩きしているようです。くどいようですが、いかに民主的な政治体制であったとしても、国民は政治家を逐一コントロールできるわけでないし、独裁の危険性に鑑みるならば、そうあるべきでもないのです。まして、過去のある段階の政権が決定した内容を、現在の政権が覆してならないという主張が成立するなら、ハンセン病患者の隔離政策のようにあらゆる過去の過失を修正できないだけでなく、過去の有権者の方が現在の有権者より優位に立つことになります。ですから、「郵政の民営を維持すべきか、国営に戻すべきか」の議論はさておき、その見直しすら許さないという主張は、それこそ代表制民主主義の根幹を揺るがすものといえるでしょう。


消費税増税を考える

   院選を控え、消費税が議論になっています。菅首相の「自民党の10パーセントを一つの参考にする」という発言に対して、谷垣総裁は「マニュフェスト違反」を追及する構えです。民主、自民の両党は、政策で一致しながらも、選挙を念頭に置いた差異化の意図から、二大政党は必ずしも足並みが揃っていないようです。また、公明党、国民新党、社民党、共産党、みんなの党などは、現段階での消費税引き上げに慎重な姿勢を崩していません。

  
  しかし、10パーセントかどうかはともかくとして、基本的に消費税は引き上げるべきです。第一に、税収より国債発行に依存した財政状態は、将来的な負担を大きくするばかりか、海外投資家にとってのカントリーリスクとなります。OECD FactBook 2010によると、日本の政府債務の対GDP比(2008年)は172.1パーセント。これはOECD加盟国(=先進国)中でダントツの第1位。ちなみに、この時点での第2位はイタリアで114.4パーセント、OECD加盟国の平均は78.4パーセントでした(実はギリシャが統計をごまかしていて、イタリア以上の数値だったことが今年発覚しました)。例えその内訳のほとんどが国債であったとしても、いずれ返済しなければならないことに違いはなく、返済額の対歳出比が増えるほど、予算配分はより柔軟性を失うことになります。


  さらに政府の借金が大きいだけでなく、税収の比率が低いことも日本の特徴で、税収の対GDP比は28.3パーセント(2007年)。日本より低い国は韓国、トルコ、チリなどごくわずかで、OECD加盟国の平均は35.8パーセント。税金が高いように感じていても、世界レベルでみたとき、日本の税収がいかに少ないかがわかります。外国のスタンダードが常に正しいとは限りませんが、歳入を安定的に確保して財政を健全化させなければ、社会保障も何もあったものではありません。


  これに対しては、「無駄遣いを削減することを優先すべき」という意見もあります。しかし、行政の無駄をなくすことはもちろん重要な課題ですが、「行政の無駄を徹底的に排除するまでは消費税引き上げは一切認めない」という主張では、なぜ歳入増加と歳出削減を同時並行でやってはいけないのかを説明できません。仮に増税した後で無駄な歳出を大幅に削減できたなら、条件次第ではそのときになって減税してもいいはずです。それに、日本の社会保障制度では、所得の低い人ほど優遇されるわけですから、消費税が逆進性が高いといっても、相殺効果もあるわけです。


  さらに、これら財政の観点以外にも、さほど所得の高くない一生活者の視点からみても、食品などに対する免税措置や還付といった制度設計を条件に、所得税や住民税などの直接税を引き下げて消費税を増やすべきといえます。非正規雇用で生計を立てるひとにとって、特に前年度の所得を基準に徴収される住民税は、正規雇用者より大きな負担感をもたらします。なぜなら、昨年度より所得が高いという保障はないからです。経済環境の変動が大きい現代にあって、各人の、その時々の所得水準に照応した徴収を可能にする点で、消費税などの間接税は、より適当な手法といえるでしょう。


NHK世論調査にみる菅政権への期待とその実相

   新政権に対する、NHKの世論調査の結果が出ました。それによると、菅政権を支持する人は61パーセントだったのに対して、支持しない人は23パーセント。先月の回答で、鳩山政権の支持が21パーセント、不支持が68パーセントだったことから比べると、支持の回復率は40パーセントにのぼります。


  この回復率がいかに大きいかを、過去の自民党政権時代のものと比較してみます。2007年9月、末期の安倍政権に対する支持率は、【支持=34パーセント/不支持=55パーセント】でした。安倍元首相の退陣と福田政権発足を受け、翌10月の内閣支持率は【支持=58パーセント/不支持=27パーセント】にまで回復しました。それでも、支持の回復は24パーセント。2008年9月における福田政権から麻生政権への交代では、【支持=20パーセント/不支持=72パーセント】から【支持=48パーセント/不支持=40パーセント】と、支持の回復は28パーセント。これらに照らすと、今回の内閣支持率は、鳩山政権初期のものに及ばないことは当然としても、その回復率は、まさに驚異的とすらいえるものです。


  この回復は、概ね鳩山前首相に対する不信感の裏返しといえます。それは、普天間基地の移設問題についての評価からうかがえます。菅首相が「普天間基地を名護市に移設するとした日米合意に基づいて進める」としたうえで、「沖縄の負担軽減にも全力をあげたい」としていることへの評価は、「大いに評価する」が16パーセント、「ある程度評価する」が47パーセント、「あまり評価しない」が21パーセント、「まったく評価しない」が7パーセントでした。鳩山前首相の結論と基本的に同じであるにもかかわらず、その評価が大きく異なるのは、一連のドタバタによって醸成された前首相個人に対する不信感によるといえるでしょう。


  その意味では、今回の支持率の回復は、きわめて気まぐれなものともいえます。あれだけ大騒ぎしておきながら、基地を沖縄に集中させる害悪について、もはや考えなくなったことがうかがえます。一方、来年度以降、子供手当を1人当たり月額2万6000円を満額支給するのが難しいと長妻厚労相が発言したことについては、「大いに納得できる」が40パーセント、「ある程度納得できる」が30パーセント、「あまり納得できない」が15パーセント、「まったく納得できない」が10パーセントでした。ここからは、目先の子供手当より財政収支の改善を優先させるべきと考える回答者が多いことがわかります。この観点からは、負担を恐れる選好が読み取れ、その点で基地問題の表裏一体となっているのです。


  さて、前回の衆院選における民主党マニュフェストの目玉の一つであった子供手当を縮小するべきと考えながら、その一方で過去の自民党政権時代にみられなかったほど、任期途中での首相交代を支持する回答者が多かったことは、何を意味するのでしょうか。そこからは、「もう一度、民主党に期待してみよう」という思考を見出すことができます。裏を返せば、それだけ自民党政治に対する拒絶反応が根深いということができそうです。しかし、その期待は、少なからず自分自身の負担を回避することに関心の大半がある点では、大きな変化はないということもいえるのです。有権者の側に、負担をしないで便益を期待する「ただ乗り」根性に変化がないのであれば、全く別の意味であっても、街頭インタビューでよく言われる「誰がやっても同じ」になるといえるのです。



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