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  • 2014.03.05 Wednesday
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南アフリカ:負の歴史への向き合い方

2月8日、ボツワナを離れて空路で南アフリカへ移動。国際線とはいえ、30人も乗客が乗れないようなプロペラ機で、30分強のフライトでした。

南アフリカでは、いくつかの研究機関をめぐって、意見交換とともに、今後の研究協力についての相談をしました。その一方で、南アフリカのいくつかの見ておくべき施設を訪れる機会もありました。特にフォール・トレッカー・モニュメントとアパルトヘイト博物館は、感慨深いものがありました。南アフリカはこれまでも行ったことがあったのですが、これらを訪れたのは、今回が初めてでした。

このうち、フォール・トレッカー・モニュメントには10日、首都プレトリアの研究機関を訪れた帰りに立ち寄りました。小高い丘のうえに、忽然と現れるその姿には、正直いって異様な雰囲気を感じてしまいました。



ここは南アフリカに入植していたオランダ系のボーア人(アフリカーナー)たちが、19世紀末に新しくこの地に入ってきたイギリス系に追われて内陸に移動していった、英語で言う「グレート・トレック」を記念して作られた施設です。アメリカの西部開拓者たちと同じように、(こちらは牛に引かせて)幌馬車を連ねて荒野をさまよった苦難の歴史を物語っています。



しかし、その一方で、この施設はアフリカーナーの苦難を示す一方、彼らによる南ア支配の正当性を強調する側面もありました。やはりアメリカの西部開拓者たちと同様、最初は現地の人間との間に友好関係がありながらも、やがて摩擦が生まれ、殺し合いに発展し、最終的には白人がこの地を制圧していきました。モニュメント内部の壁には、その顛末が生々しいレリーフに刻まれ、さながら歴史絵巻のようです。






このモニュメントは1937年に建設が始まり、1949年に完成しました。その1年前の1948年、南アでは国民党が政権を樹立しました。第一次世界大戦後、(成人男性)普通選挙が一般的になるなか、それまでイギリス系に比べて、政治的影響力が制限されてきた低所得層のアフリカーナーたちの発言力が高まり、さらに世界的に「民族自決」の潮流が支配的になるなか、黒人たちの政治活動に危機感を募らせたナショナリスティックな運動が一体となり、アフリカーナー主体の国民党が政権を握ったのです。しかし、それはその後、アパルトヘイト体制が本格化することの嚆矢となりました。フォール・トレッカー・モニュメントは、まさにそれと時を同じくして建設が完了し、「南アフリカが自分たちのもの」というアフリカーナーのナショナリズムを鼓舞する聖地となったのです。

一方、11日の午後の便に乗る前に訪れたアパルトヘイト博物館は、フォール・トレッカー・モニュメントに象徴されるアパルトヘイト体制の誕生から崩壊に至るまでを、時代別に、映像や資料を大量に展示しています。なかには、アパルトヘイト時代のフォール・トレックに関する映像もありましたが、「善良な白人 対 悪い現地人(こちらはズールー)」という図式の映画で、かつての西部劇とほとんど同じでした。また、解放闘争を率いたネルソン・マンデラ元大統領の若い頃の写真や映像も多数あるほか、1960年の虐殺、シャープヴィル事件の映像もあり、アパルトヘイトの全貌を知ることができます。博物館の入り口がアパルトヘイト時代を模して白人と非白人に分けられている(もちろんどちらからでも入れる)ところが、気軽な博物館でないことを物語っています。ちなみに、私は非白人の入り口から入りました。



どの国にも、歴史の暗部はあります。それは覆い隠すのではなく、あるいは旧体制の受益者に対する憎悪を募らせるのではなく、ひたすら直視することによってのみ克服できるものであることを、フォール・トレッカー・モニュメントとアパルトヘイト博物館は示しています。

翻って、日本では既にこのアパルトヘイトへの関わり方が忘れかけられています。1980年代、南アフリカはアパルトヘイトを理由に、国連によって経済制裁の対象となりました。白人地主が中心の南アフリカは、冷戦時代にはアフリカ随一の反共産主義国家でした。当初、アフリカ諸国と東側共産圏が主体だったこの経済制裁へは、東西冷戦の緊張緩和にともない、アメリカなど西側諸国も実質的に加わるようになります。ところが、そのなかで日本は南アフリカと貿易を続け、南アフリカ政府からは「名誉白人」という不名誉な称号を、他のアフリカ諸国からは国連総会での名指しの非難を、それぞれ受けることになったのです。

当時の日本政府の原則は、「政経分離」。つまり、政治と経済は別のもので、相手の政治体制に関わらず、我々はビジネスをしているだけ、というものでした。これは、人権侵害が指摘される政府とも経済的な結びつきを強める、いまの中国と基本的に同じです。「相手国の内政に関与しない」という不干渉原則は、相手の独立性を尊重するという意味で重要ではありますが、場合によっては不正義を黙認することにもなります。

果たして、この不名誉な教訓を、その後の日本は活かしているのでしょうか。例えば多くの国が制裁の対象としたミャンマーの軍事政権に対して、外務省の方針は「制裁をしないことで関係を維持し、そのうえで政治・経済的な改革を促す」というものでした。もちろん、何でもかんでも干渉するのは帝国主義的です。しかし、いつ何時も相手に対して口を出さない、というのは不正義の黙認につながります。国内では、子どもを虐待する、あるいはしているかもしれない親権保持者に対して、児童相談所が干渉する原則を構築するために努めてきています。同じような努力を、他国の内政に関与するための原則を作るために政府が行ってきたようには、少なくとも私にはみえません。これを思うと、暗澹たる思いになるのは、私だけでしょうか。

一方で、南アフリカに話しをもどせば、こちらでは負の歴史を将来への糧とする取り組みが随所にみられます。アパルトヘイト後の南アフリカは、人種、民族間の融和に努めてきました。19世紀の帝国主義の時代、アフリカはヨーロッパ列強によって植民地化され、好き勝手に線引きされて、それが現在の国境線となっています。その結果、国内には多くの言語や習慣が混在しています。多くの場合、英語やフランス語といった旧宗主国の言語が公用語として使用されるのですが、南アフリカでやはり見学に訪れた憲法裁判所では、英語を含めて9つの言語を使用できるということでした。これは、歴史を逆転させることができないという前提のもと、誰かを一方的な優位に置かず、他者との共存を図りつつ南アフリカとしての一体性を模索する営為の現れです。

グローバル化が進み、個々人がバラバラになるなかで、社会としてのまとまりが模索される状況は、日本のみならず、世界各国で共通してみられる減少です。南アフリカは、この状況で求められる「多様性の中の統一」を、いち早く経験した国といっていいかもしれません。

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