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  • 2014.03.05 Wednesday
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「神々の闘争」から「神々の共存」へ〜iPadアプリ製作報告〜

  よそ100年前の1917年、マックス・ヴェーバーはかつて宗教がもっていた絶対的な価値基準が、近代以降に衰退し、多様な価値観が交錯する状況を指して、「神々の闘争」と呼びました。その一方で、あるいはその論理的帰結として、ヴェーバーは「価値の自由」を強調しました。つまり、それぞれが「神」に等しい価値観をもち、それらがお互いに(ほぼ絶対に)相容れない状況のなかで重要なことは、各人がいかなる価値観を持つことも尊重するべき、という意味です。ここに、ヴェーバーの古典的リベラリストとしての側面をうかがうことができるでしょう。

 ただ、その一方で、ヴェーバー自身が認めているように、お互いに共感も理解もし合えないという前提でしか他人と付き合えず、そのなかで「神々」がその覇を争う状況は、多分にストレスフルです。しかし、それに耐えて「価値の自由」を守ることが重要だ、というのがヴェーバーの立場でした。ヴェーバーの立場は、峻厳な大学者らしい、決然としたものだったと思います。そして、これは価値観に囚われない、「科学」としての社会科学を切り開く大きなステップになったということも、また確かです。

 しかし、同時にヴェーバーの主張を推し進めれば、価値というものは常に相対的なものとなり、社会のなかで個々人はお互いに有機的な結びつきを期待しても無駄ということになってきます。ヴェーバー自身は、「それがよい」と明言したわけではありませんが、彼の主張そのものは「そうでしかあり得ない」ということになってきます(ヴェーバーの意図が、科学の『明晰さ』による没価値的呪縛からの解放にあった可能性を指摘する
論者もある)。

 確かに、お互いに共感も理解もし合えない諸個人の間では「価値の自由」のみを唯一の原則として付き合うしかない、というのは近代社会に生きる者の宿命なのかもしれません。

 しかし、それは孤高の大学者には耐えられることでも、ほとんどの人間には耐えられないものです。ヴェーバーの主張から20年も経たない間に、当のドイツで、ワイマール共和国の原子化した国民がヒトラー率いるナチスを選んだことは、その証左です。

 ノルウェーで発生した、オスロ官庁街爆破と労働党青年部襲撃の連続テロは、ヨーロッパを震撼させました。当初、欧米メディアではイスラーム過激派の関与を疑う識者の意見が支配的でしたが、その観測はものの見事にはずれたようです。「悪いものは外からやってくる」と考えたがる思考は、人間に共通のもののようです。

 ともあれ、伝えられている限りでは、極右的な思想をもつ30歳代男性が、与党・労働党の寛容な移民政策に対する批判として起こしたテロ事件、というのが大よその構図のようです。ここからうかがえることは、流動化する現代社会にあって、「他人は他人」と思いながらも、そのなかでの孤立感に耐えられない人間が潜在的に数多くあるということです。

 これは、震災後の日本でも同様のようです。震災後、何かというと外国籍のひとが母国に非難するのを批判する論調がありました。しかし、国外へ退避することは、ある意味で当たり前の反応です。ハイチ大地震のとき、国外退避しないで救護活動を続けた日本人シスターが賞賛の対象になりましたが、彼女の行為は「誰もができないことをしている」からこそ賞賛されるのであって、それを全ての人に求めることは、土台むりな話です。そもそも、全てのひとがそれをできるのであれば、賞賛されないでしょう。各地で自然災害があったとき、日本に帰国したひとを国内で非難するひとがあるでしょうか。

 つまり、特に自然災害のような(あるいは金融危機や武力紛争なども含めて)突発的な大変動が起こったとき、「協力」の必要性を強調するあまり、容易にひとは「ナショナリティと協力」を結び付けます。つまり、「内と外」の論理です。関東大震災のとき、韓国出身のひとたちが虐殺されたことは、その例です。「日本人だから助け合うのが当たり前」という主張は、暗に被災したのが日本人だけという想定があります。しかし、現実に多数の外国籍のひとが被災したことを考えれば、これも「ナショナリティと協力」の裏返しといえるでしょう。

 「日本」という社会に暮らす個々人が、自らの立場で自発的に、社会の再生に協力できることが重要だとは思います。しかし、そこで重要なことは、「日本」という既に多国籍化、多文化化している社会を、いかにして再生するかということのはずです。容易に共感が可能と想定される同一のナショナリティに話を矮小化することは、いわばどさくさにまぎれて「神々の闘争」のなかの特定の神に、無条件に優位を与えるものです。それは、従来閉鎖的な日本の「ムラ社会」の求心力を安易に再興させる手段(例えば、『国難』という表現)にはなるでしょうが、開かれた「マチ」としての日本の創造には繋がらないといえるのです。

 この観点から、一定方向に向かって情報や意識が傾くなか、個々人が自律的な判断に努めることが不可欠です。それは、必然的に「神々の闘争」に向かう可能性が大きいわけですが、他方で日本には古来、異なる価値観が融通無碍に結びつきあう、「神々が共存する社会」がありました。むろん、
「言うは易し、行うは難し」。「多文化主義」で先行するカナダやオーストラリアでも、人種主義的な排外主義がなくなったわけでないことに鑑みれば、異なる価値観が衝突なく共存する社会の創生は困難です。

 しかし、少なくとも、現今の日本文明が、本来的に極めて受容度の高いものであったことに鑑みれば、その延長に想定される「日本の再生」は、神々が理解しあえないという前提に立つ西欧文明とはまた違うものとなる可能性をもっています。そしてその「日本の再生」は、いかなる「神」を我が物としているのかを、各人が改めて再考し、自覚することから始まるのかもしれません。


 昨日、
拓殖大学八王子キャンパスで試験を実施した帰り、四ツ谷に寄ってきました。iPadアプリ『佐門准教授と12人の哲学者』の製作がいよいよ佳境で、最後となる打ち合わせにブリッジワークスへ行ってきた次第です。本来であれば、もう少し早めに行くべきだったのですが、別の原稿などもあり、スケジュールをかなり押してからの訪問でした。

 編集長の安藤さんと打ち合わせを行い、ようやく最終形が頭の中で固まりました。8月上旬の締め切りに向けてのラストスパートが始まります。


  僕のまとまりのない話を辛抱強く聞く安藤さんの図



  「黒板の方が書きやすいなぁ」とか雑念だらけでホワイトボードで解説する図
 

  メンバーそれぞれの事情により、当初のスケジュールより大幅に遅れましたが、9月には完全版がリリースされる予定です。12人の哲学者が、自らの見地からそれぞれ、主人公の問題について語る本作が、「神々」の模索に悩むひとにとって、一つの羅針盤になればと願ってやみません。

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  • 2014.03.05 Wednesday
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  • 16:08
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