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  • 2014.03.05 Wednesday
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窮迫の25年:覇権国・米国の憂鬱

冷戦が終結した1989年から、25年目を迎えました。冷戦終結当時、世界は−少なくとも西側先進国は−ある種の昂揚感ユーフォリアに包まれました。第二次世界大戦後の世界を覆っていた重石が取れた。これで世界は平和になる。多くの人がそのように感じていたように記憶しています。

しかし、その後の25年間を振り返ってみたとき、そのユーフォリアが一過性のものであったことは、改めて言うまでもありません。2014年を迎えた現在、世界は暗雲で覆われています。昨年一年間を振り返れば、世界各地でテロが横行し、新興国の台頭によって大国間のバランスは流動化し、世界金融危機の影響から抜けきれない国も多く、さらに多くの国では政府などに対する抗議運動が絶えません。なぜ、世界はこれほどまでに不安定化したのでしょうか。

米国のリーダーシップの衰退

これを眺めたとき、まず見過ごせないのは、米国のリーダーシップが長期的かつ相対的に揺るぎ始めていることです。2013年9月24日、国連総会の演説で、オバマ大統領は「世界におけるリーダーシップの真空」を告白しました。現役の米国大統領自身が、それを満天下のもとで認めたことの意味は重大です。

昨年一年を振り返ってみても、大きなところでいえば、例えば8月に発生したシリアにおける化学兵器の使用が、自ら設けた「レッドライン」を超えるものであることを認めながらも、最終的に米国は介入しませんでした。介入そのものの良し悪しは一旦置いておきます。ここで重要なことは、中ロの反対や同盟国の消極的反応という条件があったにせよ、米国が自ら世界に打ち出した「大量破壊兵器の使用は許さない」という原則が守られず、しかも世界の多くの人がそれを目撃したことです

もう一つあげるとすれば、10月には連邦議会の上下両院で、民主党と共和党がオバマケアをめぐって対立した挙句に暫定予算案で合意できず、一部の連邦政府機関が閉鎖に追い込まれデフォルトの危機すら懸念される事態に陥ったことです。最終的に暫定案が発効したのは10月17日。この間、国内政治に追われたオバマ大統領は、10月4日に開かれたAPEC首脳会議も欠席するなど、国際的に信用を失墜させることになりました。

米国の軍事力、経済力に対する不信感を招く事態が相次ぐことに、米国の内部からも「米国は世界が『米国中心主義』」から離脱する傾向を受け入れるべき」という論調が出ています。なかでも、世界的に名の知れた雑誌『フォーブス』が毎年行っている「世界で最も影響力のある人」ランキングで、今年の一位が、アサド政権に化学兵器の放棄を同意させ、シリアをめぐる膠着状態をひとまず収束させたプーチン大統領だったことは、米国内部の気運を象徴します。

リーダーシップの衰退 ≠ 米国が大国でなくなった

米国の国際政治学者イアン・ブレマーは、中心的な役割を果たせる国がない世界を「Gゼロ」と表現しました。ブレマーによると、西側先進国なかでも米国の国際的なリーダーシップが衰え、新興国との協力が不可欠になりながらも、これらが(例えば温室効果ガス排出規制のように)国際的な責任を負うより自らの国内開発に関心を集中させ、結果的にどの国も国際的な政治・経済体制を構築・制御できない世界になった、というのです。少なくとも昨年一年を振り返ったとき、Gゼロ論は説得力があるといえるでしょう。

ただし、基本的にGゼロの視座を受け入れるとしても、留意しなければならないことが3点あります。

第一に、単純な事実として、米国はいまだ世界で抜きんでて大きな力をもつことです。図1は、各国、各グループのGDPの世界全体に占める比率を示しています。ここから見て取れるように、冷戦終結後の世界において、米国のGDPは全体の25パーセント前後を推移しており、ほぼ横ばいといっていいでしょう。

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次に図2は、2012年度の値で比較した、上位20カ国の軍事予算です。ここからは、やはり冷戦終結後、米国の軍事予算は上位20カ国の合計の約40パーセントを占め続けてきたことが分かります。対テロ戦争で苦戦している印象が強いとはいえ、正規軍同士で正面からぶつかった場合、米軍に勝てる軍隊は世界にないといえます。

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しかし、米国自身の経済力、軍事力が大きく衰えているといえない一方で、留意すべき第二点目としていえることは、−矛盾しているようにみえるかもしれませんが−その圧倒的な優位は相対的に低下しつつある、ということです。図1、図2のいずれからも、中国をはじめとする新興国の台頭は、今更ながら、はっきり確認できます。

新興国の台頭は、1990年代の世界規模での市場経済化によって加速しました。それまで先進国企業を大規模に誘致し、工業化を推し進め、輸出で外貨を獲得して経済成長を図るスタイルは、韓国、シンガポール、台湾など、アジアNIES(新興工業経済群)と呼ばれる一部に限られていました。しかし、冷戦終結後、西側先進国なかでも米国が熱心に推し進めたグローバルな市場経済化により、生産拠点の移動は当たり前となりました。そして、グローバルな市場経済化の恩恵を最も受けたのが中国やインドだったことは、多くの人が認めるでしょう。

つまり、新興国の台頭は、いわば米国をはじめとする西側先進国によってもたらされた側面があるといえます(後述)。いずれにせよ、新興国なかでも中国の追撃があまりに急激であることにより、米国自身の力に大きな変化がなくても、そしてむしろ科学技術や経済で世界をリードしながらも、そのギャップが縮小し、結果的に米国が「一人勝ち」の世界でなくなりつつあるのです。

そしてこれに関連して第三に、米国のリーダーシップの衰退には、経済・軍事的に同盟国が停滞してきたことに由来する側面がある、ということです。世界において中国など新興国が経済、軍事の両面で比重を増すなか、先ほどみたように米国はいずれもほぼ横ばいですが、米国以外の先進国の比重は縮小する傾向が顕著です。「米国以外の先進国」には、もちろん日本も含まれます。

このデータにおける「先進国」とは、経済協力開発機構(OECD)加盟国のうちの高所得国を指します。OECDは大戦終結直後の1948年に設立された、ヨーロッパの経済復興を支援する「マーシャル・プラン」の実施主体「欧州経済協力機構」(OEEC)を母体とします。すなわち、そもそも「先進国」というカテゴリーは単に所得水準だけでなく、政治的な立場をも含意するのです。この観点から先ほどのデータを振り返れば、経済・軍事の両面で世界レベルの比重を下げているのは、米国ではなく、その同盟国となります。言い換えれば、西側先進国の陣営は、米国を除く多くの国が新興国の台頭に押されているのです。

この状況は、以前のように、米国を中心とする西側先進国の、グループとしての圧倒的な経済力・軍事力で世界をリードすることが困難になったことを意味するため、結果的には米国の影響力は低下せざるを得ません。ブレマーが指摘した、そしてオバマ大統領が演説で認めた米国のリーダーシップの衰退には、同盟国の相対的な衰退によるところがあることは確かでしょう。

冷戦終結からの米国の歩み:絶頂期

しかし、その一方で、「米国のリーダーシップの衰退」は、日本を含む同盟国にいわば「足を引っ張られた」だけが原因とはいえません。米国のリーダーシップは、米国自身によって損なわれた側面があることが否定できません。これを考える際にまず、米国と他の主だった国や地域との関係をみていきます。

冷戦終結後の1990年代、米国はまさに「我が世の春」だったとさえいえるかもしれません。1991年の湾岸戦争では、安保理決議を経た正統な軍事行動としてイラク軍をクウェートから放逐し、一つの成功モデルを確立しました。同じく1991年、ソ連が崩壊し、その国際的な立場を継承したロシア連邦を1998年までに段階的にG8(主要国首脳会議)の一国として迎えることで、憂いを和らげました。経済面では、折からの情報技術革命によって、クリントン政権期(1993−2000)の平均GDP成長率は3.89パーセント(世銀データベースで算出)と、成熟した経済大国としては異例の成長を実現させました。

この間、白人警官による黒人への集団暴行事件をきっかけとするロサンゼルス暴動(1992)、ソマリア内戦への介入の失敗(1993−95)、クリントン元大統領の女性スキャンダル(1998)、そしてコソボ内戦に対するNATOの介入と中ロの反発(1999)などはあったにせよ、米国の国際的なリーダーシップは総じて安定的だったといえます。

まず、同盟国であるヨーロッパ諸国は、やはり冷戦の「勝利」のユーフォリアにあり、さらにマーストリヒト条約(1992)によるEU統合という歴史的な大実験に忙殺されるようになり、市場開放を推し進めようとする米国への警戒感をみせながらも、その関係を再考する切迫した必要に迫られていませんでした。

一方、1990年代、米国はソマリア内戦での経験を踏まえて、海外での軍事行動に安保理決議を経ることを常態化させましたが、コソボ内戦などを除けば、中ロが拒否権を発動することは稀でした。ソ連崩壊後のロシアは、市場経済化の過程で急激なインフレに陥り、アジア通貨危機(1997)の影響もあり、1993年から2000年までの平均GDP成長率はマイナス2.06パーセントを記録。この状況下、エリツィン大統領はクリントン大統領との友好関係を頼りとしていました。そして、中国はやはり1993年から2000年までの平均GDP成長率が10.14パーセントを記録し、爆発的な成長を実現させていましたが、この段階では先進国からの投資への依存度が高かったうえに、江沢民国家主席(任1993−2003)が米国との友好関係を優先させたことから、大きなトラブルは発生しませんでした。

リーダーシップの転機:絶頂から暴走へ

ところが、2000年代に入ると、米国のリーダーシップに大きな疑問符がつくことになりました。「対テロ戦争」、なかでも米国同時多発テロ事件(2001)への報復としてのアフガン攻撃はともかく、「フセイン政権が大量破壊兵器を保有している」という情報に基づいて行われたイラク攻撃(2003)は、その決定的な契機となりました。

当時、コンドリーザ・ライス国務長官は「マンハッタンにきのこ雲が上ってからでは遅い」と力説し、フセイン政権から国際テロ組織に核兵器が渡り、それが米国本土で炸裂するという最悪のシナリオを回避するためとして、イラクへの攻撃を正当化しました。「危険を事前に除去するための防衛的措置」は「予防先制」と呼ばれましたが、これは(1)確証の乏しい情報に基づいていたこと、(2)仮にイラクが大量破壊兵器をもっていたとしても、それを理由に米国が攻撃してよいという国際法上の根拠は乏しいこと、(3)米国の安全と主権のためなら、他国の同意や権利、さらに国際的なルールも度外視する一国主義/ユニラテラリズム(unilateralism)に基づいていたこと、などの問題をはらんでいました。

そのため、安保理でフランスやドイツが強硬に反対し、バチカンなども懸念を示したのですが、結果的に米国は「イラクが国連の大量破壊兵器の査察に応じず、安保理決議に違反を続けた場合、イラクに対して『重大な帰結をもたらし得る』」という、きわめて曖昧な表現の安保理決議1441(2002.11.8)を根拠にイラクを攻撃。それが9.11後の米国民全体のパニックを背景としたことを斟酌するとしても、これが米国の国際的評価に大きな傷をつけたことは確かです。

これを期に、ヨーロッパ諸国と米国の「大西洋同盟」に隙間風が目立つようになりました。イラク攻撃に付き合った英国、スペイン、ポーランドなどでも、自国軍兵士に死傷者が増え、さらにマドリード(2004)やロンドン(2005)で大規模なテロが発生するに及んで、アフガンやイラクからの早期撤退を求める世論は高まったことは、不思議ではありません。米軍のグアンタナモ基地における「捕虜」(米軍は捕虜ではなくテロリストという犯罪者と位置付けている)虐待もまた、人権規範に敏感なヨーロッパで米国への違和感を大きくするものでした。

その結果、ブッシュ政権(2001−2008)の末期に至るまで、フランス大統領やドイツ首相との個別の会談は、ほとんど行われなかったのです。2008年大統領選挙でオバマ陣営の外交問題顧問を務めた政治学者のズビグネフ・ブレジンスキーが、2009年初頭の論文のなかで、オバマ大統領の課題としてヨーロッパ諸国との関係改善を強調したことは、示唆的です。

原理の使い分け

少なくとも公式には、ヨーロッパ諸国が概ね人権や国際法を尊重する観点から米国主導のリーダーシップに疑問を呈したのですが、これに対して中ロは米国と、少なくとも「対テロ戦争」の初期においては、極めて友好的な関係を築いたといえます。ウイグル自治区での暴動やチェチェンの武装活動を中ロが「テロリスト」と位置付けたことで、米国ブッシュ政権は両政府による苛烈な鎮圧をむしろ歓迎するようになりました。両国は1999年のコソボ内戦に対するNATOの「人道的介入」以来、米国への警戒感を強めていましたが、「対テロ戦争」が両者の蜜月をもたらしたのです。

人権侵害すら「対テロ戦争」の文脈で正当化された一方、米国政府は「人権」レトリックを用いてイスラームを批判することも稀ではありませんでした。2005年に米国政府が打ち出した「拡大中東パートナーシップ構想」では、中東・北アフリカ諸国の民主化促進が掲げられました。「テロリストが出てこないようにするためには、政治的な対立を暴力を用いずに解決できる民主主義が欠かせない」という論理です。

個人的には、この考え方そのものを支持することに吝かではありません。しかし、問題は中東・北アフリカ諸国の非民主的な政治体制の多くが、リビア、イラン、シリアなどを除いて、石油を確保するため、あるいはテロ組織の台頭を抑えるため、長く米国あるいは西側先進国によって支援されてきたということです。大量破壊兵器が発見されなかった後、米国ブッシュ政権がイラク攻撃の大義を「独裁者を倒したこと」と「中東の民主化」に強引に切り替えたことに鑑みれば、「中東の民主化支援」が自らの不手際を覆い隠すための米国政府のレトリックであったという捉え方も可能です。しかし、いずれにせよ、これがサウジアラビアなど中東・北アフリカの西側寄りの諸国政府からみたとき、米国のご都合主義としてだけでなく、いきなり「梯子を外された」と写ったとしても、不思議ではありません。

その一方で、2000年代以降の米国では、イスラームへの反感が広がりが顕著でしたが、これがイスラーム圏における反米感情をさらに加熱させる契機となりました。2012年9月にはムハンマドを侮辱的に描いた米国映画'Inocence of Muslims' に対する反米デモが、中東・北アフリカだけでなく、南アジアのパキスタン、東南アジアのインドネシア、さらにムスリム系市民の多い英国やオーストラリアなどでも発生しました。「表現の自由」を理由に米国政府が You Tube 上での規制を敷かなかったことは、反米感情の広がりに拍車をかけました

「力」は強いが「魅力」に乏しいリーダー

「人権」と「テロ対策」は両立すべきテーマです。ただし、そのブレンドあるいは配合の仕方には、当然のごとく政府や責任者の価値観が反映されるため、どうしても恣意的なものとならざるを得ません。しかし、むしろ問題は、その両立が恣意的であることより、その配合が当該国の外にある、米国政府の基準で行われる事態があまりに頻繁に発生したことです。言い換えれば、どこまでなら「テロ対策」として認められる、何をすれば「人権侵害」かという基準を、米国政府が声を大にして世界に喧伝するようになったといえます。

この傾向は、ブッシュ政権ほどあからさまでなくとも、国際協調を旨とするオバマ政権でも無縁ではありません。パキスタンなどで行われている米軍の無人機による攻撃は、数多くの民間人の死傷者を出しており、さらには国際法に違反するという批判が寄せられています。これに対して、オバマ政権は無人機攻撃が「合法的」であり、民間人の死傷者も部隊が直接的に活動するより少ないため「倫理的」と主張して譲りませんが、国際的に広く支持されているとはいえません。

「対テロ戦争」は中東、南アジア、北アフリカなどを主な舞台とします。しかし、いまやその活動は世界の多くの人々にみられ、評価されます。そのなかで、「人権」と「テロ対策」の二つの原理を自らの都合で使い分け、さらにそれを他国に強要する米国の姿勢が、好意をもって広く受け入れられるはずはありません

先ほど確認したデータで表される経済力や軍事力は、いわば「力の源」です。しかし、力が大きいだけでは、人はついてきません。リーダーシップを発揮するには、言い換えれば自発的なフォロワーを増やすには、損得計算に働きかけたり、強制力を行使したりするだけでなく、その言葉や行動に「魅力」が必要です。米国が世界中で影響力を発揮できた背景には、経済力や軍事力の大きさだけでなく、それらに裏打ちされた豊かな生活、自由な社会、クリエイティブな文化風土などが、多くの人を引き付けてきたことがあります。文化や価値観によって、強制ではなく、支持や信頼を得られる力を、国際政治学者ジョセフ・ナイは「ソフトパワー」と呼びました。この米国の「ソフトパワー」は、「対テロ戦争」で大きく損なわれたといえるでしょう。同時に、これが米国のリーダーシップを損なった大きな要因であることもまた、疑い得ないところです。

米国の自縄自縛:市場経済と民主主義

米国のリーダーシップが損なわれた2000年代半ば以降、中ロはその間隙をつくように、これまで付き合いの浅かった、言い換えれば米国の影響の強かった地域や国へのアプローチを強めています。中国の場合は2010年のハイチ大地震に対するPKO派遣、ロシアの場合は「アラブの春」で生まれたモルシ政権を打倒したエジプト軍事政権との2013年の安全保障協力協議などが、その典型です。

多くの国にとって、投資の主体や貿易の対象が、別に西側先進国でなければならないというわけでないことは、言うまでもありません。すなわち、新興国の台頭だけでなく、米国が推し進めたグローバルな市場経済化そのものも、米国のリーダーシップを徐々に侵食する要因といえるでしょう。

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同時に、(時に単なるレトリックであったとしても)やはり米国が推し進めた世界レベルでの民主化は、これまた米国のリーダーシップへの懸念材料となる側面があります。図3は、中東各国で2003年に行われた調査の結果です。「イスラームには本質的に自由や民主主義を抑圧する側面があり、これらの普遍的価値を理解させることはできない」という「イスラーム本質主義」が米国で広がった、そしてイラク攻撃が行われた、まさにその年の調査からは、中東各国のムスリムには、国ごとに差はあれ、そして彼らのいう「民主主義」がどのようなものを指していたにせよ、基本的に民主主義の価値を受け入れる姿勢をみせるひとが多かったことが確認されます。

しかし、世界的に民主化を推し進めようとした歴代の米国政府の関係者たちは恐らく理解していなかったかもしれませんが、民主主義の価値観が普及することと、その国が親欧米的になることは、決して同義ではありません。インド、インドネシア、ブラジル、トルコなどにみられるように、国民の投票で選出された政府が、欧米諸国なかでも米国と距離を置いて付き合うことは、珍しくありません。

図3にもあるトルコは、政党政治が定着した、中東で稀な国と位置付けられてきましたが、同国では2002年にイスラームの価値を強調する公正発展党が選挙で政権を獲得しました。そして、トルコでもやはり、'Inocence of Muslims' に対する抗議デモをはじめ、反米デモは頻繁に起こっています。また、エルドアン首相は米国連邦予算が執行できない事態に、「我が国政府は政府職員に給与を支払わなかったことはない」と誇らしげに語ったとロイター通信は伝えています。

つまり、民主主義が普及することは、国民が意見や要望を表現しやすくなることであり、それが結果的に、従来は権威主義体制のもとで覆い隠されていた反米世論を噴出させることすらあるのです。その場合、当該国の政府は、政府間の関係としてワシントンと決定的な対立は避けるにせよ、少なくとも表面的には米国への批判を行いやすくなります。これもやはり、米国自身が推し進めた変化が、米国のリーダーシップを侵食するものといえるでしょう。

覇権国・米国の憂鬱

念のために繰り返せば、米国が世界最大の経済力、軍事力を備えた国であることに、この25年間に大きな変化はありません。一般に超大国(Super power)と呼ばれるものは、国際政治学において覇権国(Hegemon)とも呼ばれます。19世紀の覇権国は、文句なしに、「七つの海を支配した」英国でした。しかし、その英国は20世紀に入る頃、工業生産高で米国に抜かれ、やがてドイツにも抜かれました。英国の圧倒的な覇権が揺らいだことが、そして当時「孤立主義」の原則をとっていた米国が覇権国の座に就く意思をもたなかったことが、二度の世界大戦を引き起こす国際政治環境を醸成する大きな要因となりました。当時の英国と比較すれば、米国はいまだ覇権国と呼べるにふさわしい「力」を備えているといえるでしょう。その意味で、「世界大戦がすぐ発生する」などと煽る必要も乏しいでしょう。

ただし、最大の「力」をもつ米国の、リーダーとしての「魅力」が色あせつつあることもまた確かです。そして、米国のソフトパワーが衰えつつある状況は、次回の大統領選挙でどの候補が勝っても、おいそれと回復できないといえます。日本ではいまだに、米国の大統領制、二大政党制を一般的なモデルと捉えるひとが多くいますが、先進国のなかで米国と同様の政治体制を備えた国はありません。そして、厳格な三権分立に基づく大統領制と、イエス・ノーを明確にする二大政党制・小選挙区制は、社会内部の分裂を加速させる契機となります。「キリスト教徒で一定の所得がある白人」という共通項が支配的だった時代と異なり、米国社会内部の亀裂が深刻化している現代は、何らかの国際的な方針を大統領が打ち出すことは、国内政治上のリスクに容易に転化しやすい時代でもあるのです。これもやはり、米国のリーダーシップを制約する一因といえるでしょう。

その一方で、米国を取り巻く国際環境は、もはやほどくことができないほどもつれています。米国自身が推し進めた市場経済化で新興国が台頭し、米国自身が推し進めた対テロ戦争で「人権」と「テロ対策」の齟齬やユニラテラリズムが露わになり、そしてそれに対して米国自身が推し進めた民主化によって、各国における反米世論が噴出しやすくなる。このような行き詰まり、窮迫は米国のリーダーシップが構造的に揺らぎ始めていることを示しています。覇権国・米国が抱える憂鬱は根深いものであり、そのリーダーシップが衰えることに関する評価は様々あるとしても、世界が今後ますます流動化することは確かといえるでしょう。

付記

歴史家で国際政治学のパイオニアの一人と目されるエドワード・カーは、1939年に出版した『危機の二十年』において、第一次世界大戦の終結に当たってヴェルサイユ条約が結ばれた1919年からの20年間を、「危機」と表現しました。この20年間は、一方で国際連盟が創設され、戦争が国際法で取り締まられるようになったり、海軍軍縮条約で主要国間の軍備バランスが確認されるなど、世界平和に向けた取り組みが活発になった時期でした。

しかし、カーはそれらの取り組みが、基本的に'ought to' つまり「〜であるべき」という理想に基づき、制度や法律を整備するのに忙しく、'be' つまり「〜である」という現実認識を欠いたものであったと総括しています。実際、世界恐慌後に「生存圏」を確保するためにドイツ、イタリア、そして日本が行った対外膨張に対して、国際連盟や国際法は無力でした。そして、カーが『危機の二十年』を発行したまさに同じ年、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が幕を開けたのです。

この記事のタイトル「窮迫の25年」は、言うまでもなく『危機の二十年』からヒントを得たものです。

冷戦終結後の25年間は、市場経済化と民主化が世界を覆った時代でした。先ほどもあげたジョセフ・ナイをその嚆矢として、国際政治学では「通商の増加は、国家間の相互依存関係を深めるため、戦争を抑制する効果をもつ」と考えられています。また、それほど幅広く受け入れられているとは言えないにせよ、特に米国の国際政治学の世界では、ブルース・ラセットらによって「民主的な政治体制のもとでは国民の戦争回避の欲求を政策に反映させやすいため、世界レベルで民主主義を普及することが戦争を抑制する」と考えられています。先進国なかでも米国が、冷戦終結後に世界レベルで市場経済と民主主義を広げようとした背景には、政権ごとに濃淡はあっても、これらの発想があったといえます。

しかし、世界がこれまでになく市場経済化と民主化を経験したこの25年間は、果たして世界が平和に向かうプロセスだったといえるでしょうか。それは、カーが言うところの、'ought to' の発想に基づくものでなかったと言い切れるでしょうか。冒頭に述べたように、各地で対立や摩擦が噴出し、大国間の軋轢が顕在化する様相からは、世界全体がある種の行き詰まり、窮迫に向かう趨勢を見出すことができます。これに鑑みたとき、少なくとも市場経済と民主主義に世界平和に関する万能の効能を期待することはできません。

しかし、ただの悲観主義に陥ることは、単なる楽観主義と同様に戒めるべきでしょう。後世の一般的な評価において、カーは理想を語らず、現実を直視することの重要性を説いた「リアリズム国際政治学」の始祖の一人と目されます。しかし、『危機の二十年』からは、カーの別の側面を見出すこともできます。

「リアリズムが、ユートピアニズムの繁茂するさまを抑える矯正のはたらきとして必要とされる段階があるのであり、同じように他の時点ではユートピアニズムが、リアリズムのもたらす不毛な結果を防ぐために呼び出されなければならないのである。未成年の思考は、どうしても目的にむかって走りがちとなり、いきおい際立ってユートピア的となる。とはいえ、目的を全くしりぞける思考は、老齢の思考である。成年の思考は、目的を観察および分析と化合させる。こう考えると、ユートピアとリアリティとは、政治学のもつ二つの様相である。健全な政治思考と健全な政治生活とは、ユートピアとリアリティとがともに適切な在りようをとるところにのみ見出されることになる」(日本語訳:井上茂『危機の二十年 1919-1939』、岩波書店、34-35頁)。

カーの指摘を踏まえて現代を振り返ると、市場経済や民主主義に関するアプリオリな楽観主義と、逆にこれらに対する単純な悲観主義は、いずれもとるべきでない道といえるでしょう。特に後者の場合、いかに万能でないとはいえ、市場経済や民主主義を捨てることがよいことなら、北朝鮮が世界で最も素晴らしい国となります。すなわち、市場経済や民主主義は基本的に不可避の原理であり、重要なのは、これらが社会の不安定や国家間の摩擦、さらに国際的な秩序の崩壊を引き起こすことを抑制するための規制や管理を、どこまで認めるかということです。そして、それに関する'ought to' を探るためには、'be' を知るところから始めるべきことを、現代の我々にカーは説いているように思えてならないのです。


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