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  • 2014.03.05 Wednesday
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アフガニスタン撤退をめぐる英国的「後始末のつけ方」

 2月4日、英国のキャメロン首相はアフガニスタンのカルザイ大統領、パキスタンのザルダリ大統領を首相別邸に招いて首脳会談を行い、6ヶ月以内にアフガニスタンの旧支配勢力、タリバンとの和平合意を目指すという共同声明を発表しました。この会合にはタリバンにも参加が呼びかけられていましたが、タリバンはこれに出席しませんでした。

 英国はなぜ、この会談をプロモートしたのでしょうか。そして、タリバンを含む和平合意は成立するのでしょうか。

 英国とアフガニスタンの因縁は、19世紀にさかのぼります。両者はある時には協力してお互いを利用しあい、またある時には戦闘を繰り返してきた間柄です。

 19世紀のアフガニスタンは、イランからチベットに至るまでの地域でユーラシア南下を目指すロシア帝国と、植民地インドの確保を至上命題とする英国の衝突「グレートゲーム」の余波を受けた土地でした。死活的な植民地であったインドを北方から脅かされることを恐れた英国は、当時のアフガニスタンを支配したアミール(「イスラーム信徒の長」を指す尊称)と1855年にペシャワール条約を結び、相互の領土保全と一方の敵に対して協力してあたることを約しました。ロシア帝国やガージャール朝イランから防衛することで、英国はアフガニスタンへの影響力を増していったのです。

 しかし、これに対してアフガニスタンも、英国の威光を利用しつつも、その支配下に置かれることを抵抗するようになります。アミールであったドースト・ムハンマド・ハーンがロシアの外交使節を受け入れたのは、その象徴です。これに対して英国は不信感を強め、かつてアフガニスタンを支配した一族、サドゥザーイー族の残党を擁してアフガニスタンに侵攻しました(第一次アフガン戦争:1838-42)。現地の支配勢力と敵対する者を味方につけ、それを支援する顔をして軍事侵攻する手法は、帝国主義時代によくみられたものでした。しかし、「七つの海を支配した」英国軍は、内陸の山岳地帯を駆け回るアフガン騎兵のゲリラ戦術に翻弄されて、まさかの敗退。その後、1878年に再びアミール、シェール・アリーがロシア外交使節を受け入れたときに、英国は再び軍事侵攻を試み、これによってアフガニスタン支配に至りました(第二次アフガン戦争:1878-80)。

 ただ、勝利したとはいえ、アフガニスタンを直接支配することの困難さを痛感した英国は、アフガニスタンの独立性を容認しつつも、その外交権を掌握し続ける「保護国」とする決定をします(1880)。ロシアとインドとの緩衝地帯としてアフガニスタンを位置づけた英国は、直接支配することが困難な以上、ロシアに接近させないことをもってよしとしたのです。

 ところが、英国により保護国とされたアフガニスタンでは、「鉄のアミール」と呼ばれたアブドゥル・ラフマーン・ハーンや、その後継者であるハビーブッラー・ハーンのもと、着々と反転攻勢の準備が進められました。アブドゥル・ラフマーン・ハーンは「イスラームの地の防衛」を至上命題とした一方、表面的には英国との友好関係を維持し、その支援の下で王立軍事学校、近代的な病院、水力発電所などの建設を推し進められたほか、徴兵制の導入や国有地の払い下げなど、軍事、産業、民生の各領域で近代化が推し進められました。つまり、歴代のアミールのもとでアフガニスタンは、英国の協力によって近代化し、国力をつけることで、最終的にイスラームの地から英国を追い出す下準備をしたといえるでしょう。

 この準備が奏功した契機は、第一次世界大戦(1914-18)にありました。未曾有の大戦争の結果、工業生産高で米国に抜かれるなど、19世紀の超大国・英国は経済的・軍事的に衰退の道をたどり始めました。それに加えて、第一次世界大戦後、1919年のヴェルサイユ条約で「民族自決」が掲げられたにもかかわらず、そして第一次世界大戦で英国に軍事的に協力したにもかかわらず、この原則が適応されないことへの不満からインドで暴動が発生し、南アジア一帯が不安定化し始めました。この機を逃さず、1919年5月、当時のアミール、アマヌッラー・ハーンは英国に対するジハード(聖戦)を宣言し、インドに侵攻して英軍との衝突に突入第三次アフガン戦争:1919)。同年8月、英国との間で結ばれたラワルピンディー条約により、アフガニスタンは外交権を回復し、アフガニスタン王国として完全独立を果たしたのです。

 19世紀、英国は「日の没さない帝国(世界中に植民地があったため、どのタイミングであっても、そのうちのいずれかは必ず昼間であった)」と呼ばれ、世界に冠たる植民地帝国でした。そして、その英国が触手を伸ばしながら、完全には支配しきれなかった数少ない例外の一つがアフガニスタンだったのです。そのアフガニスタンに英国が再び関与を強めたのは、2001年の米国同時多発テロ事件以降のことでした。

 冷戦期の1979年、ソ連によるアフガン侵攻(1979-89)が発生しました。これに抵抗するために世界中からイスラーム義勇兵(ムジャヒディーン)が参集し、国際テロ組織アル・カイダを創設したビン・ラディンなど、その後世界的に知られることになったイスラーム主義者たちは、このときにアフガニスタンで邂逅したといわれます。

 この頃、ソ連だけでなく、ソ連から援助を受けたアフガニスタン人民民主党による社会主義政権に対抗するイスラーム組織の一つとして、タリバンの結成を支援したのが、隣国のパキスタンでした。パキスタンは独立以来、カシミール地方の領有をめぐって隣国インドと争っていますが、冷戦時代のインドはソ連と友好関係にあり、必然的にパキスタンは米国と友好関係にありました。そのなかで、パキスタン政府はアフガニスタン難民に対して、神学校を通じて「思想教育」を施し、さらに軍事訓練を行いました。インドだけでなく、ソ連に援助を受けたアフガニスタンの社会主義政権に対抗する「手駒」として、タリバンはパキスタン政府によって育成されたのです。

 ところが、先に述べたように、ビン・ラディンら海外のより過激なイスラーム主義者たちとの交流のなかで、タリバンは米国と友好的なパキスタン政府と距離を置き始めました。ソ連がアフガニスタンから撤退した後、混乱する国内を武力で抑えたタリバンは、1996年に首都カブールを占領し、「アフガニスタン・イスラーム首長国」の独立を宣言。イスラーム法(シャリーア)に基づく支配を打ち立てたのです。その一方で、国際テロ組織アル・カイダのビン・ラディンなどを国内に匿い、さらに東は中国の新疆ウイグル自治区から西は地中海沿岸に至るまでのネットワークを形成するなど、アフガニスタンはイスラーム過激派の一大拠点になっていました。こうしてタリバンは、「生みの親」パキスタンにも、徐々に手に負えない存在になっていったのです。

 このうち、同時多発テロ事件の首謀者であったビン・ラディンを匿っていたことが、アフガニスタンに対する米国の報復攻撃をもたらしたわけですが、これと行動をともにしたのが英国でした。米英軍の攻撃によって政権の座を追われたタリバンは野に下りましたが、パキスタン国境付近を中心に分散し、外国の軍隊や、その支援を受ける新生アフガニスタン政府に対するテロ攻撃を通じて抵抗を続けました。これに対応するため、2001年12月の安保理決議とアフガニスタン暫定政府との協定に基づき、国際治安支援部隊(ISAF)が派遣され、国内の治安維持、新生アフガニスタンの軍や警察の訓練、テロリストの掃討作戦などを担ってきましたが、これに英軍は9500人を派遣しており、その規模は50カ国におよぶ派遣国のうち米軍の6万8000人に次ぐものです。また、英国王室のヘンリー王子も、20週間にわたってアフガニスタンでの任務に就きました。

 英国政府が米国とともにアフガニスタンに深く関わった大きな背景としては、「米国とヨーロッパに二股をかけて、両者の間を繋ぐことで存在感を保つ」外交方針がありました。しかし、それだけでなく、イラク攻撃(2003)が「大量破壊兵器を保有している」というほとんど「言いがかり」で行われたことと比較すれば、アフガン攻撃の場合は少なくとも当初は「9.11に対する報復」を大義としていたため、国際的にも大きな非難を浴びることはありませんでした。これもあって、少なくとも当初、(米国と同様に)英国内部でアフガニスタンでの軍事行動に批判的な意見はほとんどありませんでした。

 ところが、やがて自国兵員の犠牲者が増え、財政負担が重くのしかかるなか、米国と同じく英国でも出口の見えない対テロ戦争への厭戦ムードが広がりをみせるようになります。2010年1月、イラク攻撃当時英国首相だったトニー・ブレア氏は独立調査委員会の公聴会で証人喚問され、「大量破壊兵器が発見できる」という報告に情報操作があったのではという質問に「訂正されるべきだった」と応じたうえで、「多くの国が大量破壊兵器の存在を信じていたうえ、それがテロリストに渡る可能性は見過ごせなかった」と主張しました。先述のように、イラクとアフガニスタンではやや事情が異なります。しかし、そもそも首相経験者が証人喚問されること自体が英国では異例で、それだけ米国に協力的な外交姿勢への不満が市民に浸透していることをうかがえます。

 その一方で、ISAFは2014年末までに任務を完了し、アフガニスタンから撤退することになっています。それが視野に入り始めた現在、財政赤字に苦しむ米国オバマ政権は、アフガニスタンからの撤退も加速させています。冒頭で述べた三者会合の直後の2月12日、オバマ大統領は議会での一般教書演説で、アフガン駐留軍の約半数3万4000人の撤退を発表。最大の同盟国、米国が撤退を急ぐ状況が、英国政府をしてアフガニスタンから手を引くことを促しているといえるでしょう。キャメロン首相、アフガニスタンのカルザイ大統領、そしてパキスタンのザルダリ大統領の会見は、内外の事情から英国がアフガニスタンへの関与を弱めざるを得ない状況のなかで行われたのです。

 ところで、この状況下で英国政府がただアフガニスタンから撤退するだけでなく、アフガニスタン政府、パキスタン政府、さらにタリバンに会合を呼びかけ、和平合意の実現を模索することには、どんな意味があるのでしょうか。これには、大きく2つの解釈ができると思います。

 第一に、荒廃したアフガニスタンの和平合意をプロモートすることで、ISAF撤退後のこの地域における安定のお膳立てし、ひいては英国の外交的立場を保つという見方です。

 ISAFの任務完了が規定路線化されているとはいえ、新生アフガニスタンの軍や警察は錬度や装備がいまだ充分でなく、現在もタリバンによるテロ活動が横行しています。さらに、政権崩壊後のタリバンは「故郷」パキスタンとの国境付近での活動を中心にしていますが、パキスタン国内でも「反イスラーム的」とみなされた個人が襲撃されるなど、そのテロ活動に広がりがみられます。昨年10月には、女子教育の重要性を訴えていた14歳の少女がタリバンに銃撃されています。このような状況下で後始末をつけずに撤退することは、国内世論はともかく、さすがに国際的な立場にかかわります。

 一方で、支配した地域の問題を交渉に持ち込んで処理し、そのうえで引き上げるのは、英国の十八番でもありました。先述のように、20世紀の初頭、英国は保護国アフガニスタンからの攻撃を受け、その独立を容認せざるを得なくなりました。しかし、近代以降、植民地帝国・英国が本格的な武力衝突の結果として独立を認めたケースは米国やアフガニスタンなど少数派で、ほとんどの場合は、カナダ、オーストラリア、エジプト、インド、(イスラーム革命以前の)イラン、南アフリカをはじめとする多くのアフリカ諸国のように、支配し続けることが困難になったとき、(散発的な武力衝突はあったとしても)交渉を重ね、影響力を残す形で独立を認めてきました。だからこそ、旧植民地の多くが、いまだに英連邦(Commonwealth)にとどまり、緩やかな結びつきを保っているのです。すなわち、ベトナムに象徴されるように、「勝つことに熱心だから勝ち方は非常に上手だが、逆に負け方は非常に下手」と揶揄される米国と異なり、英国は負ける際にも最低限の利得と立場を保持する、しぶとい外交を行ってきたのです。

 この観点からすれば、今回の三者会合は、テロ活動が続くなかでのアフガニスタン撤退という事実上の負け戦のなかでも、当事者同士の交渉の場をセッティングすることで、撤退後もこの地域に独自の立場を保つための工作、と捉えられます。いわば、「昔とったきねづか」といったところです。一刻も早くアフガニスタンから撤退したいという姿勢をにじませる米国・オバマ政権もドーハでタリバンとの秘密協議を進めてきましたが、米国-タリバンの二者交渉は、「蚊帳の外に置かれる」という懸念から、カルザイ大統領が反対し、目立った進捗がありませんでした。これと比較すると、アフガニスタン政府だけでなく、関係の深いパキスタン政府をも巻き込んでタリバンとの交渉を進めることは、仮に合意が形成されれば、より実効性の高いものになると期待されると同時に、英国政府にとって内外の批判的な声を抑え、その国際的な立場を保つことができるとみられるのです。

 しかし、実際にはタリバンが出席していないため、今のところ協議は空振りです。ここから第二の見方、つまり ‐ 第一の見方の裏返しになりますが ‐ 一種の「アリバイ工作」という解釈が出てきます。言い換えれば、タリバンが出席せず、協議が実質的に進まないことを織り込み済みで、しかし「アフガン和平のために英国はこれだけ尽力した」というアピールを内外にした、という見方です。

 タリバンのようなテロ組織あるいは武装勢力を相手にした交渉は、国家・政府を相手にするものと比べて、より困難です。まず、国家・政府の場合、「国家の独立・主権を存続させる」ことが大前提になるので、実際の交渉においては、核心的利益を守るためにある程度の妥協を重ねることが一般的です。ところが「イスラーム国家を樹立する」といった大目標があるタリバンのような組織の場合、それを損なう妥協はしにくくなります。生産的な利益のために妥協できるか、できないかはリーダーシップによるところが大きいわけですが、今日のテロ組織、武装勢力では、上意下達の近代的な軍隊と異なり、指導者(タリバンの場合はオマル師)の指示・命令が逐一実施されるわけでありません。タリバンの場合も、「イスラームの地としてのアフガニスタンから外国勢力を追い出す」点は共有していても、末端は地域や血縁で結びつき、それぞれ半ば自前で武装活動を行っている、小さな勢力の集まりです。つまり、一つの大企業ではなく、零細企業が共通の目標のためにコラボしているようなものです。そのなかでは、いかに指導者が妥協を決意したとしても、その方針が即座に隅々にまで行き渡ることはありません。実際、タリバンの内部には米国との秘密協議に反対する強硬派があり、これがアルカイダとの連携を深め、より過激な武装活動に向かっているといわれます。

 テロ組織との交渉の難しさも、タリバンの事情についても、英国政府は熟知しているはずです。にもかかわらず、「6ヶ月」という短期間の目標を掲げたことは、努力目標としてはいいかもしれませんが、実際にどの程度の実現可能性があるかと考えたとき、首を傾げざるを得ません。

 もちろん、可能性としては逆のこともいえます。つまり、敢えて「6ヶ月」という目標を掲げ、ISAF撤退までに和平合意の道筋をつけたいという意思表示を行うことで、タリバン上層部の穏健派に交渉へ向かわせるよう「お尻に火をつけた」という見方です。しかし、これまでに接触を重ね、交渉の気運が温まってきていたならともかく、英国が個別にタリバンと接触していたとは、少なくとも伝えられる範囲では、聞いたことがありません。仮に人的ネットワークを通じた情報収集(ヒューミント)が得意な英国外務省が独自に交渉ルートを開拓していたとしても、ISAF撤退はタリバン強硬派にとって活動を一気に加速させる契機になりえるだけに、上層部の穏健派にとっても武装闘争の停止などを強制することは並大抵でありません。言い換えれば、「『6ヶ月』と時期を区切ることでタリバン上層部が交渉に向かう」と読むことは、「当たり」の出る確率が低い賭けとみられるのです。

 2つの解釈のいずれが正しいかは、現段階では判然としません。場合によっては、第一と第二の解釈の半々ということもあり得ます。つまり、「ダメかもしれないけどやってみよう。うまくいかなかった場合でも、損にはならない」というレベルなのかも知れません。

 ともあれ、いずれの解釈が正しかったとしても、今回の交渉のセッティングからは、英国自身が独自の立ち位置を模索していることを見て取れます。イラク攻撃にフランス、ドイツが反対して以来、米国と西ヨーロッパの間には不協和音が目立ちます。オバマ政権のもと、米国の安全保障戦略が中国を念頭にアジアシフトしていることも、大西洋同盟の結びつきを弱めています。その一方では、ギリシャ債務危機以降、EUの求心力も低下しつつあります。さらにまた、日本にも共通することですが、新興国の台頭によって、西側先進国の発言力は相対的な低下に直面しています。なかでも、第二次世界大戦以降、米国とヨーロッパの間をとりもつことで存在感を保ってきた英国は、とりわけその方向性を模索せざるを得ない立場にあります。

 米国主導では進展がみられない和平合意に道筋をつける取り組みは、米国との役割分担、言い換えれば「補完」関係とみることも可能です。しかし、以上の理由だけでなく、先述の財政負担や反戦世論といったアフガン作戦にともなうコストに鑑みれば、今回の三者会合からは、今後も米国と二人三脚でやっていく意思表示より、米国といかに対照的な役割を演じられるかに腐心するキャメロン政権の図が浮かんできます。言い換えれば、英国政府は「米国とある程度付き合うが、米国とのコントラストをこれまで以上に鮮明にする」方針に転換しつつあるといえるでしょう。

 これに加えて、もう一つ確かなことは、仮に英国政府、アフガニスタン政府、パキスタン政府に、タリバンを加えた四者会合がスタートしたとしても、協議が相当程度難航するであろうということです。考えられる落としどころとしては、以下の各点があげられます。

  • 武力衝突の停止と引き換えに、タリバンの免責を保障する
  • タリバンのメンバーの武装解除と引き換えに、職業訓練など社会復帰のプログラムを提供する
  • 全勢力が参加する選挙を実施する
  • テロの背景になっている貧困の撲滅のために、産業の育成、インフラの整備、教育・医療の普及などを政府が責任をもって行う

 しかし、いずれも一朝一夕にクリアできる課題ではありません。特にタリバンの免責には被害者からの反発があるでしょうが、他方でこれがなければタリバンが武装闘争を停止させることは困難です。また、選挙の実施についても、「議会制民主主義がそもそも欧米的」と言われてしまうと、もはやどうにもなりません。ここに関しては、パレスチナのハマースやエジプトのムスリム同胞団のように、「議会進出を通じたイスラームの価値の実現」の方向にタリバン上層部が舵を切れるかにかかってきますが、その実現可能性は未知数です。また、先述のように、上層部の意思決定が末端まで行き渡るには、少なくとも現状においては、長期間を要するとみたほうがいいでしょう。

 アフガン攻撃が始まって、今年の11月で12年目に入ります。その間、「戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのが難しい」ということは一貫して言われてきました。今回の会談の不首尾は、はからずもそれを実証したことになります。とはいえ、軍事力のみで対テロ戦争を遂行できないことは、この11年間が示しています。その意味で、これまでみてきたようにその道のりは険しいと言わざるを得ないのですが、今後タリバンが和平合意に応じるか否かは、中国、シリア、アルジェリア、マリといったイスラーム過激派のネットワークに覆われた他の地域にまで影響を及ぼすものであり、ひいては対テロ戦争全体の行方を占う一つの試金石にもなるのです。

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