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  • 2014.03.05 Wednesday
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震災から1年:「正義」の復活

 災から1年が経ちました。改めて振り返れば、この間にこの国は大きく揺れ動いたように思います。特に、「絆」という人との繋がりの大事さを強調する言辞が多くみられるようになりました。しかし、この間の私なりの視点で振り返れば、かなり大げさな言い方で言えば、日本で「正義」が復活したということができます。

哲学の王プラトンは、『国家』のなかで正義の理念を、個々人が「自分の役割を果たすこと」と位置づけています。プラトンが生きた時代、ポリスでは民主政の黄金時代がピークを過ぎ、自由や平等が当たり前のものとなっていました。それがゆえに低所得の市民が富裕市民の富に再分配を求め、ギリシャ伝来の徳である「節度」より個人の自由が優先され、社会全体が求心力を低下させていました。そんななか、プラトンは「自分の役割を果たす」ことで、個々人が社会との一体性を回復し、社会も個人も幸福になれると説いたのです。そのために、全ての個人に等しく求められた徳目こそ、プラトンの言う「正義」だったのです。

震災後の日本では、多くの人がそれぞれの立場で、復旧・復興のために、自分に何ができるかを考えるようになったと見受けられます。多くの人が被災地に直接行ってボランティアをしました。それだけでなく、多くの人が募金や節電に協力してきました。この10数年、日本では格差社会が顕在化し、「無縁死」や「幼児虐待」に象徴されるように家族や人間同士の繋がりが弱まり、自殺者は年間3万人を越えるなど、社会全体の底が抜けたようになっていました。各人が「被災地の復興」という共通目標のために、自分の役割を意識するようになったという意味で、震災のショックは日本で暮らす個々人に、「社会と自分」という視座を取り戻すきっかけになったといえるでしょう。

ただし、何事も表と裏があります。「正義」とて、例外ではありません。プラトンの言う「正義」は、社会の中で個人が果たすべき役割を強調するあまり、逆に個人の「自由」は軽視されることになります。実際、「健全な」民主政が機能していた頃のポリスでは、つまりプラトンが復活を目指した「正義」があったころのポリスでは、官職が定期的なクジで選ばれていました。これを拒絶することはできず、私的な自由は公的な義務の前に従属するものだったのです。そして「公的な立場」を失った者はもはや「人間」とはみなされなくなったのです。

震災後のブログで「柔らかい全体主義」という用語をひねり出したことがあります。祝い事や催し物が自粛され、大学の入学式が中止されたところもありました。「欲しがりません勝つまでは」という標語が頭をかすめるほど、「被災地のことを思え」というプレッシャーは社会全体を覆いました。確かに、自分が帰属する、あるいは在住する国の一部が甚大な被害を受けた場合、その復興に力を貸すというのは、その社会で生きている者の「役割」でしょう。だから、そのプレッシャーは、先ほどの意味で「正義」の立場にあったのです。しかし、古代ギリシャの市民と異なり、現代の日本の人間が、短期的にはともかく、中長期的に私的な自由や幸福を全て犠牲にして、公的な正義のために尽くせるはずがありません。やはりクジで選ばれる裁判員制度で、免除の基準が設けられていることは、これを如実に表しています。

YouTube 上で「サイボーグ009」のテーマ「誰がために」を再生したら(知らない人のために言っておくと、「サイボーグ009」は「正義とは何か」をテーマにした石ノ森章太郎の傑作ですが、これを語り出すと長くなるので今回は省略)、「被災地で活動してる自衛官たちもこんな感じなのだろうか」といった主旨の、思い入れたっぷりの書き込みがあり、物凄くうんざりした記憶があります。案の定、別の人に「サイボーグ戦士と自衛官を一緒にされたら幻滅する」とたたかれていました。後から書き込んだ人の言い分は、私なりに翻訳すれば、「全てを震災に結び付けて語ろうとするな。公的な正義が日常の隅々にまで入ってくるのは窮屈だ」という反応だったと思います。そういう主旨だったとするならば、私もこの人に賛成です。

被災地の復興が大事なことは言うまでもありませんし、被災者の方の生活再建のために政府や各種団体が力を尽くしていることも、充分でないとはいえ、敬意をもちこそすれ、批判するものでは全くないことだけは、強調しておきます。そしてまた、求心力が失われかけていた社会全体に鋳型を生み出し、個々人が社会との繋がりを意識するようになったという意味で、「復興」がもつ「正義」の力は結果的に評価していいと思います。

プラトンの「正義」は、ポリスの頽廃を嘆いた彼の、燃えるような理想主義の産物です。そして、それがその後の哲学の底流になったことは無視できません。

しかし、「正義」が、ときに「自由」とバッティングすることは、さっきのポリスの例からも明らかです。プラトンは「正義」を実現する「理想国家」像を描きました。これを指してE.バーカーは「倫理的共産主義」と呼び、「正義」が「自由」を抑圧することがあると警告しました。もちろん、表と裏があるのは「正義」だけでなく「自由」も同じで、古代ギリシャのポリスは「自由」に傾きすぎた結果、誰も国を守ろうとしなくなり、最終的には専制的なマケドニアという強い庇護者の支配下に入る選択をして滅びました。その結果、「自由」そのものが消滅したのです。ですから、「自由」が「正義」を大きく凌駕していた震災前の日本に戻るのがいいとも言えません。

折衷的といわれようとも、「正義」と「自由」は両方必要なものです。どちらかに傾きすぎた社会は、どちらも健全とはいえませんし、行き過ぎた理念はその理念そのものをも破壊することになると、歴史は示しています。その意味で、「社会のなかで自分が果たす役割」を意識することと、「他者からの介入にさらされない」ことの両立が、今後ますます必要になると思われるのです。

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