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  • 2014.03.05 Wednesday
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TICAD 開幕:日本―アフリカ関係の新時代か

6月1日、第5回アフリカ開発会議(TICAD )が横浜で開催されました。1993年に始まり、5年おきに開催されるTICADは、50カ国以上のアフリカ諸国の国家元首クラス、欧米諸国や国際機関、NGOの関係者を定期的に招く、日本政府が主体となる国際会議のなかで最大規模のものです。

1993年、当時大学生でアフリカの勉強を始めたばかりのころ、初めて開催されたTICADに関する報道の量の少なさ(例えば新聞記事の面積の小ささ)に驚いた記憶があります。それは当時の、国内におけるアフリカへの関心の低さを象徴していたように思います。

日本とアフリカの接近は、1989年の冷戦終結を契機にしていました。それまでアフリカは、一国でも多くの友好国を確保しようとする東西両陣営の「援助競争」の舞台となっていました。しかし、冷戦終結により、アフリカに援助する戦略的な理由は激減。さらに旧東側は自ら民主化と市場経済化の変動期に入ったためアフリカ支援どころでなくなり、「冷戦の勝者」西側でも財政負担による「援助疲れ」から、アフリカ向け援助が削減され始めました。これに対して、当時の日本はバブル最盛期。援助を削減する必要が特になかったことで、結果的にアフリカ内部の日本の存在感は相対的に向上しました。これはアフリカからみた日本接近の誘因となったのです。

一方、日本からみたアフリカは、地理的にだけでなく、経済的にも政治的にも基本的に縁遠い関係にありました。そのなかで日本がアフリカへの接近を強めた背景には、日本からみたアフリカへの期待がありました。それは、資源の確保だけでなく、日本の国連安全保障理事会の常任理事国入りに関する支援を取り付けることにありました。このような日本自身の利益もあり、1993年に初めてTICADが開催されるに至ったのです。

しかし、TICADを通じた日本の対アフリカアプローチは、良くも悪くも、基本的に極めて穏当なものだったといえます。つまり、TICADでは概ね日本の利益より、「アフリカの開発と平和」をいかに実現するかが中心議題となってきました。これは日本政府、なかでも外務省が、対アフリカアプローチにおいて日本の経済的利益を前面に出すことを避けたことによるといえます。

1980年代末までの日本は、「政経分離」を標榜し、基本的に相手国の内政にほとんど関わらない立場をとっていました。その結果、アパルトヘイト体制を理由に国連による経済制裁の対象となっていた南アフリカとも貿易関係を維持し続けていたのです。しかし、これをアフリカ諸国から1988年の国連総会でこぞって批判された後、経済制裁に参加。この経緯は、日本政府をして、それまでの「国益重視」から「アフリカのための協力」へと、アフリカに対するアプローチを転換させる大きな要因となりました。言い換えれば、国益を前面に押し出していたことによる悪印象を拭い去るため、日本政府は利他的なアプローチを心がけてきたといえるでしょう。TICADでの協議内容は、2000年に国連で採択されたミレニアム開発目標(MDGs)に連動しており、アフリカの貧困削減と平和の定着を念頭に置いた、国際協力を原則にしています。

近年の資源価格の高騰は、「最後のフロンティア」としてアフリカへの関心を高めており、欧米諸国のみならず、新興国もアフリカ進出を強めており、そのなかで中国、インド、ブラジルなどもTICADと同様の会議を開催していますが、それらには政府、国際機関、NGOだけでなく、企業関係者も参加しており、一種の大商談会の様相を呈しています。空前のアフリカ・ブームのなか、欧米諸国も新興国も、少しでも自らの経済的利益をアフリカで確保することを目指していることと比較して、TICADのアプローチは総じて控え目です。

これは一方で、日本国内の、特に企業のアフリカに対する関心の低さにも連動しています。アフリカに置かれている日本大使館の関係者からは異口同音に、進出を促しても、貧困、政治腐敗、インフラの未発達、治安の悪さといったカントリーリスクを恐れて多くの企業が二の足を踏む現状を残念がる声が聞こえてきます。今年1月のアルジェリアの事件で注目されたように、アフリカ大陸でもテロの拡散が顕著で、これも日本の対アフリカ投資を抑制する一因といえるでしょう。

いずれにせよ、TICADを通じて日本は、かつてのように自国の利益をなりふり構わず追求する国としてでなく、いわば紳士的な国としてのイメージをアフリカに定着させることに成功してきたといえます。ただし、かつてのように日本が大盤振る舞いで援助できる時代は過ぎ去ったなか、現地の経済成長や所得向上に繋がる投資も、国際協力の一環として捉えなおす必要があると思います。

その意味で、TICAD 垢脇本とアフリカの関係における一つの転換点になり得ます。今回、これまでになく政府と企業の連携がみられるようになっているのです。政府は日本企業のアフリカ進出を支援するため、アフリカ投資基金を通じた金融支援を、5年間で50億ドルに倍増させることを決定。これまで「援助」や「国際協力」といった文脈で捉えられがちだった日本―アフリカ関係に、ビジネス、経済といった要素を取り入れる動きがみられ始めています。

その背景には、これまでの記事でも何度かとりあげましたが、新興国なかでも中国が国家ぐるみでアフリカに急速に進出し、欧米諸国と勢力争いを繰り広げるなか、日本が取り残されることへの危機感があるといえるでしょう。いずれにせよ、個人的には日本がビジネスパートナーとしての視点をアフリカに対して持つこと自体は歓迎できますが、それがこと資源・エネルギーという文脈でのみ語られがちなことには違和感を覚えます。

昨年12月、アフリカから初めて来日した友人を都内観光に連れ出したとき、その購買意欲の旺盛さには、ある程度予期していたこととはいえ、正直驚きました。久しぶりに会ってまず聞かれたのが、「東京は初めてだが、ミキモト真珠はどこだ」という質問でした。その後の数日間、一緒にしている仕事の合間をぬって、最近欧米で人気の日本製ランチボックスを買うために銀座三越まで行ったほか、日本製デジカメのバッテリーの買い換えで有楽町のビックカメラ、さらにロンドンで知って以来お気に入りだというユニクロや無印良品の店舗などをめぐるショッピングツアーに同行することになりました。その結果、「クリスマスの買い物は全部日本で済ませた」という一言を残して、友人たちはアフリカに帰っていきました。

もちろん、仕事で日本にくる人たちですから、高所得層、わるくても中間層です。しかし、私の友人に限らず、所得水準の向上によって、従来は高値の花だった日本商品を購入しようとするひとたちが、中国やインドと同様、アフリカで増えているのも確かです。一方で、自動車メーカーを除くと、グローバルに展開している日本企業でもアフリカは手薄というところが稀ではありません。先ほどの友人たち曰く、最大の経済大国・南アフリカでもユニクロの店舗はないということでした。そのうえで、「日本製品は全般的に好きだが、アフリカであまり売っていない」と言われました。恐らく、製品本体もそうでしょうが、スペアパーツや付属の消耗品となると、なおさらなのでしょう。日本に来る機会を捉えて、わざわざデジカメのバッテリーを買って行ったのが印象的でした。

他地域と比べて、アフリカにカントリーリスクが目立つ国が多いことも確かです。しかし、日本製品のクオリティ、コストパフォーマンスに対する信頼度はアフリカでもやはり高く、さらにそれを消費できる購買力も備わりつつあります。先ほども言ったように、アフリカとの経済的な結びつきというと、資源・エネルギーというところがクローズアップされがちですが、一方で日本からみたマーケットという視点も、ぜひ日本の製造や流通各社に期待したいところです。

そんなことを考えていたところ、TBSのCSからお声がかかり、6月4日午後3時からの「ニュースバード」でTICADについて話す機会をいただきました。かつてメディアにおけるTICADの露出の少なさに驚いていた学生時代のことを思えば、個人的には今回のTICADに関する事柄のなかで、これが一番時代の変化を感じることかもしれません。

北朝鮮への経済制裁は有効か

 3月8日、国連安全保障理事会は、3回目の核実験を行なった北朝鮮に対する追加制裁決議案を全会一致で採択しました。。この決議案では、渡航禁止や資産凍結の対象となる個人や機関を増やしており、そのなかには朝鮮鉱業開発貿易会社(Korea Mining Development Trading Corporation)の最高幹部なども含まれます。また、禁輸品目についても宝飾品などの具体名が初めて明記されたほか、各国は北朝鮮外交官による「現金の大量輸送」に警戒すべきことが確認されています。

 国連決議に反して核開発を行い、近隣諸国に脅威を与える行為は容認できないため、今回の決議は当然と思います。また、全会一致で採択されたことも、評価できるでしょう。ただし、既に多くの識者が指摘しているように、これら一連の経済制裁が効果をあげることには、大きな期待をできません。少なくとも、この決議案によって北朝鮮が核・ミサイルの実験停止や放棄に向かうことは、ほとんどないといっていいでしょう。

 1992年に発行された、宮川眞喜雄の『経済制裁』(中央公論社)は、日本語で書かれた経済制裁に関する書籍のなかで、コンパクトながら最も包括的なものと思います。出版から既に20年以上経っていて、その間には制裁対象国の国民生活に甚大な影響を及ぼす食糧などの輸出規制による逆効果(制裁実施国への敵対心を高めるなど)から、特定個人を狙い撃ちにする渡航禁止や資産凍結といった「スマートな制裁」が主流になるなどの変化がありました。また、冷戦時代にソ連などへの兵器転用品の輸出を規制していた「対共産圏輸出統制委員会」が1994年に解散し、1996年に世界レベルで紛争地帯や大量破壊兵器の開発国や「懸念国」に対する輸出規制を行なう「ワッセナー・アレンジメント」が設立されるなど、多国間の輸出規制の仕組みも変化しています。しかし、そのような時代背景の変化を踏まえても、同書の内容は示唆に富んでいます。

 経済制裁はいつでもどこでも効果をあげるものではありません。同書では、「経済制裁の効果を高める条件」として、主に以下の7点があげられています。

(1)貿易依存度の高さ
  言うまでもなく、食糧・エネルギーの調達や産業構造で貿易への依存度が高いほど、それが遮断  されることによるダメージは大きい。
(2)経済規模の小ささ
  経済規模が小さいほど、一国内部での経済活動に限界が生じやすく、これは高い貿易依存度に   転化しやすい。
(3)貿易相手国の少なさ
  貿易相手国が少ないと、そのうち一つでも遮断された場合に、甚大な影響を受けやすい。
(4)貿易代替の難しさ
  輸入に頼る物品が、国内で調達しにくいものであるほど、制裁の効果はあがりやすい。典型的な   例は原油。
(5)外貨準備高の少なさ
  外貨準備高の多寡は、非常事態への対応能力の高低に比例する。
(6)実施監視の容易さ
  制裁が取り決め通りに行なわれ、「制裁破り」が横行していないかをモニタリングしやすいほど、効  果があがりやすい。
(7)制裁対象国が民間企業中心の経済体制であること
  経済制裁による業績悪化が、社員の待遇に直接的に影響する民間企業が多ければ、制裁対象と  される政策をとっている自国政府への批判が噴出しやすい。

 もちろん、これら全ての条件が整うことや、逆に一つも条件が揃わないことは、現実にはないでしょう。また、この7条件の他にも、制裁のダメージが自国政府への批判のエネルギーになりやすい民主的な社会か否かといったものも、経済制裁の効果を左右する条件といえるでしょう。ただ、これら7条件を検討することで、経済制裁の効果をある程度予測することができることは確かです。

 それでは、以上の7条件を現在の北朝鮮に当てはめてみるとどうでしょうか。北朝鮮が経済的に停滞していることは、ほぼ確かです。外務省のデータでは、2010年の北朝鮮のGNIは25億6000万ドル。これはタイの3,051億ドル、マレーシアの2,385億ドルと比較して10分の1程度に過ぎません(経済規模の小ささ)。また、外貨準備高については詳細が不明ですが、少なくも潤沢とは考えにくいでしょう(外貨準備高の低さ)。そして、既に経済制裁が敷かれていたことから北朝鮮と貿易を行なう国はほとんどなく(貿易相手国の少なさ)、電力や食糧の不足が伝えられているように、それらの自給もできていない(貿易代替の難しさ)。

 こうして考えれば、経済制裁の効果が出やすい条件が多いようにみえます。しかし、その一方で、制裁の効果が生まれにくい条件も無視できません。外務省のデータでは、2010年の北朝鮮の輸出額が25億6000万ドル、輸入額が35億3000万ドル。一方で名目GNIは260億ドル。したがって、GNIに占める輸出の比率が約9.8パーセント、同じく輸入の比率が13.6パーセント。例えばタイの場合、76.9パーセント、72.4パーセント。先進国のなかで貿易依存度が低い日本の15.2パーセント、16.1パーセントと比較しても低い数値です(貿易依存度の低さ)。そして、朝鮮労働党の支配下で、経済活動のほとんどが国営企業によって担われている(民間企業中心の経済体制でない)。なにより、制裁の実施監視が困難であることが致命的です。

 これまで北朝鮮には、国連決議に基づく制裁だけでなく、日本、米国などによる二国間の制裁が行なわれてきました。しかし、朝鮮戦争以来、「血の同盟」で結びついた中国は、現在でも北朝鮮の最大の貿易相手国です。IMFの統計によると、2010年の北朝鮮からの輸出の約46パーセント、北朝鮮の輸入の約59パーセントを中国が占めています。また、兵器やその開発に関連する物品の輸出を規制するワッセナー・アレンジメントに中国は加盟していません。中国との国境付近が、エネルギーや食糧を含めて、北朝鮮の生命線になっているといっても過言ではなく、これではいかに「貿易相手国の少なさ」「貿易代替の難しさ」という条件を満たしていても、経済制裁が効果をあげることは困難です

中国という窓口が空いていることは、核・ミサイルの開発に必要な物資を、国際市場を通じて調達することが可能になります。かつてカダフィ体制のもとで、リビアではやはり核兵器の開発が進められていましたが、その際に必要になった物資や技術者のほとんどは、特定国からの援助ではなく、市場を通じて入手されていました【吉田文彦(2005)『核を追う:テロと闇市場に揺れる世界』朝日新聞社】。これまでに、日本で操業する企業でも、主に中国経由で北朝鮮に規制対象品を輸出し、検挙された事例は数多くあります

これらに鑑みれば、中国との経済関係が、北朝鮮に対する制裁の効果を、無効化とは言わないまでも、著しく低減させてきたことは確かです。しかし、逆に言えば、今回の経済制裁が奏功するか否かは、中国にかかってくることにもなります。

今回の決議に中国は賛成し、「決議の完全実施を望む」とした一方、中断している六者協議の再開と「外交的解決」の重要性を強調しています。

中国からみて、「核保有国」としての自らのステイタスが脅かされることは、それが例え友好国であっても、全く好ましくありません。また、度重なる静止にも関わらず、金正恩体制がミサイル実験を連続して強行したことが、中国政府を苛立たせているとしても、これまた不思議ではありません。

しかし、その一方で中国には、国連決議に対して北朝鮮が「攻撃を仕掛けてくる国に対して核の先制攻撃の権利を行使する」と表明するなど、緊張がこれ以上高まることを回避したいインセンティブがあります。万一軍事衝突が発生した場合、北朝鮮の現体制が崩壊し、難民が地域一帯に流出する状況は、中国にとって悪夢でしょう。また、軍事的緊張が高まる情勢は、否応なく中国を北朝鮮側に巻き込むことにもなっています。それは、望むと望まざるとに関わらず、中国が米国と正面衝突せざるを得ない状況に向かわせます。

これらに鑑みれば、中国が「外交的解決」で「穏便に」事を収めたいと考えるのは、ごく自然でしょう。ただし、「穏便に」ことを運ぶためには、日米韓に対してだけでなく、中国は北朝鮮に対しても相応の配慮をすることになると考えられます。六者協議に北朝鮮を出席させたいなら、なおさらです。その意味で、従来よりは多少規制を強化するとしても、「決議の完全実施」が行なわれるかは疑問です。その意味で、最初に述べたように、今回の制裁決議がすぐに期待される効果をあげるとは考えにくいのです。

ただし、今回の制裁決議は、より中長期的に北朝鮮の行く末を左右するターニングポイントになる可能性も孕んでいます。いかに苛立っていても、中国が北朝鮮を「切れない」ことは、北朝鮮側も理解していることでしょう。中国の面子を壊してでも、ミサイル実験と核実験を強行し続けることは、それを如実に物語ります。ただ、金正日が中国とつかず離れずの距離を保ち続けたことからみれば、金正恩体制になってからの北朝鮮は、特に中国に対して「関係を切れるものなら切ってみろ」といわんばかりの態度が鮮明です。つまり、北朝鮮の挑発は、日米韓にだけでなく、中国に対しても向けられるようになったとさえ言えるかもしれません。したがって、北朝鮮が核・ミサイルの開発を推し進めて暴走するスピードと、中国の忍耐力が切れるスピードのどちらが速いか、というレースになりつつあるとみれるでしょう。

「アルジェリア人質事件首謀者の殺害」の真偽を越えて:大国、テロ組織、「独裁者」の三角関係

 3月2日チャド軍は、1月のアルジェリア人質事件を主導したイスラーム過激派「血盟団」のモフタール・ベルモフタール(Mokhtar Belmokhtar)司令官をマリ北部で殺害したと発表しました。しかし、フランス政府などから正式の発表はなく、さらに米国の監視団体SITEなどもベルモフタールが生存しているとの見解を示していて、現在のところ、「死亡・生存」の真偽は定かでありません。

アルジェリア出身のベルモフタールは、1990年代の初頭にアフガニスタンでの戦闘に関わった後、「イスラーム・マグレブのアル・カイダ(AQIM)」の設立に従事。しかし、後にこれから分離し、自らの組織「血盟団」を設立したといわれます。これらの武装組織は主義主張、活動内容、支援者をめぐって離合集散が激しく、必ずしも結束しているわけではありません。いずれにしても、サハラ一帯に進出したベルモフタールは武器や麻薬の密輸にも関与し、その神出鬼没ぶりからフランスや米国の治安当局にアンタッチャブルならぬアンキャッチャブル、つまり「拘束不可能な男(Uncatchable)」と呼ばれる存在になっていきました。

ベルモフタールは生きているのか、死亡したのか。これまで、アル・カイダのビン・ラディンをはじめ、多くのイスラーム系テロ組織は、その指導的立場にある人間が死亡した際、それを隠すことはほとんどありませんでした。むしろ、比較的早い段階においてインターネット上などでそれを認め、その報復を宣言することが一般的でした。今回の場合も、近日中には血盟団やそれに近い組織から、何らかのメッセージが発せられると予想されます。

その一方で、ベルモフタールの生死に関わらず、これを発表したのがフランスでも米国でもなく、国連決議を受けてマリでの軍事作戦を主導するフランス軍と行動をともにしていたチャド軍であったことは、アフリカを舞台とする現在の対テロ戦争をみるうえで、意味深長と言わざるを得ません。マリを含む西アフリカ諸国は既にフランスの軍事介入を支持し、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の管理下で部隊を段階的に派遣しています。しかし、その多くは自国と近接するマリ南部にとどまり、イスラーム過激派の武装活動が活発な北部で軍事活動を主に展開しているのは、4000名に登るフランス軍と、約2,400名のチャド軍です。チャドはECOWAS加盟国ではありません。にもかかわらず、むしろ近隣の西アフリカ諸国より積極的にフランス軍と行動を共にする姿勢が、今回はとりわけ顕著です。これはなぜなのでしょうか。

チャドは北をリビア、東をスーダン、南をカメルーン、西をニジェールに囲まれた内陸国で、1960年の独立以来、アラブ系とアフリカ系、親リビア派と親フランス派の抗争から内戦が日常的に続いてきました。1991年以来、22年に渡ってこの国を支配するイドリス・デビー大統領は、武装勢力を軍事力で鎮圧しつつ、もう一方で合法的野党も抑圧する「独裁者」としての顔ももちます。

2008年、最大野党・共和国連邦運動(FAR)のリーダー、ンガレジ・ヨロンガが「武装勢力との結びつき」の嫌疑で当局に拘束され、隣国カメルーンに連れ出され、拷問を受けていたことが発覚しました。西側先進国は冷戦終結後、多くの開発途上国に対して、民主化や人権保護を求めてきています。ところが、ヨロンガの一件に対して旧宗主国フランスはヨロンガの恩赦をチャド政府に求めた以外、強くこれを非難することはありませんでした。フランスだけでなく、日本を含む西側先進国も、ほぼ同様です。

その理由は、大きく分けて二つあります。第一に、チャドが日産17万バレルの産油国で、原油や天然ガスのほとんどを、フランスやドイツなどのヨーロッパ諸国に輸出していることです。

そして第二に、この地域における力学上、チャドが西側先進国の「手駒」として必要だったことがあげられます。

デビー率いるチャド政府は、米国政府から「テロ支援国家」と目されているスーダンと敵対してきました。スーダンのアル・バシール大統領は、2003年から同国西部のダルフール地方で発生した内戦「ダルフール紛争」で、政府系民兵組織「ジャンジャウィード」がアフリカ系住民を虐殺し、その土地を乗っ取ることを容認、あるいは指示したとして、国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状が発行されています。ジャンジャウィードは、かつてリビアのカダフィからの支援を受けていたメンバーを中核としています。

ダルフール紛争勃発後、10万人以上の難民が国境を越えてチャドに流入しました。これを追ってジャンジャウィードがチャド領内に侵入し、チャド軍と交戦したことをきっかけに、両国の関係は急速に悪化しました。2006年4月、チャドの反政府武装勢力が首都ンジャメナ近郊にまで迫り、これをからくも撃退した後、デビーはスーダン政府がこれを支援していたと主張して、国交断交を宣言。両国の緊張はピークに達しました。

デビー本人もムスリムで、近隣諸国との対立を宗教対立とみることはできません。チャドとスーダンの対立は、「国境侵犯」というどこの世界でもあり得る問題が引き金でした。そして、この状態を処理(「解決」ではない)したのは、他ならぬカダフィでした。カダフィの仲介により、チャド、スーダン両政府は2006年8月に国交を回復させました。アル・バシールの「親分」の顔を立てることで、デビーはスーダンとだけでなくリビアとの正面衝突に至る事態を回避したといえるでしょう。カダフィは1987年にチャドへ軍事侵攻し、リビア軍を撃退したのは、当時軍の最高司令官だったデビーでした。この関係からも、デビーにとって最大の敵は、アル・バシールよりむしろ、その後ろにいるカダフィだったといえるでしょう。

ともあれ、チャドのイドリス・デビーは、カダフィやアル・バシールといった「危険人物」と潜在的に敵対する関係にあったわけで、これは逆に西側先進国との友好関係を維持することに繋がりました。チャド国内には1000名以上のフランス軍が常駐しており、チャド反政府勢力の鎮圧作戦にも協力しています。一方で西側先進国からみた場合、デビーあるいはチャド政府は、自らに敵対的なイスラーム系勢力の影響力がアフリカ北部で大きくなることを抑制するための「手駒」だったのです。

ところが、2011年8月にカダフィ体制が崩壊したことはデビーからみて、北方の脅威がなくなったことと同時に、新たな問題に直面せざるを得ないことを意味しました。

第一に、カダフィの影響下にあった諸勢力が、求心力を失って、その行動が無軌道になる状況です。実際、マリでAQIMが活動を活発化させ、同国北部の「分離独立」を宣言させるに至った直接的な契機は、カダフィ体制の崩壊にともなう、武器や人員のリビアからの流出にありました。リビアやスーダンの支援を受けた武装勢力と内戦を続けてきたデビーの立場に立てば、末端までコントロールできていたわけでないにせよ、大きな存在感をもっていたカダフィがいた頃の方が、相手方の行動を予測しやすかったとさえ言えるかもしれません。それは―スケールは全く違いますが―モスクワとの対決に集中していれば世界の大方の問題に対処できた米国が、冷戦終結後のソ連崩壊で国際環境が流動的になり、注意を分散させなくてはいけなくなったことで、対応能力を低下させた状況に酷似しています。その意味で、これまで基本的に国内の反政府イスラーム組織の鎮圧に終始していたチャド政府が、マリにまで赴いて血盟団などの掃討作戦に加わっている背景には、これらの組織の連携が他人事でなく、チャド国内に飛び火する危険性への懸念があるといえるでしょう。

第二に、カダフィが消えたことが、それに対抗するための「手駒」であったデビーの、西側にとっての利用価値を低下させかねないことです。これまでも再三取り上げてきたように、西側先進国は原則的に開発途上国に民主化や人権保護を求め、これに反する国に対しては多かれ少なかれ制裁を課してきましたが、資源産出国や戦略的要衝に関しては、その限りではありませんでした。チャドは石油輸出国であると同時にリビアやスーダンへの対抗という観点から、西側先進国の「お目こぼし」の対象となり、その国内情勢は不問に付されてきました。つまり、デビーからみた場合、カダフィの存在は「独裁者」としての自らの立場を保全する前提条件でもあったわけです。産油国というステイタスが消えるわけでないにせよ、カダフィ体制の崩壊はデビーあるいはチャド政府にとって、国内のフリーハンドを西側から守るため、新たな存在意義を示す必要性に迫ることになったとみていいでしょう。北アフリカから西アフリカにかけての近隣地域で広がる「対テロ戦争アフリカ戦線」での勲功が、その格好の材料とみることに、大きな無理はありません。

一方で、フランス軍にとってチャド軍は有力なパートナーです。どの国もテロ組織が跋扈する状況は望んでいませんが、他方で自国の負担が大きくなることを回避したい点で共通します。地域最大の軍事力をもつナイジェリアでさえ1200名ほどの兵力しか提供していないなか、デビーおよびチャド軍の軍事的貢献がフランスの目に好意的に写るであろうことは、想像に難くありません。

小国がテロ組織の軍事的脅威に対応できないなか、それが「テロの脅威」を拡散させないようにするためであっても、少なくとも結果的には、小国に介入することで大国は自らの影響力を高める。一方で「独裁者」は、「テロ組織の脅威」で自らの強権的な支配を正当化するだけでなく、その鎮圧によって大国の好意すら勝ち取る。さらにその一方で、「独裁者」による恣意的な支配やそれに対する大国の黙認への広範な不満を培養層として、テロ組織は支持基盤を広げる。対テロ戦争のアフリカ戦線が拡大するなか、フランスなど域外大国、テロ組織、「独裁者」の三者は、その勢力拡大においてお互いを利用しているといえるでしょう。

アフガニスタン撤退をめぐる英国的「後始末のつけ方」

 2月4日、英国のキャメロン首相はアフガニスタンのカルザイ大統領、パキスタンのザルダリ大統領を首相別邸に招いて首脳会談を行い、6ヶ月以内にアフガニスタンの旧支配勢力、タリバンとの和平合意を目指すという共同声明を発表しました。この会合にはタリバンにも参加が呼びかけられていましたが、タリバンはこれに出席しませんでした。

 英国はなぜ、この会談をプロモートしたのでしょうか。そして、タリバンを含む和平合意は成立するのでしょうか。

 英国とアフガニスタンの因縁は、19世紀にさかのぼります。両者はある時には協力してお互いを利用しあい、またある時には戦闘を繰り返してきた間柄です。

 19世紀のアフガニスタンは、イランからチベットに至るまでの地域でユーラシア南下を目指すロシア帝国と、植民地インドの確保を至上命題とする英国の衝突「グレートゲーム」の余波を受けた土地でした。死活的な植民地であったインドを北方から脅かされることを恐れた英国は、当時のアフガニスタンを支配したアミール(「イスラーム信徒の長」を指す尊称)と1855年にペシャワール条約を結び、相互の領土保全と一方の敵に対して協力してあたることを約しました。ロシア帝国やガージャール朝イランから防衛することで、英国はアフガニスタンへの影響力を増していったのです。

 しかし、これに対してアフガニスタンも、英国の威光を利用しつつも、その支配下に置かれることを抵抗するようになります。アミールであったドースト・ムハンマド・ハーンがロシアの外交使節を受け入れたのは、その象徴です。これに対して英国は不信感を強め、かつてアフガニスタンを支配した一族、サドゥザーイー族の残党を擁してアフガニスタンに侵攻しました(第一次アフガン戦争:1838-42)。現地の支配勢力と敵対する者を味方につけ、それを支援する顔をして軍事侵攻する手法は、帝国主義時代によくみられたものでした。しかし、「七つの海を支配した」英国軍は、内陸の山岳地帯を駆け回るアフガン騎兵のゲリラ戦術に翻弄されて、まさかの敗退。その後、1878年に再びアミール、シェール・アリーがロシア外交使節を受け入れたときに、英国は再び軍事侵攻を試み、これによってアフガニスタン支配に至りました(第二次アフガン戦争:1878-80)。

 ただ、勝利したとはいえ、アフガニスタンを直接支配することの困難さを痛感した英国は、アフガニスタンの独立性を容認しつつも、その外交権を掌握し続ける「保護国」とする決定をします(1880)。ロシアとインドとの緩衝地帯としてアフガニスタンを位置づけた英国は、直接支配することが困難な以上、ロシアに接近させないことをもってよしとしたのです。

 ところが、英国により保護国とされたアフガニスタンでは、「鉄のアミール」と呼ばれたアブドゥル・ラフマーン・ハーンや、その後継者であるハビーブッラー・ハーンのもと、着々と反転攻勢の準備が進められました。アブドゥル・ラフマーン・ハーンは「イスラームの地の防衛」を至上命題とした一方、表面的には英国との友好関係を維持し、その支援の下で王立軍事学校、近代的な病院、水力発電所などの建設を推し進められたほか、徴兵制の導入や国有地の払い下げなど、軍事、産業、民生の各領域で近代化が推し進められました。つまり、歴代のアミールのもとでアフガニスタンは、英国の協力によって近代化し、国力をつけることで、最終的にイスラームの地から英国を追い出す下準備をしたといえるでしょう。

 この準備が奏功した契機は、第一次世界大戦(1914-18)にありました。未曾有の大戦争の結果、工業生産高で米国に抜かれるなど、19世紀の超大国・英国は経済的・軍事的に衰退の道をたどり始めました。それに加えて、第一次世界大戦後、1919年のヴェルサイユ条約で「民族自決」が掲げられたにもかかわらず、そして第一次世界大戦で英国に軍事的に協力したにもかかわらず、この原則が適応されないことへの不満からインドで暴動が発生し、南アジア一帯が不安定化し始めました。この機を逃さず、1919年5月、当時のアミール、アマヌッラー・ハーンは英国に対するジハード(聖戦)を宣言し、インドに侵攻して英軍との衝突に突入第三次アフガン戦争:1919)。同年8月、英国との間で結ばれたラワルピンディー条約により、アフガニスタンは外交権を回復し、アフガニスタン王国として完全独立を果たしたのです。

 19世紀、英国は「日の没さない帝国(世界中に植民地があったため、どのタイミングであっても、そのうちのいずれかは必ず昼間であった)」と呼ばれ、世界に冠たる植民地帝国でした。そして、その英国が触手を伸ばしながら、完全には支配しきれなかった数少ない例外の一つがアフガニスタンだったのです。そのアフガニスタンに英国が再び関与を強めたのは、2001年の米国同時多発テロ事件以降のことでした。

 冷戦期の1979年、ソ連によるアフガン侵攻(1979-89)が発生しました。これに抵抗するために世界中からイスラーム義勇兵(ムジャヒディーン)が参集し、国際テロ組織アル・カイダを創設したビン・ラディンなど、その後世界的に知られることになったイスラーム主義者たちは、このときにアフガニスタンで邂逅したといわれます。

 この頃、ソ連だけでなく、ソ連から援助を受けたアフガニスタン人民民主党による社会主義政権に対抗するイスラーム組織の一つとして、タリバンの結成を支援したのが、隣国のパキスタンでした。パキスタンは独立以来、カシミール地方の領有をめぐって隣国インドと争っていますが、冷戦時代のインドはソ連と友好関係にあり、必然的にパキスタンは米国と友好関係にありました。そのなかで、パキスタン政府はアフガニスタン難民に対して、神学校を通じて「思想教育」を施し、さらに軍事訓練を行いました。インドだけでなく、ソ連に援助を受けたアフガニスタンの社会主義政権に対抗する「手駒」として、タリバンはパキスタン政府によって育成されたのです。

 ところが、先に述べたように、ビン・ラディンら海外のより過激なイスラーム主義者たちとの交流のなかで、タリバンは米国と友好的なパキスタン政府と距離を置き始めました。ソ連がアフガニスタンから撤退した後、混乱する国内を武力で抑えたタリバンは、1996年に首都カブールを占領し、「アフガニスタン・イスラーム首長国」の独立を宣言。イスラーム法(シャリーア)に基づく支配を打ち立てたのです。その一方で、国際テロ組織アル・カイダのビン・ラディンなどを国内に匿い、さらに東は中国の新疆ウイグル自治区から西は地中海沿岸に至るまでのネットワークを形成するなど、アフガニスタンはイスラーム過激派の一大拠点になっていました。こうしてタリバンは、「生みの親」パキスタンにも、徐々に手に負えない存在になっていったのです。

 このうち、同時多発テロ事件の首謀者であったビン・ラディンを匿っていたことが、アフガニスタンに対する米国の報復攻撃をもたらしたわけですが、これと行動をともにしたのが英国でした。米英軍の攻撃によって政権の座を追われたタリバンは野に下りましたが、パキスタン国境付近を中心に分散し、外国の軍隊や、その支援を受ける新生アフガニスタン政府に対するテロ攻撃を通じて抵抗を続けました。これに対応するため、2001年12月の安保理決議とアフガニスタン暫定政府との協定に基づき、国際治安支援部隊(ISAF)が派遣され、国内の治安維持、新生アフガニスタンの軍や警察の訓練、テロリストの掃討作戦などを担ってきましたが、これに英軍は9500人を派遣しており、その規模は50カ国におよぶ派遣国のうち米軍の6万8000人に次ぐものです。また、英国王室のヘンリー王子も、20週間にわたってアフガニスタンでの任務に就きました。

 英国政府が米国とともにアフガニスタンに深く関わった大きな背景としては、「米国とヨーロッパに二股をかけて、両者の間を繋ぐことで存在感を保つ」外交方針がありました。しかし、それだけでなく、イラク攻撃(2003)が「大量破壊兵器を保有している」というほとんど「言いがかり」で行われたことと比較すれば、アフガン攻撃の場合は少なくとも当初は「9.11に対する報復」を大義としていたため、国際的にも大きな非難を浴びることはありませんでした。これもあって、少なくとも当初、(米国と同様に)英国内部でアフガニスタンでの軍事行動に批判的な意見はほとんどありませんでした。

 ところが、やがて自国兵員の犠牲者が増え、財政負担が重くのしかかるなか、米国と同じく英国でも出口の見えない対テロ戦争への厭戦ムードが広がりをみせるようになります。2010年1月、イラク攻撃当時英国首相だったトニー・ブレア氏は独立調査委員会の公聴会で証人喚問され、「大量破壊兵器が発見できる」という報告に情報操作があったのではという質問に「訂正されるべきだった」と応じたうえで、「多くの国が大量破壊兵器の存在を信じていたうえ、それがテロリストに渡る可能性は見過ごせなかった」と主張しました。先述のように、イラクとアフガニスタンではやや事情が異なります。しかし、そもそも首相経験者が証人喚問されること自体が英国では異例で、それだけ米国に協力的な外交姿勢への不満が市民に浸透していることをうかがえます。

 その一方で、ISAFは2014年末までに任務を完了し、アフガニスタンから撤退することになっています。それが視野に入り始めた現在、財政赤字に苦しむ米国オバマ政権は、アフガニスタンからの撤退も加速させています。冒頭で述べた三者会合の直後の2月12日、オバマ大統領は議会での一般教書演説で、アフガン駐留軍の約半数3万4000人の撤退を発表。最大の同盟国、米国が撤退を急ぐ状況が、英国政府をしてアフガニスタンから手を引くことを促しているといえるでしょう。キャメロン首相、アフガニスタンのカルザイ大統領、そしてパキスタンのザルダリ大統領の会見は、内外の事情から英国がアフガニスタンへの関与を弱めざるを得ない状況のなかで行われたのです。

 ところで、この状況下で英国政府がただアフガニスタンから撤退するだけでなく、アフガニスタン政府、パキスタン政府、さらにタリバンに会合を呼びかけ、和平合意の実現を模索することには、どんな意味があるのでしょうか。これには、大きく2つの解釈ができると思います。

 第一に、荒廃したアフガニスタンの和平合意をプロモートすることで、ISAF撤退後のこの地域における安定のお膳立てし、ひいては英国の外交的立場を保つという見方です。

 ISAFの任務完了が規定路線化されているとはいえ、新生アフガニスタンの軍や警察は錬度や装備がいまだ充分でなく、現在もタリバンによるテロ活動が横行しています。さらに、政権崩壊後のタリバンは「故郷」パキスタンとの国境付近での活動を中心にしていますが、パキスタン国内でも「反イスラーム的」とみなされた個人が襲撃されるなど、そのテロ活動に広がりがみられます。昨年10月には、女子教育の重要性を訴えていた14歳の少女がタリバンに銃撃されています。このような状況下で後始末をつけずに撤退することは、国内世論はともかく、さすがに国際的な立場にかかわります。

 一方で、支配した地域の問題を交渉に持ち込んで処理し、そのうえで引き上げるのは、英国の十八番でもありました。先述のように、20世紀の初頭、英国は保護国アフガニスタンからの攻撃を受け、その独立を容認せざるを得なくなりました。しかし、近代以降、植民地帝国・英国が本格的な武力衝突の結果として独立を認めたケースは米国やアフガニスタンなど少数派で、ほとんどの場合は、カナダ、オーストラリア、エジプト、インド、(イスラーム革命以前の)イラン、南アフリカをはじめとする多くのアフリカ諸国のように、支配し続けることが困難になったとき、(散発的な武力衝突はあったとしても)交渉を重ね、影響力を残す形で独立を認めてきました。だからこそ、旧植民地の多くが、いまだに英連邦(Commonwealth)にとどまり、緩やかな結びつきを保っているのです。すなわち、ベトナムに象徴されるように、「勝つことに熱心だから勝ち方は非常に上手だが、逆に負け方は非常に下手」と揶揄される米国と異なり、英国は負ける際にも最低限の利得と立場を保持する、しぶとい外交を行ってきたのです。

 この観点からすれば、今回の三者会合は、テロ活動が続くなかでのアフガニスタン撤退という事実上の負け戦のなかでも、当事者同士の交渉の場をセッティングすることで、撤退後もこの地域に独自の立場を保つための工作、と捉えられます。いわば、「昔とったきねづか」といったところです。一刻も早くアフガニスタンから撤退したいという姿勢をにじませる米国・オバマ政権もドーハでタリバンとの秘密協議を進めてきましたが、米国-タリバンの二者交渉は、「蚊帳の外に置かれる」という懸念から、カルザイ大統領が反対し、目立った進捗がありませんでした。これと比較すると、アフガニスタン政府だけでなく、関係の深いパキスタン政府をも巻き込んでタリバンとの交渉を進めることは、仮に合意が形成されれば、より実効性の高いものになると期待されると同時に、英国政府にとって内外の批判的な声を抑え、その国際的な立場を保つことができるとみられるのです。

 しかし、実際にはタリバンが出席していないため、今のところ協議は空振りです。ここから第二の見方、つまり ‐ 第一の見方の裏返しになりますが ‐ 一種の「アリバイ工作」という解釈が出てきます。言い換えれば、タリバンが出席せず、協議が実質的に進まないことを織り込み済みで、しかし「アフガン和平のために英国はこれだけ尽力した」というアピールを内外にした、という見方です。

 タリバンのようなテロ組織あるいは武装勢力を相手にした交渉は、国家・政府を相手にするものと比べて、より困難です。まず、国家・政府の場合、「国家の独立・主権を存続させる」ことが大前提になるので、実際の交渉においては、核心的利益を守るためにある程度の妥協を重ねることが一般的です。ところが「イスラーム国家を樹立する」といった大目標があるタリバンのような組織の場合、それを損なう妥協はしにくくなります。生産的な利益のために妥協できるか、できないかはリーダーシップによるところが大きいわけですが、今日のテロ組織、武装勢力では、上意下達の近代的な軍隊と異なり、指導者(タリバンの場合はオマル師)の指示・命令が逐一実施されるわけでありません。タリバンの場合も、「イスラームの地としてのアフガニスタンから外国勢力を追い出す」点は共有していても、末端は地域や血縁で結びつき、それぞれ半ば自前で武装活動を行っている、小さな勢力の集まりです。つまり、一つの大企業ではなく、零細企業が共通の目標のためにコラボしているようなものです。そのなかでは、いかに指導者が妥協を決意したとしても、その方針が即座に隅々にまで行き渡ることはありません。実際、タリバンの内部には米国との秘密協議に反対する強硬派があり、これがアルカイダとの連携を深め、より過激な武装活動に向かっているといわれます。

 テロ組織との交渉の難しさも、タリバンの事情についても、英国政府は熟知しているはずです。にもかかわらず、「6ヶ月」という短期間の目標を掲げたことは、努力目標としてはいいかもしれませんが、実際にどの程度の実現可能性があるかと考えたとき、首を傾げざるを得ません。

 もちろん、可能性としては逆のこともいえます。つまり、敢えて「6ヶ月」という目標を掲げ、ISAF撤退までに和平合意の道筋をつけたいという意思表示を行うことで、タリバン上層部の穏健派に交渉へ向かわせるよう「お尻に火をつけた」という見方です。しかし、これまでに接触を重ね、交渉の気運が温まってきていたならともかく、英国が個別にタリバンと接触していたとは、少なくとも伝えられる範囲では、聞いたことがありません。仮に人的ネットワークを通じた情報収集(ヒューミント)が得意な英国外務省が独自に交渉ルートを開拓していたとしても、ISAF撤退はタリバン強硬派にとって活動を一気に加速させる契機になりえるだけに、上層部の穏健派にとっても武装闘争の停止などを強制することは並大抵でありません。言い換えれば、「『6ヶ月』と時期を区切ることでタリバン上層部が交渉に向かう」と読むことは、「当たり」の出る確率が低い賭けとみられるのです。

 2つの解釈のいずれが正しいかは、現段階では判然としません。場合によっては、第一と第二の解釈の半々ということもあり得ます。つまり、「ダメかもしれないけどやってみよう。うまくいかなかった場合でも、損にはならない」というレベルなのかも知れません。

 ともあれ、いずれの解釈が正しかったとしても、今回の交渉のセッティングからは、英国自身が独自の立ち位置を模索していることを見て取れます。イラク攻撃にフランス、ドイツが反対して以来、米国と西ヨーロッパの間には不協和音が目立ちます。オバマ政権のもと、米国の安全保障戦略が中国を念頭にアジアシフトしていることも、大西洋同盟の結びつきを弱めています。その一方では、ギリシャ債務危機以降、EUの求心力も低下しつつあります。さらにまた、日本にも共通することですが、新興国の台頭によって、西側先進国の発言力は相対的な低下に直面しています。なかでも、第二次世界大戦以降、米国とヨーロッパの間をとりもつことで存在感を保ってきた英国は、とりわけその方向性を模索せざるを得ない立場にあります。

 米国主導では進展がみられない和平合意に道筋をつける取り組みは、米国との役割分担、言い換えれば「補完」関係とみることも可能です。しかし、以上の理由だけでなく、先述の財政負担や反戦世論といったアフガン作戦にともなうコストに鑑みれば、今回の三者会合からは、今後も米国と二人三脚でやっていく意思表示より、米国といかに対照的な役割を演じられるかに腐心するキャメロン政権の図が浮かんできます。言い換えれば、英国政府は「米国とある程度付き合うが、米国とのコントラストをこれまで以上に鮮明にする」方針に転換しつつあるといえるでしょう。

 これに加えて、もう一つ確かなことは、仮に英国政府、アフガニスタン政府、パキスタン政府に、タリバンを加えた四者会合がスタートしたとしても、協議が相当程度難航するであろうということです。考えられる落としどころとしては、以下の各点があげられます。

  • 武力衝突の停止と引き換えに、タリバンの免責を保障する
  • タリバンのメンバーの武装解除と引き換えに、職業訓練など社会復帰のプログラムを提供する
  • 全勢力が参加する選挙を実施する
  • テロの背景になっている貧困の撲滅のために、産業の育成、インフラの整備、教育・医療の普及などを政府が責任をもって行う

 しかし、いずれも一朝一夕にクリアできる課題ではありません。特にタリバンの免責には被害者からの反発があるでしょうが、他方でこれがなければタリバンが武装闘争を停止させることは困難です。また、選挙の実施についても、「議会制民主主義がそもそも欧米的」と言われてしまうと、もはやどうにもなりません。ここに関しては、パレスチナのハマースやエジプトのムスリム同胞団のように、「議会進出を通じたイスラームの価値の実現」の方向にタリバン上層部が舵を切れるかにかかってきますが、その実現可能性は未知数です。また、先述のように、上層部の意思決定が末端まで行き渡るには、少なくとも現状においては、長期間を要するとみたほうがいいでしょう。

 アフガン攻撃が始まって、今年の11月で12年目に入ります。その間、「戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのが難しい」ということは一貫して言われてきました。今回の会談の不首尾は、はからずもそれを実証したことになります。とはいえ、軍事力のみで対テロ戦争を遂行できないことは、この11年間が示しています。その意味で、これまでみてきたようにその道のりは険しいと言わざるを得ないのですが、今後タリバンが和平合意に応じるか否かは、中国、シリア、アルジェリア、マリといったイスラーム過激派のネットワークに覆われた他の地域にまで影響を及ぼすものであり、ひいては対テロ戦争全体の行方を占う一つの試金石にもなるのです。

中国艦船のレーダー照射を「面子」から考える

 2月5日、小野寺防衛相は、1月30日に東シナ海で中国海軍の艦船が、海上自衛隊の艦船に射撃管制用のレーダーを照射していたことを発表しました。これに併せて、やはり1月19日、別の中国艦船が海自ヘリコプターにレーダーを照射した可能性も明らかにしました。既に多くの報道で言われているように、これは実際の発砲に準じる行為で、少なくとも戦闘状態にない国同士の間で行われるには、あまりに攻撃的な意思表示です。

 記者会見で防衛相が「大変、異常なこと」と再三繰り返していたように、東シナ海での日中の緊張関係が一段高いステージに入ったことは、間違いありません。偶発的な武力衝突に対しては、日本政府だけでなく、米国政府も懸念を示しています。

 日本政府の抗議に対して、中国側の担当者は当初、「まず事実を確認したい」と応えたと伝えられています。「これを承知していたわけでない」という姿勢をみせた後、7日夜の声明で、中国政府は日本政府の主張が「事実に合致しない」として、むしろ日本の艦船から追尾されたと非難し始めました。

 尖閣問題をめぐる日中間の緊張が、少なくとも表面的にはやや沈静化していたタイミングで、かつての「餃子農薬混入事件」などと同様に、自らの責任を全く否定し、むしろ日本に責任の全てがあると声高に主張する姿勢に、うんざりしたひとも多いでしょう。かくいう私もそのひとりです。なぜ、中国は責任を認めないのでしょうか。

 今回の事案には、およそ二つのシナリオが考えられます。
  • 国際常識に乏しく、なおかつ反日的な末端の兵員が、面白半分でレーダーを照射した。それを公にすれば、人民解放軍の管理能力に対する評価を著しく損なうため、「事実でない」と強弁している。
  • 日本に対してプレッシャーをかけるため、実は政府レベルから、明示的であれ暗示的であれ、フリゲート艦にレーダー照射の指示があった。それもやはり公にできないので、知らなかったふりをして、「事実でない」と強弁している。

 前者の場合、まさに偶発的な武力衝突を引き起こしかねない問題です。経済的なコストや国際世論、さらに日米同盟の存在を考えれば、いま中国政府が日本相手に戦争を仕掛けることは考えにくいわけですが、現場レベルで意図しない衝突が発生してしまった場合は話しが別です。故に、仮に今回の事案がシナリオ1に沿ったものだとすると、中国政府は対外的に日本への非難を強めておきながら、他方で(こっそりと)人民解放軍の綱紀粛正に向かうと考えられます。

 一方、後者の場合、共産党、政府、人民解放軍に至るまで、中国全体が日本へのプレッシャーを強めようとしていることを意味します。シナリオ2が真実だった場合、軍事的な緊張を高める手法をとるか否かはともかく、今後とも同様のことが起こることになるでしょう。

 いずれが真実かは、今のところ藪の中です。しかし、いずれにせよ、中国が自らの責任を認めず、むしろ日本を批判していることは確かです。その根本的な背景には、中国の行動原則である「面子(メンツ)」があります。

 政治学者の木村雅昭・京大名誉教授は、中国社会を律する原則としての「面子・顔」を、自分自身の自分に対する内面的評価を重視する「名誉心」と異なり、社会的な立場によって自分に課される外面的評価を優先させる意識と捉え、その端的な例として、ノーベル文学賞にもノミネートされた中国の小説家・林語堂の文章を引用しています。「『顔』 を西欧流の『名誉』 と混同することは、悲しむべき誤りである。・・・地方長官の醜い息子が芸者屋に行ってひじ鉄砲を食い、一隊の巡警をひきつれて、その女の逮捕とその家の閉鎖を命じたとする。その息子は『顔』をかち得たわけだが、『名誉』を守ったのだとはいえないと思う』【木村雅昭『国家と文明システム』pp.243-244】

 つまり、周囲のひとからみた「自分の立場」を意識し、それにふさわしい行動を取らなければならない、というのが中国的行動パターンといえるでしょう。林語堂の例にあった「醜い息子」は、「地方長官の息子」としての社会的な立場、つまり「芸者屋の女ごときにバカにされては、他の者の手前、立つ瀬がない」という外面的評価を、「ひじ鉄砲を食ったことに逆切れするのはみっともない」という内面的評価に優先させたもの、と理解されます。このように外面を重視し、外面的評価を「立てる」ために細心の注意を払うことが行き過ぎれば、周囲から「その立場にふさわしい」という認知は得られるとしても、共感や賛同は得にくくなります。

 同時にまた、外面的評価を「立てる」ことが優先されれば、翻って内面を覆い隠すことにもなります。中国の贈答品には、箱の包装ばかり立派で、中身が貧相ということは、珍しくありません。(現代の)建築物では、遠目に威風堂々としていても、中に入ってみればひび割れなどが目立つことも、これまた珍しくありません。対人関係においても、相手の社会的立場を傷つけないことを優先させることで、儀礼的なコミュニケーションが多くなり、本心はなかなか明かさないことになります。つまり、他人を信用しないメンタリティが醸成されることになります。

 以下では、「面子」の文脈で今回の問題を振り返ります。

 まず、シナリオ1が真実だった場合、明らかに問題は末端兵員にあったことになりますが、それは「世界第二の経済大国」の軍隊(厳密には人民解放軍は党の軍隊ですが)としては、まさに面子に関わる問題です。それは国際的にだけでなく、国内に対しても同じです。「党の軍」である人民解放軍は共産党体制を支える要であり、「遊びでレーダー照射を行った」といった不始末を口にできるはずはなく、その事実を日本に指摘されたこと自体が受け入れられなくなります。故に、林語堂の例に沿って言えば、「本当に悪いのは俺様に恥をかかせたお前だ」と息巻く「醜い息子」と同じ行動パターンになることは、理の当然です。

 では、中国政府が意図的にレーダー照射を行ったとするシナリオ2が真実だった場合はどうでしょうか。この場合、国内レベルと国際レベルで分けて考える必要があります。

 まず国内レベルでいえば、日産やホンダの中国における1月の新車販売台数が、昨年9月の反日デモ以降、初めてプラスになったことに象徴されるように、一時の反日的なムードはやや緩和しているようです。しかし、上海にある日系企業で、中国人従業員がストの一環として日本人幹部らを軟禁するなど、「反日」を名目とした行為が横行していることも確かです。つまり、反日的スローガンを声高に叫ぶ人間が中国社会で多数派か否かにかかわらず、少なくとも公式あるいは明らかに、日本に対して批判的な論議を否定することは困難な状況です。言い換えれば、仮に親日的なひとであったとしても、「親日的な意見を吐いた場合に社会的な制裁を受けるかもしれない」と思わせる雰囲気があるといえるでしょう。これは、先ほど述べた「面子」に立脚した社会にある「他人を信用しないメンタリティ」と結びつきます。

 その一方で、日中間では、緊張緩和に向けた取り組みも進んできました。1月25日、公明党の山口代表が習近平総書記と会談し、日中間のハイレベルの首脳会談が重要であることで同意に至りました。この前後、鳩山元首相、村山元首相、加藤前衆院議員が相次いで訪中し、政府要人と面談を重ねました。緊張緩和そのものは、中国政府にとっても好ましいことです。しかし、緊張緩和のための対話が進むことが、中国内部の反日的世論からの反発を招くこともまた、想像に難くありません。つまり、中国政府や人民解放軍の首脳部が、この状況下で敢えて日本に対して威圧的な態度をとることは、「日本に丸め込まれるほどヤワじゃない」という外面的評価、つまり「面子」を国内的に保つ効果があるといえるでしょう。

 次に国際レベル、特に日本との関係でいえば、日本国内の中国に対する警戒感や反感が、中国政府の「面子」を損なってきたところがあります。久しく使われていない「戦略的パートナー」という言葉に象徴されるように、「相手を信用はしないが、事を構えないことが双方の利益になる」という相互理解が、日中関係の基本でした。経済的な観点からすれば、日本政府には中国との緊張緩和は避けられず、先ほど述べたような人的交流でその糸口を探ってきたとみるべきでしょう。同じことは、中国政府にも言えます。日本との緊張緩和を図ること自体、中国政府からすれば、(それは中国政府自身が生み出してきた部分もある)国内の反日的世論を抑えたものです。

 ところが、一方で緊張緩和を模索しながら、他方で緊張を高めてきたという意味で、日本政府は中国政府とほぼ同じです。安倍総理は1月18日、インドネシアのユドヨノ大統領との共同記者会見で、自由、民主主義、法の支配といった普遍的価値観を拡大する「価値観外交」を掲げました。さらに1月20日には、これを推進するパートナーとして、インドやオーストラリアを巻き込んで中国をけん制する「セキュリティ・ダイヤモンド」構想も発表しています。これらが中国を標的にしたものであることは、衆目の一致するところです。

 1989年の冷戦終結後、西側先進国は開発途上国に対して、援助の前提条件として民主化や人権保護を求めてきています。中国に関して言えば、これまでにも少数民族の弾圧といった人権問題に、主に欧米諸国から批判を受けた際、「国家主権」の問題としてはねつけてきた経緯があります。その意味で、自由や民主主義といった「普遍的価値観」を外交上の手段あるいは目的にすること自体は、目新しいものではありません。もっとも、西側先進国のなかでも日本は、形式的にはともかく、実際にはこれらの価値観を相手に強要してきませんでした。その背景には、経済的利益を優先させる日本外交の「実利主義」があったといえます。仮に安倍総理が、これらの「普遍的価値観」を政治的ツールとして捉えているとしても、その取り扱いが難しいことだけは確かです。理由は二つあります。

  • 自由、人権、民主主義といった原理に、いかに普遍的な価値があったとしても、それを強要することは相手からの反発を招きます。古くは、ナポレオンがフランス革命の理念を大義に近隣諸国を占領した結果、ドイツやスペインで反乱・抵抗が起こりました。ドイツやスペインでも自由の価値そのものは受け入れられましたが、それが他者から強制されることは、話が別だったのです。現代でも、中東諸国では人権規範が浸透する様相がうかがえますが、これを欧米諸国から強要される際には強い反発があります
  • 理念に照らしていえば、人権や民主主義の普遍的な価値を強調するならば、相手を問わずそれを求めなければなりません。しかし、実際には相手を選ぶ「ダブルスタンダード」が拭い難く、それは「価値観の政治利用」という批判を招きがちです。

 故に、自由や民主主義の重要性を訴えること自体はともかく、それを手段として用いるときには、相当程度の慎重さが求められることは確かです。しかし、例えば、同じく人権状況に問題があっても、1月初旬に麻生副総理がミャンマーに訪問した際に、そういった話題がのぼったとは寡聞にして聞きません。また、サウジアラビアに代表されるイスラーム圏諸国の多くは、欧米諸国から「女性の人権が充分保護されていない」と批判されていますが、これら「文化と人権」にまつわるセンシティブな問題に、日本政府は黙して語りません。そこには、人権や民主主義の普遍的価値を特定の国だけを念頭に強調するという矛盾があります。また、人権や民主主義といった原理を露骨に「手段として」用いることは、2003年にブッシュ政権が「大量破壊兵器をもっている」という主張のもとにイラクを攻撃し、それが発見されないとみるや、攻撃の大義を「中東の民主化」に切り替えたことを想起させるもので、やり方としては粗雑と言わざるを得ません。

 のみならず、「普遍的価値観」を強調することは、中国の「面子」に直接ヒットするもので、物質的な制裁以上に中国政府の反発を強めるものになります。もともと、「普遍」の強調には「特殊」を見下す視線があり、「否定できない普遍的原理を振りかざされる」ことは、相手にとって「自分たちが劣ったものとしてみなされている」感覚を強くします。アフリカ諸国で西欧への反発が根強い背景には、奴隷貿易や植民地支配といった歴史だけでなく、冷戦終結から現在に至るまで、ほぼ一貫して人権や民主主義の重要性を「説教」されてきたことがあります。しかも、西欧とアフリカという、いわば実質的な上下関係があるものと異なり、中国からみた日本はもはや対等、あるいは格下の相手です。米国政府から人権侵害を批判されても「内政干渉」でつっぱねてきた中国政府にしてみれば、少なくとも格上でない日本政府から「説教」されることが、先ほどから述べている「相手の社会的立場を傷つけない」という、中国の行動原則「面子」に抵触したとしても、不思議ではありません。

 仮に日本で、法令順守、個人主義、両性の平等といった今の社会常識をもった若いひとが、それらを半ば無視し続けている年配者に異議申し立てをした際、後者はどんな反応を示すでしょうか。私個人の今までの経験でいえば、「生意気言うな」とか、「昔からこうやってきたんだ」といった、およそ理不尽な返答が返ってくることが多かったと思います。つまり、中国ほどでないにせよ、日本でも(特に年配男性に)社会的立場による外面的評価を重視し、それが損なわれたときに意固地なまでに抵抗する「面子」意識は強くあると思いますが、いずれにせよ「価値観外交」に対する中国の受け止めは、これに近いものがあると思います。

 中国が自由や民主主義を欠いた国であることは言うまでもありません。また、個人的には、日本政府がその改善を求めること自体は支持します。さらにまた、今回のレーダー照射に関して、中国政府が責任転嫁を図ることは受け入れられません。

 しかし、激昂するだけが外交ではありません。まして「説教」をするからには、(欧米諸国がそうであるように)自らを律し、国内的には人権や民主主義を誠実に守らなければなりません。また、ダブルスタンダードを完全になくすことは難しいとしても、できるだけ幅広く、それら「普遍的価値」の唱導を図らなければ、説得力は出ません。ところが日本の場合、インターネットでの選挙活動、警察などによる取調べの可視化、在外投票の全面実施、外国人「研修生」の問題、難民の受け入れなど、人道・人権にまつわる問題への取り組みに、欧米諸国と比較した温度差があることは否定できません。これらを「個別の事情」と割り切り、しかも全世界的にそれを訴えるのではなく、こと中国に対してのみ人権の擁護を求めることは、いかに中国での人権侵害が日本と比較にならないものとはいえ、やや「ご都合主義」ではないでしょうか

 「中国の機嫌をとれ」と言っているわけではありません。本気で「価値観外交」でもって中国を攻めるなら、あからさまに中国を標的にして反発を煽るだけの手法ではなく、以上のような課題をクリアして「別に中国だけを標的にしたものでない」と言い張れるだけのものを用意しないといけない、ということです。そうでない限り、「価値観外交」は中国に対するプレッシャーにはなるものの、説得力を欠いたものとなり、「面子の国」中国の反発を煽る効果以上のものを期待できないのであり、少なくとも当面は引っ込めた方が懸命です。いかにやっかいな隣人でも、こちらも引っ越すことはできません。シナリオ1で検討したような、東シナ海での偶発的な衝突の危険性を今後軽減するためには、日本側にもタイミングやアプローチの再考が必要といえるのです。

イスラエルの攻撃がシリア内戦に及ぼし得るビリヤードボール効果

  に、国際政治はビリヤードボールに例えられます。様々な角度から、強弱様々な力が働いてきて、狙ったところに必ずしも行き着かない、という意味です。イスラエルによるシリアでの軍事活動は、これを思い起こさせました。

 1月30日、シリアの首都ダマスカス近郊で、地対空ミサイルなどが保管されていた軍事施設が空爆を受けました。これについて、バラク国防相はイスラエル軍がこれを行ったと暗に認める発言をしています。

 イスラエルからみてシリアのアサド政権(イスラーム少数派のシーア派の一派アラウィー派中心)は、「最も危険な隣人」です。1968年の第三次中東戦争でゴラン高原をイスラエル軍に占領されたシリアは、両国が隣接するレバノンのイスラーム過激派ヒズボラ(シーア派に属する)を支援し、その対イスラエル闘争を支援してきただけでなく、やはりヒズボラを支援し、核・ミサイル開発を進めるイスラーム国家イラン(やはりシーア派の一派12イマーム派を国教とする)とも同盟関係にあります。

 その一方で、2011年以来シリアで続く内戦に関して、イスラエルはこれまで目立った関与を行ってきませんでした。アサド政権に敵対する勢力は、多くの組織が混在しており、そのなかにはサウジアラビア(イスラームの多数派スンニ派の一派ワッハーブ派を国教とする)などから支援を受けたイスラーム主義勢力もあります。大多数の反アサド勢力が結集し、西側先進国からの認知をとりつけたシリア国民連合にせよ、これに参加しない過激なイスラーム主義勢力にせよ、パレスチナの占領政策を続けるイスラエルと友好関係になれるわけでもありません。つまり、イスラエルからみれば、隣国の内戦は「誰が勝っても友人になれない者同士の争いなのです。

 しかし、イスラエルには、いわば共倒れを期待して、シリア情勢に「高みの見物」を決め込むほどの余裕はありません。シリアの混乱が長期化するなか、配力が低下したアサド政権から、兵器が流出する可能性は否定できません。なかでも、内戦発生後にシリア政府が保有を公式に認めた化学兵器がヒズボラに流出することは、イスラエルにとって死活問題です。実際、今回のシリア軍事施設の空爆を暗に認めたバラク国防相は、「アサドが倒れるときにシリアの高性能兵器がヒズボラの手に渡るのは許さないと、われわれは言ってきたはずだ」と述べています。

 さらに、シリアの盟友イランが核・ミサイル開発を加速させていることも、イスラエルの危機感を強めています。昨年12月、ネタニヤフ首相は「あと2ヵ月半でイランの核開発が最終段階に入る」との認識を示しました。IAEA元事務次長オリ・ヘイノネン氏は、イランがウラン濃縮のための新型遠心分離機を数千台設置できると指摘しています。また、1月28日には、イラン政府が生きたサルを乗せたロケットの打ち上げに成功し、サルが無事に帰還したと発表しました。このニュースの信憑性をめぐっては、イランの「捏造」という見方もあります。しかし、真偽はともあれ、イランが核・ミサイル開発の成果を強調すればするほど、これと敵対するイスラエル政府が神経をとがらせることになるのは確かです。

 これに加えて、イスラエル内部の政治状況も見逃せません。1月22日のイスラエル総選挙で、与党リクードと極右政党「我が家イスラエル」との統一会派が最大会派の座を維持し、ネタニヤフ首相は勝利演説で、イランの核武装阻止が最優先課題だと強調しました。ただし、リクード・我が家イスラエルは、選挙前の120議席中42議席から31議席に後退したこともあり、19議席を獲得して躍進した中道の新党「イエシュ・アティド(未来がある)」、極右政党「ユダヤの家」(12議席)と、やはりユダヤ教の影響が強い「シャス」(11議席)を加えた連立協議を進めています。

 このうち、イエシュ・アティドは、高い失業率や生活環境の悪化などに対する若年層の不満を背景に一躍第2党に踊りでた新党です。その支持者の多くは日常的な社会問題への関心が高いため、中東和平を前進させるとの立場をとっているものの優先順位は低く、対外的には右傾化が進むとみられています。

 このような背景のもと、イスラエルはついに二大敵対国の一方、シリアへの軍事作戦を行ったのです。イスラエルの軍事行動が、今後も継続的に行われるか否かは予断を許しません。しかし、周辺地域の混乱が続き、緊張が高まる状況は、イスラエルをしてより一層の軍事行動に向かわせる可能性は大きいといえるでしょう。

 一方で、この状況は、シリア情勢にも微妙な影響をもたらしているとみられます。

 2月4日、シリア国民連合がアサド政権の「平和的退陣」のための交渉の用意があると声明を発表しました。それに先立って、シリア国民連合のハティーブ議長はアサド政権と対話の用意があると表明していましたが、国民連合内部からアサド退陣を大前提にするべきという批判があがっていました。これを受けて、4日のハティーブ議長の声明に「平和的退陣」が盛り込まれたことになりますが、いずれにせよこれは国民連合側が交渉を加速させようとする意思を表すものといえます。

 その約1ヶ月前の1月6日、アサド大統領は反体制派との協議を拒絶する一方で、周辺国などによる反体制派への支援停止を前提に、包括的な国民対話の実施、新憲法の制定、新政府の樹立など独自の和平案を提案しました。しかし、これに対してシリア国民連合は、アサド政権の責任が不明確になることから、徹底抗戦の構えをみせていました。

 つまり、少なくとも結果としては、イスラエルがシリアの軍事施設への空爆を行った前後で、反体制派の国民連合の対応には、「アサド退陣がなければあくまで徹底抗戦すべし」から「アサド退陣は大前提だが、それを織り込んだうえで交渉すべし」へと微修正されたとみることができます。

 先ほど述べたように、シリア国民連合にとってもイスラエルは「友好的な隣人」ではありません。それが関与してくることになれば、ただでさえ戦闘が長期化し、事態収拾に目処がたたないシリア情勢がより混沌としてくることになり、安定は遠のく一方です。そうであるならば、イスラエルが本格的に関与してくる前に、シリア内部で決着を着けた方がいい、という判断がシリア国民連合内部にあったものとみられます。

 「当事者たちが(自らの利得を最大化するという意味で)合理的に判断するはず」という前提に立つならば、「イスラエルの関与が強まる前に国内で決着をつけるべき」という判断は、体制派と反体制派を問わず全ての当事者に共有できるものと捉えられます。ただし、何をもって「合理的」と呼ぶかは、立場によって異なります。

 客観的条件が交渉に向かわざるを得ない方向性に向かわせていることを、全てのシリア当事者が認識できたとしても、そのなかで少しでも自らに有利な条件で交渉を進めようとすることは、想像に難くありません。アサド政権にとっての最大の利得は、「アサド退陣なしの和平」です。一方、反体制派にとっての最大の利得は、「アサド退陣をともなう和平」。正面から利害が対立することで、交渉が膠着することは充分にあり得ます。

 その一方で、シリア国民連合とアサド政権の間で交渉が進展することがあるとすれば、政権側の実権を握っている軍幹部たちが、自らの身の安全を確保したうえで、アサド個人を切り捨てる場合と考えられます。つまり、エジプトで軍がムバラクを切り捨てて自らの立場を保全したように、全ての責任をアサドにかぶせることで、新体制の下で生き残ることをシリアの「影の実力者」たちが決意できた場合、言い換えれば軍幹部たちが「アサドを切り捨てて自分が生き残る」ことに合理性を見出した場合、交渉を阻むハードルは一気に下がります。

 もともと、アサド大統領は父・ハーフェズからその地位を引き継いだものの、父親と異なり、軍や情報機関などへの影響力は限定的でした。2000年代の初頭に政治犯の釈放やインターネットの解禁といった、「ダマスカスの春」と呼ばれた一連の自由化政策は、英国に留学経験もあるアサド自身によって進められたものの、軍幹部らのサボタージュによって頓挫した経緯があります(詳しくはこちら)。

 それから10年以上経った現在、かつて体制の自由化を阻んだ軍幹部らは、自らの安全を保つためにアサドを人身御供にするインセンティブをもつ状況にあります。これに対して、軍によって支えられるアサド自身が、率先して交渉に向かうことは、事実上困難です。事態がここまで至っては、一時アサドを受け入れることを暗示していたロシアも、その亡命を受け入れるかは疑問です。よって、アサドは今後とも「退陣」を受け入れないことで、現体制のもとでの身の安全を図ると考えられますが、それはいずれ、ますますアサドの首を絞めることにもなりかねません。いずれにせよ、アサド自身が反体制派との交渉をリードすることは想像しにくいのであり、それは逆に軍幹部らが離反した場合、全く孤立無援になる状況が生まれるとみられます。

 1月27日、「世界経済フォーラム」ダボス会議では、シリアが「地中海のソマリア」になることを懸念する意見も出されました。アフリカ東部のソマリアでは、1990年代の初頭以来、さながら日本の戦国時代のように、多くの勢力がそれぞれの大義を掲げて武装活動を展開し、国内が分裂する状況が続いており、これは武器や難民の流出により、地域一帯の不安定要因となっています。中東・北アフリカを追われたイスラーム過激派が、混乱するソマリアに流入していることも、状況の悪化を加速させています。

 これまでの経緯に鑑みれば、シリアが「地中海のソマリア」になる可能性は大きいといえるでしょう。安保理における西側と中ロの対立が膠着するなか、それを避けることができるか否かは、シリア内部の変化によるところが大きいといわざるを得ません。そして、今回のイスラエルによる軍事攻撃は、少なくとも結果的には、まさにビリヤードボールのように、アサドを除く体制派と、過激なイスラーム主義勢力と距離を置くシリア国民連合に、少なからず交渉に向かうことにインセンティブをもたせる状況を生んだといえるでしょう。

エジプトにおける「革命」と「暴動」の岐路について

 1月25日、エジプトを30年以上に渡って支配したムバラク政権に、市民が抗議運動を始めてから丸2年が経ちました。しかし、エジプトでは再び、政情が不安定化しており、革命から2周年の前日1月24日から30日までの間に、反政府派と政府支持派および警察との間の衝突で、全土で54名の死者が出ています。

 直接的な契機は、1月24日首都カイロのタハリール広場に政府を批判する若者や野党支持者が集まり、警官との衝突に発展したことです。この前日23日、既に行われていた新憲法の承認をめぐる国民投票の結果が、ムルシ政権が提示した憲法草案に「賛成」が過半数を超えたことを、非公式ながら与野党ともに確認しました。この国民投票に対しては、以前にとりあげたように、野党から強い非難が寄せられていました。その主なポイントは、

  • 裁判所の権限を制約し、他方で大統領の権限が強化されている
  • イスラーム的価値観が色濃く反映されている
  • 草案作成の過程で野党側が充分に意見を表明する機会がなかった

 この国民投票の結果に対しても、リベラル派の小政党を糾合した連合体「国民救済戦線(NSF)」は、組織的な不正があったと批判しています。これが24日の抗議集会を過熱させ、警官隊との衝突で10名が死亡する背景になりました。

 ただし、今回の騒乱は、直接的に政府を批判する抗議運動の広がりという側面だけではありません。1月26日、エジプト北東部のポートサイドで、やはり地元住民が警察署を襲撃するなどして、27名以上が死亡する事態となりました。昨年2月、ポートサイドのフットボールスタジアムで開かれた、地元チーム「アルマスリ」と、カイロの「アルアハリ」の試合の後、アルマスリのサポーターがアルアハリの観客席になだれ込み、乱闘となりました。その結果、アルアハリのサポーターを中心に74名が死亡しました。ポートサイドの裁判所は今月26日、この事件にかかわったアルマスリのサポーター21名に死刑判決を下し、これに怒った地元住民らが暴徒化し、警察との衝突にいたったのです。

 この騒乱は、直接的に政府を批判する運動がきっかけになったものではありません。しかし、一見政治と無関係のこの衝突が、カイロの情勢と連動することで、騒乱が広がりました。大きな背景としてあるのは、裁判所に対する不信感です。1月13日に最高裁判所に該当する破棄院が、2011年の死者を出すデモ弾圧で終身刑の判決を受けたムバラク前大統領の上訴を受理し、審理をやり直すことを決定しました。これが旧政権派が多い司法府に対する、反ムバラク勢力の不満を増幅させる契機になったのです。

 この背景のもと、ポートサイドでの騒乱に、反政府派と政府支持派が呼応する形で参加したことで、両者の衝突は北東部一帯に広がり、ムルシ大統領は27日、ポートサイド、スエズ、イスマイリアに夜間外出禁止令を出す事態となったのです。一方で、ムルシは野党側に対話を呼びかけましたが、NSFなどは政府を信用できないとしてこれを拒否。両者の対立がエスカレートすることになりました。

 ところが、30日にNSFの指導者モハメド・エルバラダイは、一転して政府に対話を求める声明を出しました。エルバラダイがわずか数日で判断を翻した背景には、30日までに全土で54名の死者を出すにいたるなど、衝突が一向に収まらないことがあります。国際原子力機関(IAEA)事務局長としてノーベル平和賞を受賞した経歴をもつエルバラダイですが、今回に関しては、当初から政府との対話に踏み切らず、事態収拾に向かわなかった判断に、反体制派の暴徒化に対する読み違いがあったといわざるを得ないでしょう。

 一連の騒乱が、ムバラク退陣からの延長線上にあることは確かです。エジプト政治の潮流を大きく三つに分けるとすると、

  • 第一勢力:現大統領ムルシやその母体であるムスリム同胞団、その政治ブランチである自由公正党(FJP)をはじめとする穏健派イスラーム勢力
  • 第二勢力:軍隊、ビジネス界、公務員に多い、ムバラク前大統領を支持していた勢力
  • 第三勢力:エルバラダイやNSFに代表される、世俗的あるいはリベラルで、なおかつムバラク政権に批判的だった勢力

 ただし、この他にも、例えば少数派のキリスト教徒(コプト教徒)や、過激派と紙一重の急進的イスラーム勢力などもいます。また、三者はきれいに色分けされているわけでなく、例えばNSFには旧ムバラク政権関係者も含まれており、それを理由にNSFに参加しないリベラル派もいます。そのため、その区分けにはグレーな部分があることも確かです。

 それを踏まえたうえで今回の一連の騒乱を眺めると、政府に批判的な抗議活動を行っているのは、概ね第三勢力、つまり旧ムバラク政権にも現ムルシ政権にも批判的な、世俗派、リベラル派に連なる人々といえるでしょう。彼らは、2011年2月のムバラク退陣を最初にリードした、大学生などの都市中間層を中心にしており、例えば先述の新憲法草案に関しても、政教分離の明確化や基本的人権の尊重などを強く求めていました。

 その一方で、この第三勢力は第一勢力、つまり慈善活動を通じて貧困層や農村部に根を張るムスリム同胞団やFJPほどの組織力はなく、体制転換後の選挙でも大きく勢力を伸ばすことはできませんでした。また、旧ムバラク政権のもとで既得権益層を形成していた第二勢力と異なり、所得水準も概して高くありません。政変以降、エジプト・ポンドは売りを浴びて対ドル為替相場が急速に悪化し、経常収支と財政赤字の再建に、IMFとの融資協議に入りました。ただし、これはその後の政情不安の影響で、一時停止されています。

 いずれにせよ、生活環境が悪化するなか、最もその影響を受けやすく、さらに将来への見通しも立ちにくいグループが、この第三勢力といえるでしょう。「革命」においてリードオフマンの役割を果たしながら、その恩恵から最も見放されているという社会的フラストレーションが彼らに充満しているとしても、不思議ではありません。つまり、ポートサイドのフットボールスタジアムでの事件に対する判決は、ムバラク政権の崩壊で政治的に発言する機会を得ながらその発言が政治に反映されず、さらに生活への不満が高まる第三勢力に連なる人々の怒りに火をつける火花になり、その結果「革命」を求める民主派は、政府、議会、裁判所、軍、警察といった、あらゆる既存の公共性を否定する暴徒と化したと考えられるのです。

 「独裁者」の重石が取れた後、それまで押さえ込まれていた主張や不満が噴出し、議会や選挙を通じたその調整が困難を極めることは、稀ではありません。そして、その混乱が次の「独裁者」の誕生を促すことも、珍しくありません。

 エジプトの三つの勢力間には、反目と相互不信が渦巻いています。なかでも政治的に少数派となった三番目の勢力の立場からすれば、「自由になった」はずなのに、政府や議会は第一勢力、軍隊や裁判所、ビジネスは第二勢力に押さえられ、自分たちの声は政治に反映されず、暮らし向きも「革命」前とほとんど変わらない。このフラストレーションが抗議デモの暴徒化を促しているとするならば、それは代表制、あるいは議会政治そのものに対する不信感をも表しているといえるでしょう。逆に、第一勢力からみれば、第三勢力は「選挙の結果を尊重しない」ものと捉えられます。

 それぞれが自らの主張をぶつけ合う権利は、「独裁者」の打倒によって得られた財産といっていいでしょう。しかし、現実の政治においては、相互の協議と妥協がなければ、相手との相違ばかりが目立ち、内部の分裂が加速する一方です。先述のように、エルバラダイは当初、政府との対話を拒絶し、街頭での抗議活動を継続する方針を示しました。この判断は「ムルシ政権の権威主義化」に対する不信感を背景にしたもので、自らの正当性を主張するためだったといえるでしょう。しかし、24日以降の衝突からは、「革命」当初からほとんどの勢力にその傾向はあったにせよ、既に第三勢力の抗議運動が、政治的主張を訴える範囲を越えて日常的な不満を他者にぶつける部分が大きくなっていることが見て取れます。

 日常の不満に対する暴力的な発散が長期化すれば、それは政府をして益々苛烈な取り締まりに向かわせ、両者の対立が激化する恐れがあるだけでなく、それに乗じて(現在は比較的静かな)イスラーム過激派が勢力を増す危険性すらあります。抗議活動の変質に気付くのが遅かった点において、エルバラダイやNSFの判断ミスは否めません。ただ、今後の展開にもよりますが、政府との協議が模索され始めたことは、エジプトを首の皮一枚で救ったとさえいえるかもしれません。

 「議会で多数派を占める勢力が物事を決定すればいい。もしそれがうまくいかなかったり、不満があるなら、次の選挙で交代させればいいのだから」という割り切った感覚は、文化的に比較的均質で、政権交代と二大政党制が常態のものとしてある英米圏では一般的です。しかし、社会のなかの亀裂が顕著な社会では、少数派と多数派が頻繁に入れ替わることは困難で、英米圏のスタイルが適合する国の方が、世界的に見れば少数派とさえいえるでしょう。ヨーロッパでも、例えばフランス語圏とオランダ語圏で社会が分断されているベルギーなどの大陸諸国では、比例代表制に基づく連立政権のもと、政党間の協議が緊密に行われ、多数決で一方的に物事を決めることは避けられてきました。

 ところが、圧政から解放されたばかりの国では、それまでの反動で、各自の要望がほぼ満額回答で実現しなければ「民主化」の意義そのものに対する疑問が生じがちです。しかし、それがほぼ不可能であることは、言うまでもありません。必然的に、草創期の議会政治のもとでは、社会内部の異なる主張の違いを際立たせ、議会政治が機能不全に陥りがちであることは、フランス革命をはじめとする世界の革命や、独立後の開発途上国の歴史が証明しています。その轍を踏まないようにするためには、フォロワーの満足感を引き出したり、煽るだけでなく、ときにそれを納得させ、抑えるだけのリーダーシップが、全ての政治勢力に求められるといえるでしょう。

フランス軍の介入でマリ情勢は好転するか

  1月12日、フランスのオランド大統領は、マリのディオンクンダ・トラオレ暫定大統領との合意に基づき、同国の北部を支配するトゥアレグ人の武装組織であるアザワド民族解放運動(MNLA)と、イスラーム過激派アンサル・ディーンに対する攻撃のため、フランス軍を投入したことを発表しました。13日にはフランス軍の支援を受けたマリ軍と、武装勢力間の衝突が発生し、前者は北部主要都市ガオなどを制圧しました。翌14日には、国連の安全保障理事会で、満場一致でフランスの行動が支持されており、今後は地上部隊を含めて2500人規模の部隊に増員されるほか、近隣の西アフリカ諸国で構成される西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)も3300人の兵員を派遣するとみられています。

  以前に取り上げたように、西アフリカのマリでは2011年末からMNLAとアンサル・ディーンによる武装活動が活発化し、これの鎮圧にあたっていた軍隊が、装備の不足に対する不満から3月にクーデタを起こしました。その後、トゥーレ前大統領が辞任し、トラオレ暫定大統領が就任するなど、マリ中央が混乱している間に、北部では5月にMNLAとアンサル・ディーンがアザワド共和国の樹立を宣言しました。この地域ではその後、ヴェールを着用しない女性が連行されるなど、厳格なイスラーム支配が敷かれていました。

  やはり以前に取り上げたときには、資源が豊富に発見されているわけでなく、大国からみて戦略上さほど地理的に重要な立地でもないマリの紛争である以上、このまま見捨てられる可能性すらあると述べました。その意味では、武力介入が実現したことに鑑みて、この予測は外れたようです。それでは、シリアの場合などと比べて、マリへの武力介入が比較的スムーズに進行したのは、なぜでしょうか。

  これを改めて考えてみると、今回の武力介入が進んだ背景としては、第一に政府の立場がありました。シリアの場合は、あくまで外部の介入を拒絶していますが、マリの場合はむしろ逆に、北部の動乱に手を焼いた政府と軍部が、歴史的に関係の深いフランスに支援を求めたという構図になっています。外国の軍隊が国内に入ってくること、さらに軍事活動を行うことを認めるか否かは、それぞれの国家の主権に関わる問題です。逆を言えば、当該国政府が承認さえすれば、それは容易です。

  第二に、これに関連して、中国やロシアの立場があります。シリアの場合、外部の介入を拒絶する政府と、中国やロシアは以前から経済的・軍事的に深い関係があります。そのため、西側先進国による干渉を嫌う中ロは、「内政不干渉」の原則を盾に、国連安保理において武力介入に反対したのです。しかし、マリの場合は、もともとさほど親密なわけでなく、まして政府自身が介入を求めている以上、中ロに取り立てて反対する理由や口実はなかったのです。

  第三に、フランスの意志の問題です。国連安保理常任理事国であることを除けば、フランスは米国などと比較して、グローバルな大国であるとはいえません。しかし、ことアフリカに関しては、フランスは強い影響力をもっています。19世紀の帝国主義の時代、アフリカ大陸を二分した勢力は英国とフランスでした。独立後も、フランス政府は毎年「フランス・アフリカ諸国首脳会議」を開き、フランス語圏アフリカ諸国政府と緊密な関係を保っています。軍事的にも、1994年のルワンダや、2000年のコートジボアールでの内戦に、フランスは単独で介入してきた歴史があります。中ロの譲歩を引き出すため、拒否権が発動されることを織り込み済みで介入を示唆したシリアのときとは、フランスの「本気度」が違うといえるでしょう。

  第四に、武力活動を行っている組織の問題です。トゥアレグ人の独立を目標に、世俗的なナショナリズムを掲げるMNLAはともかく、それと協力関係にあるアンサル・ディーンは、イスラーム過激派「イスラーム・マグレブのアル・カイダ」(AQIM)とも繋がりがあります。AQIMは北アフリカ(マグレブ)諸国各地でテロ活動を行っており、1月16日にアルジェリアで日本人エンジニアが拉致された事件の首謀者モホタール・ベルモホタールも、これに関係しています。西側先進国だけでなく、中ロもまた国内のイスラーム系住民の独立運動と繋がるイスラーム過激派とは敵対関係にあり、さらにAQIMの場合は特定の国との結びつきはほとんどありません。いわば、その攻撃対象が主要国の共通の敵であることが、軍事介入を容易にしたといえるでしょう。

  第五に、そして最後に、周辺国の協力です。西アフリカ諸国では、冷戦終結後の1990年代に内戦が頻発し、そのときの経験からECOWASには、近隣諸国の内戦に介入する権限が与えられており、各加盟国は予めそれに同意しているのです。ただし、実際には、資金や装備の潤沢でないアフリカ諸国にとって軍事介入はコストのかかる選択です。さらに、近隣諸国同士の関係もあり、そう簡単に介入の権利を行使することはありません。しかし、先述のように、ECOWASもまた、国連やフランスと足並みを揃えて、マリへ軍事介入する姿勢を示しています。西アフリカでは英語圏のナイジェリアと、フランス語圏のセネガルが反目することが珍しくありませんが、少なくとも合意の段階においては、今回の介入において両地域大国は協調姿勢を示しています。ナイジェリアなどでもイスラーム過激派による襲撃事件が頻発していることから、西アフリカ諸国政府にとっても、既存の国境線が変更されたり、イスラーム過激派が跋扈する状況は、好ましいものではありません。フランスが積極的に介入する状況が、周辺国の積極的な関与の呼び水となり、後者が前者をサポートするという循環が生まれているのです。

  こうして実現した軍事介入ですが、これがマリ動乱を治める契機になり得るのでしょうか。

  少なくとも、短期的には、北部を実効支配しているMNLAやアンサル・ディーンを掃討し、諸都市を解放することはできるかもしれません。フランス軍の誇るミラージュ戦闘機が投入されていることからも、正面からの軍事衝突で、MNLAやアンサル・ディーンの勝機は薄いと思います。

  ただし、長期的にこれらの武装勢力を抑えこめるかといえば、決して楽観はできません。1960年代から分離独立運動を続けてきたトゥアレグ人たちにとって、数ヶ月の戦闘で負けたり、撤退することなどは、大きな問題ではありません。アンサル・ディーンに代表されるイスラーム過激派にしても、若年層の失業や貧困といった社会問題が深刻な状況が、既存の秩序を力ずくで転換する志向を生んでいる以上、新人のリクルートには事欠きません。まして、イスラーム世界全体から資金を調達し、世界中でそれを運用して収益をあげている「本家」アル・カイダから支援を受けたAQIMが背後にいるとなれば、物質的にもそう簡単に行き詰ることはありません。

  軍事力で一方的に市民を支配することは、認められるべきでないでしょう。しかし、政治的、経済的、社会的な不満の発露がこの動乱の背景としてあることからすれば、アフガニスタンやイラクなどでみられたように、軍事的な手段のみで武装勢力を抑えることはできません。政治的な意思表示の機会を与えること、経済的な機会を増やすこと、少数派エスニシティ(民族/部族)の権利回復など、国家のあり方そのものを転換しなければ、テロを根絶することはできません。それがなければ、短期的に北部都市を解放したとしても、フランス軍や周辺国部隊が半永久的にマリにいられない以上、アフガニスタンでタリバンが勢力を回復しているように、MNLAやアンサル・ディーンがその活動を沈静化させることは想像しにくいのです。現下の情勢から考えると、国際的に放置されるというシリアの二の舞を避けられたマリですが、アフガニスタンやイラクの二の舞に陥る可能性は、極めて高いといえるでしょう。

ミャンマーの民主化と少数民族問題、そして日本

この2年ほど、日本企業の間でミャンマーへの進出が目立ちます。1988年の軍事クーデタ以来、西側先進国と疎遠であった一方で、人件費が中国の5分の1、人口6000万人の市場規模、そして天然ガスやルビーなどの天然資源が豊富であることなど、ミャンマーには経済的な魅力が溢れています。東南アジア最後のフロンティアとして、ミャンマーが注目されることは、不思議ではありません。これを反映して、麻生副総理は初の外遊で1月初頭にミャンマーを訪問し、テイン・セイン大統領との会談で5000億円相当の債務放棄を改めて表明するなど、政府もアプローチを強めています。

一方で、ミャンマーの政情は必ずしも安定していません。昨年暮れの12月30日、ミャンマー軍は武装組織カチン独立軍(KIA)の拠点を奪還したと発表しました。KIAはミャンマー北部に多く居住するカチン人の、ミャンマーからの分離独立を掲げるカチン独立機構(KIO)の軍事部門です。この攻撃には戦闘機も使用されており、国連も市民を巻き込む攻撃に懸念を示しています。

1948年、第二次世界大戦中の日本軍による占領を経て、英領ビルマがビルマ連邦として独立しました。しかし、独立後のビルマでは、人口で約70パーセントを占めるビルマ人中心の支配を拒絶する少数民族が相次ぎ、自治権を求める動きが広がるようになります。「少数民族に自治権を付与する」という発想は、欧米諸国でも公民権運動などを経た1960年代の末に至るまで、日の目をみることはほとんどありませんでした。必然的に、ビルマでは多数派ビルマ人主体の政府がカチン、カレン、ワなどの少数民族を力ずくで抑え、これにそれぞれの少数民族が抵抗する構図が定着してきたのです。

この構図は、1988年のクーデタ、さらに軍事政権によって国名がビルマからミャンマーに変更された後、さらに鮮明になりました。タン・シュエ議長率いる国家平和開発評議会(SPDC)は、少数民族の居住地に軍隊を進駐させ、その土地から彼らを強制的に排除し、ビルマ人を移住させる「ビルマ化」政策を推し進めました。その結果、例えば2005年に国連に提出された報告によると、同国北部のカレン人居住地にミャンマー軍が侵攻し、子どもを含む虐殺や集団レイプが横行した挙句、約70万人が強制的に移住させられたのです。

SPDCが「ビルマ化」に力を入れた背景には、主に以下の要因があったといえます。

・軍事政権を支える35万人の兵士に、土地という財産を与える
・天然ガスのパイプラインを敷設するために、政府と敵対する、その土地の少数民族を立ち退かせる
・少数民族の居住地域にある、ルビーなどの天然資源開発を、政府が中心となって行う

ともあれ、もともとあった少数民族への弾圧は、SPDCのもとで一層激化したことは確かといえるでしょう。

その一方で、クーデタによって政権を獲得したことで、SPDCは欧米諸国からの批判にさらされ続けました。欧米諸国は軍事政権によるビルマからミャンマーへの国名変更も認めず、禁輸などの経済制裁を課してきました。例えば、米国はルビーの原産地を表示することを義務付ける国内法を定めています。これは、ミャンマーの主な輸出品の一つであるルビーの流通の透明性を高めるころで、SPDCに対する包囲網を敷くものでした。

こうして20年間に渡って西側先進国とほぼ断絶していたSPDCは、しかし2008年に突然、民政移管を発表しました。実際、2010年11月には議会選挙が行われ、さらに2011年3月にはテイン・セイン大統領が就任し、入れ替わるようにしてタン・シュエは国軍司令官を退き、SPDCは正式に解散しました。さらに2012年4月の下院の補選では、自宅軟禁を解除されたアウン・サン・スー・チー率いる国民民主連盟(NLD)が45議席中43議席を獲得し、スー・チー自身も当選しました。軍政に反対し続け、ノーベル平和賞を受賞するなど、

国際的に知名度の高いスー・チーが公式の政治活動を解禁されたことは、ミャンマーの民主化を印象づけるものでした。これを受けて米国は経済制裁を緩和させる方向に舵を切り、さらに昨年11月、オバマ大統領が現職の米国大統領として初めてミャンマーを訪問し、テイン・セインスー・チーと相次いで会談しています。

これら一連のプロセスは、なぜ急に進展したのでしょうか?  その大きな要因として、ミャンマーの置かれた国際的な立場があげられます。リーマンショックを皮切りにした金融危機の影響で、ミャンマーでは2007年9月に燃料費高騰などに抗議するデモが発生しました。このとき、通常は政治問題に関与しない仏教僧までもが抗議デモに加わっていたことは、状況の悪化を物語るものでした。ともあれ、1988年以来最大規模のデモを武力で鎮圧したことで、軍事政権は欧米諸国のみならず、近隣の東南アジア諸国からも批判にさらされたのです。ミャンマーにとって、欧米諸国からの批判に対する防波堤としてある周辺国からの批判は、これまでにない圧力として働くことになりました。

これに加えて、ミャンマーの体制転換においては、中国ファクターも無視することができません。西側先進国とほぼ断絶状態にあったミャンマーに進出し、資源や市場を確保していったのは、インドやタイ、そして中国でした。なかでも中国は、2010年の対ミャンマー輸出額が38億2800万ドル以上(IMF, Direction of Trade Statistics Yearbook)。その一方で、パイプラインを通じた天然ガスの輸入も進めています。


中国の国家間関係の原則は、「内政不干渉」。個人が不可譲の人権を持つのと同じく、国家には自らのことを決定できる主権があります。これを最大限尊重すべき、というのが中国の公式の立場です。この立場からすれば、軍事政権であることや、人権侵害、少数民族問題などは全て「内政」であり、外部が口を出すべきでない、となります。17世紀以降の近代国際政治の基本原則である「主権平等」「内政不干渉」を盾に中国は、西側先進国が進出を控えていたミャンマーの資源と市場を獲得していったのです。

中国の不干渉原則は、少なくとも結果的には、他の権威主義体制と同様に、SPDCにとっても都合のいいものでした。しかし、あまりに急速に拡大する中国のプレゼンスが、現地の反発を招く状況は、東南アジアでもアフリカでも広く確認されます。欧米諸国に対するカウンターバランスとして意義を見出された中国のプレゼンスが、SPDCに「中国に呑み込まれる」という警戒感を募らせたとしても、不思議ではありません。言い換えれば、ミャンマーには、中国との関係を維持しながらも、力関係でバランスをとるために、そしてさらなる投資を呼び込むために、欧米諸国と関係を改善する必要があったといえるでしょう。

この観点からすれば、ミャンマーにおける急速な体制転換の進行は、旧軍事政権の関係者が突然、民主主義論者になったことを意味しません。スー・チーの国際的な活躍と、昨年4月の下院補選におけるNLDの躍進に目が奪われがちですが、議会の8割はSPDCが衣替えした政党の連邦連帯開発党(USDP)によって握られています。のみならず、2008年憲法の規定により、議席の4分の1は軍人に割り当てられています。さらに、SPDC解散と同時に設立された国家最高評議会(SSC)は、憲法や法律にその規定がないインフォーマルな組織ですが、メンバーは議長のタン・シュエをはじめ、旧軍事政権の幹部ばかりで、テイン・セインもその1人で、事実上の最高意思決定機関になっています。民政移管は軍事政権の権力を温存させることを大前提にしていたとみることに、大きな矛盾はありません。

もちろん、従来の支配構造が一朝一夕に解消されると想定する方が非現実的なだけでなく、既に権力を持つ側の改革が長期的に社会の民主化に繋がった例は、英国の名誉革命をはじめ、数多くあります。したがって、 SPDC/USDP主体の体制転換そのものは批判されるべきものではないでしょう。

しかし、この体制転換が既存の権力構造を温存させるものであったことから、少数民族の置かれた状況が大きく改善することはありませんでした。体制転換後、USDPは各地の少数民族組織と交渉を開始し、その多くと停戦合意にこぎつけました。ただし、それはあくまで戦闘を一時中断するものに過ぎず、「ビルマ化」の方針が修正されたわけでも、少数民族の権利が保障されたわけでもありません。天然ガスなどの資源が出る北部で、テイン・セイン大統領による停戦命令後もミャンマー軍がKIAと戦闘を続けている状況は、示唆的です。スー・チーは議会での初めての演説において、少数民族に自治権を認めるべきという主旨の発言をしていますが、NLDが実質的な発言力をほとんどもたない国内の政治状況からすれば、その実現は限りなく遠い状況にあります。KIAはUSDPが政治的条件を抜きに停戦合意のみを前面に出してくることを批判し、政府軍との戦闘を続けているのです。

このような環境のもと、冒頭で触れたように、日本企業のミャンマー進出が活発化しています。投資の増加や貿易の増加が、日本企業にとっての経済チャンスとなるだけでなく、ミャンマーの経済成長にも寄与すること、さらに両国間の関係を強化することはいうまでもありません。また、東南アジア一帯で広がる、中国のプレゼンスとこれに対する警戒感の間隙をぬい、ミャンマーを含むこれら諸国との関係を強化することは、中国との関係において重要な意味をもつことも確かです。しかし、その一方で、ミャンマーをめぐる問題が、日本政府の場当たり的な対応を改めて浮き彫りにしたことも看過できません。

もともと、欧米諸国が経済制裁を課すなかで、日本はミャンマー向け援助を出し続けてきました。2008年以降、2007年のデモを取材していた日本人ジャーナリスト長井健司が兵士によって銃殺される光景が繰り返しTVで報道されたこともありましたが、日本政府の基本的な立場は、「関係を維持することで事態の改善を促す」というものでした。しかし、関係を維持しながら、日本政府がSPDCに対して民主化や少数民族問題の改善に向けた努力を促した形跡は確認できません。少なくとも、上述の経緯に鑑みれば、日本政府のスタンスがミャンマーの体制転換に寄与したとはいえません。



日本政府は、一方で西側先進国として、欧米諸国からは人権保護や民主化を開発途上国に求める立場にあることを、暗に求められています。その一方で、しかし日本は、相手国の内政を理由に経済関係を停止することには、基本的に消極的です。1980年代に国連による経済制裁の対象となっていたアパルトヘイト体制下の南アフリカと最後まで通商を続けたことは、その象徴です。南アの問題をめぐり、国際的な非難を受けて以降、特に(イランなどの例外はあるものの)欧米諸国が非難する国と積極的に経済関係を構築することは少なくなりましたが、他方で相手国に国内問題の解決を求めることは稀です。その背景には、特にアジア諸国に対しては、欧米諸国と比較して日本は地理的にも近いために、より密接な関係を築いておくことを重視しており、さらに第二次世界大戦中の各種の人権侵害を鑑みれば、民主化や人権保護を強く求めにくいという事情もあります。(以前に取り上げたように)日本には何かの理念を奉じて、その実現を求める傾向が弱いことも、これに影響を及ぼしているといえるでしょう。

いずれにせよ、この二つの立場に由来する相反する要請により、日本政府はミャンマーに対して人権保護や民主化をほとんど求めることはなく、援助を提供し続け、関係を維持したわけですが、さらにその一方で、これらの国内問題にほぼ全く頓着しない中国などとも異なり、体制転換までは積極的な経済関係の構築を控えてきたのです。欧米諸国の「人権保護」や「民主化」圧力にダブルスタンダードがあることは否めませんし、経済利益だけを追求する中国の立場を称揚することもできません。そしてまた、各国が基本的に自国の利益を最優先にすることもまた、国際政治の冷厳な現実だと思います。とはいえ、誰のため、何のためか分からない援助を続け、さらに風向きが変わった途端にアプローチを強める姿勢は、決して感心できるものではありません。少なくとも、ミャンマーの政府からはともかく、市民からは、日本政府の姿がよくみえないことでしょう。

2010年末以来の「アラブの春」で明らかとなったことの一つは、市民のもつ発信力が政治的原動力になる、ということでした。相手国の政府との友好関係のみを考えていると、政治状況に変化が生まれた場合、相手国内部で自国に対する反発が噴き出すことすらあります。エジプトのムバラク政権と友好的だったアメリカに対する批判、リビアのカダフィ体制と親密だった中国への批判は、その典型です。これを考慮して現代では、欧米諸国はもちろん中国政府も、TVなどのメディアを通じて自国の立場を相手国市民に伝える「公共外交」に余念がありません。自国を知ってもらい、併せてファンを確保すること。日本の場合、自動車や電化製品だけでなく、近年ではアニメやゲームといったコンテンツを通じて、海外に親日派が多くいることは確かです。しかし、これらはいずれも企業努力の結果であって、政府が何らかテコ入れした成果ではありません。この観点からすれば、外交のカウンターパートを相手国政府のみと捉えがちな姿勢を改め、相手国の野党や市民にまで視野を広げることは、政権を問わず日本政府に課された宿題であり続けるといえるでしょう。

日本の文化風土とメンタリティ その2:アベノミクスはなぜ生まれたか?

 日、ある友人にいわゆるアベノミクスについて質問されました。自民党の「小さな政府」路線からの転換に、違和感があったようです。そのときの返答の主旨は、「もともと自民党の中には、中曽根、宮沢の両元首相に代表されるように、アダム・スミス的な市場経済路線と、積極財政を厭わないケインズ主義的な路線の両方がいて、それが振り子のように交互に主流を占め、長期政権を維持した。その観点からすれば、小泉政権下で推し進められた『小さな政府』路線の弊害が表面化し、震災や歴史的円高などに市場原理だけで対応できないなか、自民党がケインズ主義に揺れ戻したと理解していいと思う」というものでした。

 その友人がいみじくも感想として述べたように、自民党はいわば一つの党のなかで二大政党制を行っていたようなものです。これは状況にあわせて最適と思われる政策を柔軟に提供することを可能にするもので、この現実主義が戦後日本の経済成長と安定を生む大きな要素になったことは確かです。ただし、長期政権化したことで業界との癒着などの弊害が生まれたこともまた確かです。いずれにしても、ここで強調すべきは、自民党にはイデオロギーや思想・信条の共通性よりむしろ、「派閥」に代表されるような人間関係によって成り立つところが大きく、さらにその目指すところは「日本の安定と繁栄」という、きわめて実利的なものであることです。そこには、自民党全体で共有されている、実現すべき価値、規範、原理・原則のようなものは見当たりません。つまり、その良し悪しはともかく、自民党は何らかの理念を奉じた集団でないといえるでしょう。

 これは欧米諸国、なかでも階級格差がいまだ厳然としてあるヨーロッパ諸国の政党が、イデオロギー的な共通性を求心力にしていることと対照的です。第二次世界大戦後のイギリスで、ケインズ主義の影響が強い労働党のクレメント・アトリー首相(任1945-51)のもとで「ゆりかごから墓場まで」の福祉国家体制ができ、スミス的自由主義を重視する保守党の「鉄の女」マーガレット・サッチャー首相(任1979-90)のもとで国鉄民営化などの規制緩和と緊縮財政が進んだことは、その象徴です。もちろん、定期的に国民の審判を受けなければならない政党政治ですから、ある程度は自らのイデオロギーを国民の要望とすり合わせることはあるとしても、少なくとも政党間をまたいだ議員の移動はほとんどありません。それはすなわち、ヨーロッパでは理念が先にあり、その実現を目指すために政党があることを意味します(これと比べて米国の二大政党はイデオロギー的にもっとルーズな集まりです)。この点に、理念より実利的目標を優先させる、日本の自民党との決定的な違いがあります。

 ただし、これはひとり自民党だけの特徴ではありません。特定のイデオロギーや理念に依って立つ公明党、共産党、(最近やや怪しいですが)社民党などを除き、日本の政党のほとんどは、先の与党である民主党を含めて、これに該当すると言っていいでしょう。先の衆議院選挙で、政策の共通性の乏しい「野合」と批判された日本維新の会の橋下氏が、「何を議論するかは重要ではない。大事なのは決めたことを実行することだ」と豪語し、政党における原理・原則の重要性をほぼ全面的に否定したことは、これを象徴します。そこまであからさまでなくとも、規制緩和や改革を訴えるみんなの党にしても、なぜそれが必要かとなったときには、「無駄を省くことが財政赤字の削減に繋がる」という、これまた実利的な回答を出すことがほとんどで、「『小さな政府』を実現することが、経済的理由だけでなく、なぜ社会のあり様として正しいと言えるのか」といった次元の話は、少なくとも私自身はついぞ聞いたことがありません。

 原理・原則にこだわらず、実利で物事の判断をすることの良し悪しを述べているわけでないことは、強調しておきます。むしろ、ここで指摘したいことは、「日本の政党が実利以外に何も考えていない」ことではなく、「実利で判断することが日本における支配的な文化風土である」ことです。

 実際、日本では何らかの理念や原則のもとに、その実現を目指した行動が広がることは稀でした。日本史上、最大の改革者の一人といっていい織田信長が掲げた旗印は「天下布武」、つまり「武力でもって天下を治める」という、内容からすれば身も蓋もないものでした。それが朝廷、室町幕府、寺社のもつ精神的権威を否定するもので、日本なりの近代化、合理化の端緒をつけたことは確かですが、そこには「武」に寄り添う理念のようなものは見当たりません。200年の泰平の世を作り出した徳川幕藩体制もまた、最終的に戦で勝った者が政府を作ったもので、東照宮などでの神格化はあるにせよ、それ以上の支配の正統化はあまり必要ではありませんでした。同じ16世紀、ヨーロッパで宗教改革が本格化し、教義をめぐる争いが実際の覇権闘争と連動したことに比べれば、良かれ悪しかれ、日本では何らかの価値の実現ではなく、「とにかく安定して繁栄した社会を作り出す」こと自体が目的化されたといっていいでしょう。

 理念や原則にこだわらない、この日本的メンタリティは、その自然環境や風土が生んだものといえます。自然環境が人間の精神活動に影響を及ぼすという主張は、18世紀のシャルル・ルイ・ド・モンテスキューや19世紀のアレクシ・ド・トクヴィルらフランスの哲学者たちによって導かれました。我が国では、梅棹忠夫が『文明の生態史観』で、やはり文化風土がそれぞれの土地の自然環境に影響を受けると主張しています。このタイプの考え方は普遍的な合理主義を否定するもので、「保守的」とも評されます。しかし、文化的差異によってインスピレーションに違いがあることを否定し、全ての人間が同じように思考できると考えることは困難です。

 この観点からすると、日本には理念や原則に執着せず、周囲の状況の変化に対応することを良しと思わせる自然環境があったといえます。四季が移り変わり、山海の恵みは豊かで、しかも島国であることから、大陸諸国と異なって外敵の侵入を常に警戒しなくてもいい。この環境のもとでは、季節の移り変わりなど周囲の環境の変化に合わせていれば、比較的豊かで安定した社会を維持することが可能だったといえるでしょう。それは、「人間はかくあるべし」といった厳密な教義や、社会のあり方を根本的に規定する普遍的宗教が、日本で生まれなかった、あるいは広く普及しなかった背景としてあげられます。

 日本で長く信仰の二本柱になってきた神道と仏教は、一神教と比較して、いずれも明確な教義はほとんどなく、統一的な経典、聖典といったものもありません。神道は一種のアニミズムで、万物に宿る神々は人智を超えた力をもつものの、無償の愛に満ちた存在ではありません。人々は神々の怒りや祟りを恐れ、それを避けるために供物を捧げます。一方の仏教は、「解脱」や「悟り」といった言葉に表されるように、人間の精神の解放、言い換えれば、まさに俗世での執着を捨てることを目指すものです。どちらも周囲の環境を自明の与件とみなす傾向があると同時に、世の中を作り直す理念としてのエネルギーには乏しく、強要するような普遍的な原理もありません

 日本と好対照を成すのが、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの三大一神教の発祥の地である中東です(近代以降、ヨーロッパ絵画で描かれるキリストの多くが金髪碧眼の白人になりましたが、キリスト教がベツレヘムなど今のイスラエルで普及した事実からすれば、これはヨーロッパ中心史観を補強するイメージ操作に他なりません)。いずれの場合も、厳密で細緻な神学体系が構築されたことは、世界を貫徹する一元的原理の存在と、「理念によって人間社会を構築する」ことを自明とする思考によると言えるでしょう。コーランの教義で社会を規定しようとするイスラーム主義が、いまも大きな力をもつことは、この観点から不思議ではありません。

 このような思考様式が生まれた背景には、中東の自然環境があったと捉えられます。中東はナイルやチグリスといった大河に恵まれているものの、砂漠が多く、昼夜の寒暖差は激しく、さらに幾多の民族が行き交ってその覇を競ってきた土地です。確固たる精神的支柱をもっていないと、生きていくのに過酷な環境と言えるでしょう。キリストが「人はパンのみにて生きるにあらず」と言ったことは、これを象徴します。

 一大キリスト教圏であるヨーロッパも、この点においては中東とほぼ同様といえます。ヨーロッパは寒冷地で、土地も必ずしも肥沃でありません。例外的に温暖で滋味豊かなイタリア半島が、中世以来近隣諸国の奪い合いの舞台になったことは、ローマというカソリックの総本山があったからだけではありません。つまり、ヨーロッパもやはり、自然環境が厳しいが故に、生きていくうえで精神的支柱となる理念を求めるメンタリティが発達しやすい条件のもとにあったのです。その理念は、近代以降に宗教から世俗的イデオロギーと科学にシフトしましたが、「理念によって人間社会を構築する」メンタリティにおいて、ヨーロッパの政党とイスラーム主義者に大きな違いはありません。その意味で、理念や原則が先行する社会では、原理主義的な対立が生まれやすいといえるでしょう。

 翻って日本に話を戻すと、「原理・原則に執着せず、周囲の環境に合わせて実利を優先させる」メンタリティのもとでは、理念をめぐる正面衝突は稀です。3年前の政権交代も、多くの国民が抱いていた生活上の不満や不備に対応しきれず、内向きの姿勢が目立った自民党に対する不信感がもたらしたもので、今回の衆議院選挙も、自民党と民主党が入れ替わったに過ぎません。国全体が右傾化するなか、安倍首相のネオコン的イデオロギーに共感する勢力もあり、実際に北朝鮮などへの強硬姿勢は既に示されていますが、一方で尖閣諸島への常駐公務員の派遣を延期したり、靖国神社への参拝も慎重な姿勢をみせるなど、新政権の方針の端々からも、このメンタリティをうかがうことができます。とんがった原理・原則をかかげることが、一部のコアな支持者を集めることには役立っても、多くのひとを逆に遠ざけかねないことを、安倍首相は以前の「美しい国」に対する冷めた反応から学んだのかもしれません。

 他方、国民の側にも、当然のごとくこのメンタリティは見受けられます。原発に関する世論調査で、「増やすべき」という回答は2009年段階で6割近くありましたが、2011年段階で1割ほどに減った一方、「減らすべき」という回答は、同じ時期に約15パーセントから約40パーセントに上昇しました。ただし、「現状維持」が約20パーセントから約45パーセントに上昇し、最も多い回答となっています。ここからは、エネルギー需要の逼迫と安全性という二律背反する要請のもとで、「とりあえず現状維持」という選択をする市民の姿が透けて見えます。科学者のいう「安全」への信頼が地に落ちたとしても、産業界に多い「代替エネルギーがない」という主張に有効な反論がないことが、この背景にあるといえるでしょう。そこでイタリアやドイツのように、あくまで原子力に依存しない安全な社会こそが望ましいという主張が主流にならない、あるいはフランスのように、国の独立の根幹に関わるエネルギーはあくまで自給すべしという主張が主流にならないことが、よく言えば「柔軟性があって現実的」、悪く言えば「無原則で既成事実に弱い」日本的メンタリティを象徴するものといえるでしょう。

いずれにせよ、世界の政治・経済情勢の変化がこれだけ激しいなか、周囲の環境の変化に適応した政策を打ち出すことは不可欠で、積極財政に打って出ることも一つの選択肢になり得るでしょう。ただ、これまでみてきたように、日本で「周囲の環境の変化に順応し、実利を追求する」メンタリティが濃厚であることに鑑みれば、公共投資が一旦増え始めたとき、それが既存の社会環境として既成事実化され、地方自治体や企業だけでなく、国民もそれに適応して依存するようになることは、容易に想像されます。その場合、日本の財政は本当に破綻しかねないだけでなく、せっかく芽生え始めた「個人の自律」という文化すらも灰燼に帰す恐れがあります。良かれ悪しかれ、実利優先のメンタリティが支配的な社会にあって、政党に対する評価は概ね、そのイデオロギーや理念ではなく、国民の多くが満足感を得られる実利を提供できるかどうかにかかっています。一口に実利とはいっても、特定の政党やその支持者にとっての短期的な実利ではなく、国家あるいは社会全体にとっての長期的な実利を追求できるかどうかが、まさに「責任政党」の名に値するか否かの分岐点になるといえるでしょう。(つづく)


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