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  • 2014.03.05 Wednesday
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石破発言の何が問題か:石破氏あるいは自民党現執行部に関する思想的解析

 特定秘密保護法案を批判するデモに関して、自民党の石破幹事長がブログで述べたことが、問題となっています。その要諦は、デモを指して「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」と述べ、「主義主張を実現したければ、民主主義にしたがって理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべき」と続きました。

 これに対する批判が噴出すると、「テロ」の表現を削除したうえで、しかし「大音量のデモは一般の人々に畏怖の念を与える」ものであり、「本来あるべき民主主義の手法とは異なると思います」と続きました。

 その発言がいかにも管理者的であることに加えて、それでなくとも「秘密」になり得る範囲が広く、秘密指定の恣意性に対するチェックが判然としないなどの批判が多い特定秘密法案に対する抗議デモに関するコメントであるだけに、世情の反感を呼んだことは全く不思議ではありません。

 一方で、その主張内容を検討すると、石破氏の姿勢や思想的立場に関するいくつかの特徴を見出すこともまた容易です。

 第一に、テロという表現がもつ意味合いから。その主張内容にかかわらず、大音響で絶叫することが、他の市民に畏怖や嫌悪感を抱かせることは否定しません。しかし、それは右翼の街宣車であれ、徒党を組んで日章旗を掲げるヘイトスピーチの集団であれ、同じであるはずです。ところが、石破氏あるいは自民党の幹部から、これらに対して「テロ」という表現が用いられたことは、寡聞にして聞いたことがありません。

 そもそも何をもってテロと呼ぶかには、客観的な基準はありません。かつて、パレスチナ解放機構(PLO)議長として、イスラエルに対する武装闘争を率いたヤセル・アラファトは、米国が自身やPLOを指して「テロリスト」と呼んだことに対して、「パレスチナの解放・独立のために戦っている自分たちがテロリストならば、英国からの独立戦争を戦った米国人の祖先たちもテロリストだったことになる」と応じました。つまり、「テロリスト」の用語には反社会的な犯罪集団という意味合いが強く、特定の他者に対してその用語を用いることは、自らの立場からみて相手を「敵」とみなす意思表示に他なりません。近年で言えば、少数民族の自治拡大などの要求を掲げるチベット自治区や新疆ウイグル自治区のグループを、中国政府は「国家分裂を扇動する『テロリスト』」と呼んでいます。

 (本人は否定したものの)ナチスの御用学者と呼ばれたカール・シュミットが言うように、政治が友ー敵関係を識別する営為であるとするならば、「敵」は排除する以外にありません。「テロリストとは交渉しない」というのが多くの国の公式の立場です。もし、特定の他者をテロリストと呼ぶならば、それは「彼ら」と話しても無駄だという宣言に他ならないことになります。

 それぞれの個人が固有の文化や立場によって立つ以上、「人間がお互いに最終的に理解し合えないものである」と捉えることには同意します。しかし、少なくとも議会制民主主義の政治家たるものは、認識ギャップや意見の隔たりを埋めるよう努力することが求められこそすれ、立場の違いを排除の対象と位置付けるかのような発言は、認められるべきではありません。そこには、異なる思想信条をもつことそのものへの配慮が見受けられません。その場合、議会は単なる数の勝負の場になります。

 第二に、これに関連してより問題なのは、石破氏の言う「本来あるべき民主主義」に関してです。今回、批判を受けた石破氏は「整然としたデモや集会は民主主義にとって望ましい」としていますが、他方で特定秘密保護法案への抗議デモを念頭に、「本来あるべき民主主義の手法と異なる」として譲っていません。

 石破氏の主張は、「要望があるなら選挙で代表を送り出せばいい」ということだと思います。そして、我々国民には投票の権利がある以上、これはこれで正論でしょう。また、古くはフランス革命後の混乱にみられるように、あるいは最近で言えば、抗議活動と連動したクーデタによって、選挙を経た政府が一年あまりで引きずり降ろされたエジプトの例にみられるように、直接行動が常に正しいと言えないことも確かだと思います。

 ただし、何をもって「整然としたデモや集会」と「そうでないデモや集会」を識別しているかは、(テロの認定と同様に)判然としていません。例えば、ブラジルやトルコ、あるいはウォール街で発生した抗議運動のように、公共の場を常態的に占拠する動きが国会前であったのでしょうか。少なくとも、公安委員会に届けられたデモの範囲内であるわけで、それを「整然としていない」というならば、法律そのものを与党幹事長が否定したことになります。すなわち、その他の絶叫調のデモについては触れず、特定秘密保護法案に批判的なデモを念頭に置いたもの、言い換えれば政権に批判的なデモだけを狙い撃ちにしたかのように、「整然としていない」という趣旨で捉えるのは、要するに活動の形態ではなく、主張内容が気に入らないから控えるべきと言っているのに等しくなります。大本営の発表を祝う提灯行列のようなものならよい、ということでしょうか。いずれにせよ、自民党であれ他の政党であれ、国会での演説に品のないヤジが飛び交うのは、「本来の民主主義」で「整然とした」ものなのかとさえ言いたくなります。

 さらに、いわゆる民主主義の原理に照らせば、直接行動が常に正しいと言えないのと同様に、議会の決定に全て委ねて何も言わないのが常に正しいとも言えません。一般に「民主主義」と呼ばれる原理は、(中国などの社会主義体制の国と異なり)少なくとも先進国においては、「自由民主主義」と呼ぶ方が正確です。これは「自由主義」と「民主主義」という異なる二つの原理が、本来的には相入れないものでありながら、歴史的な経緯のなかで接合したものに他なりません。

 近代の西欧諸国なかでも18世紀の英国では、専制を否定する思想として、「思想信条の自由」や「身体拘束からの自由」といった個人の権利を恣意的な権力行使から守るべき、という自由主義が発達しました。この思想が制度として具体化されたものには、(権力の集中を防ぐための)三権分立、(国王でさえ従うべき法律を策定するための)議会制度、さらに米国で発達した(立法府の法令が憲法に違反しないかを司法府が判断する)違憲審査、などがあります。

 なかでも注意すべきは、議会制度そのものは本来、政府に権限を集中させないための自由主義的な制度だということです。実際、18世紀の英国では有権者は大土地所有者に限られていました。むき出しの自由主義には、万人の平等を旨とする民主主義と異なり、貴族主義的な色彩が濃厚なのです。

 一方、やはり専制を否定する原理として、近代西欧で発達した「民主主義」は、国民・市民自身が主権者であるべき、という思想です。「自分たち自身の問題には、自分たち自身で対応するべき」と捉える民主主義が、古代ギリシャの都市国家で誕生したことは、広く知られます。しかし、中世から近代にかけて、民主主義は「貧民の暴政」をもたらすものとして警戒されました。保守主義の元祖E.バークだけでなく、自由主義の父J.ロックも、民主主義には否定的でした。フランス革命後の国民公会で権力を握ったジャコバン派が、「人民の意志」に沿わない少数派を、多数決原理で次々と断頭台に送る「恐怖政治」に陥ったことも、民主主義への警戒感を強めたと言えるでしょう。

 しかし、19世紀に入って人口が増加し、さらに産業化によって階級間格差が広がる一方で、都市住民や労働者の社会的影響力が大きくなるなか、狭い意味での民主主義は選挙権の拡大という形で実現していきました。その後、成人普通選挙だけでなく、政治活動を実質的なものにする「結社の自由」や「報道の自由」が発達するなかで、民主主義は議会制度を旨とする自由主義と結びつくことになったのです。いわば、むき出しの自由主義とむき出しの民主主義がもつ弊害を乗り越えようという営為のなかで、本来的に相反する二つの原理が結びついたのです。裏を返せば、どちらに偏りすぎても、弊害のみが目立つ結果をもたらし得ると言えるでしょう。

 以上の簡単な説明を踏まえて石破氏発言を振り返ります。まず、石破氏が言うところの「本来あるべき民主主義」とは、この分類に沿っていえば、基本的に議会を構成する議員を通じて意思表示を行うべきと捉える、極めて自由主義的なものです。すなわち、議会や選挙を重視するがゆえに、選挙の間の時期の政治活動には、そもそも消極的な評価しか与えない立場です。

 現代の政治学において、これはオーストリア出身のシュンペーターや米国の政治学者R.ダールに代表される、「手続き民主主義」と呼ばれる立場です。この立場は国民・市民の統治能力に信を置かず、代表の選出という「手続き」に主権者としての役割を限定すべきと捉えるエリート主義です。

 もちろん、手続き民主主義は一つの政治的立場であり、その信条そのものを否定することはできません。ただし、問題は、石破氏本人がいかに「整然としたデモ」を容認しているとはいえ、同じく大音量の他のデモには触れず、自らに批判的なデモだけをやり玉にあげる一方で、手続き民主主義を「本来あるべき民主主義」とあたかも客観的真実であるかのように擁護することが、「次の選挙まで何も言うな」と言うに等しいことだということです。

 先ほども述べたように、中世以降、民主主義は「貧民の暴政」をイメージさせる、マイナスのシンボルでした。実際、古代ギリシャの民主制は、参政権を手に入れた無産市民が富の平等まで求めるようになり、階級間対立が激しくなるなかで、「市民」としての自覚が失われるなかで衰退しました。今日においても、有権者の投票行動が気まぐれで恣意に流れやすく、それが常に正しいわけでないことは確かだと思います。その意味で、貴族主義的、あるいはエリート主義的な長期的視座は必要でしょう。

 ただし、それが立場の異なる者への配慮や敬意を欠けば、「エリートに誤りはない」という「無謬性」の原則によって立った共産主義国家と紙一重となってきます。自由民主主義が非常に脆いもので、常に自由主義と民主主義のバランスを取り続けなければならないものという認識が、石破氏には薄いようです。

 同じく絵に描いたようなエリート主義者でも、例えば第二次世界大戦で戦勝国の座に英国を導きながら終戦間際の選挙で敗北し、「民主主義は最悪の政治体制だ。ただし、今まで試みられたあらゆる政治体制を除けばだが」と言い放ったW.チャーチルには、さすがと言うべきか、少なくとも国内の対立者を競争相手と捉えて(少なくとも公式には)最低限の敬意を払い、排除すべき「敵」に例えないだけの礼節がありました。また、そこには異なる思想信条を他者がもつことへの一種の敬意がありました。石破氏の発言にはこれらの礼節や敬意が乏しく、もはや英国の保守党のような貴族主義的な自由主義とも異質だと言わざるを得なくなります。

 それでは、石破氏の発言からみえてくるものは何か。それを検討するヒントは、「法」の捉え方にあります。

 安部首相は中国を念頭に、東南アジアやヨーロッパを歴訪するなかで、「法の支配」を重視する国同士の連携の重要性をしきりに強調しています。しかし、英国で生まれた「法の支配」の理念は、恣意的な公権力から法によって個人の人権を保護する、という考え方です。一方、19世紀のプロイセンでは、政府の活動が法にのっとって行われるべきという「法治主義」が発達しました。これは法の内容までは問題にならず、法に則していれば人権侵害すら容認されます。自民党に限らず、わが国の多くの政党の議員が好んで使う「法治国家」という用語は、後者の系統に属すると言えるでしょう。石破氏の発言からは、法を根拠に、国家の一体性を強く求め、さらに政府に批判的な議論を「公共の秩序」の名の下に押さえ込もうとする、極めてヘーゲル的あるいはプロイセン的な国家主義が浮かんでくると言わざるを得ないのです。

いかなる自由も無制限に認められるべきでないことには同意します。他者の尊厳を著しく損なうヘイトスピーチを行う個人・団体が、そして個人の私生活をやたらと覗きまわるマスメディアが「表現の自由」を謳ってそれを正当化することには反対です。また、あらゆる行政活動をオープンにすることが不可能なことは、あらゆる報道機関がニュースソースを開示できないのと同じです。ゆえに、表現の自由や知る権利が制約されることがあっても致し方ないでしょう。

しかし、「国益」や「公益」の名のもとに、与党幹事長が異なる立場の(まさに彼らが重視するところの)法にのっとった活動さえ否定し、さらにそれがあたかも「反民主的」であるかのようにレッテルを張ることは行き過ぎでしょう。そこには、自由主義や民主主義の冠をつけた国家主義があると言えるのです。

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