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  • 2014.03.05 Wednesday
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新憲法の是非を問うエジプト国民投票:中東・北アフリカの流動化が加速する日

 1月14、15日、エジプトで新憲法の是非を問う国民投票が実施されます。これは2011年2月のムバラク政権崩壊に始まる、エジプトにおける政治変動の大きなターニングポイントになるとみられます。同時に、2013年7月のクーデタ後のエジプトをめぐっては、域外の大国だけでなく、周辺諸国の対応は分かれています。2010年12月、チュニジアを起点に広がった政治変動「アラブの春」は、民主化という観点からみれば、多くの国で順調とは言い難い道を辿っていますが、他方で中東・北アフリカをめぐる国際環境は流動化が激しく、エジプトの国民投票はその両方の意味において重要な意味をもちます。

暫定政府によるムスリム同胞団の取り締まり
 2011年2月、エジプトを30年間にわたって支配したムバラク政権が崩壊しました。体制転換後、これを主導した勢力の一つであるイスラーム主義組織・ムスリム同胞団(MB)が、一時的に棚上げにしていた旧政権派との対立に直面し、それとの対立の中で徐々に世俗的なリベラル勢力とも確執を深め、最終的に2013年7月のクーデタで倒された経緯については、以前に述べたとおりです。

 事実上の軍事政権であるエジプト暫定政府においては、第一副首相でありながらも陸軍大将や国防相、さらに軍最高評議会議長を兼任するアブデルファタフ・サイード・シシ氏が、アドリ・マンスール暫定大統領(元最高憲法裁場所長官)やハゼム・ベブラウィ暫定首相(元財務相)をも上回る、最高権力者とみられています。シシ国防相やマンスール大統領は、ムバラク時代も軍や裁判所の要職にあった人物で、基本的に暫定政府は旧ムバラク政権に近い立場にあります。その意味で、クーデタ直後の8月22日、2011年2月の抗議デモで800人以上が死亡したことの責任を問われ、拘留中だったムバラク氏が裁判所によって保釈されたことは、不思議ではありません。

 一方、暫定政府はクーデタ直後から、MBの最高指導者ムハンマド・バディア氏を拘束したほか、カンディール前首相などMBメンバー2000人以上を相次いで逮捕・拘禁。9月には軍事法廷が軍と衝突したMBメンバー52名に終身刑を含む有罪判決を下し、さらに11月4日にはモルシ前大統領らに「2012年12月デモ参加者の殺害を先導した罪」を問う裁判が開始されました。

 これに対してモルシ派の抗議デモが展開され、8月15日にはカイロで、警官隊による強制排除によって270名以上が死亡する事態となり、暫定政府は非常事態を宣言しました。9月24日にはMBの活動を禁止する裁判所命令が出されましたが、その後も両者の対立は収まらず、10月6日にはカイロなどでMB支持者と警官隊が衝突して50人以上が死亡。その後、取り締りの強化もあって非常事態宣言は11月12日に解除されたものの、その直後の11月24日にはデモを規制する法律が発効し、MBなどイスラーム組織だけでなくリベラル派の活動も制約されるようになりました。そして、12月24日に暫定首相がMBを「テロ組織」と宣言するに至り、暫定政府はMBと全面的に敵対する意思を、改めて表明したのです。

周辺諸国の反応 (1)トルコ
 7月のクーデタに関して、欧米各国の政府は、民主的に選出された政府を転覆させたものとして、基本的に批判的なトーンが強いといえます。一方、中ロは静観の構えです。これら域外の大国の動向に動向に関連して注目すべきは、周辺国の対応です

 MBを中心とするモルシ政権が事実上の軍事政権にとって代わられたことは、周辺国に大きく二通りの反応を生みました。一方にはトルコ、カタール、チュニジア、そしてイランのようにMBに好意的で、その裏返しとしてエジプト暫定政府に批判的な諸国があります。他方にはサウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)、バーレーン、クウェート、そしてシリアなどエジプト暫定政府を支持する諸国があります。この状況は、中東・北アフリカに数多くの断層があることを示しています。

 エジプト暫定政府に対して、最も明確に非難の意思を表明しているのはトルコです。270人以上の死者を出した8月15日のMB強制排除を、トルコのエルドアン首相は「大虐殺」と呼び、さらに反モルシ・クーデタは「イスラエルの陰謀」とも主張。相次ぐ非難に対して、11月にはエジプトが駐カイロ・トルコ大使を追放し、これを受けてトルコ側も駐アンカラ・エジプト大使を追放するなど、外交上の対立はエスカレートしています。

 トルコは共和国としての独立以来、世俗主義を旨としてきましたが、2002年に選挙で政権についた公正発展党(JDP)は、イスラーム的な価値観を重視する政党です。そして、その支持母体には1969年にトルコで活動を始めた、トルコのMBがあります。つまり、トルコ現政権とモルシ派はMBを通じて同根といえます。さらに、クーデタの発生した7月以降、トルコでは各国のMB系組織が相次いで会合を開いており、ここにはチュニジア、ヨルダン、スーダン、アルジェリア、モロッコ、リビア、マレーシアなどから代表者が集っています。これらの各国のうち、MB系組織が政治的に多少なりとも発言力をもつチュニジアやヨルダン、マレーシアの政府が、エジプト暫定政府に批判的なことは、不思議ではありません。いわば、トルコはイスラーム世界における反エジプト暫定政府派の「扇のかなめ」といえるでしょう。

周辺諸国の反応 (2)イラン
 トルコとともに目立つのが、イラン政府の反応です。

 1978年、エジプトはキャンプ・デービッド合意でイスラエルとの単独和平に踏み切り、それ以来米国とも友好関係を築きました。翌1979年、一方のイランではイスラーム革命が発生し、同国は米国と敵対するようになります。イスラーム革命後、エジプトとイランは国交を断絶し、両国の間には冷たい関係があったのですが、なかでもムバラク政権の末期にその関係は極度に悪化しました。2009年4月、エジプト当局はイスラエルでテロ活動を行うためにエジプト国内で拠点を築いていたとして、ヒズボラのメンバー49名を逮捕し、ヒズボラだけでなく、そのスポンサーであるイランに対しても激しい非難を展開したのです

 極度に悪化したイラン−エジプト関係は、しかしムバラク政権の崩壊で大きな転機を迎えました。スンニ派のMBとシーア派の一派12イマーム派を国教とするイランは、宗派的には必ずしも良好とはいえない関係です。しかし、2013年2月6日、イランのアフマディネジャド大統領(当時)はエジプトを訪問。国交断絶以来、初めてといっていい友好関係は、イラン側からみれば、もともとイスラーム世界で対立しがちなサウジアラビア(後述)に対抗してアラブ圏に友好国を確保し、シリア情勢や自らの核開発問題などをめぐる国際的な孤立を緩和する目的があったとみられます。一方、米国一辺倒だったムバラク政権と異なり、周辺国との関係も顧慮していたモルシ政権にとって、米国と敵対するイランとの友好関係はエジプトの外交的独立への一歩だったといえるでしょう。

 しかし、2013年7月のクーデタにより、両国の関係は再び冷たいものに変わりました。2013年10月2日、両国の関係改善にともなって計画が進められていた観光客の往来に関して、エジプト側は「安全保障上の理由から」これを延期することを発表。さらに1月6日、イラン外務省がエジプトでの抗議デモで死傷者が出たことに「懸念」を示したことに対して、エジプト政府はイラン政府に対して「全面的な非難」の意思を示しました

 周知のように、イランはレバノンのヒズボラへの支援、シリア・アサド政権への支援、核開発問題などをめぐって欧米諸国と敵対しています。そのイランが、期せずして欧米諸国とともに、暫定政府に批判的な立場に揃って立つことになったのは、中東・北アフリカの政治的な断層の複雑さを象徴します。

周辺諸国の反応 (3)サウジアラビア
 
2012年の選挙でFJPとモルシ氏が勝利した際、イスラーム政権の誕生に懸念と警戒を示した欧米諸国に対して、これを擁護したのがサウジアラビア、UAE、クウェート、バーレーンなど、ペルシャ湾岸の大規模産油国でした。これらはいずれも、王族支配の保守的なイスラーム国家ですが、イランのように欧米諸国と敵対しない、いわば穏健派イスラーム諸国といえます。その意味で、王制でないとはいえ、モルシ政権の支持基盤であるMBはスンニ派というカテゴリーで共通し、さらにMBが政治権力を握ることでより過激なイスラーム勢力の台頭を抑えられる、という目算があったものとみられます

 ところが、これらの多くは暫定政府を支持しており、なかでもサウジ、UAE、クウェートはクーデタから間もない時期に120億ドルの資金援助を申し出ています。リビア内戦において反カダフィ勢力を支援したように、あるいはシリア内戦においてアサド政権に批判的なように、これらの諸国は基本的に欧米諸国と友好関係を維持しています。しかし、エジプト暫定政府に関しては、欧米諸国との温度差が顕著といえるでしょう。

 モルシ政権との良好な関係や、欧米諸国との齟齬を踏まえて、サウジなどがエジプト暫定政府に好意的であることを考える場合、その大きな背景としては、イランおよびシリアとの関係をあげることができます。

 サウジアラビアとイランは、OPEC原加盟国のなかでも指折りの産油国という共通項をもちながら、スンニ派とシーア派、アラブとペルシャ、親米と反米、王制と共和制と、ことごとく対立しています。そして、先ほども触れたように、(湾岸諸国にとって目下最大の懸念である)シリア内戦において、サウジアラビアとイランは反アサド、親アサドで対立関係にあります。先述のように、サウジアラビアは欧米諸国からの懸念に対してモルシ政権を擁護しただけでなく、これに対して軍事援助などを提供し、友好関係を築きましたが、そこにはイスラーム世界におけるイランの台頭を抑制する意図があったという観測もあります。

 いずれにせよ、サウジもイランもエジプトを自分たちの味方に引き付けようとしたのですが、モルシ政権が目指した「全方位外交」は、結果的にサウジ−エジプト関係を微温的なものにする効果をもちました。2012年9月10日、モルシ政権はシリア問題を協議するため、サウジアラビア、トルコ、イランの政府関係者をカイロに招きました。イランはサウジやトルコがシリア反体制派を支援していると非難しています。そのため、このカルテットでの協議はほとんど進展しませんでしたが、いずれにせよモルシ政権がイランの立場に相応の理解を示すことは、特にサウジアラビアにとって受け入れがたいものだったといえるでしょう。実際、サウジ政府はこのカルテットからすぐに姿を消しています

 モルシ政権との関係が微温的なものになっていたことに加えて、エジプトが「第二のシリア」になる事態は、サウジアラビアなどにとって避けたいシナリオです。その観点からすれば、事実上の軍事政権であるエジプト暫定政府を支援することは、サウジアラビアなどにとって、混乱を最小限に食い止めるためと理解できるでしょう。

米国が抱えるジレンマ
 カイロ在住の、EU議会ALDEグループの代表である Koert Debeuf によると、クーデタ後のエジプトにおける米国の位置づけは、とても「特別」なものといいます。つまり米国は、反モルシ(親・暫定政府)、親モルシ(MB)のいずれからも、「自分たちの相手を支援している」とみなされているというのです。

 米国が30年間にわたってムバラク政権を支援していたことは確かです。一方、ムバラク政権の末期、抗議デモで多数の死傷者が出るに及んで、米国はムバラク政権との関係を断ちました。以来、サウジアラビアなどの擁護があったことに加えて、エジプトで初となる民主的な選挙で選出されたこと、さらに行き過ぎたイスラーム本質主義への反動から、オバマ政権はモルシ政権との関係構築を模索し続けました。2012年9月、(米国が支援したムバラク政権と敵対し続けた、つまり米国に対して必ずしも友好的な感情を持ちえない)モルシ氏が大統領として初めて米国を訪問する直前、オバマ大統領はインタビューに応じて「我々はエジプトとの同盟関係を懸念することはないし、彼らを敵として懸念することもない」と述べています。

 ところが、クーデタによって、エジプトと関係を再構築する米国のデリケートな作業は、さらに困難なものになりました。民主的な選挙を経た政権が軍事力で転覆されたことを容認することは、ムバラク政権時代の悪名を再び覚悟せねばならず、それはただでさえ信頼が揺らいでいる米国の「民主主義の守護者」という看板にさらに傷をつけることになります。そのため、米国は多くの死傷者を出す衝突を非難し、さらに拘束されたモルシ氏の釈放をエジプト政府に求めるなど、暫定政府を批判する立場を示しました。

 その一方で、米国政府は7月のクーデタを公式に「クーデタ」と認めていません。そのうえで、クーデタ直後の7月9日、米国政府はエジプト向けの援助を継続する意思を示しました。米国の国内法によれば、「クーデタで政権を握った政府に援助を提供すること」は禁じられています。関係を遮断するこによりエジプト政府へのコントロールを失うことを恐れる一方、民主的な手順を踏まない政府を公式に認められないジレンマが、この対応を呼んだといえるでしょう。

 しかし、その後のエジプトでは、先述のようにMB関係者の拘束や親モルシのデモ隊と警官隊の衝突、さらにデモの規制などが相次ぎ、そのなかで10月に米国政府は数億ドル分の軍事援助と2億6000万ドル相当の資金援助の凍結を発表。さらに11月には、エジプトを訪問したケリー国務長官が、「暫定政府との協力維持」を明言する一方、暫定政府が示している新憲法の導入をめぐる国民投票から、大統領選挙、議会選挙に至る「ロードマップ」の実施の重要性を強調しました。

 これにより、米国政府は「選挙が実施されれば援助を再開する」旨のサインを出したと言えます。同時に、それは「選挙で選出される政府は問わない」という前提を含んでいるといえるでしょう。つまり、選挙さえ予定通りに行われれば、暫定政府を握るシシ国防相が大統領になっても、軍事援助が再開されることを暗に示したと理解できます。

 とはいえ、暫定政府とMBの双方からみた場合、この対応が少なくとも「自分たちに協力的でない」とみられることは避けられません。暫定政府からすれば、軍事援助を餌に、内政への関与を強めようとする姿勢に映ります。他方、MBからすれば、部分的に凍結したとはいえ、暫定政府に援助を提供しただけでなく、暫定政府が示したロードマップに沿った選挙の実施を認めたこと自体、米国がMBの側にいないことを意味します。これに鑑みれば、Debeuf のいう「特別」な位置づけは、概ね妥当といえるでしょう。

ロシアの接近
 先述のようなジレンマに直面するなか、米国がエジプトへの関与に苦慮している間に、エジプトへ急接近を図っているのが中ロ、なかでもロシアです。友好関係にあったカダフィ体制が崩壊した後、北アフリカでの足場を求める中ロにとって、米国−エジプト関係がギクシャクする様相は「狙い目」です。実際、体制転換の後の政治的混乱を背景に、米国企業が対エジプト輸出額を減らすなか、これを補うようにして中国、ロシアの対エジプト輸出額が増加しています。

 特にロシアにとって、エジプトは因縁の土地でもあります。1952年、エジプトで「自由将校団」の革命がおこり、米英の支援を受けた王政が打倒されました。自由将校団を率い、後にエジプト初代大統領となったガマール・アブドゥル=ナセルは、パレスチナ解放とアラブ民族の統一を掲げ、王政時代からの友好国であった米国との関係を見直し、ソ連に接近しました。エジプト近代化の象徴であったアスワン・ハイ・ダムが、ソ連からの資金援助で建設されたことは、その象徴です。ソ連からの援助は軍事面でも同様で、エジプト軍はその後の中東戦争を、ソ連製兵器で戦うことになります。

 しかしその後、ナセルが死亡し、後を受けたサダト大統領のもとで、先述のキャンプ・デービッド合意(1978)が結ばれたことで、エジプトは米国との友好関係を回復。冷戦の国際環境下、それは自動的にエジプトがソ連との関係を断ったことを意味しました。当時のソ連の感覚では、「飼い犬に手を噛まれた」に近いものがあったかもしれません。いずれにせよ、冷戦終結の後もロシアにとってエジプトは、スエズ運河を有する地理的条件やアフリカ大陸5位の産油量、さらにアラブ圏有数の軍事力といった魅力をもちながらも、縁遠い国だったといえるでしょう。

 ところが、昨年10月9日に米国がエジプト向け軍事援助の凍結を発表し、エジプト政府がこれを非難して約1ヵ月後の11月14日、シシ国防相はエジプトを訪問したロシアのラブロフ外相と会談し、軍事協力について基本的に合意したのです。内容の詳細については不明ですが、イスラエルの報道ではミグ21戦闘機を含む40億ドル相当にのぼり、そのうちほぼ半額はエジプト側が(湾岸諸国からの援助で)負担することと伝えられています。

 とはいえ、その数値の真偽よりさらに重要なことは、ロシアから軍事援助を受けるという可能性を、それが例え米国に対する外交上のブラフであったとしても、エジプトが示したことです。米国のメディアでこれが危機感をもって伝えられたことは、不思議ではありません。いずれにせよ、エジプトが中東・北アフリカにおける米ロの一つの大きな焦点になったことは確かです。

新憲法をめぐる国民投票
 このような錯綜した国際環境のなか、冒頭で述べたように、エジプトでは1月14日、15日の両日、暫定政府が示した新憲法草案の是非をめぐり、国民投票が実施されます。

 この憲法草案は、2012年11月にモルシ政権下で採択された憲法を修正したものです。新憲法案ではメディアの独立、信仰の自由、女性の権利、人身売買の禁止などが明記されていますが、他方で宗教に基づく政党の結成が禁じられるなど、主にMBを標的とした内容も目立ちます。これに加えて大統領の権限も強化されており、例えば2012年憲法と同様に、大統領が国民投票を通じて議会を解散する権限が認められていますが、2012年憲法では国民投票で否決された場合、大統領は辞職することになっていましたが、新憲法案ではこれが削除されています。さらに軍の権限も強化されており、国防相の人事権は軍に認められています。

 人権の保障や定期的な選挙は認められているとはいえ、軍によって全面的にバックアップされた世俗的で強権的な政府が生まれやすい内容といえるでしょう。その意味で、ムバラク政権時代に逆戻りとまでは言えませんが、民主化という観点から言えば少なくとも「半歩後退」と表現できます。とはいえ、この憲法草案が国民投票で採択される可能性は高いと思われます。

 リベラル派や少数派のキリスト教徒らは、ムバラク政権を打倒する際にMBなどイスラーム勢力と協力しましたが、2012年憲法の作成過程で後者が前者の要望をほとんど反映せず、数の論理によってイスラーム色の強いものにしたことで、警戒を強めました。また、行政経験の乏しいMBのもとでエジプト経済が大きく回復せず、治安も大きく回復しなかったことは、MBがコアな支持者以外の支援を失い、モルシ退陣を求める抗議デモが全土に広がった原動力にもなりました。昨年7月7日、クーデタ直後のカイロで開かれた数万人規模の反モルシ派の集会で、軍の行動が「クーデタ」ではなく「国民の意思」であったとアピールされたことは、MBに対する広範な不満の広がりを象徴します。

 いずれの政治勢力も、自らの信条や利益を主張することは当然でしょう。しかし、2012年憲法草案の制定過程とその後のモルシ退陣を求める抗議デモのいずれもが、妥協と協調ではなく、友−敵の識別と数の論理を優先させたことを示しており、これが結果的には、行き詰まりを力で克服するためのクーデタをもたらしたといえます。同様の構図は、フランス革命後のナポレオンの登場にもうかがうことができます。

 いずれにせよ、大勢がMBの復活を拒絶し、混乱の収束と安定を求める傾向にあることに鑑みれば、暫定政府の憲法案が国民投票で否決される可能性は低いといえるでしょう。2013年のドル建てリターンを示すMSCI株価指数で、エジプトは新興国分類の2位につけており、クーデタ後のサウジなどによる120億ドルが好感されたとロイターは伝えています。景気が回復傾向を示していることも、暫定政府にとっては好条件です。

中東・北アフリカ情勢の流動化が加速する懸念
 ただし、仮に国民投票で新憲法案が承認され、その後「ロードマップ」に沿って大統領選挙や議会選挙が予定通りに進んだとしても、それはエジプトおよび中東・北アフリカにとって安定を意味するとは限りません。暫定政府の最高権力者シシ国防相は、大統領選挙に立候補する意欲をみせており、順当にいけば当選する可能性が高いとみられます。これは確かに強力な政府が生まれることを予感させるものです。

 他方、強い政府が反対派を抑制するほど、行き場を失った反対派の不満が暴発しやすいことは、ムバラク政権下のエジプトでもみられたことです。苛烈な取り締まりにより、MBだけでなくイスラーム過激派が疎外感を強め、暴力的な衝突がさらに激しくなり得ることは、早くから指摘されています。憲法草案が国民投票で承認されれば、それは「シシ大統領の誕生」に向けた道程が加速することを予感させると同時に、エジプトでさらなるテロと鎮圧の連鎖に向かうことへの懸念を深めさせる要因にもなり得るのです。

 この状況は、米国にとって一長一短です。エジプトに、軍が全面的にバックアップする強力な政府ができることは、対テロ戦争や安全保障の文脈において、米国にとって好条件です。また、先述のように、ロシアがエジプトへの関与を深めているなかにあっては、できるだけ早く関係を改善する必要性を米国政府は感じているでしょう。

 ただし、世俗的で軍を背景とする大統領が生まれた際、米国があまり露骨に友好的な関係を築けば、MBだけでなくイスラーム過激派を刺激するだけでなく、現在のエジプト暫定政府に批判的なトルコやイランとの関係においても、大きな摩擦、あるいは少なくとも不確定要素を生みかねません。イスラーム主義的なエルドアン政権のもとで、米国との関係はやや疎遠になりつつありますが、それでもトルコはNATO加盟国で、米国の中東・北アフリカ戦略にとっての一つの要です。他方、周知のように、イランは昨年11月、核開発問題をめぐって欧米諸国と歴史的な合意を達成したばかりで、エジプト情勢への米国の姿勢がイランを再び硬化させる懸念も否定できません。トルコ、イランとの関係は、シリア問題にも波及し得る要素です。

 新憲法が採択され、少なくとも選挙で選出された大統領・議会のもとで統治が行われること自体は、エジプトにとって必須のステップといえるでしょう。しかし、ロードマップの実施自体が、エジプトにとって、そして中東・北アフリカをとりまく国際環境にとっての摩擦や不確定要素を大きくする側面もまた、看過することはできません。中東・北アフリカ情勢は、米国の覇権の相対的な衰退と「アラブの春」によって流動化しつつあるわけですが、今回のエジプトにおける新憲法の是非をめぐる国民投票は、これをさらに加速させる可能性が大きいといえるでしょう。

南スーダンにおける内乱:自衛隊PKOの試金石か

2011年にスーダンから分離独立を達成した南スーダンで、戦闘が激化しています。12月15日、首都ジュバで軍の一部が蜂起し、これを鎮圧しようとした部隊との衝突を皮切りに、19日には要衝ボルが反乱部隊によって制圧されました。既に多くの市民に犠牲が出ている他、米国人の救援にあたっていた米軍機が被弾するなど、深刻化する事態に、米国のオバマ大統領や国連の潘基文事務総長が相次いで憂慮を示しています。さらに、同国で油田開発などに携わっている外国人も相次いで退避しています。

南スーダンが全面的な内戦に陥った場合、それは独立したての南スーダンの将来に悲観的な前途を予感させるだけでなく、地域一帯の不安定化を促すことも懸念されます。のみならず、南スーダンの問題は、日本のアフリカ政策や国際協力にも深く関わるといえます。

南スーダンの内乱:キールとマシャール

先述のように、南スーダンは2011年7月に、スーダンからの分離独立を達成しました。この独立の経緯や意義については、以前に取り上げた通りです。ただし、そこで懸念として触れていたことが不幸にして結果的に当たってしまったのですが、今回の内乱は「南スーダンのスーダン化」と言えます。

もともと一つだった頃のスーダンは、北部にアラブ系ムスリムが多く、南部はアフリカ系キリスト教徒が中心で、人口に勝る北部が南部を支配する構図が定着していました。北部のイスラーム政権を率いるアル・バシール大統領が、イスラーム法を強制するなどしたこともあり、南北間での内戦が激化。結局、2005年1月にアル・バシールと、南部の解放闘争を率いたスーダン人民解放戦線(SPLA)ジョン・ギャラン指令の間で、即時停戦や6年間の暫定統治の後に独立の賛否を問う住民投票を行うことが合意されたのです。

この合意に基づき、スーダン南部では2011年1月に住民投票が行われ、7月に独立を達成しました。しかし、これにともない初代大統領に就任したのは、ギャラン氏ではなく、サルヴァ・キール氏でした。ギャランはバシールとの合意から間もない2005年7月、ヘリコプター事故によって死亡していました。この事故には陰謀説も飛び交いましたが、真偽は不明です。いずれにせよ、ギャランの跡を受けてSPLAを率い、初代大統領となったキールは当初、地域ごとのバランスに配慮した政権を樹立しました。そのなかで、副大統領に就任したのが、今回の内乱の一方の当事者となったリエク・マシャール氏でした。

ゲリラ組織の離合集散:その後遺症

マシャールは英国ブラッドフォード大学で哲学の博士号も得たインテリで、ギャランとともにSPLAを率いた経験も持ちます。しかし、スーダン全土を南部中心の国とするか、南スーダンとして独立するかといった路線の対立だけでなく、ディンカ人のギャランとヌエル人のマシャールというエスニック(民族、部隊)な対立も顕在化し、1994年にマシャールは一度SPLAから脱退しています。【Feyissa, Dereje (2011). Playing Different Games: The Paradox of Anywaa and Nuer Identification Strategies in the Gambella Region, Ethiopia. Berghahn Books.】

その後、マシャールはヌエル人主体のゲリラ組織・南スーダン防衛軍(SSDF)を結成し、北部に対する武装活動を展開しましたが、2002年にSSDFを率いて再びSPLAと合流。独立にともない、SPLA内部での実権を固めていたギャランの後継者で、やはりディンカ人のキールを補佐する形で、副大統領に就任したのです。

この経緯が示すように、キールとマシャールは、同じSPLAに所属しながらも、基本的には別の派閥で、しかもマシャールが旧SSDFメンバーに支持されていることからも、必ずしも良好な関係ではありませんでした。その冷たい対立が火を吹いたのは、今年7月にキール大統領がマシャール副大統領を含む閣僚を一度に罷免したことでした。マシャールはこれを「キールの独裁化」と非難。一触即発の状況下、軍内部のマシャール派による蜂起により、今回の武装衝突に至ったのです。

「南スーダンのスーダン化」

周知のように、アフリカの国境線は、19世紀のヨーロッパ列強の植民地化によって引かれた境界線をもとにしています。南スーダンの独立は、初めてこれを変更したもにであり、その意味で世界史的に意味があります。

一方で、かつてスーダン内部であった人種、宗派間の対立が、南スーダンにあってはエスニックな対立に置き換えられていると言えるでしょう。これらの文化的な差異が対立に至る背景には、政治権力が経済的利益に転換する構造があります。南スーダンは産油国で、かつてのスーダンにあった油田の約8割を抱えます。

石油などの資源が出ることが、政府収入とともに汚職を増加させ、さらに権力者が物質的利益で自らの支持者を囲い込む一方で、自らに敵対的な集団を強権的に抑え込む傾向を強くすることは、「資源の呪い」と呼ばれる現象の一環です。キール大統領の閣僚罷免は、この文脈から理解されます。また、蜂起から間もない22日、マシャール派の部隊が油田地帯のユニティ州(今の南スーダンに鑑みてなんと皮肉な名称か)を制圧したことも、偶然ではありません。いずれにせよ、南スーダンの対立は、異なるグループ同士の政治的、経済的利害をめぐる対立という意味においてかつてのスーダンと同様であり、それがここでいう「南スーダンのスーダン化」なのです。

日本にとっての南スーダン

一方、南スーダンの問題は、日本にとっても無縁ではありません。自衛隊は2008年10月から、当時のスーダン南部で展開していた国連スーダン・ミッション(UNMIS)に要員を派遣しており、現在は陸上自衛隊の330 名規模が施設部隊がジュバに駐留しています。

本来、PKO部隊の派遣は、防衛省・自衛隊の管轄です。しかし、その他のPKOミッションと同様に、そしてその他のPKOミッション以上に、南スーダンへの部隊派遣は外務省の強い要望によって実現しました

もともと、自衛隊のPKO参加の第一号である1992年の国連カンボジア暫定機構(UNTAC)への派遣は、その直前の湾岸戦争(1991)で憲法上の理由から部隊を派遣せず、130億ドルを拠出したにも関わらず、国際的にほとんど評価されなかったことのショックから、外務省が推進して決議された1992年の国際平和維持活動協力法に基づくものでした。さらに、この背景には、やはり1990年代の初頭から外務省が掲げた、国連改革と安全保障理事会常任理事国入りという目標がありました。そこには、安保理常任理事国となる、言い換えれば政治大国を目指すためには、「カネだけでなくヒトも出す」必要がある、という認識があった(ある)と言えるでしょう。

安保理常任理事国入り問題はさておき、紛争地帯の安定に寄与することは国際社会の安定に欠かせず、引いては日本の安全にも関わるという意味において、PKO派遣そのものの意義はあると思います。ただし、自衛隊の場合は武器使用の制限が他国以上に厳しく、現場レベルでの活動に制約があります。2001年の法改正で、従来の「要員の生命保護のための必要最小限の武器使用」だけでなく、「自己の管理下に入った者(例えば避難民など)」や「武器、弾薬などの防護」のために武器が使えるように基準を緩和しました。しかし、他国の(PKO部隊を含む)軍隊への攻撃に対して自衛隊の部隊が反撃することや、離れた場所にいる文民を保護するために駆けつけて武器を使用することは認められていません

このため、自衛隊の部隊は停戦監視と治安維持というPKO本来の目的を遂行することが困難です。今年1月のアルジェリア人質事件の後、自民、公明両党は自衛隊法の改正提言をまとめましたが、その際にも武器使用基準は最終的に維持されました。この観点から、自衛隊のPKO派遣が、戦闘に直面する危険性が比較的少ないミッションや、そのリスクが低い地域への派遣が多く、しかもその任務の多くが物資輸送や道路整備などの復興支援にかかわるものであったことは、不思議ではありません。

ところが、南スーダンは、武器が多く出回っており、さらに近隣には中央アフリカ、ソマリア、ウガンダなど、ムスリム系、キリスト教系を問わずゲリラ組織が跋扈する国が多いため、これまでに自衛隊が派遣されたカンボジアや東チモールなどと比較しても政情が不安定です。そのため、防衛省がこれに難色を示したのですが、他方で治安が悪い土地への派遣ほど対外的なアピール効果が高いことから、外務省はむしろ積極的で、これにより2012年の部隊増派が実現しました。

パッチワークの先にあるもの

今回の武力衝突を受けて、政府は「自衛隊の駐屯しているエリアは概ね平穏」と説明しています。かつてイラクへの自衛隊派遣をめぐり、国会での質疑のなかで「自衛隊のいるところが非戦闘地域だ」と豪語した小泉元首相を思い出してしまうのは、私だけでしょうか。

ともあれ、仮に自衛隊の駐屯しているエリアで戦闘がほとんど発生していないとしても、そもそも現在の南スーダンで安全な場所は、ほとんど想定できません。つまり、いつ何時、自衛隊の駐屯しているエリアやその近辺で戦闘が発生してもおかしくないと言えるでしょう。PKO部隊は積極的に戦闘に関わることを目的としませんが、かと言って襲撃の対象にならないわけではありません。南スーダンでは19日、国連南スーダン派遣団(UNMISS)基地がマシャール派とみられる部隊に襲撃され、インドからのPKO要員が3名殺害されています。

例えば、他の国連PKO部隊が襲撃された場合、あるいは近隣で文民がゲリラ組織に襲われている場合、自衛隊の部隊は国内法を優先させて関与しないべきなのか、それともPKO活動の国際的なスタンダードに従って可能な限り救援に向かうべきなのか。そこに関する議論は棚上げにされたまま、対外的なアピールのための派遣という既成事実だけが積み重ねられてきたのが、日本のPKO派遣といえるでしょう。一番気の毒なのは、判断を縛られながら判断を求められる、現場の自衛官です。政府・外務省はいうまでもないことですが、市民・有権者の側にも、最悪の事態を軽視する、正常性バイアスに近いものがあるのかもしれません。

武器使用に制約が多いのは、いかなる形であれ、現地で戦闘にコミットすることを忌避する思考を背景にするといえるでしょう。しかし、PKO部隊を送り出すということは、例え意図的でなくとも、戦闘にかかわる可能性があることをまず再認識すべきだと思います。対内的なアピールとして武器使用を制限して自衛官の手足を縛りながら、対外的なアピールとしてかつてなく危険な地域に部隊を派遣するという、パッチワークのような対応をしてきたツケが露呈しつつあるのであり、「自衛隊のいるエリアは概ね平穏」と言って済ませられる話ではありません。

そして、これは国際協力全般にとってだけでなく、日本の対アフリカ・アプローチにも関わる問題です。これまで再三取り上げてきたように、アフリカではテロ組織の活動が活発化しています。安倍総理は今年6月のアフリカ開発会議(TICAD V)で、アルジェリアの事件を念頭に、安全保障分野でのアフリカへの協力として、PKO訓練センターへの支援などを通じて、今後5年間に3000名の平和構築にかかる人材を育成することなどを約束しました。そこでは明言されていませんが、この地へ急速に進出する中国を念頭に、アフリカにおける国連PKOミッションへの参加も増える可能性は小さくありません。すなわち、同様のデッドロックが今後ますます増えることは、容易に想像されるのです。これらに鑑みれば、南スーダンでの内乱は、今後の自衛隊PKO派遣や対アフリカ・アプローチを占う試金石でもあると言えるでしょう。


中央アフリカ軍事介入の構図:フランスの対アフリカ政策に関する覚え書き

 12月6日、かねてからフランスが国連安全保障理事会に提出していた、内戦と人道危機が深刻化する中央アフリカ共和国へ軍事介入する決議が採択され、フランス軍1200名とともにアフリカ各国から3600名の兵員が派遣されることになりました。国連決議を受けて中央アフリカに展開したフランス軍は、散発的な戦闘に直面しながらも、概ねスムーズに首都バンギをはじめとする各地の治安を回復させ、反体制派の武装解除も始まりました。

 フランスがアフリカで軍事活動を行うことは、稀ではありません。しかし、今年に入っての事例は1月のマリに続いて二度目で、以前と比べて頻度が高くなったことは確かです。フランスはなぜ、アフリカでの軍事活動を活発化させているのでしょうか。また、そこにはどんな意義や問題があるのでしょうか。

 これらを考えるにおいて、まず中央アフリカの状況についてみておく必要があります。なぜ、中央アフリカには各国部隊が派遣されることになったのでしょうか。

中央アフリカの政情不安
 世界銀行の統計によると、中央アフリカの一人当たりGDP(2005年平価)は約369ドル。サブサハラ・アフリカ平均の約992ドルを大きく下回ります。一方、2000年から2012年までのGDP成長率の平均値が、サブサハラ・アフリカで約4.7パーセントなのに対して、中央アフリカは約1.2パーセント。中央アフリカでは金やウランが採掘されますが、アフリカのなかでも所得が低く、さらに目立った成長も実現していないのです。

 この経済停滞は、中央アフリカの歴史を彩ってきた政治的混乱と並行して生まれてきました。1960年に独立して以来、中央アフリカでは4度のクーデタが成功し、軍事政権が樹立されては−例えその間に一時的に民主政に移行したとしても−さらに別の軍事政権が樹立されるという悪循環が続いてきました。その間には、1966年のクーデタで政権を握ったボカサ参謀総長が1976年に「中央アフリカ帝国」の樹立を宣言し、皇帝に即位するという奇怪な出来事すら発生しています。

 同国の政治的な混乱は、冷戦終結後のアフリカ諸国を覆った、欧米諸国からの民主化圧力にさらされてからも続きました。1991年、当時のコリンバ大統領(1986年のクーデタで政権を握った)が憲法を改正し、複数政党制が憲法に明記されました。新憲法に基づいて1993年8月に行われた大統領選挙で、野党系のパタセ候補が当選したのですが、1996年4月には給与の遅配に不満を募らせた一部兵士による反政府・反大統領の抗議運動が勃発。同年11月には軍の一部が蜂起し、鎮圧に失敗したパタセ政権の要請に基づき、1998年4月には国連PKO(平和維持部隊)が派遣される事態となったのです(後述)。

 治安が一時回復したことを受け、1999年9月に実施された大統領選挙では、パタセ大統領が再任。そのうえで2000年2月に国連部隊は撤退し、中央アフリカに平穏が戻ったかにみえました。

 ところが、2001年11月には、再び軍事衝突が勃発。国際的な監視に基づいて実施されていたとはいえ、選挙で不正が横行するなど、中央アフリカでは他のアフリカ諸国と同様、選挙で権力を掌握したパタセ大統領が独裁化する傾向をみせていました。そして、やはり(必ずしも多くでなくとも)いくつかのアフリカ諸国でみられるように、政府に批判的な軍隊をけん制するために大統領が個人的な軍事組織を編成したことが、軍隊との関係をより悪化させる契機となりました。2001年の軍事衝突は、パタセ大統領に批判的なボジゼ元参謀総長が率いる部隊と、大統領親衛隊の間で発生したのです。

 結局、2003年3月にボジゼ元参謀長は権力を掌握。翌年には憲法を改正し、さらに2005年には大統領選挙が実施され、ボジゼ新大統領が誕生したのです。その後、2011年の大統領選挙でボジゼ大統領は再選されました。しかし、ボジゼ大統領もやはり、恣意的な選挙運営や反政府勢力の強権的な取り締まりなど、歴代大統領がみせた兆候と無縁ではありませんでした。さらに、2000年代のアフリカが「最後のフロンティア」として域外国からの投資に沸き、急激に成長したのと比べて、冒頭で示したデータからうかがえるように、ボジゼ大統領の任期中の中央アフリカでは、経済停滞が顕著だったと言わざるを得ません。

 経済成長や貧困削減に目立った成果が出ず、汚職が絶えないなか、ボジゼ退陣を求める武装勢力が結集し、2012年9月にセレカ(サンゴ語で「同盟」の意味)が設立されました。中央アフリカでは人口の約70パーセントがキリスト教徒といわれますが、セレカは少数派のムスリムがほとんどです。内戦後のリビアなどから武器や人員が流れ込み、兵力を増したセレカは、2012年12月に主な都市を占拠するに至ったのです。

 今年1月、中部アフリカ10ヵ国が加盟するECCAS(中部アフリカ諸国経済共同体)の仲介のもと、ボジゼ大統領とセレカは、セレカのメンバーを軍に編入することなどを条件に停戦を合意。しかし、3月にはセレカが「停戦合意が守られていない」と主張して攻撃を再開。ボジゼ大統領は亡命し、3月25日にセレカのリーダー、ミシェル・ジョトディア氏が暫定大統領に就任したのです。

 これをフランスや周辺国は批判。4月3日に隣国チャドで開催されたアフリカ諸国の会合では、ジョトディア氏を正式の大統領と認めず、18ヵ月以内の選挙実施を求めることが確認されました。ジョトディア氏はこの要求を受け入れ、選挙実施を協議するために、セレカ以外の勢力も含んだ暫定議会を設置。さらに、18ヵ月以内に実施される大統領選挙に自身は立候補しないことを明言したのです。これらはフランスおよび、フランスと連携した周辺のフランス語圏諸国からの外交圧力を受けた対応といえるでしょう。

 ところが、もともとゲリラ組織の連合体であるセレカは、上層部の意向と関係なく、末端兵士がボジゼ派などとの間での戦闘を継続したばかりか、民間人への襲撃も頻発。8月には国連安保理が「中央アフリカは完全な無秩序状態に陥りつつある」と警告しています。ジョトディア政権は9月にセレカ解体を発表しましたが、メンバーのほとんどがこれを拒絶し、略奪や虐殺はさらにエスカレート。国連の一部などでは「大量虐殺(ジェノサイド)」の表現が用いられ始め、さらに約40万人が避難民になるなど、状況が極度に悪化するなか、今回の軍事介入が決定されたのです。

「人道的介入」の是非
 少なくとも今回の中央アフリカの場合、それを「大量虐殺」と呼ぶかどうかはさておき、多くの人が死傷していることと、ジョトディア政権がセレカに対するコントロールを失ったことは確かです。民間人に対する蛮行を制止するために外部が関与することは、人道的な観点から必要でしょう。そして、当該国の「国家元首」であるジョトディア氏が一応同意し、さらに国連安保理での決議を経ている以上、フランスやアフリカ諸国が部隊を派遣することは全く合法的なものです。

 とはいえ、「人道的」な目的のために、「合法的」な手続きにのっとって実施される介入であっても、問題がないとは限りません。

 冷戦終結後の1990年代、旧ユーゴスラヴィアやルワンダなど世界各地で発生した民族紛争に対して、欧米諸国は「人道的介入」と称した軍事介入を行いました。「(個人が人権をもつように)各国はそれぞれ国家としての主権をもつがゆえに、立場上対等である」という主権概念と、ここから生まれる「いずれかの国が他国に優越することはないのだから、他国の内政についてどの国も関与してはいけない」という内政不干渉の理念は、近代国際政治の大原則です。しかし、国家主権と内政不干渉を強調することは、他国で発生している非人道的な行為に関しても、何もできないことになります。「人道的介入」は、「人権、人道の観点から、国家主権を場合によっては無視することもやむを得ない」という発想に基づきます

 しかし、問題は「場合によっては」という部分です。つまり、誰が、どうやって、この「場合によっては」を判断するかの明確な基準はありません。したがって、実際に介入する側、あるいは介入を主張する側の恣意によって、「介入の是非」が左右される部分があることは確かです。

 それは、フランスとアフリカの関係からもみられます。フランス語圏のルワンダでは、1990年に発生した内戦の最終局面として、多数派のフツ系住民と少数派のツチ系住民がお互いに殺しあう事態が発生しました。このルワンダ大虐殺(1994)に対して、しかし国連は米英が関与に消極的だったこともあり、フランス軍の「人道的な関与」を認めるにとどめました。これを受けて、フランスは「トルコ石作戦」と銘打った介入を行い、フランス軍が「人道ゾーン」を設置して文民の保護を図りました。

 しかし、実際に「人道ゾーン」が設置されたのは、むしろフツ系住民の多いエリアで、ツチ系住民の多くは、この介入によって安全を確保されることはありませんでした。さらに、フツ系の民兵が人道ゾーンを通じて近隣諸国へ逃亡することを容易にしたほか、フツ系民兵による蛮行は人道ゾーン内部でも発生したといわれます。このアンバランスな対応の大きな背景としては、フランス政府がそれまでフツ系政府との友好関係をもち、これがルワンダ国内でのフランス企業の操業と連動していたことがあげられます。つまり、ルワンダ内戦へのフランスの関与は、そのタイミングでどちらが被害を受けているかではなく、それまでの関係に基づき、フツに肩入れするものであったといえるでしょう。これは、介入する側のそれまでの関係性において、保護される者とそうでない者が分かれた一つの事例です。

一歩引いたアプローチへのシフト
 1990年代、フランスはそれまでのアフリカにおける立ち位置の修正に迫られていました。ルワンダ内戦への不可解な関与はその一例ですが、のみならず中央アフリカもまた、「アフリカの憲兵」としてのフランスの役割を再考させる契機になりました。

 中央アフリカでは1996年から国軍の一部、約100人が反乱を起こし、国営ラジオ局を占拠して大統領親衛隊と衝突しました。これは、アンドレ・コリンバ大統領(任1981−93)が打ち立てた、ヤコマ人など南部出身者を優遇する政権が、1993年大統領選挙における、北部出身のサラ人であるアンジュ=フェリクス・パタセ(任1993−2003)の勝利にともなって崩壊したことへの反発が一因となりました。つまり、南北間のエスニック対立が大きな背景となったのです。

 ともあれ、パタセ大統領の辞任を要求する反乱に対して、フランスは1600名ともいわれた在留フランス人の保護を目的に、在留フランス軍を2300名まで増派しました。ところが、フランスはパリでの留学経験をもつアフリカ人エリート層と緊密な人的ネットワークを構築し、当該国政府と深い関係を築くスタイルを長年とってきたのですが、この場合はコリンバ派ともパタセ派とも友好関係があるため、中立での関与を余儀なくされたのです。その結果、フランスはコリンバ派からもパタセ派からも敵視されるに至り、結局フランスは単独での事態収拾をあきらめ、1997年2月に周辺のフランス語圏(ガボン、ブルキナファソ、マリ、チャド)の部隊で構成される、800名規模のアフリカ諸国間バンギ合意監視団(MISAB)を指導するポジションにつきました。さらに、MISABは翌1998年4月に解消され、これに代わってナイジェリア人を司令官とする国連中央アフリカ共和国ミッション(MINURCA)が派遣されました。「アフリカの紛争はアフリカで解決するべき」というのは、当時のコフィ・アナン事務総長の方針でもありましたが、中央アフリカで手を焼いたことが、フランスの対アフリカ政策を見直す一つの契機になったといえるでしょう。

 ルワンダや中央アフリカの経験を経て、1990年代の末以来、フランスは駐留フランス軍の縮小や簡素化を柱に、それまでの家父長的といっていいアプローチを改めるようになりました。中央アフリカで、単独での対応からフランス語圏を中心とするMISABの編成・支援に役割をシフトさせたことは、その典型です。また、その後はフランス語圏のみならず、英語圏諸国も含めて、アフリカ各国の軍隊に対する共同演習やPKO訓練なども行われるようになりました。

 とはいえ、フランスがかつてのヨーロッパ植民地勢力のなかで、唯一アフリカに兵力を駐留させる国であることはかわりありません。深い経済的な結びつきを反映して、現在アフリカには約24万人のフランス人が居住しています。これを保護するため、フランス軍は(いわゆる外人部隊を含めて)約1万2000人の兵員をアフリカに駐留させています

再び積極的アプローチへ
 このような背景のもと、今回の中央アフリカの場合も、2012年12月の段階でオランド大統領は「フランスがアフリカ各国の体制を支える時代は終わった」と述べるなど、フランス政府は直接的な関与に必ずしも積極的ではありませんでした。これが一
転して介入に転じた背景には、いわば大義が揃ったことがあげられます。

 必ずしも自由かつ公正なものであったとは言いにくいですが、一応選挙で選出されたボジゼ大統領が亡命を余儀なくされたことは、欧米諸国が冷戦終結後にアフリカ諸国に求め続けてきた、民主主義に反します。これらを踏まえて、フランス国内では、今回の介入が「かつての独裁者を支援するためのものとは違う」という意見も聞かれます。

 第二に、あまりにも無軌道な殺戮が相次ぐことは、人道に反します。フランスの国連大使などが、再三ジェノサイド(大量殺戮)の疑いを強調することは、介入の大義を保全するという観点からも理解できます。

 第三に、セレカがイスラーム中心で、しかもリビアなどから兵器や人員が流入していることは、反テロの観点から好ましくありません。1月のマリへの介入も、同様の文脈で捉えることができます。

 第四に、そして最後に、現地からの要請です。昨年12月、セレカの攻勢を前にして、首都バンギにあるフランス大使館の前では、危機感を抱いた市民により、「軍事介入しないこと」への抗議デモすら発生したことや、介入後のフランス軍が行く先々で歓迎される様子を伝えるフランスAFPの報道は、これを印象付けています。

 ただし、これらの大義の陰に、フランス自身の利益があることもまた否定できません。中央アフリカからみて、フランスは最大の貿易相手。さらに、資源ブームのなかでフランス企業はアフリカ向け投資を増やしていますが、2007年にフランスのAreva社は、首都バンギから北東900キロにあるバコウマ(Bakouma)でのウラン鉱山開発に25億ドルを投資しています。これに代表されるように、ボジゼ前大統領はサルコジ前フランス大統領との友好関係に基づき、フランスからの投資を呼び込んでいました。しかし、その過程で不透明な人事や資金移動も指摘されています。バコウマにあるArevaのプラントは、昨年12月にチャドから侵入したテロ組織の攻撃を受けています。すなわち、ボジゼとフランスの友好関係の象徴であるArevaのプラントは、反体制派からみれば旧宗主国と汚職にまみれた大統領が結合した象徴であったといえるでしょう。

 とはいえ、いかに歴史的、経済的に関係が深いとはいえ、フランス自身の経済状況が好調といえないなか、軍事介入は必ずしも有権者の評判がよくない選択です。さらに、ルワンダ内戦での不透明な関与を含め、フランスの対アフリカ政策に植民地主義的な側面があったことは、多くの国が知っています。そのなかで、仮に当該国でのプレゼンスやフランス企業の権益保護といった要因があるにせよ、それを直接的に打ち出すことは、いかに図々しくとも困難です。その意味で、大義が出そろったことは、適切な表現でないかもしれませんが、フランスにとって「渡りに船」だったといえるでしょう

 しかし、ここで注意すべきは、その動機づけに経済的な要素があったとしても、そのこと自体を非難することがナイーヴに過ぎるということです。一般に行為の「正しさ」は、動機づけと結果で測ることができます。両者が一致して「正しい」ことが最良であることと、両者が一致して「正しくない」ことが最悪なことはもちろんでしょう。しかし、問題は残る二つのタイプ、つまり動機づけが公明正大でも、結果になんら影響を及ぼさない対応と、動機づけに「不純な」ところがあっても、結果的によい影響をもたらす対応のうち、どちらを優先させるかということです。少なくとも中央アフリカの場合、今回の軍事介入によって救われた生命や守られた人道があるという観点に立てば、動機づけが立派でも何もしない対応より、現地の人々にとって意義があったといえるでしょう。

 ただし、さらにまた注意すべきことは、「結果重視」のアプローチからすれば、フランスの対応は短期的に中央アフリカの治安回復や人命保護に役立ったにせよ、中長期的には同国の将来にとって好ましいかどうかは話が別だということです。経済的な結びつきを強め、政府間での人的ネットワークを構築する一方、自らと友好的な政権が国内からの脅威にさらされた場合には、軍事力でこれを保護する。そのプロセスに「民主主義」、「人道」、「反テロ」といった大義が加わるにせよ、フランスがドゴール時代からの家父長的な対アフリカ政策から、必ずしも抜けきっていないといえるでしょう。そしてこれが、ボジゼ政権のように、一応は選挙によって樹立されながらも、国内の文化的差異に配慮せず、一部の既得権益層に利益を還元し、反対派を武力で取り締まる政権の延命を促す一因になっているのです。

 フランスの国連大使は、「来年後半までの選挙実施」を強調しています。選挙をすること自体はともかく、この状況下ではどんな政権が誕生しようとも、旧宗主国への依存度においては変わりありません。そして、問題があったときに頼ってくる政府があることは、フランスにとって、一方では面倒事に首を突っ込まざるを得ないものの、逆にそれが当該国への影響力を強める契機にもなっているのです。その意味で、アフリカにとっての問題は、外部からの介入そのものではなく、介入を要請せざるを得ない状況が再生産されていることにあるといえるでしょう。

エジプト危機は克服できるか:国際的な仲介努力とエジプト内部の対立が示す力学

 エジプト危機とムスリム同胞団の孤立
 11日、エジプトの暫定政府は、ムスリム同胞団の支持者たちによる、首都カイロでの座り込みの強制排除に取りかかる意思を表明しました。13日には警官隊とムスリム同胞団の衝突で1名が死亡。暫定政府の正当性をめぐって市民同士の衝突も発生しており、エジプトは今後より危機的な状況に向かう兆候を示しています。

 エジプトでは7月3日にクーデタが発生し、昨年6月に就任したモルシ大統領が拘束されました(クーデタに至る経緯については、こちらを 参照)。これによって、ムスリム同胞団をはじめとする穏健派イスラーム政権は、わずか1年で崩壊したのです。軍部はその後、ムスリム同胞団の幹部たちを相 次いで拘束。一方でその他の穏健派イスラーム組織には新憲法の制定に向けた協議への参加を呼びかけ、ムスリム同胞団の孤立化を図ると同時に、暫定政府の正 当性を高めようとしてきました。IAEA(国際原子力機関)事務局長を勤めた経験と、ノーベル平和賞を受賞したことで国際的に知名度が高い、リベラル派のモハメド・エルバラダイが副大統領に就任し たことは、内外に「軍部の独裁でない」とアピールするものです。また、軍部の呼びかけに呼応して、2011年11月の議会選挙で、ムスリム同胞団の政治部 門であるFJP(自由公正党)に次いで第二党となったアル・ヌールは既に暫定政権に協力しています。しかし、イスラームの教義により忠実なサラフィー主義 に基づくアル・ヌールは、リベラル派のエルバラダイを副大統領に据えることに反対するなど、暫定政府は「反ムスリム同胞団・反モルシ」以外の共通項を欠いたものであるといえるでしょう。

  失業率の悪化など、モルシ政権が国民生活を必ずしも改善できなかったことは確かです。さらに、必ずしも「イスラーム国家の建設」などを謳っていないもの の、イスラームに特別な価値を認める内容の憲法を、イスラーム系組織以外の勢力が反発するなかで採択したことが、国内の分裂を深める大きな要因になったこ とも否定できません。これらの背景のもと、反政府組織タマロド(Tamarod)は6月から抗議デモを主導する一方、ツイッターやフェイスブックを通じ て、モルシ大統領に退陣を求める署名活動を展開。エジプト総人口の約3分の一に当たる2200万人が署名したと発表し ています。タマロドはアラビア語で「反乱」を意味し、その支持者の多くはリベラル派やキリスト教徒とみられます。そして、この運動と連動するように、モル シ大統領就任から1年を目前にした時期に抗議デモが頻発したのです。しかし、いかに不人気とはいえ、国民参加の選挙で選出された政権を軍事力で打倒するこ とは、認められるべきでないでしょう。

欧米諸国のエジプトへの関与
 ルシ支持者らと暫定政府との対立が抜き差しならないものになり、緊張が高まるなかで、米国EUは 仲介を試み、さらに暫定政府に対しては治安部隊による暴力的な鎮圧の自制を求めてきました。一方で、安部政権が「法の支配」や民主主義の価値を(主に中国 を念頭に)熱心に掲げながら、この事態に何もアクションを起こさないことは、さして驚くことでもありません。ただし、欧米諸国の行動もまた、必ずしも民主 主義の理念だけに突き動かされたものではありません。

 もともと、2011年の政変で失脚したムバラク大統領を30年に渡って支援したの は、西側諸国、なかでも米国でした。パレスチナ問題を巡るイスラエルとアラブ諸国の対立を背景とする、四度に渡る中東戦争は、エジプト政府の不満を高める ことになりました。他のアラブ諸国政府が、外交上はともかく、実際には兵力をほとんど派遣しないなか、一貫してイスラエルとの最前線に立ち続けたのはエジ プトでした。

 エジプトの疲弊を恐れたサダト大統領(任1970-81)は、米国の仲介のもと、1978年のキャンプ・デービッド合意 で、イスラエルとの単独和平に踏み切りました。これは他のアラブ諸国から「裏切り」とみなされましたが、他方で相次ぐ中東戦争に全面的に関与し続けたエジ プト政府からすれば、「パレスチナ解放」や「イスラエル打倒」を掲げながらも実際には協力しようとしないアラブ諸国との関係より、眼前の脅威であるイスラ エルと和平合意にこぎつけることで、自国の安全を確保するとともに、経済的衰退を食い止める決定だったといえるでしょう。

 いずれにせ よ、これによってエジプトはアラブ諸国のなかで数少ない、イスラエルと国交をもつ国となりました。パレスチナ問題で一貫してイスラエルを支援してきた米国 にとって、エジプトはアラブ諸国における重要な友好国になったのです。それは同時に、エジプトの当時の体制を支えることが米国の利益になったことを意味 し、その結果、サダトやその後を受けたムバラク大統領による反体制派の弾圧を、米国をはじめ西側諸国は容認し続けたのです。そのなかで、世俗的なリベラル 派だけでなく、イスラーム勢力も政治活動を制限され、なかでも貧困層に支持者の多いムスリム同胞団は、軍の支持を背景とする世俗的なサダト/ムバラク政権 からみた最大の脅威となり、弾圧の対象となりました。これがイスラーム過激派の台頭を促し、1979年には貧弱救済などを主に行っていたムスリム同胞団か ら分裂した急進派アル・ジハードのメンバーがサダトを暗殺するに至ったことは、弾圧とテロの悪循環を示します。

 2001年以降、米国 ブッシュ政権が最優先課題とした対テロ戦争は、エジプト政府をして、ムスリム同胞団を「テロ組織」として弾圧する大義名分を与えるものになりました。他方 で、ブッシュ政権はテロが起こる背景の一つとして、政治的な異議申し立てができない状況があると考え、これに基づき2003年には中東各国の民主化を促す 「中東民主化計画」を掲げたことで、ムバラク政権は少なくとも形式上、民主化に舵を切る必要に迫られたのです。これを受けて2005年、エジプトでは史上 初となる、複数候補による議会、大統領選挙が実施されましたが、ムスリム同胞団は公式には参加が禁止され、ムバラク陣営が勝利しました。米国をはじめ西側 諸国の政府は、エジプト政府がテロリストの取り締まりと民主化を両立させたと高く評価しましたが、反ムバラク勢力からみた場合、これが権威主義的なムバラ ク政権による出来レースと弾圧を容認するものであったとしても不思議ではありません。

欧米諸国の現在の懸念
 「ラブの春」に先立つこれらの経緯に鑑みたとき、現在のエジプト危機に対する米国やEUの仲介の背景には、民主主義や人権といった理念にとどまらない動機付けがあるといえるでしょう。

  1. ムバラクが失脚したとはいえ、軍の要職を占める幹部の多くは旧体制時代と変わっていない。言い換えれば、クーデタを起こした軍にとって、モルシ支持者の中核であるムスリム同胞団は長年敵対し続けた相手である一方、西側諸国なかでも米国は1970年代以来、友好関係を保ってきた間柄である。同時に、穏健派とはいえイスラーム主義的なモルシ政権に、米国が少なからず警戒感をもっていたことも周知の事柄である。この状況下で、たとえ米国にとってモルシ派より暫定政府の方が組みやすいとしても、あるいはそうであるがゆえに、わずかでもクーデタに理解を示せば、(その真偽はともあれ)クーデタそのものが「米国の策謀」という印象を与えかねない。
  2. 少なくとも民主的な手続きで選出されたイスラーム主義政権を、(反モルシ派の支持を受けていたとはいえ)世俗的な軍部が力づくで転覆させたことは、穏健派イスラーム主義のモルシ政権のもとでやや静かにしていた急進派の活動を活発化させる契機になり得る。 これはちょうど、1990年のアルジェリア議会選挙でイスラーム救国戦線が勝利したことに警戒感を募らせた軍部が、選挙結果の無効を宣言して事実上の軍政 を敷き、これがその後の同国におけるテロと武力鎮圧の連鎖をもたらしたのと同じパターンである。アルジェリアの場合、西側諸国は軍部の行動を黙認したが、 これがイスラーム過激派の反欧米感情を一層悪化させる結果となったことに鑑みれば、今回の危機の沈静化に失敗すれば、エジプトで内乱が起こりかねず、ひい ては新たな対テロ戦線が開くことになりかねない。
  3. 親米的なムバラク政権が倒れ、独自の外交方針を模索するモルシ政権ができて以来、米国とエジプトの経済関係は停滞してきた。これと入れ違いに、中国やロシアが急激にエジプトへ経済的に進出している。 やはり2011年の「アラブの春」のなか、エジプトの隣国リビアでカダフィ体制が崩壊した。従来、中ロはカダフィと友好関係にあり、リビアでの油田開発な どで存在感を保っていたが、政変後はそれがあだとなり、新体制とは必ずしも良好な関係にない。すなわち、リビアでの旗色が悪くなったことは、中ロをしてエ ジプト進出を強めさせる契機になったとみられるのであり、そうだとするとエジプトへの関与を弱めることは、西側諸国にとって、北アフリカ一帯の勢力圏の縮 小に繋がりかねない。



 以上に鑑みれば、欧米諸国が暫定政府によるモルシ派の強制排除に憂慮を示し、慎重な対応を求めるため、継続的に関与していることは不思議ではありません。とはいえ、死者を出す衝突が頻発していることから、米国やEUによる仲介が効果をあげているとは言い難い状況です。

エジプト危機のゆくえ
 定政府からみれば、取れる選択肢は大きく二つあるとみられます。

  第一に、一部であってもムスリム同胞団を暫定政府に取り込み、挙国一致体制を演出することです。しかし、もう一方の当事者ムスリム同胞団、特に長年抑圧さ れてきた貧困層からなる末端の支持者たちにとって、これは受け入れにくいところです。今さら暫定政府に参加しても、欧米諸国に近い軍やリベラル派の風下に 置かれるであろうことは、容易に想像されます。

 ただし、このまま対立を続ければ、いずれ本格的な衝突が避けられなくなることも確かです。その意味で、ムスリム同胞団の幹部たちが「暫定政府への参加」という最低限の利益を確保する行動に踏み切れるかが、最悪の事態を回避する大きなポイントになるで しょう。とはいえ、これも楽観はできません。いかに幹部といえど、激昂した支持者らを抑えることは容易でなく、下手をすれば「裏切り者」にされかねませ ん。のみならず、クーデタの直後に主だった幹部たちは軍によって拘束され、その統率力は大幅に低下しているとみた方がいいでしょう。よって、これは期待し にくいところです。

 第二に、抗議デモの排除に象徴されるように、最終的にムスリム同胞団との衝突に至り、これを「テロ組織」に位置づけることで、自らの正当性をアピールすることです。もちろん、これはまさに内乱を招きかねない選択であり、リスクが高いものです。また、軍部はともかく、リベラル派やその他の暫定政府に協力している勢力が、これに同調するかは不透明です。

  第一、第二の選択肢のいずれにもリスクが多いことから、実際には暫定政府は双方の戦術を織り交ぜながら、ムスリム同胞団に迫るものと考えられます。しか し、アル・カイダなど国際テロ組織が、民主的な方法でイスラーム的な支配の確立が困難であることを強調し、武装蜂起を説くメッセージを発していることもあ り、追い詰められ、組織としての求心力を低下させたムスリム同胞団の末端支持者が暴発する危険性についても楽観はできず、エジプトは今、内乱の縁にあるといえるでしょう。

TICAD 開幕:日本―アフリカ関係の新時代か

6月1日、第5回アフリカ開発会議(TICAD )が横浜で開催されました。1993年に始まり、5年おきに開催されるTICADは、50カ国以上のアフリカ諸国の国家元首クラス、欧米諸国や国際機関、NGOの関係者を定期的に招く、日本政府が主体となる国際会議のなかで最大規模のものです。

1993年、当時大学生でアフリカの勉強を始めたばかりのころ、初めて開催されたTICADに関する報道の量の少なさ(例えば新聞記事の面積の小ささ)に驚いた記憶があります。それは当時の、国内におけるアフリカへの関心の低さを象徴していたように思います。

日本とアフリカの接近は、1989年の冷戦終結を契機にしていました。それまでアフリカは、一国でも多くの友好国を確保しようとする東西両陣営の「援助競争」の舞台となっていました。しかし、冷戦終結により、アフリカに援助する戦略的な理由は激減。さらに旧東側は自ら民主化と市場経済化の変動期に入ったためアフリカ支援どころでなくなり、「冷戦の勝者」西側でも財政負担による「援助疲れ」から、アフリカ向け援助が削減され始めました。これに対して、当時の日本はバブル最盛期。援助を削減する必要が特になかったことで、結果的にアフリカ内部の日本の存在感は相対的に向上しました。これはアフリカからみた日本接近の誘因となったのです。

一方、日本からみたアフリカは、地理的にだけでなく、経済的にも政治的にも基本的に縁遠い関係にありました。そのなかで日本がアフリカへの接近を強めた背景には、日本からみたアフリカへの期待がありました。それは、資源の確保だけでなく、日本の国連安全保障理事会の常任理事国入りに関する支援を取り付けることにありました。このような日本自身の利益もあり、1993年に初めてTICADが開催されるに至ったのです。

しかし、TICADを通じた日本の対アフリカアプローチは、良くも悪くも、基本的に極めて穏当なものだったといえます。つまり、TICADでは概ね日本の利益より、「アフリカの開発と平和」をいかに実現するかが中心議題となってきました。これは日本政府、なかでも外務省が、対アフリカアプローチにおいて日本の経済的利益を前面に出すことを避けたことによるといえます。

1980年代末までの日本は、「政経分離」を標榜し、基本的に相手国の内政にほとんど関わらない立場をとっていました。その結果、アパルトヘイト体制を理由に国連による経済制裁の対象となっていた南アフリカとも貿易関係を維持し続けていたのです。しかし、これをアフリカ諸国から1988年の国連総会でこぞって批判された後、経済制裁に参加。この経緯は、日本政府をして、それまでの「国益重視」から「アフリカのための協力」へと、アフリカに対するアプローチを転換させる大きな要因となりました。言い換えれば、国益を前面に押し出していたことによる悪印象を拭い去るため、日本政府は利他的なアプローチを心がけてきたといえるでしょう。TICADでの協議内容は、2000年に国連で採択されたミレニアム開発目標(MDGs)に連動しており、アフリカの貧困削減と平和の定着を念頭に置いた、国際協力を原則にしています。

近年の資源価格の高騰は、「最後のフロンティア」としてアフリカへの関心を高めており、欧米諸国のみならず、新興国もアフリカ進出を強めており、そのなかで中国、インド、ブラジルなどもTICADと同様の会議を開催していますが、それらには政府、国際機関、NGOだけでなく、企業関係者も参加しており、一種の大商談会の様相を呈しています。空前のアフリカ・ブームのなか、欧米諸国も新興国も、少しでも自らの経済的利益をアフリカで確保することを目指していることと比較して、TICADのアプローチは総じて控え目です。

これは一方で、日本国内の、特に企業のアフリカに対する関心の低さにも連動しています。アフリカに置かれている日本大使館の関係者からは異口同音に、進出を促しても、貧困、政治腐敗、インフラの未発達、治安の悪さといったカントリーリスクを恐れて多くの企業が二の足を踏む現状を残念がる声が聞こえてきます。今年1月のアルジェリアの事件で注目されたように、アフリカ大陸でもテロの拡散が顕著で、これも日本の対アフリカ投資を抑制する一因といえるでしょう。

いずれにせよ、TICADを通じて日本は、かつてのように自国の利益をなりふり構わず追求する国としてでなく、いわば紳士的な国としてのイメージをアフリカに定着させることに成功してきたといえます。ただし、かつてのように日本が大盤振る舞いで援助できる時代は過ぎ去ったなか、現地の経済成長や所得向上に繋がる投資も、国際協力の一環として捉えなおす必要があると思います。

その意味で、TICAD 垢脇本とアフリカの関係における一つの転換点になり得ます。今回、これまでになく政府と企業の連携がみられるようになっているのです。政府は日本企業のアフリカ進出を支援するため、アフリカ投資基金を通じた金融支援を、5年間で50億ドルに倍増させることを決定。これまで「援助」や「国際協力」といった文脈で捉えられがちだった日本―アフリカ関係に、ビジネス、経済といった要素を取り入れる動きがみられ始めています。

その背景には、これまでの記事でも何度かとりあげましたが、新興国なかでも中国が国家ぐるみでアフリカに急速に進出し、欧米諸国と勢力争いを繰り広げるなか、日本が取り残されることへの危機感があるといえるでしょう。いずれにせよ、個人的には日本がビジネスパートナーとしての視点をアフリカに対して持つこと自体は歓迎できますが、それがこと資源・エネルギーという文脈でのみ語られがちなことには違和感を覚えます。

昨年12月、アフリカから初めて来日した友人を都内観光に連れ出したとき、その購買意欲の旺盛さには、ある程度予期していたこととはいえ、正直驚きました。久しぶりに会ってまず聞かれたのが、「東京は初めてだが、ミキモト真珠はどこだ」という質問でした。その後の数日間、一緒にしている仕事の合間をぬって、最近欧米で人気の日本製ランチボックスを買うために銀座三越まで行ったほか、日本製デジカメのバッテリーの買い換えで有楽町のビックカメラ、さらにロンドンで知って以来お気に入りだというユニクロや無印良品の店舗などをめぐるショッピングツアーに同行することになりました。その結果、「クリスマスの買い物は全部日本で済ませた」という一言を残して、友人たちはアフリカに帰っていきました。

もちろん、仕事で日本にくる人たちですから、高所得層、わるくても中間層です。しかし、私の友人に限らず、所得水準の向上によって、従来は高値の花だった日本商品を購入しようとするひとたちが、中国やインドと同様、アフリカで増えているのも確かです。一方で、自動車メーカーを除くと、グローバルに展開している日本企業でもアフリカは手薄というところが稀ではありません。先ほどの友人たち曰く、最大の経済大国・南アフリカでもユニクロの店舗はないということでした。そのうえで、「日本製品は全般的に好きだが、アフリカであまり売っていない」と言われました。恐らく、製品本体もそうでしょうが、スペアパーツや付属の消耗品となると、なおさらなのでしょう。日本に来る機会を捉えて、わざわざデジカメのバッテリーを買って行ったのが印象的でした。

他地域と比べて、アフリカにカントリーリスクが目立つ国が多いことも確かです。しかし、日本製品のクオリティ、コストパフォーマンスに対する信頼度はアフリカでもやはり高く、さらにそれを消費できる購買力も備わりつつあります。先ほども言ったように、アフリカとの経済的な結びつきというと、資源・エネルギーというところがクローズアップされがちですが、一方で日本からみたマーケットという視点も、ぜひ日本の製造や流通各社に期待したいところです。

そんなことを考えていたところ、TBSのCSからお声がかかり、6月4日午後3時からの「ニュースバード」でTICADについて話す機会をいただきました。かつてメディアにおけるTICADの露出の少なさに驚いていた学生時代のことを思えば、個人的には今回のTICADに関する事柄のなかで、これが一番時代の変化を感じることかもしれません。

「アルジェリア人質事件首謀者の殺害」の真偽を越えて:大国、テロ組織、「独裁者」の三角関係

 3月2日チャド軍は、1月のアルジェリア人質事件を主導したイスラーム過激派「血盟団」のモフタール・ベルモフタール(Mokhtar Belmokhtar)司令官をマリ北部で殺害したと発表しました。しかし、フランス政府などから正式の発表はなく、さらに米国の監視団体SITEなどもベルモフタールが生存しているとの見解を示していて、現在のところ、「死亡・生存」の真偽は定かでありません。

アルジェリア出身のベルモフタールは、1990年代の初頭にアフガニスタンでの戦闘に関わった後、「イスラーム・マグレブのアル・カイダ(AQIM)」の設立に従事。しかし、後にこれから分離し、自らの組織「血盟団」を設立したといわれます。これらの武装組織は主義主張、活動内容、支援者をめぐって離合集散が激しく、必ずしも結束しているわけではありません。いずれにしても、サハラ一帯に進出したベルモフタールは武器や麻薬の密輸にも関与し、その神出鬼没ぶりからフランスや米国の治安当局にアンタッチャブルならぬアンキャッチャブル、つまり「拘束不可能な男(Uncatchable)」と呼ばれる存在になっていきました。

ベルモフタールは生きているのか、死亡したのか。これまで、アル・カイダのビン・ラディンをはじめ、多くのイスラーム系テロ組織は、その指導的立場にある人間が死亡した際、それを隠すことはほとんどありませんでした。むしろ、比較的早い段階においてインターネット上などでそれを認め、その報復を宣言することが一般的でした。今回の場合も、近日中には血盟団やそれに近い組織から、何らかのメッセージが発せられると予想されます。

その一方で、ベルモフタールの生死に関わらず、これを発表したのがフランスでも米国でもなく、国連決議を受けてマリでの軍事作戦を主導するフランス軍と行動をともにしていたチャド軍であったことは、アフリカを舞台とする現在の対テロ戦争をみるうえで、意味深長と言わざるを得ません。マリを含む西アフリカ諸国は既にフランスの軍事介入を支持し、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の管理下で部隊を段階的に派遣しています。しかし、その多くは自国と近接するマリ南部にとどまり、イスラーム過激派の武装活動が活発な北部で軍事活動を主に展開しているのは、4000名に登るフランス軍と、約2,400名のチャド軍です。チャドはECOWAS加盟国ではありません。にもかかわらず、むしろ近隣の西アフリカ諸国より積極的にフランス軍と行動を共にする姿勢が、今回はとりわけ顕著です。これはなぜなのでしょうか。

チャドは北をリビア、東をスーダン、南をカメルーン、西をニジェールに囲まれた内陸国で、1960年の独立以来、アラブ系とアフリカ系、親リビア派と親フランス派の抗争から内戦が日常的に続いてきました。1991年以来、22年に渡ってこの国を支配するイドリス・デビー大統領は、武装勢力を軍事力で鎮圧しつつ、もう一方で合法的野党も抑圧する「独裁者」としての顔ももちます。

2008年、最大野党・共和国連邦運動(FAR)のリーダー、ンガレジ・ヨロンガが「武装勢力との結びつき」の嫌疑で当局に拘束され、隣国カメルーンに連れ出され、拷問を受けていたことが発覚しました。西側先進国は冷戦終結後、多くの開発途上国に対して、民主化や人権保護を求めてきています。ところが、ヨロンガの一件に対して旧宗主国フランスはヨロンガの恩赦をチャド政府に求めた以外、強くこれを非難することはありませんでした。フランスだけでなく、日本を含む西側先進国も、ほぼ同様です。

その理由は、大きく分けて二つあります。第一に、チャドが日産17万バレルの産油国で、原油や天然ガスのほとんどを、フランスやドイツなどのヨーロッパ諸国に輸出していることです。

そして第二に、この地域における力学上、チャドが西側先進国の「手駒」として必要だったことがあげられます。

デビー率いるチャド政府は、米国政府から「テロ支援国家」と目されているスーダンと敵対してきました。スーダンのアル・バシール大統領は、2003年から同国西部のダルフール地方で発生した内戦「ダルフール紛争」で、政府系民兵組織「ジャンジャウィード」がアフリカ系住民を虐殺し、その土地を乗っ取ることを容認、あるいは指示したとして、国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状が発行されています。ジャンジャウィードは、かつてリビアのカダフィからの支援を受けていたメンバーを中核としています。

ダルフール紛争勃発後、10万人以上の難民が国境を越えてチャドに流入しました。これを追ってジャンジャウィードがチャド領内に侵入し、チャド軍と交戦したことをきっかけに、両国の関係は急速に悪化しました。2006年4月、チャドの反政府武装勢力が首都ンジャメナ近郊にまで迫り、これをからくも撃退した後、デビーはスーダン政府がこれを支援していたと主張して、国交断交を宣言。両国の緊張はピークに達しました。

デビー本人もムスリムで、近隣諸国との対立を宗教対立とみることはできません。チャドとスーダンの対立は、「国境侵犯」というどこの世界でもあり得る問題が引き金でした。そして、この状態を処理(「解決」ではない)したのは、他ならぬカダフィでした。カダフィの仲介により、チャド、スーダン両政府は2006年8月に国交を回復させました。アル・バシールの「親分」の顔を立てることで、デビーはスーダンとだけでなくリビアとの正面衝突に至る事態を回避したといえるでしょう。カダフィは1987年にチャドへ軍事侵攻し、リビア軍を撃退したのは、当時軍の最高司令官だったデビーでした。この関係からも、デビーにとって最大の敵は、アル・バシールよりむしろ、その後ろにいるカダフィだったといえるでしょう。

ともあれ、チャドのイドリス・デビーは、カダフィやアル・バシールといった「危険人物」と潜在的に敵対する関係にあったわけで、これは逆に西側先進国との友好関係を維持することに繋がりました。チャド国内には1000名以上のフランス軍が常駐しており、チャド反政府勢力の鎮圧作戦にも協力しています。一方で西側先進国からみた場合、デビーあるいはチャド政府は、自らに敵対的なイスラーム系勢力の影響力がアフリカ北部で大きくなることを抑制するための「手駒」だったのです。

ところが、2011年8月にカダフィ体制が崩壊したことはデビーからみて、北方の脅威がなくなったことと同時に、新たな問題に直面せざるを得ないことを意味しました。

第一に、カダフィの影響下にあった諸勢力が、求心力を失って、その行動が無軌道になる状況です。実際、マリでAQIMが活動を活発化させ、同国北部の「分離独立」を宣言させるに至った直接的な契機は、カダフィ体制の崩壊にともなう、武器や人員のリビアからの流出にありました。リビアやスーダンの支援を受けた武装勢力と内戦を続けてきたデビーの立場に立てば、末端までコントロールできていたわけでないにせよ、大きな存在感をもっていたカダフィがいた頃の方が、相手方の行動を予測しやすかったとさえ言えるかもしれません。それは―スケールは全く違いますが―モスクワとの対決に集中していれば世界の大方の問題に対処できた米国が、冷戦終結後のソ連崩壊で国際環境が流動的になり、注意を分散させなくてはいけなくなったことで、対応能力を低下させた状況に酷似しています。その意味で、これまで基本的に国内の反政府イスラーム組織の鎮圧に終始していたチャド政府が、マリにまで赴いて血盟団などの掃討作戦に加わっている背景には、これらの組織の連携が他人事でなく、チャド国内に飛び火する危険性への懸念があるといえるでしょう。

第二に、カダフィが消えたことが、それに対抗するための「手駒」であったデビーの、西側にとっての利用価値を低下させかねないことです。これまでも再三取り上げてきたように、西側先進国は原則的に開発途上国に民主化や人権保護を求め、これに反する国に対しては多かれ少なかれ制裁を課してきましたが、資源産出国や戦略的要衝に関しては、その限りではありませんでした。チャドは石油輸出国であると同時にリビアやスーダンへの対抗という観点から、西側先進国の「お目こぼし」の対象となり、その国内情勢は不問に付されてきました。つまり、デビーからみた場合、カダフィの存在は「独裁者」としての自らの立場を保全する前提条件でもあったわけです。産油国というステイタスが消えるわけでないにせよ、カダフィ体制の崩壊はデビーあるいはチャド政府にとって、国内のフリーハンドを西側から守るため、新たな存在意義を示す必要性に迫ることになったとみていいでしょう。北アフリカから西アフリカにかけての近隣地域で広がる「対テロ戦争アフリカ戦線」での勲功が、その格好の材料とみることに、大きな無理はありません。

一方で、フランス軍にとってチャド軍は有力なパートナーです。どの国もテロ組織が跋扈する状況は望んでいませんが、他方で自国の負担が大きくなることを回避したい点で共通します。地域最大の軍事力をもつナイジェリアでさえ1200名ほどの兵力しか提供していないなか、デビーおよびチャド軍の軍事的貢献がフランスの目に好意的に写るであろうことは、想像に難くありません。

小国がテロ組織の軍事的脅威に対応できないなか、それが「テロの脅威」を拡散させないようにするためであっても、少なくとも結果的には、小国に介入することで大国は自らの影響力を高める。一方で「独裁者」は、「テロ組織の脅威」で自らの強権的な支配を正当化するだけでなく、その鎮圧によって大国の好意すら勝ち取る。さらにその一方で、「独裁者」による恣意的な支配やそれに対する大国の黙認への広範な不満を培養層として、テロ組織は支持基盤を広げる。対テロ戦争のアフリカ戦線が拡大するなか、フランスなど域外大国、テロ組織、「独裁者」の三者は、その勢力拡大においてお互いを利用しているといえるでしょう。

エジプトにおける「革命」と「暴動」の岐路について

 1月25日、エジプトを30年以上に渡って支配したムバラク政権に、市民が抗議運動を始めてから丸2年が経ちました。しかし、エジプトでは再び、政情が不安定化しており、革命から2周年の前日1月24日から30日までの間に、反政府派と政府支持派および警察との間の衝突で、全土で54名の死者が出ています。

 直接的な契機は、1月24日首都カイロのタハリール広場に政府を批判する若者や野党支持者が集まり、警官との衝突に発展したことです。この前日23日、既に行われていた新憲法の承認をめぐる国民投票の結果が、ムルシ政権が提示した憲法草案に「賛成」が過半数を超えたことを、非公式ながら与野党ともに確認しました。この国民投票に対しては、以前にとりあげたように、野党から強い非難が寄せられていました。その主なポイントは、

  • 裁判所の権限を制約し、他方で大統領の権限が強化されている
  • イスラーム的価値観が色濃く反映されている
  • 草案作成の過程で野党側が充分に意見を表明する機会がなかった

 この国民投票の結果に対しても、リベラル派の小政党を糾合した連合体「国民救済戦線(NSF)」は、組織的な不正があったと批判しています。これが24日の抗議集会を過熱させ、警官隊との衝突で10名が死亡する背景になりました。

 ただし、今回の騒乱は、直接的に政府を批判する抗議運動の広がりという側面だけではありません。1月26日、エジプト北東部のポートサイドで、やはり地元住民が警察署を襲撃するなどして、27名以上が死亡する事態となりました。昨年2月、ポートサイドのフットボールスタジアムで開かれた、地元チーム「アルマスリ」と、カイロの「アルアハリ」の試合の後、アルマスリのサポーターがアルアハリの観客席になだれ込み、乱闘となりました。その結果、アルアハリのサポーターを中心に74名が死亡しました。ポートサイドの裁判所は今月26日、この事件にかかわったアルマスリのサポーター21名に死刑判決を下し、これに怒った地元住民らが暴徒化し、警察との衝突にいたったのです。

 この騒乱は、直接的に政府を批判する運動がきっかけになったものではありません。しかし、一見政治と無関係のこの衝突が、カイロの情勢と連動することで、騒乱が広がりました。大きな背景としてあるのは、裁判所に対する不信感です。1月13日に最高裁判所に該当する破棄院が、2011年の死者を出すデモ弾圧で終身刑の判決を受けたムバラク前大統領の上訴を受理し、審理をやり直すことを決定しました。これが旧政権派が多い司法府に対する、反ムバラク勢力の不満を増幅させる契機になったのです。

 この背景のもと、ポートサイドでの騒乱に、反政府派と政府支持派が呼応する形で参加したことで、両者の衝突は北東部一帯に広がり、ムルシ大統領は27日、ポートサイド、スエズ、イスマイリアに夜間外出禁止令を出す事態となったのです。一方で、ムルシは野党側に対話を呼びかけましたが、NSFなどは政府を信用できないとしてこれを拒否。両者の対立がエスカレートすることになりました。

 ところが、30日にNSFの指導者モハメド・エルバラダイは、一転して政府に対話を求める声明を出しました。エルバラダイがわずか数日で判断を翻した背景には、30日までに全土で54名の死者を出すにいたるなど、衝突が一向に収まらないことがあります。国際原子力機関(IAEA)事務局長としてノーベル平和賞を受賞した経歴をもつエルバラダイですが、今回に関しては、当初から政府との対話に踏み切らず、事態収拾に向かわなかった判断に、反体制派の暴徒化に対する読み違いがあったといわざるを得ないでしょう。

 一連の騒乱が、ムバラク退陣からの延長線上にあることは確かです。エジプト政治の潮流を大きく三つに分けるとすると、

  • 第一勢力:現大統領ムルシやその母体であるムスリム同胞団、その政治ブランチである自由公正党(FJP)をはじめとする穏健派イスラーム勢力
  • 第二勢力:軍隊、ビジネス界、公務員に多い、ムバラク前大統領を支持していた勢力
  • 第三勢力:エルバラダイやNSFに代表される、世俗的あるいはリベラルで、なおかつムバラク政権に批判的だった勢力

 ただし、この他にも、例えば少数派のキリスト教徒(コプト教徒)や、過激派と紙一重の急進的イスラーム勢力などもいます。また、三者はきれいに色分けされているわけでなく、例えばNSFには旧ムバラク政権関係者も含まれており、それを理由にNSFに参加しないリベラル派もいます。そのため、その区分けにはグレーな部分があることも確かです。

 それを踏まえたうえで今回の一連の騒乱を眺めると、政府に批判的な抗議活動を行っているのは、概ね第三勢力、つまり旧ムバラク政権にも現ムルシ政権にも批判的な、世俗派、リベラル派に連なる人々といえるでしょう。彼らは、2011年2月のムバラク退陣を最初にリードした、大学生などの都市中間層を中心にしており、例えば先述の新憲法草案に関しても、政教分離の明確化や基本的人権の尊重などを強く求めていました。

 その一方で、この第三勢力は第一勢力、つまり慈善活動を通じて貧困層や農村部に根を張るムスリム同胞団やFJPほどの組織力はなく、体制転換後の選挙でも大きく勢力を伸ばすことはできませんでした。また、旧ムバラク政権のもとで既得権益層を形成していた第二勢力と異なり、所得水準も概して高くありません。政変以降、エジプト・ポンドは売りを浴びて対ドル為替相場が急速に悪化し、経常収支と財政赤字の再建に、IMFとの融資協議に入りました。ただし、これはその後の政情不安の影響で、一時停止されています。

 いずれにせよ、生活環境が悪化するなか、最もその影響を受けやすく、さらに将来への見通しも立ちにくいグループが、この第三勢力といえるでしょう。「革命」においてリードオフマンの役割を果たしながら、その恩恵から最も見放されているという社会的フラストレーションが彼らに充満しているとしても、不思議ではありません。つまり、ポートサイドのフットボールスタジアムでの事件に対する判決は、ムバラク政権の崩壊で政治的に発言する機会を得ながらその発言が政治に反映されず、さらに生活への不満が高まる第三勢力に連なる人々の怒りに火をつける火花になり、その結果「革命」を求める民主派は、政府、議会、裁判所、軍、警察といった、あらゆる既存の公共性を否定する暴徒と化したと考えられるのです。

 「独裁者」の重石が取れた後、それまで押さえ込まれていた主張や不満が噴出し、議会や選挙を通じたその調整が困難を極めることは、稀ではありません。そして、その混乱が次の「独裁者」の誕生を促すことも、珍しくありません。

 エジプトの三つの勢力間には、反目と相互不信が渦巻いています。なかでも政治的に少数派となった三番目の勢力の立場からすれば、「自由になった」はずなのに、政府や議会は第一勢力、軍隊や裁判所、ビジネスは第二勢力に押さえられ、自分たちの声は政治に反映されず、暮らし向きも「革命」前とほとんど変わらない。このフラストレーションが抗議デモの暴徒化を促しているとするならば、それは代表制、あるいは議会政治そのものに対する不信感をも表しているといえるでしょう。逆に、第一勢力からみれば、第三勢力は「選挙の結果を尊重しない」ものと捉えられます。

 それぞれが自らの主張をぶつけ合う権利は、「独裁者」の打倒によって得られた財産といっていいでしょう。しかし、現実の政治においては、相互の協議と妥協がなければ、相手との相違ばかりが目立ち、内部の分裂が加速する一方です。先述のように、エルバラダイは当初、政府との対話を拒絶し、街頭での抗議活動を継続する方針を示しました。この判断は「ムルシ政権の権威主義化」に対する不信感を背景にしたもので、自らの正当性を主張するためだったといえるでしょう。しかし、24日以降の衝突からは、「革命」当初からほとんどの勢力にその傾向はあったにせよ、既に第三勢力の抗議運動が、政治的主張を訴える範囲を越えて日常的な不満を他者にぶつける部分が大きくなっていることが見て取れます。

 日常の不満に対する暴力的な発散が長期化すれば、それは政府をして益々苛烈な取り締まりに向かわせ、両者の対立が激化する恐れがあるだけでなく、それに乗じて(現在は比較的静かな)イスラーム過激派が勢力を増す危険性すらあります。抗議活動の変質に気付くのが遅かった点において、エルバラダイやNSFの判断ミスは否めません。ただ、今後の展開にもよりますが、政府との協議が模索され始めたことは、エジプトを首の皮一枚で救ったとさえいえるかもしれません。

 「議会で多数派を占める勢力が物事を決定すればいい。もしそれがうまくいかなかったり、不満があるなら、次の選挙で交代させればいいのだから」という割り切った感覚は、文化的に比較的均質で、政権交代と二大政党制が常態のものとしてある英米圏では一般的です。しかし、社会のなかの亀裂が顕著な社会では、少数派と多数派が頻繁に入れ替わることは困難で、英米圏のスタイルが適合する国の方が、世界的に見れば少数派とさえいえるでしょう。ヨーロッパでも、例えばフランス語圏とオランダ語圏で社会が分断されているベルギーなどの大陸諸国では、比例代表制に基づく連立政権のもと、政党間の協議が緊密に行われ、多数決で一方的に物事を決めることは避けられてきました。

 ところが、圧政から解放されたばかりの国では、それまでの反動で、各自の要望がほぼ満額回答で実現しなければ「民主化」の意義そのものに対する疑問が生じがちです。しかし、それがほぼ不可能であることは、言うまでもありません。必然的に、草創期の議会政治のもとでは、社会内部の異なる主張の違いを際立たせ、議会政治が機能不全に陥りがちであることは、フランス革命をはじめとする世界の革命や、独立後の開発途上国の歴史が証明しています。その轍を踏まないようにするためには、フォロワーの満足感を引き出したり、煽るだけでなく、ときにそれを納得させ、抑えるだけのリーダーシップが、全ての政治勢力に求められるといえるでしょう。

フランス軍の介入でマリ情勢は好転するか

  1月12日、フランスのオランド大統領は、マリのディオンクンダ・トラオレ暫定大統領との合意に基づき、同国の北部を支配するトゥアレグ人の武装組織であるアザワド民族解放運動(MNLA)と、イスラーム過激派アンサル・ディーンに対する攻撃のため、フランス軍を投入したことを発表しました。13日にはフランス軍の支援を受けたマリ軍と、武装勢力間の衝突が発生し、前者は北部主要都市ガオなどを制圧しました。翌14日には、国連の安全保障理事会で、満場一致でフランスの行動が支持されており、今後は地上部隊を含めて2500人規模の部隊に増員されるほか、近隣の西アフリカ諸国で構成される西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)も3300人の兵員を派遣するとみられています。

  以前に取り上げたように、西アフリカのマリでは2011年末からMNLAとアンサル・ディーンによる武装活動が活発化し、これの鎮圧にあたっていた軍隊が、装備の不足に対する不満から3月にクーデタを起こしました。その後、トゥーレ前大統領が辞任し、トラオレ暫定大統領が就任するなど、マリ中央が混乱している間に、北部では5月にMNLAとアンサル・ディーンがアザワド共和国の樹立を宣言しました。この地域ではその後、ヴェールを着用しない女性が連行されるなど、厳格なイスラーム支配が敷かれていました。

  やはり以前に取り上げたときには、資源が豊富に発見されているわけでなく、大国からみて戦略上さほど地理的に重要な立地でもないマリの紛争である以上、このまま見捨てられる可能性すらあると述べました。その意味では、武力介入が実現したことに鑑みて、この予測は外れたようです。それでは、シリアの場合などと比べて、マリへの武力介入が比較的スムーズに進行したのは、なぜでしょうか。

  これを改めて考えてみると、今回の武力介入が進んだ背景としては、第一に政府の立場がありました。シリアの場合は、あくまで外部の介入を拒絶していますが、マリの場合はむしろ逆に、北部の動乱に手を焼いた政府と軍部が、歴史的に関係の深いフランスに支援を求めたという構図になっています。外国の軍隊が国内に入ってくること、さらに軍事活動を行うことを認めるか否かは、それぞれの国家の主権に関わる問題です。逆を言えば、当該国政府が承認さえすれば、それは容易です。

  第二に、これに関連して、中国やロシアの立場があります。シリアの場合、外部の介入を拒絶する政府と、中国やロシアは以前から経済的・軍事的に深い関係があります。そのため、西側先進国による干渉を嫌う中ロは、「内政不干渉」の原則を盾に、国連安保理において武力介入に反対したのです。しかし、マリの場合は、もともとさほど親密なわけでなく、まして政府自身が介入を求めている以上、中ロに取り立てて反対する理由や口実はなかったのです。

  第三に、フランスの意志の問題です。国連安保理常任理事国であることを除けば、フランスは米国などと比較して、グローバルな大国であるとはいえません。しかし、ことアフリカに関しては、フランスは強い影響力をもっています。19世紀の帝国主義の時代、アフリカ大陸を二分した勢力は英国とフランスでした。独立後も、フランス政府は毎年「フランス・アフリカ諸国首脳会議」を開き、フランス語圏アフリカ諸国政府と緊密な関係を保っています。軍事的にも、1994年のルワンダや、2000年のコートジボアールでの内戦に、フランスは単独で介入してきた歴史があります。中ロの譲歩を引き出すため、拒否権が発動されることを織り込み済みで介入を示唆したシリアのときとは、フランスの「本気度」が違うといえるでしょう。

  第四に、武力活動を行っている組織の問題です。トゥアレグ人の独立を目標に、世俗的なナショナリズムを掲げるMNLAはともかく、それと協力関係にあるアンサル・ディーンは、イスラーム過激派「イスラーム・マグレブのアル・カイダ」(AQIM)とも繋がりがあります。AQIMは北アフリカ(マグレブ)諸国各地でテロ活動を行っており、1月16日にアルジェリアで日本人エンジニアが拉致された事件の首謀者モホタール・ベルモホタールも、これに関係しています。西側先進国だけでなく、中ロもまた国内のイスラーム系住民の独立運動と繋がるイスラーム過激派とは敵対関係にあり、さらにAQIMの場合は特定の国との結びつきはほとんどありません。いわば、その攻撃対象が主要国の共通の敵であることが、軍事介入を容易にしたといえるでしょう。

  第五に、そして最後に、周辺国の協力です。西アフリカ諸国では、冷戦終結後の1990年代に内戦が頻発し、そのときの経験からECOWASには、近隣諸国の内戦に介入する権限が与えられており、各加盟国は予めそれに同意しているのです。ただし、実際には、資金や装備の潤沢でないアフリカ諸国にとって軍事介入はコストのかかる選択です。さらに、近隣諸国同士の関係もあり、そう簡単に介入の権利を行使することはありません。しかし、先述のように、ECOWASもまた、国連やフランスと足並みを揃えて、マリへ軍事介入する姿勢を示しています。西アフリカでは英語圏のナイジェリアと、フランス語圏のセネガルが反目することが珍しくありませんが、少なくとも合意の段階においては、今回の介入において両地域大国は協調姿勢を示しています。ナイジェリアなどでもイスラーム過激派による襲撃事件が頻発していることから、西アフリカ諸国政府にとっても、既存の国境線が変更されたり、イスラーム過激派が跋扈する状況は、好ましいものではありません。フランスが積極的に介入する状況が、周辺国の積極的な関与の呼び水となり、後者が前者をサポートするという循環が生まれているのです。

  こうして実現した軍事介入ですが、これがマリ動乱を治める契機になり得るのでしょうか。

  少なくとも、短期的には、北部を実効支配しているMNLAやアンサル・ディーンを掃討し、諸都市を解放することはできるかもしれません。フランス軍の誇るミラージュ戦闘機が投入されていることからも、正面からの軍事衝突で、MNLAやアンサル・ディーンの勝機は薄いと思います。

  ただし、長期的にこれらの武装勢力を抑えこめるかといえば、決して楽観はできません。1960年代から分離独立運動を続けてきたトゥアレグ人たちにとって、数ヶ月の戦闘で負けたり、撤退することなどは、大きな問題ではありません。アンサル・ディーンに代表されるイスラーム過激派にしても、若年層の失業や貧困といった社会問題が深刻な状況が、既存の秩序を力ずくで転換する志向を生んでいる以上、新人のリクルートには事欠きません。まして、イスラーム世界全体から資金を調達し、世界中でそれを運用して収益をあげている「本家」アル・カイダから支援を受けたAQIMが背後にいるとなれば、物質的にもそう簡単に行き詰ることはありません。

  軍事力で一方的に市民を支配することは、認められるべきでないでしょう。しかし、政治的、経済的、社会的な不満の発露がこの動乱の背景としてあることからすれば、アフガニスタンやイラクなどでみられたように、軍事的な手段のみで武装勢力を抑えることはできません。政治的な意思表示の機会を与えること、経済的な機会を増やすこと、少数派エスニシティ(民族/部族)の権利回復など、国家のあり方そのものを転換しなければ、テロを根絶することはできません。それがなければ、短期的に北部都市を解放したとしても、フランス軍や周辺国部隊が半永久的にマリにいられない以上、アフガニスタンでタリバンが勢力を回復しているように、MNLAやアンサル・ディーンがその活動を沈静化させることは想像しにくいのです。現下の情勢から考えると、国際的に放置されるというシリアの二の舞を避けられたマリですが、アフガニスタンやイラクの二の舞に陥る可能性は、極めて高いといえるでしょう。

エジプト革命は終わらず:国民投票をめぐる混乱

   月15日、エジプトで新憲法の草案を承認するか否かを問う、国民投票が実施されます。しかし、国民投票を前にエジプトでは、モルシ大統領の政権運営と、新憲法案をめぐって国論が二分しています。4日には、モルシ大統領と憲法草案に抗議する人々が大統領府を取り囲み、警官隊と衝突しました。

  首都カイロだけでなく、アレクサンドリアなど、他の都市でも同様のデモが発生しており、エジプトの体制転換は一つの山場を迎えています。2010年12月にチュニジアで始まった一連の政変、「アラブの春」のうねりのなか、エジプトで30年にわたって権力を握っていたムバラク大統領が失脚したのは、2011年2月のことでした。ムバラクを批判する抗議デモは、最初は大学生をはじめとするリベラルな若年層が中心でしたが、やがてムスリム同胞団に代表される穏健なイスラーム組織がこれをリードするようになりました。

  ムスリム同胞団は、イギリスの経済支配のもとで資本主義経済が波及し、貧富の格差が拡大し始めた1920年代のエジプトで生まれました。以来、ムスリムの五つの義務の一つ、持てる者が持たざる者に自らの富を分け与える「喜捨」の精神のもと、ムスリム同胞団は貧者救済を活動の柱にしてきたのです。しかし、それによって貧困層の間で人気と支持を集めたことで、ムスリム同胞団は時の権力者達から常に警戒されることになりました。弾圧されるなか、ムスリム同胞団のなかからもテロや暴力的な活動に向かう者が現れ、特にムバラク政権のもとでは、両者の対立が激しさを増しましたが、その間もムスリム同胞団は貧者救済を通じて、貧困層の間に支持を広げていったのです。

  つまり、ムスリム同胞団の勢力拡大は、

・政府が本来担うべき医療、貧困世帯への扶助、インフラの整備といった社会サービスの提供、

に加えて、

・ムバラクなど、(イスラエルを支援する)欧米諸国と友好的で、世俗的な権力者への反発と、これを背景とする宗教復興、

を大きな背景にしていたのです。

  いずれにせよ、イスラームの教義というアラブ社会に根付いた求心力と、貧者救済の物質的恩恵を考えれば、ムスリム同胞団が「アラブの春」が波及したエジプトで、無類の動員力を発揮できたことは、不思議ではありません。これを反映して、2011年12月から2012年1月にかけて行われた議会選挙でムスリム同胞団の政党「自由公正党(FJP)」が508議席中235議席を獲得して第1党に踊りで、さらに2012年6月の大統領選挙ではFJPのモルシ候補が当選しました。誕生から約100年をかけ、ムスリム同胞団はエジプトの国家権力を握ったのです。

  しかし、新憲法の採択という、体制転換の大詰めを迎えて、ムスリム同胞団はかつてなく他の勢力と対立しています。ムバラクという共通の敵、あるいは憎悪の対象があるうちは、反ムバラク派の間の摩擦が大きくなることはありませんでした。ところが、モルシ大統領が就任した後、ムスリム同胞団などイスラーム組織と、それ以外の勢力の間の確執が目立つようになりました。

  6月の大統領選挙では、ムバラク政権で最後の首相を務めたシャフィーク氏が、モルシ氏と一騎打ちを演じました。シャフィークの支持者には富裕層や中間層が多く、彼らはいわばムバラク政権のもとでの既得権益層でした。最終的にシャフィークは敗れたものの、これはムバラク政権下でエジプト中に張り巡らされた汚職に基づく利益供与のネットワークが、ビジネスマンや公務員を中心に、根強く残っていることを示したのです。

  この時点では、しかし大学生らのリベラル派やマイノリティであるキリスト教徒などは、旧政権支持者とイスラーム勢力のいずれとも距離を置いていたため、新政権支持者とそれ以外の市民が対立することはありませんでした。それが決定的になったのは、憲法起草委員会でした。新憲法案を作成した憲法起草委員会は、政府や議会の構成を反映して、そのメンバーの多くがイスラーム主義者で、そこでの議論に自分たちの意思が充分反映されていないとして、リベラル派メンバーやキリスト教徒が11月30日の採択を棄権したのです。

  さらに、この憲法草案の採択に先立って、11月22日にムルシ大統領は、新憲法草案の是非を問う国民投票までの期間、大統領の命令は最高憲法裁判所の司法判断を受け付けないとした「憲法令」と呼ばれる大統領令を出しました。これはいわば、大統領に無制限の権限を認めるもので、これを受けて憲法起草委員会は憲法起草の作業を半ば切り上げるようにして、採択に向かったのです。この大統領令に対してリベラル派などは「独裁的」という批判を強め、全土的に新政権支持者との間の対立が広がることになったのです。

  今回の対立の激化は、「革命」後の社会にありがちな側面とともに、それを克服することの難しさを示しています。「革命」後の社会では、同質化と差異化という、相反する二つのエネルギーが充満しがちです。一体感をもって、お互いに協力すべきという考え方は非常時において強調されやすく、「革命」後に新国家を建設するとなれば、その大きさは測りしれません。だからこそ、フランス革命を初めとする歴史上の多くの革命では、国家と国民の一体性や、国民の同質性を強調するナショナリズムが鼓舞されたのです。

  一方で、もともと異なる個々人を一つに束ねるのは困難です。その際、お互いの共通項を見つける一番簡単な方法は、J-J.ルソーが指摘したように、異なる第三者を発見することです。つまり、「我々とは違う者」を「我々」から識別し、排除することで、「我々」の一体性は保たれる、という思考です。しかし、これは容易に「魔女狩り」に行き着きがちです。やはり歴史上の革命では、同質性が強く求められる裏返しとして、「反革命的」な「異分子」とみなされた人々への一方的な糾弾と、ひどい場合には虐殺が横行したのです。1792年9月、革命直後のパリで、バスチーユ牢獄に捕えられていた、旧体制下の支配層で革命に批判的な100名以上の聖職者が、「監獄の清掃」を掲げて乱入した暴徒に殺された「9月虐殺」は、同質化と差異化のエネルギーが急速に結びついた時の混乱ぶりを象徴します。

  昨年吹き荒れた「反ムバラク」の主張は、体制の中核にいた「彼ら」と、そこから疎外された「我々」という、同質化と差異化の結合した見方に基づいていました。しかし、その憎悪の対象であったムバラクがいなくなったとき、反ムバラク勢力は同質性を失いました。もっぱら「敵」との差異化によってのみ同質性を保っていた勢力は、その対象を失ったとき、同質性を失わないようにするために、今度はお互いの差異化を進めがちです。その結果、反ムバラク闘争の過程で大目にみられていた、あるいは不問に付されていた、イスラーム主義者、リベラル派、キリスト教徒などの間の差異が表面化したのです。

  新憲法の草案では、第3条でキリスト教徒やユダヤ人らマイノリティの信仰の自由が、第45条で表現の自由の保護が、それぞれ保障されています。さらに、法律によらない逮捕の禁止(35条)、通信の秘密の保護(38条)など、権威主義体制のもとで常態化していた人権侵害から国民を保護する条項が確認されます。

  一方で、第2条でイスラームが法の精神の根本をなすことが強調されている他、第11条では国家が公共の秩序とともに倫理、公衆道徳、愛国心、アラブ文化なども保護することが明記されています。さらに、第31条では、他者の尊厳を傷つけることが禁じられています。これらの条項は、特定の価値観を国家が強制する契機になり得るとして、さらに(女性の権利などを制約しがちな)イスラームの教義に批判的な言論を取り締まろうとするものとして、リベラル派らから警戒・批判されています。

  とはいえ、イスラーム主義者からすれば、これらは譲れない一線です。欧米諸国では、「表現の自由」の名の下に、預言者ムハンマドやイスラームそのものが揶揄される、あるいは侮辱されることが頻発しています。今年の9月にも、アメリカでイスラームを批判する内容の映画 'Innocence of Muslims' が公開されたことが、その後イスラーム圏で大規模な反欧米デモを引き起こしました。つまり、表現の自由が無制限に許容されると、他者(この場合はイスラームの尊厳を傷つけることになりがちで、それはエジプト社会の混乱をもたらすため、認められないというのが、イスラーム主義者の主張なのです。その意味で、今回の憲法草案が、多分にイスラーム主義の影響を受けていることは確かです。

  イスラーム主義者と、それ以外の勢力の考え方をすり合わせるのは容易ではありません。とは言え、既にみたように、増幅していたムルシ政権への不満が爆発した契機は、一時的とはいえ司法判断を無効にする大統領令にありました。司法関係者に旧政権支持者やリベラル派が多いことに鑑みれば、憲法裁判所がムルシ政権にとって、目の上のたんこぶであることも確かです。しかし、選挙で勝った多数派の決定を問答無用で通すのは、その「ゲームのルール」に対する信頼があり、不満な人たちは次の選挙で違う勢力に投票して政権を交代させればいい、という環境が整備されたあとですべきであって、そもそも憲法すら暫定的なものしかない状況では、相互不信を高めるだけです。なにより、多数者の意思をもってしても奪えない少数者の権利を認めてこそ、民主主義は独裁や全体主義に陥ることを避けられるのです。

  力で抑えられていた社会が、その重石を取り払った時、それまで抑えられてきた自己主張のエネルギーが一度に噴き出すのは、避けられません。そのなかで、「独裁者」に抵抗する時には力を合わせられた者同士の間で、原理・原則の差異が逆に際立ってくることもまた、多くの革命の歴史が示す通りです。しかし、そのように社会が四分五裂し、争いが絶えない状況は、革命後のフランスでナポレオンが国民から求められて皇帝に即位したように、多くの人に力と安定を求めることになりがちです。7日、メッキ副大統領は国民投票の延期の可能性を示唆しました。考え方の相違もさることながら、その手順に不満が集まった以上、モルシ政権の譲歩があって初めて、事態の打開が期待されると言えるでしょう。

南アフリカでストライキはなぜ拡散したか

  年8月16日、南アフリカのマリカナにある、イギリスの資源会社ロンミンが保有するプラチナ鉱山で、ストライキ中の労働者と警官隊が衝突し、34名が死亡しました。これは1994年に今の体制になってから、警官の発砲で発生した、最悪の犠牲者数でした。その後、ストライキは他の鉱山の労働者、さらにトラック運転手など業種を越えて伝播してきました。

  南アフリカは、サハラ以南アフリカ諸国のGDP合計の約30パーセントを占める、地域最大の経済大国。ブラジル、ロシア、インド、中国のBRICSにも正式に迎えられた、世界有数の新興国でもあります。金、白金、クロムなどの採掘量は世界一。昨今の資源ブームを追い風に、急速に成長してきました。しかし、南ア政府によると、金鉱山とプラチナ鉱山の操業停滞による損失は、10月25日までに101億ランド(約12億ドル)。また、トラック運転手によるストは流通の不安定化に繋がり、自動車メーカー各社も工場の操業が滞りました。現地に進出しているトヨタの工場も一時、部品メーカーのストで無期限の生産停止に追い込まれました。これらを受けて、スタンダード&プアーズは南アフリカの格付けを、BBB+からBBBに引き下げました。また、南ア財務相は2013年のGDP成長率予測を、それまでの3.6パーセントから3.0パーセントに引き下げています。

  今回、立て続けにストが発生した背景には、世界共通の景気後退(いわゆるリセッション)だけでなく、南アフリカ特有の事情もあります。

  かつて、南アフリカでは悪名高いアパルトヘイト体制が敷かれていました。白人と非白人は、私的、公的あらゆる面で厳格に区別され、黒人は人口で圧倒的多数を占めながらも、公民権をはじめ、ほとんどの権利が剥奪されていたのです。あまりにも露骨な人種差別体制は、国連による経済制裁の対象にもなり、最終的には1994年に全人種が参加する選挙の実施と、ネルソン・マンデラ率いるアフリカ民族会議(ANC)の勝利で終結を迎えました。いろんな肌の色の人間が集まって一つの国になるという理念から、その後の南アフリカは「虹の国」と呼ばれるようになりました。

  アパルトヘイト時代と比べて、南アフリカには大きな変化がいくつも生まれています。企業には黒人を一定の割合で従業員として雇用することが義務付けられ、黒人中間層が数多く生まれました。さらに、基幹産業である鉱物輸出が好調であることを背景に、これに関わる政府系企業やANC関係者を中心に、「ブラック・ダイヤモンド」と呼ばれる富裕層も登場しました。しかし、その一方で、公営住宅の建設などは黒人居住区が優先され、白人のなかには「プア・ホワイト」と呼ばれる貧困層も出てきています。私自身、白人のホームレスをみた時に、時代の変化を強く感じた記憶があります。

  ただし、人種と所得水準がかつてほど明確に連動していないとはいえ、低所得者に黒人が多く、高・中所得者に非黒人が多いことは、アパルトヘイト時代と大きく変わりません。ジンバブエなど近隣諸国からの移民が増え、より安い賃金で働くことも、南アフリカ黒人の失業の種になっています。これに加えて、南アフリカは世界レベルでみても格差の大きい社会です。世界銀行の統計によると、2006年のジニ係数は67。格差の激しい中国の42(2005年)、ブラジルの57(2005年)などを上回る数値です。

  さらに、この数年の資源ブームと、それに基づく海外直接投資の増加は、低所得者にとって必ずしも恩恵だけをもたらしたわけではありませんでした。投資の流入は物価上昇を呼び、やはり世界銀行の統計によると、昨年のインフレ率は8パーセント。世界平均が5パーセントだったことに比べも高く、これに関しては中国(8パーセント)、ブラジル(7パーセント)と同レベルです。


  貧困と格差に対する不満が増幅したとしても不思議でない状況の下、しかし鉱山労働者たちの声が公式に表出されることは、ほとんどありませんでした。合計34名が死亡したマリカナでのケースも、労働組合が承認していない違法なストライキ(いわゆる山猫スト)であったために、警察の介入を招きました。プラチナ生産最大手のアングロ・アメリカン・プラチナムが1万2000人(10月5日)、金最大手のゴールド・フィールズが8000人(10月25日)の鉱山労働者を解雇したのも、そのストライキが違法であったことが理由でした。多くの鉱山労働者が違法ストに臨んだ大きな背景には、労働組合が彼らの要望を政府や企業に伝えて改善を求めることや、ストライキの実施に消極的だったことがあります。

  1960年前後の独立運動で、その中核を担って以来、多くのアフリカ諸国では労働組合が大きな政治的発言力をもってきました。他のアフリカ諸国とは歴史的背景が違うものの、南アフリカでも反アパルトヘイト闘争でANCと共闘した労働組合は、1994年以降も政府と緊密な関係を保ってきました。しかし、政府と密接なのは労働組合だけでなく、民間企業もまたそうでした。アメリカでは政-財-軍、日本では政-官-財の「鉄の三角同盟」がありますが、南アフリカでは政-労-資(財)がトライアングルを形成しているのです。

  ヨーロッパでも同様の状況があり、コーポラティズムと呼ばれます。国によって違いはありますが、戦後のヨーロッパでは総じて、三者協議のなかで労働組合が賃上げ要求をある程度抑制するかわりに、経営者団体が高い企業税に同意し、それを政府が福祉事業に回すことで、一般国民の実質所得の向上に繋がってきました。

  ところが、南アフリカの場合、この三者のトライアングルは、必ずしも国民に恩恵をもたらしているとは言えません。例えば、労働組合のアンブレラ組織である南アフリカ労働組合会議(Congress of South African Trade Unions: COSATU)は、米誌Forbesによると総資産が227億ドル以上にのぼる、南アフリカ屈指の資産家で企業家のP.モツェペ(Patrice Motsepe)から資金援助を受けているといわれます。企業家から支援を受けること自体、組合の独立性を損なうもので、実際にCOSATUは、鉱山労働者の組合である全国鉱山労働者組合(National Union of Mineworkers: NUM)とともに、今回の事態を招いた責任が鉱山経営者にあると批判しながらも、彼らの自発的なストライキにも反対しています。これに対して、労働者側からは、労働組合に対する批判が公然とあがっています。

  無闇にストライキを行うことは、企業だけでなく、その国の経済全体にマイナスの影響を及ぼすため、褒められたことではないかもしれません。まして、死傷者が出るような騒ぎになるとすれば、なおさらです。とは言え、生活が悪化するなかで、企業はもちろん、労働組合までもが賃上げ要求に消極的な状況が、鉱山労働者たちの怒りを爆発させ、さらに(ストライキ中の鉱山労働者の一部がナイフなどで武装していたという事情があるにせよ)警官の発砲で死者が出たことが、火に油を注ぐことになったことは間違いありません。いわば政-労-資の強固なトライアングルのもとで、「体制側」に回った労働組合に裏切られたという不信感と憤りが、生活苦による労働者たちの不満を爆発させたと言えるでしょう。その不満を共有しているからこそ、国内の地方や業種を越えて、ストライキが伝播しているのです。

  今回の一連のストライキからは、南アフリカの政治的・経済的な変動の兆しをうかがうことができます。ANCは「反アパルトヘイト」で結集し、今の体制の基礎を作ってきただけに、所得やエスニシティにかかわらず、多くの黒人から幅広い支持を集めてきました。しかし、「白人による支配」という共通の打倒目標がなくなったいま、鉱山労働者など低所得者を支援する団体のなかには、既存の労働組合や、それと連なるANCと一線を画した政治勢力の形成を図る動きも出てきており、それがより戦闘的なストライキを主導しているといわれます。労働組合の求心力低下は、今後も同様のストライキが頻発する可能性すら示しています。

  一方、ストライキの拡大を防げなかったとして、J.ズマ(Jacob Zuma)大統領に批判が集まるなか、ANC内部からは鉱山の国有化も検討すべきという声があがりはじめています。海外の投資家に警戒感を抱かせかねない意見ですから、ANCスポークスマンは「国有化はない」と強調しています。しかし、経済が政治を動かすのと同様に、政治が経済を規定することもまた確かです。世界経済が減速し、各国が自国の利益確保に向かうなかで、今後の動向は予断を許しません。

  アパルトヘイト後の南アフリカは、アフリカ随一の経済大国としてだけでなく、国内の融和に努める「虹の国」としても知られてきました。しかし、一連のストライキは、政-労-資の強固なトライアングルに支えられたポスト・アパルトヘイト体制のもとで、社会のなかの亀裂は着実に深まっていることを示しており、その混乱は主に市場への鉱物供給の不安定化を通じて、ただでさえ不透明感のただよう世界経済に、深刻な負の影響をもたらすとみられるのです。


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