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  • 2014.03.05 Wednesday
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不満の表れ方の違い:アラブ、ロンドン、ウォール街

  ニューヨーク、ウォール街を起点とした、若者や失業者を中心とする抗議活動は、全米のみならず、各国に飛び火しました。貧困と格差に代表される社会・経済的な不満を募らせた人々が、ツイッターなどのソーシャルネットワークを駆使して抗議活動を展開する点に、昨年暮れからの「アラブの春」、そして夏のロンドン暴動と同様の構図を見出すことは容易です。

  もちろん、その類似性は否定できません。ただし、「アラブの春」、ロンドン暴動、そして「ウォール街占拠」の三者は、微妙な違いを備えていることも看過できません。これらは、三者三様の深刻な問題を内包しているのです。

  アラブの春は、多かれ少なかれ権威主義的な政府に対する異議申し立てでした。そのような活動が法的に規制されているため、抗議活動は必然的に暴力的な側面を備えることになります。そして、原油価格の高騰にともなう中東・北アフリカへの資金流入がインフレを招き、国民の多数が石油ブームの恩恵から見放されていたことが、連鎖反応的に政変が拡大した大きな背景にありました。

  ハンナ・アレントが「青年マルクスがフランス革命から学んだのは、貧困は第一級の政治的力になるうるということであった」と言ったように、貧困や格差といった社会問題が政治変動をもたらしたという点で、アラブの春は古典的なパターンをたどっています。しかし、フランス革命、ロシア革命、さらに開発途上国の独立といった社会問題に起因する政治変動は、必ずしも自由や民主主義につながらなかったことも、また確かです。その意味で、アラブの春がもつ政治的な意味合いについての評価は、今後の観察に拠らなければなりません。

  一方、ロンドンとウォール街の場合は、少なくとも民主的な政府のもとで発生しただけに、その意味ではアラブより深刻です。すなわち、選挙を通じた政権交代と、国民の意志を政治に反映させることが可能でも、自分たちの生活が一向によくならないという不満は、政治体制そのものに対する批判にもつながりかねません。

  とはいえ、ロンドンとウォール街の間にも、違いが見られます。ロンドンの場合は、ウォール街と異なり、単に所得が少ないだけでなく、移民など文化的差異に基づいて、社会のなかで疎外感を味わってきた人間が、暴動の中心になりました。つまり、彼らは日常的に感じていた経済的な不満に加えて、社会的な鬱積をも晴らそうとしていたように思われます。

  ただし、そういうフラストレーションを晴らすこと自体が目的であったため、政府や社会に対して建設的な異議申し立てを行うというより、露骨な略奪という犯罪行為に向かったと捉えられます。一方で、そういう行為が社会の多数派の支持を得られるはずもなく、また暴動の参加者も、既存の社会そのものの転換を図ったとはいえません。つまり、従前の社会で生きるという前提のもとで、そのなかで鬱積した不満を爆発させたという構図が、そこに見て取れるのです。「支配する側―支配される側」を転換させて、日常的なフラストレーションを晴らすことを目的とした点で、語弊があるかもしれませんが、ロンドン暴動は一種の「祭り」だったといえます。

  ところが、ウォール街の場合は、少し意味合いが違います。「自分たちが99パーセント」という主張に象徴されるように、彼らは「多数者」であることを錦旗として、「少数者」たる富裕層を批判し、さらに富裕層を優遇する政府にも批判の矛先を向けます。ロンドンの場合、自らを正当化する言辞は、暴徒からあまり聞かれなかったように思います。

  しかし、ウォール街の場合は、抗議活動に集まる人たちは、自分たちの「正しさ」を熱烈に強調しているようです。それは、行為が暴力的あるいは犯罪であるか、あるいは主体となった人間の教育水準の高い低いにも関係しますが、より根本的にはロンドンと異なり、ウォール街占拠の運動自体が、代表制に基づく議会制民主主義そのものに対する、一種の異議申し立てであることがあります。

  ウォール街に集まったのは、文化的差異といった規定要因は乏しい一方、経済格差の弊害を直接的に受ける人たちの集まりで、さらにオバマ政権誕生に貢献したリベラル派の若者を中心としている点に特徴があります。いわば彼らは、ブッシュ政権のもとで格差に不満を抱き、そのチェンジを求めてオバマ大統領誕生の原動力となった階層です。しかし、オバマ政権誕生後も、アメリカでは経済が停滞し、失業率も改善の兆候が見られません。

  二大政党制が定着している国では、政権交代によってドラスティックな方針転換が、制度上は可能です。とはいえ、現実には大企業や組織力のある労働組合など、特定の社会勢力の発言力は、政権交代があっても容易に衰退することはありません。政権が交代しても大きな変化がないなかで、議会制民主主義そのものに対する不満が鬱積したとしても、不思議ではありません。

  貧困や格差といった社会的病理を緩和しなければ社会そのものに大きな混乱をもたらすことは不可避です。その意味で、完全に撲滅することは困難であるにせよ、その状況を改善することは、どの国にとっても愁眉の課題です。

  しかし、ここで注目したいのは、「多数者」であることをアプリオリに「正しい」と規定することの危険性です。少なくとも近代の議会制度のもとでは、多数決の原理は「多数者の意見で決議をとる」という、いわばゲームのルールにのっとったもので、そこに道徳的な正しさがあるとは保障されていません。

  18世紀以前の内乱が絶えなかったイギリスで、「叩き割った頭の数が多いほうが物事を決めていた」のが、「生きている頭の数の多いほうが物事を決められる」ようになった点で、議会制民主主義がもつ歴史的意義は否定できません。また、「少数派が正しくない」と決め付けないことが、議会制民主主義そのものを生きながらえさせてきた利点でもありました。しかし、それは一歩誤れば、「数さえ集まればそれでいい」という「数のゲームの罠」にはまり込むことを意味します。

  いずれにせよ、選挙や議会で多数者が優先されるのは、「多数者に支配を任せる」というルールを社会が受容しているからであり、それは「多数者」であることが「正しい」ことを保障するものではありません。むしろ、多数者が絶対に正しいと捉えたがゆえに、「多数者の主権」が容易に「多数者の専制」に陥り、「少数者の権利」を侵害したことは、多くの革命でみられたことです。数の多さにだけ依存して、自らの正当性を主張することは、結局のところ議会制民主主義が容易に陥りがちな、「数のゲームの罠」にはまりこむことです。にもかかわらず、ウォール街に集まる人々は、きわめてナイーブにこの点を見過ごしているように思われます。議会の場でなく、街頭で多数派であることが「正しい」というルールを、社会が受容しているとはいえません。その意味で、もしウォール街の抗議活動が何らかの正義を模索するのであれば、「多数者」に頼らない、より真摯な考察が求められるといえるでしょう。

  とはいえ、多数派であることに安住する傾向は、我々の日常生活でもありふれた光景です。どこだかの自動車メーカーが、「一番売れているのが、一番いい」という主旨の、およそ自律性からかけ離れたコピーで自動車を販売しているのは、その典型です。もちろん、自律性を欠いているのは、「売れたものがいいもの」と思っている側だけでなく、「売れているからいいんだろう」と思う側も同様なのですが。

  情報が氾濫すればするほど、より簡便な指標を求めたがる心理は理解できるとしても、それは本来、「いい」とか「正しい」といった価値基準と無縁であるはずのものです。その価値基準を見直すことが、「多数者」に安住して「少数者」を排除することのない社会をつくるうえで、不可欠のことだといえるのです。

  前々から告知しながら、遅れに遅れていたiPadアプリ『
佐門准教授と12人の哲学者』がようやく正式リリースされました。売れても、売れなくても、それは販売の結果であり、内容の善し悪しを示すものではありません。ただ、一人でも、二人でも、それを手にしてくれた人が、「いい」、「正しい」といった価値基準を振り返り、それを見直すきっかけになってくれれば、と願ってやみません。

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