スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 2014.03.05 Wednesday
  • -
  • -
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

中国のアフリカ進出から日中関係を顧みる

 日、アフリカ調査から帰国しました。以前から触れていたように、今回の調査は中国のアフリカ進出を観察することが、大きな目的でした。例えばナミビアでは、2月に訪れたボツワナの2−3倍はあろうかというチャイナ・マーケットがありました。キリスト教徒が多くを占めるナミビアでは、ヨーロッパ風に日曜は多くの商店が閉まっているのですが、ここはナミビア人を含む多くの客が訪れていました。




その急激かつ大規模な進出は、驚くほどのスピードです。2008年に国交を樹立したばかりのマラウィでは、国会議事堂だけでなく、そのすぐそばに中国の巨大なホテルがいくつも建設されています。また、繁華街では中国人商人がビジネスに勤しんでいます。従来、南部アフリカ諸国では、南アフリカから輸入した工業製品が広く普及していましたが、最近ではより割安な中国製品が市場を広げているのです。

ただし、一方で、「中国製品は安いがすぐダメになる」という評価も、既に定着しつつあります。件のマラウィの国会議事堂は、建設から数年しか経っていないのに、既に内部の壁にはひびが入っているとのことでした。






そして、中国の進出に対する警戒感もまた、既に広がりをみせています。マラウィでは、中国人商人は都市部以外でのビジネスが法律で規制されていますが、実際には農村部でも商売を行い、既に検挙された者もあるとのことでした。しかし、中国人商人の多くは国内の延長としてアフリカを捉えているようです。つまり、中国国内で官僚や警官へのワイロが当たり前であるように、問題があるとカネで解決するという慣行が、中国人商人の進出にともなって拡大しているといわれます。

もちろん、アフリカでも以前からワイロは多くありました。私自身も、学生時代の旅行のときを含め、アフリカ人公務員に何度ワイロを要求されたかは、数え切れません。しかし、中国企業の進出以来、腐敗に拍車がかかっていると、マラウィでは研究者も一般市民も口を揃えていました。

もちろん、人間世界において、完全に善の存在はあり得ません。中国のアフリカ進出にともなう弊害を指摘する欧米諸国にしても、これまでアフリカの資源をいいように利用してきた自分たちの行いを、全くなかったかのように振舞うところは、中国と大同小異です。また、アフリカ側が全くの被害者なのかというと、実際にマラウィが中国と台湾を天秤にかけて、結局前者との関係を選択したように、弱者なりに強者を選択しているところがあります。結局、その時々の力関係や利益によって各自がパートナーを入れ替えていることは確かです。

とはいえ、中国という新たなプレイヤーの登場が、アフリカの貧困や格差といった問題に拍車をかけていることもまた確かなのです。そのなかで、その文化や習俗がアフリカで少なからず憧憬の対象となる欧米人や、自動車をはじめとする「高品質な工業製品」や青年海外協力隊による現地に溶け込んだ国際協力のイメージの強い日本人と違い、多くのアフリカ人からみて中国人はビジネス以上の関係には映っていないようです。また、ほとんどの中国人自身も、アフリカをビジネスの現場としてしか捉えていないようです。このようなドライな関係は、少なくとも市民レベルにおいて、相手への不満をもちやすいものになりがちです。

今回の旅程の最中、中国でかつてない反日デモが吹き荒れたことは、アフリカでもテレビで放送されていました。旅程の最後、ヨハネスブルグから中国人ばかりの飛行機に乗り、さらに北京で一泊したときには、空港そばのホテルに宿泊したこともあって、実際には身の危険を感じるようなことは何もありませんでしたが、それなりに緊張感を味わいました。

今回の反日デモは、尖閣諸島の問題が直接的な引き金になったことは言うまでもありませんし、さらに歴史認識や反日教育といった背景も無視できません。しかし、日中関係が経済分野で先行したドライなものであることもまた、これに拍車をかけていると思われます。「戦略的パートナー」という表現にあるように、「お互いの経済的利益を考えて、少なくとも表面的にはケンカしないようにしましょう」という関係は、お互いの顔と名前を知っている両国の政治家や官僚同士の間では容易に理解できても、日常的に相手国の国民と接触する機会が乏しい一般市民の現実感覚からは程遠いものです。

経済的に不可欠の関係と頭で知りながらも、それ以上の関係になっていないことが、両者の対立を噴出させやすい背景といえるでしょう。これは、アフリカと中国の関係にも共通するものです。

その一方で、中国版ツイッターで動員がかけられ、日本企業に対する投石や、日本市民に対する暴行など、無軌道な暴力行為が頻発する状況には、少なからず現在の中国の社会状況が反映されているようにみえます。今回のデモの映像からは、富裕層・中間層や中高年がこれに参加している様子はほとんど確認できず、やや所得の低い階層や若年層が、そのほとんどを占めているようにみられます。日本企業で雇用されている人が、どれだけこのデモに参加しているかは疑問です。

経済が減速し、格差が拡大し、政治的には抑圧されるなか、「反日」という錦旗を掲げることで、日常の憂さを晴らしている側面が大きいとすれば、これは一昨年のロンドン暴動のように、世界レベルで蔓延している将来への不透明感や現状への無力感に起因する、「漠然たる不満」の発露の一表現とみることもできます。そして、先述のアフリカの状況を思い起こせば、既に各地で発生している中国企業への襲撃といった「不満の発露」が、今後より一層大きくなることは、ほぼ確実と思われるのです。

「アフリカらしいアフリカ」マラウィにて

 砂漠のナミビア、高原のレソトを経て、マラウィにきました。ここにきて、ようやくアフリカらしいアフリカにきたように思います。緑が多く、湿度もあります。ガサガサだった唇も、元に戻りました。ただ、日本は連日猛暑日のようですが、汗をかくほどでもなく、比較的爽やかです。

この国ではいま、通貨切り下げの影響もあり、通貨クワッチャの信用が薄らいでいます。ホテルや車でも、クワッチャで値段が言われますが、「アメリカドルでいいか」と聞くと、ほとんどがOKです。実は、今のところ一度もクワッチャに触れたことがありません。

以前にも触れましたが、今年4月に死亡したムタリカ前大統領のもとでは、特に2009年の選挙勝利以降、政権の取り巻き連中による腐敗が露骨になりました。財政収支の悪化の一方で、ムタリカ政権はIMFなどが求める、通貨レートを実勢価値に近づけるための切り下げを、輸入に不利になるとして拒否し続けました。その結果、IMFやイギリスなど欧米諸国は援助を縮小。予算の約三割を援助に依存する貧困マラウィの経済は、あっという間に干上がってしまったのです。外貨不足と燃料不足が市民生活を疲弊させ、聞くところでは今年4月まではガソリンスタンドに長蛇の列ができていたそうです。

このエピソードは、いろんなことを思い起こさせます。まず、ギリシャの例をみれば、融資条件である緊縮財政の履行に、IMFがいかに慎重に対応してきたかが分かります。これに引き換え、いかに融資条件が満たされていないとはいえ、そしていかに国民の人権が侵害されているとはいえ、マラウィに対してあっさり融資を打ち切ったところに、金融支援が最終的に政治力学に左右されることが見て取れます。

他方、財政赤字の問題は、日本も他人事ではありません。財政赤字と援助・融資の停止に直面したムタリカ政権は、赤字ゼロ予算(Zero Deficit Budget)と銘打って、赤字を増税と支出削減で乗り切ろうとしました。これが市民生活をより一層疲弊させ、政権に対する不満と抗議運動の大きな背景になっていったのです。折りしも消費税率の引き上げが実施され、震災という不確定要素はあるものの、国債への依存は軽減されていません。新たな政治勢力の台頭を求める気運が高まることも、理解できないではありません。しかし、為政者によって政治が変わることがあり得るのと同様に、誰が最高責任者になっても変更がほとんど不可能な外部環境がそれぞれの国にあることもまた、確かなのです。ムタリカ死亡後、大統領に就任したバンダ政権のもとで、援助依存体質に大きな変更がみられないことは、野田政権のもとでも結局国債依存が続く状況にダブって見えるのは、私だけでしょうか。

しかし、外部環境による制約を嘆いてみても、そこには非生産的な悲観主義以外のものは生まれません。昨日会った、日本の援助関係者や、アメリカのNGO、さらにマラウィの研究者たちは、一様にマラウィの基幹産業である農業の重要性を強調し、たとえ資源に乏しく、外部からの投資に恵まれなくとも、また現在は貧困国であろうとも、長期的にその社会の発展に希望をもって、それぞれのミッションに取り組んでいました。今の日本社会は、個人も企業も、果ては政府に至るまで、極めて短期的な利益にのみ目がいきがちです。目標を定め、それに向けて地道に努力することは、日本の美風であったように思います。それを再び取り戻す必要性を、マラウィは教えてくれたように思います。

天空の王国レソトからの便り

 レソトに着くや、「何もない」が第一印象でした。南アのヨハネスブルクから飛行機で50分ほど。着いた先はモシェシェ一世国際空港。国際空港なのに、着いた時滑走路に停まっていたのはセスナが一機だけ。イミグレーションもおばさん一人でハンコをついている、日本のローカル線の駅を思わせるものでした。写真に撮れなかったが残念でなりません。

首都マセルも、かなりの田舎町で、目に付く一番高いビルは、VODACOMの6~7階建てのもの。自動車に混じって、たまに馬車が通り過ぎるのが印象的でした。

とはいえ、マセルもまた、娑婆の風と無縁ではありません。インフラ整備も遅れてはいるものの、近代的な建物があちこちで建設中で、王宮や国会議事堂も立て替え工事中でした。そして、そのいずれもが中国企業によって受注されているものでした。果ては、マセル郊外にある工場群を指して、ドライバー曰く、「全部中国企業だ」とのことでした。そして、昨晩の夕食は、中華料理屋で済ませた次第です。

見聞きした限り、国交もないせいか、他のアフリカの国のように、巨大なチャイナタウンはレソトにはまだないようです。しかし、この高原の小国にまで、中国企業の進出の波は及んでいます。

他のアフリカ諸国で、中国企業は当初、かなり好意的に迎えられていました。欧米諸国に抑えこまれてきたアフリカからすれば、中国はそのバランスをとってくれる存在に映ったのです。しかし、中国企業が(中国国内でそうであるように)労働関係の法令を遵守せず、最低賃金、企業年金、有給休暇などを無視して雇用することに、アフリカ内部でも批判があがり始めています。日本のブラック企業で働く人と同様、失業率が高いなかでは、それでも中国企業で働かざるを得ないことが、より一層アフリカ人のフラストレーションを高めていると言えるでしょう。

その意味で、レソトはまだ反中感情が充満する手前なのかもしれません。しかし、その存在感の大きさは、ほんの数日の滞在でもはっきり認識できるほど大きなものです。昨日のドライバーは、運転し始めてしばらくした時に、こちらが中国の印象を尋ねた時、「雇用や商品をたくさんもってきてくれる」「中華料理は悪くない」と好意的な感想を言っていました。しかし、だいぶ時間が経ってから、例えば人口200万人のボツワナには、既に3万人の中国人がいる、中国人が英語を話そうとせず、自分たちだけのエリアを作ると聞き、黙ってしまいました。

接触が密接になるほど、負の側面が大きく見えてくるのは、国同士の関係でも、個人間の付き合いでも、同じことです。その意味で、近い将来、レソトでも反中感情が高まることは、ほぼ間違いないことと予想されるのです。

アフリカ調査2012:マラウィ篇

アフリカ調査2012  マラウィ篇

今日、アフリカに出発します。一旦北京に入り、そこで南ア航空に乗り換え、ヨハネスブルクに向かいます。その後は、ヨハネスを拠点に、ハブ・アンド・スポークの要領で三カ国を往復することになるのですが、なぜ一度中国に寄るかと言えば、それが価格的に安いからです。今、北京だけでなく、上海や広州からも、毎日のようにアフリカ各地への直行便が出ています。それは取りも直さず、中国とアフリカの関係の深まりを如実に表していると言えるでしょう。

今回の三カ国のなかで、最後の訪問国マラウィは、その典型です。前にも触れましたが、南アフリカは冷戦時代、強硬な反共産主義国家でした。アパルトヘイト体制のもとであらゆる権力を一部の白人が握っていたことに鑑みれば、それは不思議ではありません。そして、その影響を色濃く受けざるを得なかった周辺の小国のなかに、これに追随した国があったこともまた、不思議ではありません。マラウィもその一国で、冷戦時代から一貫して台湾を正当な中国国家として承認していました。しかし、そのマラウィが、2007年に方針を変更し、中華人民共和国との国交樹立に至りました。

マラウィが中国を承認した結果、台湾と国交を持つアフリカの国は、ブルキナファソ、サオトメ・プリンシペ、スワジランド、ガンビアの4カ国だけになりました。地理的にアフリカに区分される国が55カ国(日本が国交を持たない西サハラ、サハラ・アラブ民主共和国を含む)あることからすれば、「一つの中国」をめぐる中台のアフリカ争奪戦は、ほぼ中国に軍配が上がったとみていいでしょう。

どの国も、基本的に自国の利益を最優先にすることは、言うまでもありません。アフリカ諸国も、台頭著しい中国との関係を選んでいると言えます。中国のアフリカ進出といえば「資源の確保」が有名ですが、しかしマラウィは最近でこそウラン鉱山の開発が始まっているものの、GDPの60パーセント以上は農業が占め、さらに一人当たりGDPは300ドルを下回る貧困国です。そのマラウィの方針転換は、中国の対アフリカ・アプローチが既に、資源確保だけでなく、自国製品の販売網の構築や、道路や橋といったインフラ整備への投資など、多方面に渡るものになっていることを意味します。

ところで、このマラウィでは昨年から今年にかけて、大規模な反政府抗議運動が広がりをみせました。政府の腐敗と、それによる政府要人の取り巻きに対するバラマキがもとで、マラウィ政府の財政赤字のレベルが、IMFからの融資条件を満たせなくなってしまいました。これは増税、公共サービス料金の値上げ、さらに主要産業である農業への補助金の圧縮をもたらし、市民の生活は一気に苦しくなったのです。これに並行して、ムタリカ大統領(当時)はメディアへの検閲を認める法律を通すなど、独裁化する傾向を強めました。昨年7月20日には、これに抗議するデモ隊が警官隊と衝突し、20名以上の死者を出す事態になりました。

ところが、事態は思わぬ形で決着が付きました。今年4月、ムタリカ大統領が病気で急逝。憲法の規定により、大統領に就任したのは、2011年の初めにムタリカとの確執によって与党・民主進歩党を追われ、野党・人民党を結成していた、ジョイス・バンダ副大統領でした。マラウィでは決して多くない、大卒で海外で働いた経験もある女性であるバンダは、議員の時代から、特に貧困層の女性や子どもの生活環境の改善や法的保護に熱心で、その人気と知名度から副大統領に据えられていたのですが、ムタリカによる人権侵害に批判的だったため、与党から追われていたのです。しかし、最高裁がバンダの副大統領職は保障されると判断したため、ムタリカ大統領の急逝によって、大統領に昇格できる立場は保持し続けていたことが、アフリカで二番目の女性大統領の誕生を可能にしました。

バンダ大統領の就任で、昨年来の政治変動は、ひとまず収まったようです。バンダ政権は、アフリカでは珍しい、同性愛者の権利を法律で保障するなど、人権保護に積極的な姿勢をみせており、国内からの支持も総じて高いようです。

しかし、問題はこれからです。そのキーになるのが、やはり中国との関係です。ナ2007年にマラウィが中国との国交を樹立したことは既に述べましたが、その立役者の一人が、当時外務大臣だった、今のバンダ大統領なのです。国交樹立により、マラウィには中国企業が相次いで進出しています。遠からず、ナミビアやレソトのように、中国人ビジネスマンと現地の人々の摩擦は顕在化すると見込まれます。中国企業は進出先の国の労働関係の法令を守らないことが稀でなく、最低賃金が支払われない、残業代が支給されない、危険な現場で安全が確保されない、といった批判がよく聞かれます。マラウィでそのような事態が表面化した場合、中国との国交樹立を推し進め、他方で「人権保護」をキャッチフレーズにしているバンダ大統領の立場は、一気に難しいものになるでしょう。

今回のマラウィ訪問は、遠からず訪れるであろう、次の政治的摩擦のプレステージを観察することが、最大の目的になってくるのです。

アフリカ調査2012:レソト篇

  ソトは南アフリカに囲まれた、総面積で約3万平方キロと、九州より一回り小さな、高原地帯の国です。レソトとは、「ソト語を話す人々」という意味です。この地に昔から暮らしていたソト人は、高原という地の利も活かして、周囲に暮らすコーサ人や、イギリス系白人に追われて新天地を求めたオランダ系白人(アフリカーナ)たちの来襲にも耐えましたが、ついに1868年にイギリスの支配下に入りました。イギリス保護領バソトランドが、1966年に独立したのが、今のレソト王国です。

  独立以来、立憲君主制をとるレソトは、王家と議会の対立が続き、これまでに2度のクーデタを経験をしてきました。このレソトでは、反国王派の議員や軍高官により、1995年に一度は退位させられたレツィエ3世が、1996年に復位して以来、形式的には議会政治が定着してきました。1998年、2007年に下院総選挙が行われたのですが、それ以前から権力を握っていた政治家や軍高官を中心とする「レソト民主会議」(LCD)が万年与党として権力を独占してきました。

  しかし、2012年5月の総選挙で、ついにLCDは新設の野党「民主会議」(DC)に破れ、120議席中62議席から26議席にまで減らしました。しかし、第一党となったDCも48議席にとどまったため、2006年からLCDと敵対してきた野党で、今回30議席を獲得した「全バソト会議」(ABC)と連立政権を組むことで、レソト史上初の平和的な政権交代が実現したのです。

  ただし、この政権交代は、極めて政治闘争の色彩の強いものでした。LCD政権のもとで1998年から首相の座にあったP.モシシリに対して、与党LCD内部で長期支配への不満が高まり、近年は党内の亀裂が深刻化していました。そこに、2010年末以来の「アラブの春」の影響で、生活苦に由来する市民の抗議活動が頻発していました。

  これによって党内の反対派が勢いづいていくなかで、モシシリは自らLCDを抜け、DCを創設して総選挙に打って出たのです。また、今回第二党となったABCの創設者T.タバネは、やはり2006年にLCDを抜けて新党を創設しています。いわば今回の選挙は、LCD内部の権力闘争に敗れた者たちが党外に飛び出し、しかし首相としての「現職の優位」を活かして選挙に勝った、と総括できるでしょう。

  ナミビアのSWAPOの一党支配に関して、「政権交代は民主主義の一つの目安だが、それがなければ民主主義と呼べない」と書きました。レソト2012年選挙もまた、別の角度からこの命題を示していると言えるでしょう。

  確かに政権交代は実現しました。しかし、それは特定の有力者が政党を自らの政治的道具として活用した結果なのです。また、このような政権交代は、「政策レベルでの対立軸ごとの政党間対決」が将来的に生まれるために必要なプロセスなのか、あるいは有力者同士の個人的な友好関係や敵対関係に基づく派閥抗争の延長で今後も続くものなのか。レソト市民の観察を含め、今回の訪問ではこれを考えたいと思います。

  そして、もう一つのテーマは、やはり中国がらみです。

  冷戦時代から、中国の代表権をめぐり、北京と台北はアフリカ諸国に競って援助をしてきました。援助で支持を買おうとした点で両者は同じですが、冷戦時代に頑強な反共国家だった南アフリカが、1997年に台湾支持から中国支持に切り替えたことで、代表権争いにほぼ決着がついたとみるのが一般的です。アフリカ諸国のほとんどは、イデオロギー的にはともかく、経済成長が著しい中国と付き合うことを選んできたのです。

  ところが、レソトはいまでも中華人民共和国と国交をもたない、アフリカで数少なくなった台湾支持派の一国です。レソトが中国と距離を置くのは、長く南アフリカの影響下に置かれ、その方針を受け入れてきた経緯だけでなく、共産主義、社会主義のイデオロギーが王政と合わないこともあります。

  しかし、いずれにせよ、正式の国交がなくても、中国の影響はレソトにも及んでいます。人口200万人足らずの小国であるレソトには、香港や台湾からだけでなく、本土からきた中国人が、既に5000人いるといわれます。レソトでも、他のアフリカ諸国と同様に、中国人ビジネスマンが卸売や小売りに進出し、マーケットを握る状況が生まれています。そして、中国政府からの支援を受けた中国人ビジネスマンとの競争に敗れた現地の流通業者を中心に、中国に対する反感が募る状況も、基本的には同じです。2007年11月には、首都マセルで、中国人が経営する店が襲撃される暴動が発生しています。

  中国人ビジネスマンの進出が生活苦の一つの元凶であると捉える市民の感情は、先の反LCD感情とも結びつきました。実際、LCDから抜け出した議員で構成されるDCは、第一党になったとはいえ、過半数には及ばず、連立政権を組むことを余儀なくされました。この責任を負ってモシシリは選挙実施の翌週に首相を辞任したのです。

  いわば2012年選挙では、基本的にそのルーツはいずれもLCDにある各野党のなかで、「まだまし」と思われる政党への投票が行われたとみてよいでしょう。言い換えれば、貧困や格差といった社会問題や、中国人に対する憎悪、つまりルサンチマンが、歴代政府を構成してきたLCDをはじめとする既存政党に向かっている、という観測が成り立つのです。これは政党政治そのものに対する不信感をもたらしかねないものです。その意味でも、たとえ外交関係がなくとも、中国ファクターはレソト調査でも重要な位置を占めることになるのです。

アフリカ調査2012:ナミビア篇

 9月6日から、アフリカ調査に行ってきます。今回は、南部アフリカの小国をテーマに、ナミビア、レソト、マラウィをめぐってきます。このうち、ナミビアはナミブ砂漠が有名で、アフリカのなかでは日本からの観光客が多い国ですが、レソトやマラウィに関しては、国名すら知られていないことが珍しくありません。かく言う私も、レソトには15年ほど前に一度行ったことがあるものの、マラウィは初めてです。

 アフリカの小国というと、文化人類学や開発といった観点ならまだしも、国際政治や政治学で何の必要があるのか、という疑問をぶつけられることもあります。確かに、アメリカや中国、EUといった大国、大勢力と比較すれば、アフリカの小国が国際政治に及ぼすインパクトは、少なくとも表面的には限られたものです。しかし、例えば永田町や霞ヶ関さえみていれば、日本の政治が分かるものではありません。原発問題に象徴されるように、圧倒的多数を占める地域の市民の生活、意見、感想が、多かれ少なかれ政治に反映されるとすれば、「中央」以外に目配りをする必要があるでしょう。これと同じで、国際政治の動態を考えるうえで、アメリカや中国からの影響にさらされやすい「周辺」であるアフリカの小国は、これら「中央」の動向を観察するのに格好の舞台であると同時に、「中央」の動向を長期的に左右する「周辺」の現場でもあるのです。

 当然ですが、ナミビア、レソト、マラウィは、産業構造も、一人当たり所得も、そして政治体制も、それぞれで異なります。このうち、ナミビアはダイヤモンドなど鉱物資源の輸出が盛んで、一人当たりGDPが3000ドルを超え、アフリカでも豊かな部類に入ります。一方で、1990年に南アフリカの支配から独立した比較的若い国で、独立闘争を率いたゲリラ組織SWAPO(南西アフリカ人民機構)が、独立後の選挙では一貫して多数を占めています。2009年の大統領選挙では、SWAPO選出のH.L.ポハンバが75.25パーセントの得票を集め、下院にあたる国民議会選挙でも、SWAPOが74議席中54議席を獲得しました。

 国民の物質的な満足感が比較的高く、一方で特定の勢力が長期的に政治権力を握り続ける。この状況は、中国共産党に代表されるように、いわゆる「開発独裁」の典型のようにも映りますが、しかし
ナミビアの選挙はアフリカでも透明度が高く、政府に批判的な団体が暴力的に取り締まられることも、ほとんどありません。いわば、多くのナミビア国民が、「自発的に」SWAPO体制を選択しているのです。

 SWAPOに代わって、国民に幅広く支持される勢力が出にくいことは、政権交代が生まれにくいことを意味します。しかし、政権交代は民主主義の一つの目安ではありますが、特にアフリカでは、それがなければ民主主義と呼べないとまでは言えません。国内に習慣や言語まで異なる数多くのエスニシティが林立するアフリカでは、どうしても人口比で多数派が優位に立ちがちで、これを選挙でひっくり返すことは容易ではありません。つまり、政権交代が現実的に困難な条件を、アフリカ諸国は歴史的に背負っているのです。むしろ、定期的に政権交代が生まれるのは、歴史的に国内の文化的差異が少なく、あったとしてもそれを私的領域にとどめることを是とするアングロ・サクソン系諸国に固有の特徴とさえ言えます。

 この観点から、アフリカの民主主義においてむしろ重要なことは、いかに選挙の透明性が確保され、機会の平等が確保されているか、ということになります。これに加えて、少数派が政治的、社会的、経済的に不利に扱われていないか、政府の汚職が少ないか、なども重要です。ナミビアはアフリカに適応する民主主義の実践例として、その課題を含めて、検討する価値があると思われます。

 もう一つ、ナミビアで関心があることは、中国との関係です。南アによる植民地支配からの解放闘争の過程で、SWAPOは中国からも支援を得てきました。SWAPOは公式には社会主義を掲げながらも、実際には市場経済を導入している点でも、中国と同じです。また、
近年ではダイヤモンドなど豊富な天然資源を目的に、中国からの融資・投資も増加しており、2010年には1億ドル相当の融資が中国からナミビアに行われています

 SWAPOは、しかしその歴史的な関係の近さゆえに、既に多くの論者が指摘する、中国のオーバープレゼンスを拒絶しにくいことも確かです。SWAPOは解放闘争の過程で多くの社会集団、例えば学生団体や新聞、キリスト教会と連携しましたが、そのなかには労働組合もありました。独立後も、SWAPOは労働組合と近い関係にあるのですが、他方でアフリカ諸国では、中国企業が当該国の労働関連の法令に従わないことが、問題としてよく指摘されます。例えば、労働者の権利である労働組合の結成が、中国企業内部では認められていないのです。これが政労関係を悪化させることも、多くのアフリカ諸国でみられることです。国内団体と、海外勢力のいずれを優先するか。これに対するSWAPOの対応を観察することで、今後のアフリカにおける中国のプレゼンスを考察するヒントが得られるでしょう。

 以上の観点から、ナミビアに赴きたいと思います。結果は随時、本ブログ上にて。


メレス急逝にエチオピアの将来を想う:「三人目の男」

  年9月、幻冬舎から『世界の独裁者』を発刊しました。このなかでは、発刊段階で現役だった世界の「独裁者」と呼ばれる人間を20人ピックアップし、その生い立ちや経歴、政治手腕などを、確認される事実に基づいて叙述しました。ところがその後、昨年10月にはリビアの最高指導者だったムハンマル・カダフィが、12月には北朝鮮の金正日が死亡。それぞれで状況は異なりますが、発刊からわずか3ヶ月の間に、20人中2人がこの世を去ったのを受けて、ある人から「あの本はデスノートか」といったブラックジョークまで言われました。

 いずれにせよ、残り18人のうち、シリアのアサド大統領が追い詰められているのは、連日の報道で伝えられる通りで、遅かれ早かれ、少なくともその政治生命は終焉を迎えるとみていました。また、実年齢からいえば、サウジアラビアのアブドッラー国王は1924年生まれの88歳、ジンバブエのムガベ大統領も同じく88歳と、「次の候補」は誰だろうと内心思っていました。ところが、全く意外なところから、「3人目」が出てきたのです。

 8月21日、外国(ベルギーとみられるが詳細は不明)で病気療養中という噂のあった、エチオピアの
メレス・ゼナウィ首相が、感染症(これも現段階では詳細不詳)により死亡したと報じられました。メレスは1955年生まれの57歳。1991年に反政府武装勢力を率いて、エチオピアの社会主義政権を打倒し、1995年に現行憲法が発布されて以来、実質的な最高権力者である首相ポストにあり続けました(大統領は儀典的な役職)。

 一口に「独裁者」と呼ばれる人間であっても、その全員が国際的な非難にさらされているわけではありません。「国際的に非難されない『独裁者』」を生む基準は、主に以下の二点があげられます。

●日本を含む西側先進国と経済関係が緊密であること
●アメリカを中心とする西側先進国主導の国際秩序に挑戦的でないこと

 この基準を全く満たさない「独裁者」の典型には、北朝鮮の金正日・正恩や、白人の土地を補償なしに接収するジンバブエのムガベがあげられます。経済関係が緊密でないことは、ひるがえって西側先進国からみた場合、経済制裁を実施するのが容易です。アメリカが対イラン制裁に熱心なのは、自らがイランとほとんど経済取引がないのが、これを促す一因です。中国の胡錦濤や、ロシアのプーチンといった「大物独裁者」に、西側先進国が口頭での非難以上のものを行わないのも、これらが核保有国で国連安保理の常任理事国であると同時に、投資や貿易といった形で経済関係が緊密になっていることが、大きな要因です。

 これに照らして言えば、国民に安全と物質的な満足感を提供し、西側先進国と敵対せず、むしろこれらと良好な経済関係を維持している限り、国民の政治活動を制限し、権力を独占していても、西側先進国がこれらを批判したり、まして何らかの制裁を課すことは、ほとんどありません。メレスは、このような「西側先進国と良好な関係を保つ『独裁者』」の一人でした。

 政権樹立後、メレスは市場経済を導入し、海外からの投資誘致に取り組みました。税制などでの優遇措置を講じ、資源の乏しいエチオピアへ先進国からの融資を呼び込み、コーヒー豆などの伝統的な産品だけでなく、生花といった新しい農産物の輸出を増やしたのです。その結果、エチオピアは2004年以降、毎年約10パーセントの経済成長率を記録してきました。アフリカで市場経済化を推し進めたい欧米諸国からみたとき、メレス率いるエチオピアは一つの「モデルケース」として位置づけられることになったのです。

 一方、メレスは国内に安定をもたらすことにも、ある程度成功してきました。ほとんどのアフリカ諸国の例に漏れず、エチオピアも国内に数多くのエスニシティがおり、その間で対立が絶えませんでした。メレス主導で作成された新憲法では、それぞれの州に「分離独立する権利」が付与されています。つまり、それぞれのエスニシティには、エチオピアにとどまるのが嫌なら、住民投票に基づいて独立する権利があるのです。「エスニック連邦主義」と呼ばれるこの仕組みは、エスニック対立が絶えないアフリカで稀有な取り組みであるばかりか、「少数者の権利」に敏感な欧米諸国からも好感をもってみられています。

 ただし、これは逆にメレス自身に大きな権力があるからこそ可能な仕組みでもありました。1991年に社会主義政権を打倒したのは、これと敵対していた四つのエスニック勢力の連合体、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)で、メレスはそれまでバラバラだった各勢力の協力関係を樹立させた、立役者でした。その結果、EPRDFにはエチオピアの主だったエスニシティの組織がほとんど加盟しています。そして、これに加盟するエスニック組織は、名目上各州に与えられている分離独立の権利を、実際には行使しないことを前提に集まっているのです。また、1995年憲法のもとでEPRDFは政党に衣替えし、2010年選挙では546議席中499議席を確保しました。つまり、EPRDFは主なエスニック組織の連合体でありながら事実上一つの政党でもあるのです。

 この複雑な構造の下、メレスは社会主義政権打倒の武力闘争時代から培ったンフォーマルな人間関係に基づき、EPRDFを通じてエチオピア全土に強い支配力を貫徹させてきました。そのなかで、それぞれのエスニシティのなかで、あくまで分離独立を求める勢力はEPRDFから排除され、弾圧の対象にもなってきたのです。

 しかし、メレスに対して欧米諸国からの批判は、ほとんど聞かれませんでした。それは、先述の経済的なパフォーマンスだけでなく、メレスが東アフリカの安定に寄与してきたという事情によります。エチオピアの周辺には、内戦が慢性化して国家として破綻したソマリアや、やはり長年の内戦の末に分裂したスーダンと南スーダン、さらにソマリアのイスラーム勢力に軍事援助を行っているといわれるエリトリアなど、安定と程遠い国が集中しています。

 その一方で、この一帯は地中海からスエズ運河、紅海を経て、インド洋に至る、国際海運の要衝です。日本でもソマリア沖で日本の船が海賊に襲われたといった話はときどきニュースになっていますが、この地域の安定は我々にも無関係ではありません。メレスは内乱状態のソマリア政府をバックアップし、南スーダンに平和維持部隊を派遣し、エリトリアの活動に対する批判の急先鋒となることで、東アフリカの安定に努めてきました。これはもちろん、単純な善意ではなく、自国の安定や発展を念頭に置いたものですが、いずれにしても西側先進国からみれば、自らが乗り出すには困難のある東アフリカの紛争に関与して沈静化を図るメレスは、好ましいパートナーだったのです。

 そのメレスの急逝は、何をもたらすのでしょうか。一言で言えば、メレスの死は、東アフリカの要となってきたエチオピアが、混乱と発展の分かれ道に立つ状況を生んだといえるでしょう。

 日本では誰が総理大臣になってもほとんど変化が生まれない、なぜなら官僚に象徴される国家機構が堅固だから、という状況がありますが、ほとんどのアフリカ諸国は全く逆です。誰が最高権力者になるかによって、その国の浮沈は大きく左右される、なぜなら国家機構が非常に脆弱だから、ということです。良かれ悪しかれ、それをサポートすべき官僚や政治家の素養や能力に問題が多いアフリカでは、リーダーにより動かされるところが、先進国とは比較にならない程多いのです。

 メレス急逝を受けて、ハイレマリアム副首相が新首相に指名されました。ハイレマリアムは1965年生まれ。エチオピア南部に居住する少数派エスニシティ、ウォライタ(Wolayta)の出身です。その政治手腕には未知数の部分も多く、現段階で将来を予測することは困難です。しかし、ハイレマリアムの能力に関わらず、一般的に大きな影響力をもっていた前任者が急にいなくなったとき、それまで潜在化していた内部の対立が噴出しやすいことは、その死の状況に違いがあるものの、カダフィ後のリビアで選挙が実施されながらも、世俗派とイスラーム勢力、王党派とリベラル派、さらにはイスラームの宗派間やエスニシティ間の反目と対立が顕在化している様相からも明らかです。

 もちろん、そういった内部の対立を乗り越えてこそ、その国の発展があることは確かです。1994年にフツとツチが凄惨な殺し合いを演じたルワンダで、大虐殺という大きな代償を払ったが故に、現代では国民としての結束が生まれつつあることは、これを示しています。しかし、それもまた、エスニシティ間の対立を乗り越えることに力を注ぐ、ポール・カガメ大統領の手腕によるところが大きいのです。

 先ほども言ったように、国家としての整備が未発達のアフリカでは、最高権力者によってその国の浮沈が大きく左右されます。それが世代を超えて引き継がれてこそ、その国の発展に繋がるといえるでしょう。その意味で、少なくとも順調な経済成長と(反対派の弾圧と引き換えではあっても)国内の治安を確保してきたメレスの退場は、「エスニック連邦主義」や経済成長が持続可能なものとして定着するか否かの分岐点にエチオピアが立ったことを意味し、それはひいては東アフリカの安定と成長、さらにはテロの拡散や海運の安全といった点で、日本にも影響してくる問題なのです。

先送りされた対決の噴出:エジプトの政治的混迷

7月1日、ムハンマド・モルシ氏がエジプトの新大統領に就任し、これにともなって暫定統治を行ってきた軍最高評議会(SCAF)は正式に権限を委譲しました。これで、昨年2月のムバラク前大統領の辞任から激動期を迎えていたエジプトの情勢が一段落するかと思いきや、そうはいかないようです。先月、憲法裁判所から選挙結果の違憲性を指摘され、解散されていた人民議会が、モルシ新大統領の政令によって10日に招集されました。これに対して、憲法裁判所はあくまで選挙結果の違憲性を強調し、大統領の議会召集が司法判断に反するものとの立場を崩していません。

ムスリム同胞団の政治ブランチである自由公正党(FJP)をはじめ、イスラーム系政党からは、「議会の解散を命じた憲法裁判所が、旧政権関係者で占められるSCAFからの要求、あるいは圧力によって、イスラーム系のモルシ政権への妨害を図っている」との見方が示されています。エジプトのみならず、多くの開発途上国では人事権や財政、さらにインフォーマルな人間関係を通じて、行政府が司法府に影響力を行使することが稀ではありません。この観点からすれば、FJPなどの主張は、確証はないものの、およそ妥当な見方といえるでしょう。

いずれにしても、大統領と憲法裁判所が対立する状況は、エジプトの前途の多難さを示しています。とはいえ、これはいわば、エジプトの民主化がたどった経緯からすれば、避けられなかった対立がいよいよ本格化したものとも言えます。

昨年来の一連の政治変動のなか、イスラーム系政党は、前政権関係者が中心で暫定統治を行うSCAFとの全面対決を回避し、安定的な体制転換を目指してきました。ムバラク前大統領の辞任後、新しい憲法を起草するか、既存の憲法の修正で済ませ、選挙をなるべく早く実施するかは、2011年3月にSCAFが実施した国民投票で有権者に諮られました。このとき、選挙における優位を確信していたFJPなどイスラーム系政党は、こぞって既存の憲法の修正と、早い時期の選挙実施という選択をするよう、支持者に求めたのです。その結果、大学生らを中心とする世俗的なリベラル派が求める新憲法の起草という案は破れ、民主的な選挙が行われるように憲法が修正され、SCAFの管理下で人民議会、大統領選挙が相次いで行われることになりました。これはイスラーム勢力が、なるべく早く体制転換を済ませることを優先させた結果、といえるでしょう。

そのうえで、イスラーム勢力は、部分的とはいえ、旧政権と歩調を合わせることで、スムーズに体制転換が進むように図ってきました。2011年5月、ムバラク前大統領の裁判が始まらないことや、夜間外出禁止令が解除されないことに不満を募らせたリベラル派が、カイロやアレクサンドリアで数万人規模のデモを行い、「第二次革命」を掲げたとき、イスラーム系政党は一切これに関与しませんでした。さらに、大統領選挙ではともかく、人民議会選挙では、旧政権関係者が立候補することに、イスラーム系政党は全く異議を唱えませんでした。これらに象徴されるように、選挙前の事前観測で優位に立っていたイスラーム系政党は、根本的な制度改革や、ムバラク前大統領以外の前政権関係者らの責任追及より、スムーズな体制転換を図ったのであり、この点において結果的に、SCAFに協力したことになります。

これはFJPなどイスラーム系政党の現実主義的、あるいはプラグマティックな判断によるものですが、このような選択は、体制移行期において珍しいものではありません。1970年代のラテンアメリカでは、各国で石油危機後の経済情勢に有効に対応できない軍事政権への不満が増幅し、民主的な政治体制への移行が相次ぎました。

このときの体制転換をもとに、T.L.カールは体制転換を威圧、協定、革命、改革の四つのパターンに分類しています【
Terry Lynn Karl (1990) “Dilemmas of Democratization in Latin America,” Comparative Politics, (23), pp.1-21】。これらの類型は、(1)体制転換の主体となったのが少数のエリート(反体制派のリーダーたちを含む)か、多数の市民か、(2)体制転換の手段が暴力的か、平和的な交渉か、の二つの軸で分類されます。これに従うと、威圧(エリート主導−暴力的)、協定(エリート主導−平和的)、革命(市民中心−暴力的)、改革(市民中心−平和的)となります。カールによると、1970年代のラテンアメリカや南欧の場合、「協定」がほとんどでした。つまり、一般的に「民主化」というと、フランス革命のイメージのように、市民が力ずくで政府を打ち倒すものと理解されるかもしれませんが、実際には旧政権のなかの穏健派と、反体制派のなかの穏健派が、実際に打ち合わせをしたかどうかはともかく、少なくとも結果的には、スムーズな体制転換に相互の利益を見出し、そのために部分的に歩調を揃える、というパターンが珍しくないのです。

「協定」による体制転換は、全面的な内乱に陥ることを避け、安定的に権限を委譲することができる点にメリットがあります。ただし、その場合、旧政権関係者は、新体制樹立後に自らの安全や利益が保証されるという前提で、反体制派の穏健派と協力するため、汚職の蔓延や縁故主義といった、社会のなかの不合理は残存することになります。実際、ラテンアメリカ諸国では、大地主制に由来する大きな格差など、旧来の政権のもとで保護されてきた社会問題が、体制転換後も残ることになり、貧困の蔓延が民主主義の普及を妨げることにもなっています。

エジプトに話しを戻すと、昨年来の政治変動は、旧政権関係者によって構成されるSCAFと、旧政権下で弾圧されていたFJPなどイスラーム系政党の間の「協定」であったといえるでしょう。いわば、内外から批判を招いたムバラク体制を消滅させ、安定的に権限を次の者に委譲することに両者は共通の利害を見出し、そのために実質的に歩調を揃えてきたのです。それは同時に、両者の全面的な対立が先送りされたことをも意味します。

一時棚上げにされていた前政権関係者とイスラーム系政党の間の対立が噴出したのは、先月のことでした。デモ隊に対する暴力的な鎮圧を止めなかった嫌疑で、特設法廷でムバラク前大統領に終身刑が言い渡されたものの、二人の息子をはじめ、それ以外の前政権関係者は、全員「
証拠不十分」とされました。一方で、ムバラク体制最後の首相だったアハメド・シャフィクの立候補を合憲と認められたのです。この頃から、2011年11月の人民議会選挙で大勝したイスラーム系政党への警戒感から、SCAFが司法府を通じて政治的な圧力を加えている、とFJPなどからの批判が相次ぐようになります。大統領選挙に関しては以前に取り上げたとおりですが、既に述べたように、今回のモルシ政権と憲法裁判所の間の対立は、封印されてきた対立が、いよいよ本格的に噴出したことを示しています。これは「協定」という経路をたどったことの宿命とさえ言えるかもしれません。

いずれにしても、モルシ新政権と軍の指導層は、全面対立が双方にとって利益にならないと理解しているはずで、エジプトが内乱などに陥る可能性は極めて低いとみられます。しかし、新政権と旧政権のそれぞれの支持者の間にある根深い不信感と敵意を潜在化させたまま、ただひたすら安定的な政権運営だけを目指すことは、いつ破裂するか分からない時限爆弾を抱え込むようなものです。その意味では、アパルトヘイト(人種隔離)体制終結後の南アフリカで行われ、刑罰を科さないことを前提に、旧体制下で起こった人権侵害の事実を究明して社会全体でそれを受け入れる、「真実和解委員会」のような取り組みが、どこかのタイミングで必要になるといえるでしょう。ともあれ、選挙の実施と新政権の誕生は、エジプトの民主化のゴールなどでは決してなく、むしろこれからが正念場なのです。

エジプト大統領選挙:独裁か、過激派の台頭か、民主主義か

 6月24日、エジプトの選挙管理委員会は、大統領選挙の決戦投票の結果として、イスラーム主義団体「ムスリム同胞団」を母体とする自由公正党(FJP)のムハンマド・モルシ候補の当選を発表しました。ムバラク体制の最後の首相だったアハメド・シャフィク候補が敗れたことは「革命」の象徴にはなるでしょうが、しかし暫定統治を担ってきた軍事政権が大統領権限の縮小を図るなど、イスラーム系候補の勝利は既に新たな火種を招いています。多くの識者やメディアが指摘するように、今後のエジプトは全く予断を許しません。

民主主義の定着における最大の課題は、エジプト国民の忍耐力です。

今回の決戦投票で図らずも明らかになったように、体制転換後のエジプトでは、世俗的なムバラク政権(あるいは1950年代以来の旧体制)を支持していた人々と、イスラーム主義勢力の対立が顕著です。ただし、これは単に「世俗vs.宗教」というイデオロギー対立ではありません

中東に限らず、権威主義的な体制のもとでは、必ずと言っていいほど、体制にアプローチすることで利益を得ようとする人がいます。今回、シャフィク候補の支持者には 、ムバラク政権時代の経済開放で恩恵を受けた富裕層が少なからずいました。アラブ社会でも、法律より人脈やコネがモノをいいます。今回の大統領選挙で「世俗派」と呼ばれた人たちには、前政権時代の縁故ネットワークに属していた、いわば「勝ち組」が多いのです。

これに対して、ムスリム同胞団に代表されるイスラーム主義団体は、世俗的な「独裁者」による支配のもとで、経済的に苦境に立たされた都市貧困層や農村住民に、医療や福祉サービスを提供することで、彼らの間に支持を広げてきたのです。いわば、モルシ候補を支持した人たちは、前政権時代の「負け組」が中心なのです。

そのため、モルシとシャフィクの対立軸は、「世俗vs.宗教」だけでなく、前政権に郷愁を感じるか、あるいは基本的にこれを拒絶するか、という心情的な要素も多分に含んでいるのです。これは両勢力間の不信と憎悪の温床になっています。つまり、今回の大統領選挙は、少なくとも結果的には、封印されていた社会内部の対立を解き放つ効果をもっていたのです。

選管の結果発表の後、モルシ氏は「全てのエジプト人の大統領になる」と述べ、国民の団結を呼びかけました。しかし、蓄積された不信や憎悪が一朝一夕に解消されるはずはありません。「ノーサイド」は夢のまた夢と言っていいでしょう。

それどころか、今後は両者の間の摩擦が、さらに加熱する事態も充分に予想されます。モルシ新大統領が国民融和を重視して前政権派に配慮すれば、自分の支持者たちから反発を招きます。かと言って、前政権時代の経済・外交方針を大幅に転換し、イスラーム化を推し進めれば、支持母体は喜ぶでしょうが、社会内部の亀裂はますます深まります。多くの歴史上の革命では、このような煮詰まった状況を打破するために「独裁者」が登場し、さらに外部に敵を作って国民の一体感を高めるため、戦争に突っ込む、というパターンがみられます。

ムバラク体制のもとでは、このような矛盾や対立が、「秩序」の名の下に封殺されてきました。ただし、政策形成に直接関わることは皆無に近かったので、国民の間には「自分たちの希望が聞かれない」という不満はあっても、「政府は自分たちの希望を聞いたはずなのに、その通りに物事が進まない」というストレスとは無縁でした。これは、多くの独裁体制に共通します。

これに対して、民主的な体制では、自らの要望を表面化させる権利が与えられるのと同時に、そしてそれゆえにこそ、自分たちの要望の全てが希望通りに叶うわけでないというストレスに、常に晒されることになります。これに耐えられなければ、自由を捨て、強い力のもとに集うことに安心感を見出す独裁体制に陥るか、矛盾と対立に穏当な態度を示さざるを得ない民主的な体制を敵視して、体制そのものの破壊を目指す過激派の台頭を促すことになりがちです。

階層や宗派、理念に基づく差異があっても、安易に誰かを「排除すべき敵」と決め付けないことが、全ての市民、国民に政治的権利を認め、民主的な社会を維持するうえで必要です。その忍耐力の有無こそが、体制転換後のエジプトが新たな独裁か、過激派の台頭か、あるいは民主主義の定着か、という明暗を分けることになると言えるでしょう。

Kony 2012への拒絶を考える

フリカ中央部のウガンダで、同国の反政府ゲリラ組織「神の抵抗軍(LRA)」の蛮行を告発し、その首謀者であるジョゼフ・コニー司令官の拘束を訴える短編映画「Kony 2012」が上映されたものの、現地の人たちから強い抗議を受けて中止に追い込まれました。これは、アフリカニストたる私にとっても、少なからず考えさせられる出来事でした。

LRAはウガンダ北部に多く暮らすアチョリ人を中心に構成されるゲリラ組織です。1988年にその実権を握ったコニー司令官は、旧約聖書の十戒に基づく神権政治の樹立とアチョリのナショナリズムに訴え、ウガンダ政府と断続的に戦闘を繰り返してきました。その過程で、ウガンダ政府と潜在的に対立する隣国スーダン政府から軍事援助を受け、ウガンダやスーダンだけでなく、コンゴ民主共和国(DRC)でも活動してきたのです。このようなコニー司令官およびLRAが国際的に問題として認識されるようになったのは、子どもを兵士や性的な奴隷として使用する、ということでした。

1990年代以降のアフリカ各地で発生した内戦では、村々が襲われ、子どもがさらわれ、男の子は兵士に、女の子は性奴隷にされることが頻発しました。少年兵は世界中で約30万人いるともいわれますが、20年以上続くウガンダの内戦では2万人以上がさらわれたともいわれており、とりわけ事態が深刻です。子どもたちは誘拐されるとき、多くの場合に親など近親者を殺され、天涯孤独にされたうえで命令に従順な兵士や性奴隷に仕立てあげられます。また、自分たちの勢力圏に近いエリアでは、LRAに対する恐怖心を植えつけるために、不必要な残虐行為が頻繁に行われており、最近では2008年12月にDRCのファラジェで、幼児を含む住民約480名が虐殺され、200名以上が拉致されました。報道によると、数十人分の死体がバラバラに分割され、現場に散乱していたということです。コニー司令官をはじめとするLRA幹部たちには、2005年に国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状が発行されています。

ウガンダ内戦とLRA、さらに子どもをとりまく悲惨な状況を告発したのが、2006年に公開されたドキュメンタリー映画「インビジブル・チルドレン」でした。3人のアメリカ人大学生が、2003年にウガンダで撮影した映像をもとに作成したもので、彼らはその後この問題に取り組むNPOを立ち上げ、子どもたちの社会復帰に取り組んできました。そして、今年3月、2012年中にコニー司令官を拘束するべきだと訴えるキャンペーン「Kony 2012」をスタートさせ、ユーチューブなど動画サイト上で同名の短編映像を公開し、話題となっています。

ところが、冒頭で言ったように、その「Kony 2012」が当のウガンダ人たちから拒絶されたのです。AFPの報道によると、3月13日、LRAの拠点に近い北部リラで行われた野外上映会には、数千人の観客が集まり、その多くはLRAによって手足を切断されるなどの被害を受けた人々でした。しかし、開始からすぐに観客が怒り出し、投石などを行ったため、上映会は中止され、その他の地域でも行う予定だった上映会も中止になったということでした。

果たして、これはなぜなのでしょうか。まさか、娯楽映画を期待して集まったら、物すごくシリアスな内容だったので怒り出した、というようなことではないと思います。だとすると、域外に暮らす者からは自明と思われることが、現地の人にとって必ずしも心地よくない、ということは確かなようです。

私もユーチューブ上で「Kony 2012」を観ました。製作者たちの言いたいことは、大よそ以下の三点に集約できると思います。
・国際社会から見放されているアフリカの小国の内戦にも目を向けるべきである
・コニー司令官を早期に拘束すべきである
・戦闘の犠牲となっている人たち、なかでも子どもへの支援をするべきである
個人的には、これらの言い分に異論はありません。

しかし、問題は、なぜそれが現地の人たちから拒絶されたのか、ということです。やはりAFPによると、上映会に集まった人たちは、映画の内容について「無神経で、ウガンダ北部の過去の姿しか描いていない」、「なぜ、アメリカの白人の子どもたちを映して、地元の人びとが置かれた真の現状を伝えないのか」と口々に批判したということです。

正確なことは、映画を観て怒った彼らに直接聞くことでしか分かりません。しかし、「Kony 2012」を観ていて、思い当たることは幾つかありました。

第一に、確かに全面に出てくるのがアメリカ人の子ども、しかも製作者の子どもである点には、私も違和感を覚えました。冒頭で、製作者の子どもがアメリカのきれいな病院で生まれ、看護師たちに祝福されながら産湯につかる様子を描き、「この国で生まれたこの子は大事にされるだろう」といった主旨のナレーションがあり、その後しばらくして2003年当時のウガンダの情景を写した映像に進みます。製作者の子どもの誕生シーンが、ウガンダの子どもたちの状況との対比を暗示するイントロであることは明らかです。

確かに、平均的に言って、アメリカや、そして日本などの先進国で生まれた子どもの方が、開発途上国なかでもアフリカの貧困国で生まれた子どもより、健康状態や教育水準において恵まれることになる、というのは事実かもしれません。また、先進国で生まれた子どもが、兵士や性奴隷としてゲリラに搾取されることは、ほぼ皆無でしょうし、そういった問題を告発して先進国の視聴者から共感を得たいのであれば、自然なイントロなのかもしれません。しかし、両者の対比を敢えて強調することは、いわば対等の視線ではありません

ハンナ・アレントは、個々人が自らと他者を結びつけるエネルギーについて、以下のように分類しています。「連帯(solidality)は活動を鼓舞し導く原理の一つであり、同情(compassion)は情熱(passion)の一つであり、哀れみ(pitty)は感傷(sentiment)の一つである」。このうち、アレントによると、「同情」は人間同士の間の距離を取り除くもので、他者の苦悩を我が物とすることですが、それであるが故に相手を認識したうえでなければ発揮できません。つまり、それぞれ特殊な個々人に対して生まれる感情であり、一般化することができない、言い換えれば不特定多数の相手には発揮できない能力である、というのです。

これに対して、「連帯」と「哀れみ」は人間の間の感情的距離は保つという点で共通しますが、両者は「弱い人々」の捉え方において決定的に異なります。「連帯」は、例えば「人間の尊厳」といった誰にでも適用できる利害あるいは理念で、複数の人々を、つまり強い人も弱い人も、豊かな人も貧しい人も概念的に包括し、一般化します。これに対して、「哀れみ」は「運と不運、強者と弱者を平等の眼差しで見ることができない」

「Kony 2012」の製作者たちが、この三つのエネルギーのどれに駆られてこの映画を作ったかは、定かでありません。しかし、少なくとも不特定多数の人に訴えかける内容で、さらに先ほどの「アメリカの白人の子どもとウガンダの子ども」の対比は両者の差異を強調するものであり、少なからず「哀れみ」が強いように感じられます。しかし、往々にして先進国の人間は、特に欧米人は忘れがちのようにみえるのですが、アフリカ人も当たり前の人間です。そして、およそ自尊心のある人間にとって、「自分たちが哀れまれている」と思うことが愉快であるはずはありません。その映像が、無意識のうちに自分たちの優位を確信している先進国の人間だけを相手にするだけならいざ知らず、当のウガンダ人たちから「無神経」と言われたことは、故のないことと思います。

第二に−第一の論点に関連するところがあるのですが−物事をあまりに綺麗に色分けしているところが、現地の人たちの反感を買ったと考えられます。子どもが誘拐され、兵士や性奴隷として搾取される。その過程で多くの人間が殺され、手足を切断され、死体をばらまかれる。言うまでもなく、そのような状況を見過すことは許されないでしょう。「Kony 2012」の製作者たちが訴えていたように、域外の国は自分たちの利害に関わらないところには関与しないわけで、それがこの状況を延命させている側面も否定できません。ただし、そのような悲惨な状態を告発することと、「子ども=被害者」「コニー=極悪人」という単純な色分けでストーリーを展開させることは、話しが別です。

少年兵の問題で特に深刻なのは、子どもが被害者であると同時に加害者になる点です。つまり、近親者を殺されてさらわれた点で彼らは被害者ですが、ゲリラ組織で訓練を受け、やがてかつて自分が受けた被害を他者に及ぼすことになるのです。製作者たちはもちろん、そのことをよく知っているでしょう。しかし、この問題を全く知らない人に知らせるという目的のためか、少なくとも映像からは「子どもの二面性」についての言及はほとんどなかったように思います。ポスト・コンフリクトの社会では、このような矛盾と日々向き合いながら、それでも現実と折り合いをつけて生きていかざるを得ません。

同じことは、コニー司令官やLRAについても言えます。ウガンダでは独立以来、クーデタが相次ぎ、軍事政権に抵抗するゲリラ組織もいくつか生まれました。このうち、国民抵抗軍(NRA)を率いたヨウェリ・ムセベニが1986年に実権を掌握し、ウガンダはNRAが国民抵抗運動(NRM)と改称した一党制国家となりました。現在、北部を除いてウガンダは全体的に治安が回復し、経済活動も活発です。その意味で、ムセベニのNRMはウガンダにとっての利益をもたらしたといえます。しかし、NRA/NRMはLRAとの戦闘を続ける過程で、程度の差はあれ、やはりLRAと同様に少年兵を利用し、市民への虐殺行為を行いました。治安回復と経済復興の恩恵を受けながらも、ウガンダの人たちは、これを忘れていないでしょう。これもやはり、ポスト・コンフリクトの社会が抱える矛盾なのです。

これらの矛盾を全て捨象して、「子どもは被害者」「コニーさえいなくなればいい」といった主旨の、極めて単純なキャンペーンで自分たちの国のことを語られることが、ウガンダの人たちの反発を招いたことは、後知恵ですが、当然といえば当然の帰結です。まして、製作者が4−5歳になった自分の子どもに、その顔写真をみせてコニーを「悪人」と教え込むシーンには、私も首を傾げざるを得ませんでした。コニー司令官やLRAを擁護することは全くできませんし、その気も全くありません。しかし、人間社会というものは、定規で引いたように綺麗に割り切れるものではなく、色んな矛盾を抱え込んだ、いびつな物です。もちろん、それを綺麗にしていく努力は必要でしょうが、それは目に付く異分子を排除すれば済むというものではないはずです。それでは、神権政治の樹立を掲げるLRAと同レベルであるだけでなく、さっきの「子どもの二面性」も、「NRMの二面性」も、あるいはその現実の中で生きていかざるをえないウガンダの人たちの苦悩も、全く素通りすることになります。「真の現状を描いていない」と言われたことも、これまた当然ということになります。

「Kony 2012」に対しては、日本で「ウガンダの石油を狙って介入したいアメリカの国策映画だ」と非難する向きもあります。しかし、この非難は的を大きく外しているように思います。そんなことをしなくとも、今のウガンダ政府はもともと欧米諸国と極めて良好な関係にあります。この場合、ウガンダの石油が欲しいだけであれば、わざわざ国際世論に訴えかけたりせずに、静かにアプローチする方が現実的です。その意味で、私自身は製作者たちの善意を疑うものではありません。しかし、善意であるから全てが許されるわけでないことは、これまた言うまでもありません。19世紀にアフリカを植民地化したヨーロッパ人たちも、「遅れた野蛮な土地に文明の光を届ける」という目的を掲げ、少なからず善意に満ちていたのです。先ほどのハンナ・アレントの言葉を借りれば、「哀れみは不運が存在しないところでは存在することができない。・・・・・・さらに、哀れみは一つの感傷であるために、人は哀れみのために哀れみを感じることができる」。

「Kony 2012」の製作者たちは、動画だけでなくソーシャルネットワークが人に働きかける有意性を強調していました。他人の不運に心を痛める感傷そのものは、自然なものだと思います。そして、映像のもつ力は非常に大きいと思います。しかし、その感傷を剥き出しで垂れ流すことは、感傷の無限増幅をもたらします。感傷そのものは、それぞれの個人に対して向けられるものでなく、不特定多数の一般的なものに向けられがちです。言い換えれば、単純化されたイメージとしての「苦悩」に、自らを埋没させることになりがちです。それは対象となる人にとって無礼であるだけでなく、問題解決としては極めて乱暴なものになりがちです。

かつて、バングラデシュの絨毯など繊維産業で児童労働が横行しているという理由で、アメリカの上院議員が議会に、児童労働によって生産されたバングラデシュ製品の輸入を禁止する法案を提出し、可決されました。その結果、バングラデシュの絨毯産業が打撃を受け、働いていた子どもたちが解雇されましたが、彼らの多くは重要な家計の担い手でした。そのため、貧困がより悪化し、あるいは児童売春などが増加したといわれます。これもやはり、「感傷」がもたらした、極めて乱暴な解決策の一つです。

苦悩する人間、あるいはそれがある社会というもののあり方に変更を迫り続けることは、必要な営為です。しかし、それは「そこに自らも関わりがある」という自覚がなければ、リアリティを欠いた善意の押し付けで終わります。遠い国の出来事に理解を至らせることは、なかなか大変です。とはいえ、そこを捨象して「感傷」だけで突き進んだものを現地の人に見せても、そこに対等の視線がない以上、現地の人たちが拒絶したこともうなずけます。当事者たちから受け入れられないものを、外部の人間だけが共感している。そこに、リアリティのない、イメージ化された苦悩に埋没しながらも、自分の問題とは思っていない人間の姿を見出さずにはいられません。

翻って、これはアフリカニストたる自分自身にとっても、重い課題です。相手のことを考えたつもりの自分たちの善意や理念が、相手から拒絶される。私のそれほど多くない経験の中でも、そういったことは確かにあります。そこに「感傷」はないか。自分と相手とを包括する「連帯」があるか。「Kony 2012」をめぐる話題は、そんなことを思い起こさせてくれました。


iPad用の電子書籍アプリを作りました![佐門准教授と12人の哲学者]


公式サイト

カレンダー

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< November 2017 >>

最新エントリー

カテゴリー

アーカイブ

プロフィール

search this site.

sponsored links

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM