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  • 2014.03.05 Wednesday
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下記URLに引っ越しました。

http://mutsuji.jp/blog

今後とも、何卒よろしくお願い申し上げます。
 

新憲法の是非を問うエジプト国民投票:中東・北アフリカの流動化が加速する日

 1月14、15日、エジプトで新憲法の是非を問う国民投票が実施されます。これは2011年2月のムバラク政権崩壊に始まる、エジプトにおける政治変動の大きなターニングポイントになるとみられます。同時に、2013年7月のクーデタ後のエジプトをめぐっては、域外の大国だけでなく、周辺諸国の対応は分かれています。2010年12月、チュニジアを起点に広がった政治変動「アラブの春」は、民主化という観点からみれば、多くの国で順調とは言い難い道を辿っていますが、他方で中東・北アフリカをめぐる国際環境は流動化が激しく、エジプトの国民投票はその両方の意味において重要な意味をもちます。

暫定政府によるムスリム同胞団の取り締まり
 2011年2月、エジプトを30年間にわたって支配したムバラク政権が崩壊しました。体制転換後、これを主導した勢力の一つであるイスラーム主義組織・ムスリム同胞団(MB)が、一時的に棚上げにしていた旧政権派との対立に直面し、それとの対立の中で徐々に世俗的なリベラル勢力とも確執を深め、最終的に2013年7月のクーデタで倒された経緯については、以前に述べたとおりです。

 事実上の軍事政権であるエジプト暫定政府においては、第一副首相でありながらも陸軍大将や国防相、さらに軍最高評議会議長を兼任するアブデルファタフ・サイード・シシ氏が、アドリ・マンスール暫定大統領(元最高憲法裁場所長官)やハゼム・ベブラウィ暫定首相(元財務相)をも上回る、最高権力者とみられています。シシ国防相やマンスール大統領は、ムバラク時代も軍や裁判所の要職にあった人物で、基本的に暫定政府は旧ムバラク政権に近い立場にあります。その意味で、クーデタ直後の8月22日、2011年2月の抗議デモで800人以上が死亡したことの責任を問われ、拘留中だったムバラク氏が裁判所によって保釈されたことは、不思議ではありません。

 一方、暫定政府はクーデタ直後から、MBの最高指導者ムハンマド・バディア氏を拘束したほか、カンディール前首相などMBメンバー2000人以上を相次いで逮捕・拘禁。9月には軍事法廷が軍と衝突したMBメンバー52名に終身刑を含む有罪判決を下し、さらに11月4日にはモルシ前大統領らに「2012年12月デモ参加者の殺害を先導した罪」を問う裁判が開始されました。

 これに対してモルシ派の抗議デモが展開され、8月15日にはカイロで、警官隊による強制排除によって270名以上が死亡する事態となり、暫定政府は非常事態を宣言しました。9月24日にはMBの活動を禁止する裁判所命令が出されましたが、その後も両者の対立は収まらず、10月6日にはカイロなどでMB支持者と警官隊が衝突して50人以上が死亡。その後、取り締りの強化もあって非常事態宣言は11月12日に解除されたものの、その直後の11月24日にはデモを規制する法律が発効し、MBなどイスラーム組織だけでなくリベラル派の活動も制約されるようになりました。そして、12月24日に暫定首相がMBを「テロ組織」と宣言するに至り、暫定政府はMBと全面的に敵対する意思を、改めて表明したのです。

周辺諸国の反応 (1)トルコ
 7月のクーデタに関して、欧米各国の政府は、民主的に選出された政府を転覆させたものとして、基本的に批判的なトーンが強いといえます。一方、中ロは静観の構えです。これら域外の大国の動向に動向に関連して注目すべきは、周辺国の対応です

 MBを中心とするモルシ政権が事実上の軍事政権にとって代わられたことは、周辺国に大きく二通りの反応を生みました。一方にはトルコ、カタール、チュニジア、そしてイランのようにMBに好意的で、その裏返しとしてエジプト暫定政府に批判的な諸国があります。他方にはサウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)、バーレーン、クウェート、そしてシリアなどエジプト暫定政府を支持する諸国があります。この状況は、中東・北アフリカに数多くの断層があることを示しています。

 エジプト暫定政府に対して、最も明確に非難の意思を表明しているのはトルコです。270人以上の死者を出した8月15日のMB強制排除を、トルコのエルドアン首相は「大虐殺」と呼び、さらに反モルシ・クーデタは「イスラエルの陰謀」とも主張。相次ぐ非難に対して、11月にはエジプトが駐カイロ・トルコ大使を追放し、これを受けてトルコ側も駐アンカラ・エジプト大使を追放するなど、外交上の対立はエスカレートしています。

 トルコは共和国としての独立以来、世俗主義を旨としてきましたが、2002年に選挙で政権についた公正発展党(JDP)は、イスラーム的な価値観を重視する政党です。そして、その支持母体には1969年にトルコで活動を始めた、トルコのMBがあります。つまり、トルコ現政権とモルシ派はMBを通じて同根といえます。さらに、クーデタの発生した7月以降、トルコでは各国のMB系組織が相次いで会合を開いており、ここにはチュニジア、ヨルダン、スーダン、アルジェリア、モロッコ、リビア、マレーシアなどから代表者が集っています。これらの各国のうち、MB系組織が政治的に多少なりとも発言力をもつチュニジアやヨルダン、マレーシアの政府が、エジプト暫定政府に批判的なことは、不思議ではありません。いわば、トルコはイスラーム世界における反エジプト暫定政府派の「扇のかなめ」といえるでしょう。

周辺諸国の反応 (2)イラン
 トルコとともに目立つのが、イラン政府の反応です。

 1978年、エジプトはキャンプ・デービッド合意でイスラエルとの単独和平に踏み切り、それ以来米国とも友好関係を築きました。翌1979年、一方のイランではイスラーム革命が発生し、同国は米国と敵対するようになります。イスラーム革命後、エジプトとイランは国交を断絶し、両国の間には冷たい関係があったのですが、なかでもムバラク政権の末期にその関係は極度に悪化しました。2009年4月、エジプト当局はイスラエルでテロ活動を行うためにエジプト国内で拠点を築いていたとして、ヒズボラのメンバー49名を逮捕し、ヒズボラだけでなく、そのスポンサーであるイランに対しても激しい非難を展開したのです

 極度に悪化したイラン−エジプト関係は、しかしムバラク政権の崩壊で大きな転機を迎えました。スンニ派のMBとシーア派の一派12イマーム派を国教とするイランは、宗派的には必ずしも良好とはいえない関係です。しかし、2013年2月6日、イランのアフマディネジャド大統領(当時)はエジプトを訪問。国交断絶以来、初めてといっていい友好関係は、イラン側からみれば、もともとイスラーム世界で対立しがちなサウジアラビア(後述)に対抗してアラブ圏に友好国を確保し、シリア情勢や自らの核開発問題などをめぐる国際的な孤立を緩和する目的があったとみられます。一方、米国一辺倒だったムバラク政権と異なり、周辺国との関係も顧慮していたモルシ政権にとって、米国と敵対するイランとの友好関係はエジプトの外交的独立への一歩だったといえるでしょう。

 しかし、2013年7月のクーデタにより、両国の関係は再び冷たいものに変わりました。2013年10月2日、両国の関係改善にともなって計画が進められていた観光客の往来に関して、エジプト側は「安全保障上の理由から」これを延期することを発表。さらに1月6日、イラン外務省がエジプトでの抗議デモで死傷者が出たことに「懸念」を示したことに対して、エジプト政府はイラン政府に対して「全面的な非難」の意思を示しました

 周知のように、イランはレバノンのヒズボラへの支援、シリア・アサド政権への支援、核開発問題などをめぐって欧米諸国と敵対しています。そのイランが、期せずして欧米諸国とともに、暫定政府に批判的な立場に揃って立つことになったのは、中東・北アフリカの政治的な断層の複雑さを象徴します。

周辺諸国の反応 (3)サウジアラビア
 
2012年の選挙でFJPとモルシ氏が勝利した際、イスラーム政権の誕生に懸念と警戒を示した欧米諸国に対して、これを擁護したのがサウジアラビア、UAE、クウェート、バーレーンなど、ペルシャ湾岸の大規模産油国でした。これらはいずれも、王族支配の保守的なイスラーム国家ですが、イランのように欧米諸国と敵対しない、いわば穏健派イスラーム諸国といえます。その意味で、王制でないとはいえ、モルシ政権の支持基盤であるMBはスンニ派というカテゴリーで共通し、さらにMBが政治権力を握ることでより過激なイスラーム勢力の台頭を抑えられる、という目算があったものとみられます

 ところが、これらの多くは暫定政府を支持しており、なかでもサウジ、UAE、クウェートはクーデタから間もない時期に120億ドルの資金援助を申し出ています。リビア内戦において反カダフィ勢力を支援したように、あるいはシリア内戦においてアサド政権に批判的なように、これらの諸国は基本的に欧米諸国と友好関係を維持しています。しかし、エジプト暫定政府に関しては、欧米諸国との温度差が顕著といえるでしょう。

 モルシ政権との良好な関係や、欧米諸国との齟齬を踏まえて、サウジなどがエジプト暫定政府に好意的であることを考える場合、その大きな背景としては、イランおよびシリアとの関係をあげることができます。

 サウジアラビアとイランは、OPEC原加盟国のなかでも指折りの産油国という共通項をもちながら、スンニ派とシーア派、アラブとペルシャ、親米と反米、王制と共和制と、ことごとく対立しています。そして、先ほども触れたように、(湾岸諸国にとって目下最大の懸念である)シリア内戦において、サウジアラビアとイランは反アサド、親アサドで対立関係にあります。先述のように、サウジアラビアは欧米諸国からの懸念に対してモルシ政権を擁護しただけでなく、これに対して軍事援助などを提供し、友好関係を築きましたが、そこにはイスラーム世界におけるイランの台頭を抑制する意図があったという観測もあります。

 いずれにせよ、サウジもイランもエジプトを自分たちの味方に引き付けようとしたのですが、モルシ政権が目指した「全方位外交」は、結果的にサウジ−エジプト関係を微温的なものにする効果をもちました。2012年9月10日、モルシ政権はシリア問題を協議するため、サウジアラビア、トルコ、イランの政府関係者をカイロに招きました。イランはサウジやトルコがシリア反体制派を支援していると非難しています。そのため、このカルテットでの協議はほとんど進展しませんでしたが、いずれにせよモルシ政権がイランの立場に相応の理解を示すことは、特にサウジアラビアにとって受け入れがたいものだったといえるでしょう。実際、サウジ政府はこのカルテットからすぐに姿を消しています

 モルシ政権との関係が微温的なものになっていたことに加えて、エジプトが「第二のシリア」になる事態は、サウジアラビアなどにとって避けたいシナリオです。その観点からすれば、事実上の軍事政権であるエジプト暫定政府を支援することは、サウジアラビアなどにとって、混乱を最小限に食い止めるためと理解できるでしょう。

米国が抱えるジレンマ
 カイロ在住の、EU議会ALDEグループの代表である Koert Debeuf によると、クーデタ後のエジプトにおける米国の位置づけは、とても「特別」なものといいます。つまり米国は、反モルシ(親・暫定政府)、親モルシ(MB)のいずれからも、「自分たちの相手を支援している」とみなされているというのです。

 米国が30年間にわたってムバラク政権を支援していたことは確かです。一方、ムバラク政権の末期、抗議デモで多数の死傷者が出るに及んで、米国はムバラク政権との関係を断ちました。以来、サウジアラビアなどの擁護があったことに加えて、エジプトで初となる民主的な選挙で選出されたこと、さらに行き過ぎたイスラーム本質主義への反動から、オバマ政権はモルシ政権との関係構築を模索し続けました。2012年9月、(米国が支援したムバラク政権と敵対し続けた、つまり米国に対して必ずしも友好的な感情を持ちえない)モルシ氏が大統領として初めて米国を訪問する直前、オバマ大統領はインタビューに応じて「我々はエジプトとの同盟関係を懸念することはないし、彼らを敵として懸念することもない」と述べています。

 ところが、クーデタによって、エジプトと関係を再構築する米国のデリケートな作業は、さらに困難なものになりました。民主的な選挙を経た政権が軍事力で転覆されたことを容認することは、ムバラク政権時代の悪名を再び覚悟せねばならず、それはただでさえ信頼が揺らいでいる米国の「民主主義の守護者」という看板にさらに傷をつけることになります。そのため、米国は多くの死傷者を出す衝突を非難し、さらに拘束されたモルシ氏の釈放をエジプト政府に求めるなど、暫定政府を批判する立場を示しました。

 その一方で、米国政府は7月のクーデタを公式に「クーデタ」と認めていません。そのうえで、クーデタ直後の7月9日、米国政府はエジプト向けの援助を継続する意思を示しました。米国の国内法によれば、「クーデタで政権を握った政府に援助を提供すること」は禁じられています。関係を遮断するこによりエジプト政府へのコントロールを失うことを恐れる一方、民主的な手順を踏まない政府を公式に認められないジレンマが、この対応を呼んだといえるでしょう。

 しかし、その後のエジプトでは、先述のようにMB関係者の拘束や親モルシのデモ隊と警官隊の衝突、さらにデモの規制などが相次ぎ、そのなかで10月に米国政府は数億ドル分の軍事援助と2億6000万ドル相当の資金援助の凍結を発表。さらに11月には、エジプトを訪問したケリー国務長官が、「暫定政府との協力維持」を明言する一方、暫定政府が示している新憲法の導入をめぐる国民投票から、大統領選挙、議会選挙に至る「ロードマップ」の実施の重要性を強調しました。

 これにより、米国政府は「選挙が実施されれば援助を再開する」旨のサインを出したと言えます。同時に、それは「選挙で選出される政府は問わない」という前提を含んでいるといえるでしょう。つまり、選挙さえ予定通りに行われれば、暫定政府を握るシシ国防相が大統領になっても、軍事援助が再開されることを暗に示したと理解できます。

 とはいえ、暫定政府とMBの双方からみた場合、この対応が少なくとも「自分たちに協力的でない」とみられることは避けられません。暫定政府からすれば、軍事援助を餌に、内政への関与を強めようとする姿勢に映ります。他方、MBからすれば、部分的に凍結したとはいえ、暫定政府に援助を提供しただけでなく、暫定政府が示したロードマップに沿った選挙の実施を認めたこと自体、米国がMBの側にいないことを意味します。これに鑑みれば、Debeuf のいう「特別」な位置づけは、概ね妥当といえるでしょう。

ロシアの接近
 先述のようなジレンマに直面するなか、米国がエジプトへの関与に苦慮している間に、エジプトへ急接近を図っているのが中ロ、なかでもロシアです。友好関係にあったカダフィ体制が崩壊した後、北アフリカでの足場を求める中ロにとって、米国−エジプト関係がギクシャクする様相は「狙い目」です。実際、体制転換の後の政治的混乱を背景に、米国企業が対エジプト輸出額を減らすなか、これを補うようにして中国、ロシアの対エジプト輸出額が増加しています。

 特にロシアにとって、エジプトは因縁の土地でもあります。1952年、エジプトで「自由将校団」の革命がおこり、米英の支援を受けた王政が打倒されました。自由将校団を率い、後にエジプト初代大統領となったガマール・アブドゥル=ナセルは、パレスチナ解放とアラブ民族の統一を掲げ、王政時代からの友好国であった米国との関係を見直し、ソ連に接近しました。エジプト近代化の象徴であったアスワン・ハイ・ダムが、ソ連からの資金援助で建設されたことは、その象徴です。ソ連からの援助は軍事面でも同様で、エジプト軍はその後の中東戦争を、ソ連製兵器で戦うことになります。

 しかしその後、ナセルが死亡し、後を受けたサダト大統領のもとで、先述のキャンプ・デービッド合意(1978)が結ばれたことで、エジプトは米国との友好関係を回復。冷戦の国際環境下、それは自動的にエジプトがソ連との関係を断ったことを意味しました。当時のソ連の感覚では、「飼い犬に手を噛まれた」に近いものがあったかもしれません。いずれにせよ、冷戦終結の後もロシアにとってエジプトは、スエズ運河を有する地理的条件やアフリカ大陸5位の産油量、さらにアラブ圏有数の軍事力といった魅力をもちながらも、縁遠い国だったといえるでしょう。

 ところが、昨年10月9日に米国がエジプト向け軍事援助の凍結を発表し、エジプト政府がこれを非難して約1ヵ月後の11月14日、シシ国防相はエジプトを訪問したロシアのラブロフ外相と会談し、軍事協力について基本的に合意したのです。内容の詳細については不明ですが、イスラエルの報道ではミグ21戦闘機を含む40億ドル相当にのぼり、そのうちほぼ半額はエジプト側が(湾岸諸国からの援助で)負担することと伝えられています。

 とはいえ、その数値の真偽よりさらに重要なことは、ロシアから軍事援助を受けるという可能性を、それが例え米国に対する外交上のブラフであったとしても、エジプトが示したことです。米国のメディアでこれが危機感をもって伝えられたことは、不思議ではありません。いずれにせよ、エジプトが中東・北アフリカにおける米ロの一つの大きな焦点になったことは確かです。

新憲法をめぐる国民投票
 このような錯綜した国際環境のなか、冒頭で述べたように、エジプトでは1月14日、15日の両日、暫定政府が示した新憲法草案の是非をめぐり、国民投票が実施されます。

 この憲法草案は、2012年11月にモルシ政権下で採択された憲法を修正したものです。新憲法案ではメディアの独立、信仰の自由、女性の権利、人身売買の禁止などが明記されていますが、他方で宗教に基づく政党の結成が禁じられるなど、主にMBを標的とした内容も目立ちます。これに加えて大統領の権限も強化されており、例えば2012年憲法と同様に、大統領が国民投票を通じて議会を解散する権限が認められていますが、2012年憲法では国民投票で否決された場合、大統領は辞職することになっていましたが、新憲法案ではこれが削除されています。さらに軍の権限も強化されており、国防相の人事権は軍に認められています。

 人権の保障や定期的な選挙は認められているとはいえ、軍によって全面的にバックアップされた世俗的で強権的な政府が生まれやすい内容といえるでしょう。その意味で、ムバラク政権時代に逆戻りとまでは言えませんが、民主化という観点から言えば少なくとも「半歩後退」と表現できます。とはいえ、この憲法草案が国民投票で採択される可能性は高いと思われます。

 リベラル派や少数派のキリスト教徒らは、ムバラク政権を打倒する際にMBなどイスラーム勢力と協力しましたが、2012年憲法の作成過程で後者が前者の要望をほとんど反映せず、数の論理によってイスラーム色の強いものにしたことで、警戒を強めました。また、行政経験の乏しいMBのもとでエジプト経済が大きく回復せず、治安も大きく回復しなかったことは、MBがコアな支持者以外の支援を失い、モルシ退陣を求める抗議デモが全土に広がった原動力にもなりました。昨年7月7日、クーデタ直後のカイロで開かれた数万人規模の反モルシ派の集会で、軍の行動が「クーデタ」ではなく「国民の意思」であったとアピールされたことは、MBに対する広範な不満の広がりを象徴します。

 いずれの政治勢力も、自らの信条や利益を主張することは当然でしょう。しかし、2012年憲法草案の制定過程とその後のモルシ退陣を求める抗議デモのいずれもが、妥協と協調ではなく、友−敵の識別と数の論理を優先させたことを示しており、これが結果的には、行き詰まりを力で克服するためのクーデタをもたらしたといえます。同様の構図は、フランス革命後のナポレオンの登場にもうかがうことができます。

 いずれにせよ、大勢がMBの復活を拒絶し、混乱の収束と安定を求める傾向にあることに鑑みれば、暫定政府の憲法案が国民投票で否決される可能性は低いといえるでしょう。2013年のドル建てリターンを示すMSCI株価指数で、エジプトは新興国分類の2位につけており、クーデタ後のサウジなどによる120億ドルが好感されたとロイターは伝えています。景気が回復傾向を示していることも、暫定政府にとっては好条件です。

中東・北アフリカ情勢の流動化が加速する懸念
 ただし、仮に国民投票で新憲法案が承認され、その後「ロードマップ」に沿って大統領選挙や議会選挙が予定通りに進んだとしても、それはエジプトおよび中東・北アフリカにとって安定を意味するとは限りません。暫定政府の最高権力者シシ国防相は、大統領選挙に立候補する意欲をみせており、順当にいけば当選する可能性が高いとみられます。これは確かに強力な政府が生まれることを予感させるものです。

 他方、強い政府が反対派を抑制するほど、行き場を失った反対派の不満が暴発しやすいことは、ムバラク政権下のエジプトでもみられたことです。苛烈な取り締まりにより、MBだけでなくイスラーム過激派が疎外感を強め、暴力的な衝突がさらに激しくなり得ることは、早くから指摘されています。憲法草案が国民投票で承認されれば、それは「シシ大統領の誕生」に向けた道程が加速することを予感させると同時に、エジプトでさらなるテロと鎮圧の連鎖に向かうことへの懸念を深めさせる要因にもなり得るのです。

 この状況は、米国にとって一長一短です。エジプトに、軍が全面的にバックアップする強力な政府ができることは、対テロ戦争や安全保障の文脈において、米国にとって好条件です。また、先述のように、ロシアがエジプトへの関与を深めているなかにあっては、できるだけ早く関係を改善する必要性を米国政府は感じているでしょう。

 ただし、世俗的で軍を背景とする大統領が生まれた際、米国があまり露骨に友好的な関係を築けば、MBだけでなくイスラーム過激派を刺激するだけでなく、現在のエジプト暫定政府に批判的なトルコやイランとの関係においても、大きな摩擦、あるいは少なくとも不確定要素を生みかねません。イスラーム主義的なエルドアン政権のもとで、米国との関係はやや疎遠になりつつありますが、それでもトルコはNATO加盟国で、米国の中東・北アフリカ戦略にとっての一つの要です。他方、周知のように、イランは昨年11月、核開発問題をめぐって欧米諸国と歴史的な合意を達成したばかりで、エジプト情勢への米国の姿勢がイランを再び硬化させる懸念も否定できません。トルコ、イランとの関係は、シリア問題にも波及し得る要素です。

 新憲法が採択され、少なくとも選挙で選出された大統領・議会のもとで統治が行われること自体は、エジプトにとって必須のステップといえるでしょう。しかし、ロードマップの実施自体が、エジプトにとって、そして中東・北アフリカをとりまく国際環境にとっての摩擦や不確定要素を大きくする側面もまた、看過することはできません。中東・北アフリカ情勢は、米国の覇権の相対的な衰退と「アラブの春」によって流動化しつつあるわけですが、今回のエジプトにおける新憲法の是非をめぐる国民投票は、これをさらに加速させる可能性が大きいといえるでしょう。

安倍首相の靖国参拝に関する海外メディアの報道と若干の考察

安倍首相が靖国神社に突如として参拝してから1週間が経ちました。

この間、中国、韓国両政府からの非難は言うまでもなく、米国政府からは「失望」という、同盟国に対する表現としては極めて強い表明されたことは、周知のとおりです。

直接的に関係のない多くの国にとって、他国同士の緊張関係に巻き込まれるのは、得策ではありません。ゆえに、政府レベルで何らかの意見を表明することは、ほとんどの国がしていませんが、皆無ではありません。公式の反応として目立ったのは、最近安倍首相が接近を図っているロシア政府の反応でした。やはり26日、外務大臣のスポークスマンが「遺憾」の意を表しています。これに加えて、EUからも早い反応が出されました。26日の声明では、「この行動が地域における緊張を和らげたり、隣国なかでも中国、韓国との関係を改善するものではない」「EUは関係国に対して、信頼関係を支え、緊張を和らげ、地域の長期的な安定を担保する、肯定的で建設的な結びつきのために協力することを求める」と続きました。

直接関係ないとはいえ、これらの国・地域からみて日中、日韓の関係が悪化することは、例えばG20での協議がさらに難航するなどの弊害が出るため、少なくとも好ましいことではありません。のみならず、ロシアも、EUのほとんどのメンバーも戦勝国である以上、日本−中国・韓国の相互の主張内容の是非はともかく、大戦に関する彼らの認識そのものを否定しかねない靖国参拝は受け入れがたいでしょう。その意味においても、これらの反応は全く不思議ではありません。

これに補足して、確認できた範囲で目を引いたのは、ドイツ政府の反応でした。12月30日、メルケル首相のスポークスマンは記者会見でこの問題を問われ、「日本の内政に関してコメントはしたくない」と前置きしたうえで「一般論として、全ての国は20世紀の災厄における自らの役割について、ふさわしい行動を誠意をもってとるべきだ」と続きました。

一方、海外メディアはこれをどのように伝えているのでしょうか。言語と人手の問題から、決して体系的でも網羅的でもありませんが、しかしこれに関する海外メディアの報道の瞥見からでも、おおよその傾向は掴むことができます。以下に主だったところをレビューしますが、中国、韓国については、言うまでもないことなのでスキップします。

【ワシントン・ポスト】

靖国神社に関する解説を踏まえて、これが米国にとっての新たな懸念となるという論調で伝えています。

中国外相による安倍首相への批判を掲載し、そのうえで尖閣諸島問題がこれでより一層エスカレートしたと伝えています。最後に、安倍首相の主張を掲載しています。

タイトルそのままなので詳細は割愛。

安倍首相の反動的傾向への懸念を示し、参拝によって東シナ海をめぐる日米韓の連携に水がさされたと批判しています。

【ニューヨークタイムズ】

安倍首相の、靖国参拝が政治的な問題になること自体への不満や、「不戦の誓い」といった主張を紹介。首相が参拝を自制するようアドバイスを受け、これを守っていたが、中韓との関係改善への期待が乏しい中にあっては、遅かれ早かれ参拝するだろうという観測があったと伝えています。そのうえで、中韓の反発をそれぞれ伝えています。

なぜ、このタイミングで安倍首相が靖国に参拝したかに関して、中韓の指導者が日本政府と協議していない点に注目し、そのうえで「逆説的だが、このような中韓からのプレッシャーが安倍氏に靖国参拝をグッドアイデアだと思わせた(Paradoxically, it is Chinese and South Korean pressure on these fronts that has allowed Mr. Abe to think a visit to Yasukuni is a good idea.)」と分析。安倍首相の最終目標を憲法改正と捉え、その目的のためのステップを踏み始めたと述べ、そのうえで中韓政府に日本との協議に応じるよう提案しています。論調としては、米国自身が日本の右傾化を望ましくないものと捉えており、他方で中韓がその隙を与えてしまったという批判です。

靖国神社への参拝に関する中韓の反発を紹介したうえで、多くの批判があるなかで特定秘密保護法を成立させ、無人機計画を含む防衛計画の策定などを安倍政権の右傾化と表現。中国の台頭に対抗するパートナーだった日本は、米国政府にとってもう一つのアジアの問題となったと述べています(But rather than become a stable ally, Tokyo has become another Asian problem for American officials because of its quarrels with Beijing)。

【ロイター通信】

近年の領土問題、歴史問題、さらに靖国神社をめぐる中韓の批判の要旨を伝えたうえで、日本と中韓の経済関係にどのような悪影響がでるか予測できないと述べています。また、専門家の意見として、安倍首相は順調な景気回復に基づく高い支持率が、特に保守的な支持層の間で、靖国参拝をめぐる批判を抑制できるという計算があったとも伝えています。

安倍首相は中韓からの批判や米国の「失望」のリスクを承知しながら、日米の同盟関係の強さをはかっていると分析。首相に近い外交筋の発言として、「米国が将来的にも我々の同盟国かって?もちろん」「国民の関心は経済、収入、社会福祉、そういったもので、対外政策は投票に決定的インパクトをもたない」。一方、米国外交筋の表現として、「靖国参拝が米国政府に提起しているのは、アジアにおける同盟国、パートナーとしての安倍首相の信頼性を決定することだ」。

【テレグラフ】

靖国神社そのもの、および靖国神社をめぐる日本、中韓の対立点などについての解説記事。極めて中立的な書き方。そのうえで、この参拝で日本−中韓の関係がより深刻なものになるという、至極妥当な予測を掲載。

【エコノミスト】

安倍首相の参拝そのものは、そのイデオロギー的立場や言動からして、さほど驚くべきことでないかもしれないが、ほとんどの人がこのタイミングで参拝すると予測していなかったと述べ、普天間基地の移設問題にめどがついたことで、最も懸念されるとみられる米国との関係上、首相に参拝の道が開けたという見方を紹介。そのうえで、首相の参拝が今後も続き、この問題がまた浮上することが予測されると述べている(タイトルが秀逸)。

【フランス24】

安倍首相を「ナショナリスト」と紹介し、「靖国神社が軍国主義の象徴であるかのような誤解がある」「平和を祈念するために参拝した」というその主張を紹介。一方、中国、韓国の反発を伝えたうえで、「日本の右傾化と軍国主義の台頭に関する米国の懸念に、決定的に油を注ぐ」という見方を伝えています。

AFPからの配信として、「特に中国に関して、尖閣諸島や防空識別圏の問題などで、関係がこれ以上冷え込む余地がないことが、安倍首相にとって参拝をふさぐ障害がなくなった」という英国の専門家の見方、「北東アジアの新たな不安定要因を作り出した」という日本の専門家の見方、「中国に立ち向かう自分を演出することで英雄的なイメージを作り出そうとするチキンゲームに着手した」という中国の専門家の見方などを紹介。

【グッドモーニング・トルコ】

共同通信からの配信として、安倍首相の参拝とその主張、中韓の反発、米国の「失望」と「北東アジアでの緊張を高める」という懸念、さらに日本の有識者の懸念などを淡々と伝えています。

【ジャーナル・オブ・ターキッシュ・ウィークリー】

新華社通信からの配信として、安倍首相の参拝が中国国民の感情を深く傷つけ、日本の政治家の参拝が日中、日韓の関係改善を阻害していると伝えています。

インド・エクスプレス

【ザ・タイムズ・オブ・インディア】

AFPからの配信として、靖国神社について簡単に説明した後、主に中国側からの「日本の拡張主義の表れ」という批判を紹介。また、台湾からの批判も伝えています。

【アル・ジャズィーラ】

中国側の批判をまず紹介し、その後に安倍首相の主張を紹介。いずれの言葉もこれまでになく激しく、既に尖閣諸島をめぐる対立が激しくなっているなかで、参拝が両者からのさらなるレトリックの応酬に発展すると予測。併せて、韓国政府からの批判も紹介。

若干の考察

冒頭に断ったように、このレビューは決して体系的でも網羅的でもなく、検索の上位やニュースヘッドラインの上位にきたものを無作為に取り上げたものです。しかし、多くのインターネットユーザーは国を問わず、よほど時間のある人はともかくとして、ヘッドラインの上位にくるニュースや、検索の上位にくる記事からみていくものではないでしょうか。良くも悪くも、それが国際世論を形成する一要因であることは否定できません。

その意味でいえば、ざっと見た限り−当然と言えば当然ですが−どうみても安倍首相や日本政府に好意的な評価が支配的とはいえません。中国、韓国側の主張が受け入れられているとは言えません。しかし、例えば私が確認したなかで最も中立的な報道とみえたテレグラフの解説記事が述べていたように、少なくとも今回の参拝が日中、日韓の緊張を高めたこと自体は確かです。その意味で、日本が一種のトラブルを引き起こしたと受け止められたとしても、当然です。多くの報道からみてとれるように、そして恐らく事実なのでしょうが、「中国や韓国からの反発が強くあることを、そして米国も懸念を示していることを承知しながらも参拝した」ことが、そして米国が「失望」を示したことが、この見方を強めています。安倍首相が日米同盟を試しにかかっている、というロイターの解説は秀逸だと思います。

そして、多くの日本人が思っているほど、外部からの日本に対する視線は、決してやさしいものではありません。米国、ロシア、ヨーロッパ諸国の大半、中国、これらはいずれも戦勝国であり、まして靖国参拝が中韓を最も刺激する要因で、関係がこれまでになく悪化しているなかでとなれば、論調として「日本の軍国主義の復活」を懸念するものが出たとしても、不思議ではありません

実際、憲法改正、特定秘密保護法、新しい防衛計画などは、AFPやロイターといった大手メディアで以前から警戒感をもって報道されており、さらにそれは多くの開発途上国、新興国にも配信されています。そして最近では、「ソフトパワー」の拡充を目指す中国が、新華社通信や(アル・ジャズィーラを真似た)24時間の英語放送CHINA24を通じたニュース配信に余念がありません。今回確認できた中では、例えば中東のオマーンという、日本人のなかには「どこそれ」と思うひとがあり得る国でも、AFPにより、中韓の批判、共同通信が行った世論調査の結果(外交関係に配慮する必要がある:69.8%、首相参拝がよくなかった:47.1%)などを記した記事が配信されていました。

一部の日本人が、「親日的」と期待をかけるインドやトルコでも、上で確認したように、同様の傾向がみられます。例えば、さきに示したメルケル首相のスポークスマンの談話は、AFPを通じてインドでも配信されています。これもやはり、良くも悪くも、国際世論を形成する一要因です。

これらのメディアワークで決定的に後れをとっている日本が−仮に安倍首相の「理解を得られるように努める」という意思が本物だとしても−これをひっくり返すことは、きわめて困難です。少なくとも、ごく簡単なレビューからでも、「理解を得られるように努力する」という安倍首相の主張は、オッズが低いと言わざるを得ません。それとも、国際的な支持を得られる、なにがしかの勝算があるというのでしょうか。あるいは、各国にある日本大使館は現地メディアの報道をサーベイしているはずですが、ぜひ外務省にはそれをみせてもらいたいとも思います。

別に、全てを外部の基準に合わせろというのではありません。また、中国や韓国に対して憤懣をもつひとが、この数年で急速に日本に多くなったことは理解しています。しかし、「そんなつもりはない」とか「詳しいことを知らないのに勝手なことを言うな」という反応をして、「首相が参拝するのは当たり前だ」という内輪だけで分かる意見を言い合うのは、極端な言い方をすれば、第三者の視線を無視して電車で座り込む若者グループと同じです。少なくとも、成熟した大人のすることではありません(もっとも、最近では50歳代以上でも他人の視線を気にしない、全く尊敬できない年長者も多くなりましたが)。意見をもつ自由は、他者が意見をもつ自由を尊重して、初めて認められるべきものです。言いっぱなしの主張は、決して国際的に受け入れられるものではありません。

「個人」「人格」を表す英語パーソン(person)は、「仮面」を表すギリシャ語のペルソナ(persona)からきています。古代ギリシャの悲劇、喜劇で役者がつけた仮面は、それをつけることで、観客からみてその役者が誰かになりきることを意味しました。つまり、人間は社会のなかで、なにがしかの役割や立場にあり、いわばその「役割」を演じることで初めて「人間」足り得るという思想がそこにはあります。「攻撃的で、他者からの評価を気にしない」という「仮面」をつけることが、国際社会という社会における日本という「人格」にとって、決して好ましくないことは確かといえるでしょう。


窮迫の25年:覇権国・米国の憂鬱

冷戦が終結した1989年から、25年目を迎えました。冷戦終結当時、世界は−少なくとも西側先進国は−ある種の昂揚感ユーフォリアに包まれました。第二次世界大戦後の世界を覆っていた重石が取れた。これで世界は平和になる。多くの人がそのように感じていたように記憶しています。

しかし、その後の25年間を振り返ってみたとき、そのユーフォリアが一過性のものであったことは、改めて言うまでもありません。2014年を迎えた現在、世界は暗雲で覆われています。昨年一年間を振り返れば、世界各地でテロが横行し、新興国の台頭によって大国間のバランスは流動化し、世界金融危機の影響から抜けきれない国も多く、さらに多くの国では政府などに対する抗議運動が絶えません。なぜ、世界はこれほどまでに不安定化したのでしょうか。

米国のリーダーシップの衰退

これを眺めたとき、まず見過ごせないのは、米国のリーダーシップが長期的かつ相対的に揺るぎ始めていることです。2013年9月24日、国連総会の演説で、オバマ大統領は「世界におけるリーダーシップの真空」を告白しました。現役の米国大統領自身が、それを満天下のもとで認めたことの意味は重大です。

昨年一年を振り返ってみても、大きなところでいえば、例えば8月に発生したシリアにおける化学兵器の使用が、自ら設けた「レッドライン」を超えるものであることを認めながらも、最終的に米国は介入しませんでした。介入そのものの良し悪しは一旦置いておきます。ここで重要なことは、中ロの反対や同盟国の消極的反応という条件があったにせよ、米国が自ら世界に打ち出した「大量破壊兵器の使用は許さない」という原則が守られず、しかも世界の多くの人がそれを目撃したことです

もう一つあげるとすれば、10月には連邦議会の上下両院で、民主党と共和党がオバマケアをめぐって対立した挙句に暫定予算案で合意できず、一部の連邦政府機関が閉鎖に追い込まれデフォルトの危機すら懸念される事態に陥ったことです。最終的に暫定案が発効したのは10月17日。この間、国内政治に追われたオバマ大統領は、10月4日に開かれたAPEC首脳会議も欠席するなど、国際的に信用を失墜させることになりました。

米国の軍事力、経済力に対する不信感を招く事態が相次ぐことに、米国の内部からも「米国は世界が『米国中心主義』」から離脱する傾向を受け入れるべき」という論調が出ています。なかでも、世界的に名の知れた雑誌『フォーブス』が毎年行っている「世界で最も影響力のある人」ランキングで、今年の一位が、アサド政権に化学兵器の放棄を同意させ、シリアをめぐる膠着状態をひとまず収束させたプーチン大統領だったことは、米国内部の気運を象徴します。

リーダーシップの衰退 ≠ 米国が大国でなくなった

米国の国際政治学者イアン・ブレマーは、中心的な役割を果たせる国がない世界を「Gゼロ」と表現しました。ブレマーによると、西側先進国なかでも米国の国際的なリーダーシップが衰え、新興国との協力が不可欠になりながらも、これらが(例えば温室効果ガス排出規制のように)国際的な責任を負うより自らの国内開発に関心を集中させ、結果的にどの国も国際的な政治・経済体制を構築・制御できない世界になった、というのです。少なくとも昨年一年を振り返ったとき、Gゼロ論は説得力があるといえるでしょう。

ただし、基本的にGゼロの視座を受け入れるとしても、留意しなければならないことが3点あります。

第一に、単純な事実として、米国はいまだ世界で抜きんでて大きな力をもつことです。図1は、各国、各グループのGDPの世界全体に占める比率を示しています。ここから見て取れるように、冷戦終結後の世界において、米国のGDPは全体の25パーセント前後を推移しており、ほぼ横ばいといっていいでしょう。

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次に図2は、2012年度の値で比較した、上位20カ国の軍事予算です。ここからは、やはり冷戦終結後、米国の軍事予算は上位20カ国の合計の約40パーセントを占め続けてきたことが分かります。対テロ戦争で苦戦している印象が強いとはいえ、正規軍同士で正面からぶつかった場合、米軍に勝てる軍隊は世界にないといえます。

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しかし、米国自身の経済力、軍事力が大きく衰えているといえない一方で、留意すべき第二点目としていえることは、−矛盾しているようにみえるかもしれませんが−その圧倒的な優位は相対的に低下しつつある、ということです。図1、図2のいずれからも、中国をはじめとする新興国の台頭は、今更ながら、はっきり確認できます。

新興国の台頭は、1990年代の世界規模での市場経済化によって加速しました。それまで先進国企業を大規模に誘致し、工業化を推し進め、輸出で外貨を獲得して経済成長を図るスタイルは、韓国、シンガポール、台湾など、アジアNIES(新興工業経済群)と呼ばれる一部に限られていました。しかし、冷戦終結後、西側先進国なかでも米国が熱心に推し進めたグローバルな市場経済化により、生産拠点の移動は当たり前となりました。そして、グローバルな市場経済化の恩恵を最も受けたのが中国やインドだったことは、多くの人が認めるでしょう。

つまり、新興国の台頭は、いわば米国をはじめとする西側先進国によってもたらされた側面があるといえます(後述)。いずれにせよ、新興国なかでも中国の追撃があまりに急激であることにより、米国自身の力に大きな変化がなくても、そしてむしろ科学技術や経済で世界をリードしながらも、そのギャップが縮小し、結果的に米国が「一人勝ち」の世界でなくなりつつあるのです。

そしてこれに関連して第三に、米国のリーダーシップの衰退には、経済・軍事的に同盟国が停滞してきたことに由来する側面がある、ということです。世界において中国など新興国が経済、軍事の両面で比重を増すなか、先ほどみたように米国はいずれもほぼ横ばいですが、米国以外の先進国の比重は縮小する傾向が顕著です。「米国以外の先進国」には、もちろん日本も含まれます。

このデータにおける「先進国」とは、経済協力開発機構(OECD)加盟国のうちの高所得国を指します。OECDは大戦終結直後の1948年に設立された、ヨーロッパの経済復興を支援する「マーシャル・プラン」の実施主体「欧州経済協力機構」(OEEC)を母体とします。すなわち、そもそも「先進国」というカテゴリーは単に所得水準だけでなく、政治的な立場をも含意するのです。この観点から先ほどのデータを振り返れば、経済・軍事の両面で世界レベルの比重を下げているのは、米国ではなく、その同盟国となります。言い換えれば、西側先進国の陣営は、米国を除く多くの国が新興国の台頭に押されているのです。

この状況は、以前のように、米国を中心とする西側先進国の、グループとしての圧倒的な経済力・軍事力で世界をリードすることが困難になったことを意味するため、結果的には米国の影響力は低下せざるを得ません。ブレマーが指摘した、そしてオバマ大統領が演説で認めた米国のリーダーシップの衰退には、同盟国の相対的な衰退によるところがあることは確かでしょう。

冷戦終結からの米国の歩み:絶頂期

しかし、その一方で、「米国のリーダーシップの衰退」は、日本を含む同盟国にいわば「足を引っ張られた」だけが原因とはいえません。米国のリーダーシップは、米国自身によって損なわれた側面があることが否定できません。これを考える際にまず、米国と他の主だった国や地域との関係をみていきます。

冷戦終結後の1990年代、米国はまさに「我が世の春」だったとさえいえるかもしれません。1991年の湾岸戦争では、安保理決議を経た正統な軍事行動としてイラク軍をクウェートから放逐し、一つの成功モデルを確立しました。同じく1991年、ソ連が崩壊し、その国際的な立場を継承したロシア連邦を1998年までに段階的にG8(主要国首脳会議)の一国として迎えることで、憂いを和らげました。経済面では、折からの情報技術革命によって、クリントン政権期(1993−2000)の平均GDP成長率は3.89パーセント(世銀データベースで算出)と、成熟した経済大国としては異例の成長を実現させました。

この間、白人警官による黒人への集団暴行事件をきっかけとするロサンゼルス暴動(1992)、ソマリア内戦への介入の失敗(1993−95)、クリントン元大統領の女性スキャンダル(1998)、そしてコソボ内戦に対するNATOの介入と中ロの反発(1999)などはあったにせよ、米国の国際的なリーダーシップは総じて安定的だったといえます。

まず、同盟国であるヨーロッパ諸国は、やはり冷戦の「勝利」のユーフォリアにあり、さらにマーストリヒト条約(1992)によるEU統合という歴史的な大実験に忙殺されるようになり、市場開放を推し進めようとする米国への警戒感をみせながらも、その関係を再考する切迫した必要に迫られていませんでした。

一方、1990年代、米国はソマリア内戦での経験を踏まえて、海外での軍事行動に安保理決議を経ることを常態化させましたが、コソボ内戦などを除けば、中ロが拒否権を発動することは稀でした。ソ連崩壊後のロシアは、市場経済化の過程で急激なインフレに陥り、アジア通貨危機(1997)の影響もあり、1993年から2000年までの平均GDP成長率はマイナス2.06パーセントを記録。この状況下、エリツィン大統領はクリントン大統領との友好関係を頼りとしていました。そして、中国はやはり1993年から2000年までの平均GDP成長率が10.14パーセントを記録し、爆発的な成長を実現させていましたが、この段階では先進国からの投資への依存度が高かったうえに、江沢民国家主席(任1993−2003)が米国との友好関係を優先させたことから、大きなトラブルは発生しませんでした。

リーダーシップの転機:絶頂から暴走へ

ところが、2000年代に入ると、米国のリーダーシップに大きな疑問符がつくことになりました。「対テロ戦争」、なかでも米国同時多発テロ事件(2001)への報復としてのアフガン攻撃はともかく、「フセイン政権が大量破壊兵器を保有している」という情報に基づいて行われたイラク攻撃(2003)は、その決定的な契機となりました。

当時、コンドリーザ・ライス国務長官は「マンハッタンにきのこ雲が上ってからでは遅い」と力説し、フセイン政権から国際テロ組織に核兵器が渡り、それが米国本土で炸裂するという最悪のシナリオを回避するためとして、イラクへの攻撃を正当化しました。「危険を事前に除去するための防衛的措置」は「予防先制」と呼ばれましたが、これは(1)確証の乏しい情報に基づいていたこと、(2)仮にイラクが大量破壊兵器をもっていたとしても、それを理由に米国が攻撃してよいという国際法上の根拠は乏しいこと、(3)米国の安全と主権のためなら、他国の同意や権利、さらに国際的なルールも度外視する一国主義/ユニラテラリズム(unilateralism)に基づいていたこと、などの問題をはらんでいました。

そのため、安保理でフランスやドイツが強硬に反対し、バチカンなども懸念を示したのですが、結果的に米国は「イラクが国連の大量破壊兵器の査察に応じず、安保理決議に違反を続けた場合、イラクに対して『重大な帰結をもたらし得る』」という、きわめて曖昧な表現の安保理決議1441(2002.11.8)を根拠にイラクを攻撃。それが9.11後の米国民全体のパニックを背景としたことを斟酌するとしても、これが米国の国際的評価に大きな傷をつけたことは確かです。

これを期に、ヨーロッパ諸国と米国の「大西洋同盟」に隙間風が目立つようになりました。イラク攻撃に付き合った英国、スペイン、ポーランドなどでも、自国軍兵士に死傷者が増え、さらにマドリード(2004)やロンドン(2005)で大規模なテロが発生するに及んで、アフガンやイラクからの早期撤退を求める世論は高まったことは、不思議ではありません。米軍のグアンタナモ基地における「捕虜」(米軍は捕虜ではなくテロリストという犯罪者と位置付けている)虐待もまた、人権規範に敏感なヨーロッパで米国への違和感を大きくするものでした。

その結果、ブッシュ政権(2001−2008)の末期に至るまで、フランス大統領やドイツ首相との個別の会談は、ほとんど行われなかったのです。2008年大統領選挙でオバマ陣営の外交問題顧問を務めた政治学者のズビグネフ・ブレジンスキーが、2009年初頭の論文のなかで、オバマ大統領の課題としてヨーロッパ諸国との関係改善を強調したことは、示唆的です。

原理の使い分け

少なくとも公式には、ヨーロッパ諸国が概ね人権や国際法を尊重する観点から米国主導のリーダーシップに疑問を呈したのですが、これに対して中ロは米国と、少なくとも「対テロ戦争」の初期においては、極めて友好的な関係を築いたといえます。ウイグル自治区での暴動やチェチェンの武装活動を中ロが「テロリスト」と位置付けたことで、米国ブッシュ政権は両政府による苛烈な鎮圧をむしろ歓迎するようになりました。両国は1999年のコソボ内戦に対するNATOの「人道的介入」以来、米国への警戒感を強めていましたが、「対テロ戦争」が両者の蜜月をもたらしたのです。

人権侵害すら「対テロ戦争」の文脈で正当化された一方、米国政府は「人権」レトリックを用いてイスラームを批判することも稀ではありませんでした。2005年に米国政府が打ち出した「拡大中東パートナーシップ構想」では、中東・北アフリカ諸国の民主化促進が掲げられました。「テロリストが出てこないようにするためには、政治的な対立を暴力を用いずに解決できる民主主義が欠かせない」という論理です。

個人的には、この考え方そのものを支持することに吝かではありません。しかし、問題は中東・北アフリカ諸国の非民主的な政治体制の多くが、リビア、イラン、シリアなどを除いて、石油を確保するため、あるいはテロ組織の台頭を抑えるため、長く米国あるいは西側先進国によって支援されてきたということです。大量破壊兵器が発見されなかった後、米国ブッシュ政権がイラク攻撃の大義を「独裁者を倒したこと」と「中東の民主化」に強引に切り替えたことに鑑みれば、「中東の民主化支援」が自らの不手際を覆い隠すための米国政府のレトリックであったという捉え方も可能です。しかし、いずれにせよ、これがサウジアラビアなど中東・北アフリカの西側寄りの諸国政府からみたとき、米国のご都合主義としてだけでなく、いきなり「梯子を外された」と写ったとしても、不思議ではありません。

その一方で、2000年代以降の米国では、イスラームへの反感が広がりが顕著でしたが、これがイスラーム圏における反米感情をさらに加熱させる契機となりました。2012年9月にはムハンマドを侮辱的に描いた米国映画'Inocence of Muslims' に対する反米デモが、中東・北アフリカだけでなく、南アジアのパキスタン、東南アジアのインドネシア、さらにムスリム系市民の多い英国やオーストラリアなどでも発生しました。「表現の自由」を理由に米国政府が You Tube 上での規制を敷かなかったことは、反米感情の広がりに拍車をかけました

「力」は強いが「魅力」に乏しいリーダー

「人権」と「テロ対策」は両立すべきテーマです。ただし、そのブレンドあるいは配合の仕方には、当然のごとく政府や責任者の価値観が反映されるため、どうしても恣意的なものとならざるを得ません。しかし、むしろ問題は、その両立が恣意的であることより、その配合が当該国の外にある、米国政府の基準で行われる事態があまりに頻繁に発生したことです。言い換えれば、どこまでなら「テロ対策」として認められる、何をすれば「人権侵害」かという基準を、米国政府が声を大にして世界に喧伝するようになったといえます。

この傾向は、ブッシュ政権ほどあからさまでなくとも、国際協調を旨とするオバマ政権でも無縁ではありません。パキスタンなどで行われている米軍の無人機による攻撃は、数多くの民間人の死傷者を出しており、さらには国際法に違反するという批判が寄せられています。これに対して、オバマ政権は無人機攻撃が「合法的」であり、民間人の死傷者も部隊が直接的に活動するより少ないため「倫理的」と主張して譲りませんが、国際的に広く支持されているとはいえません。

「対テロ戦争」は中東、南アジア、北アフリカなどを主な舞台とします。しかし、いまやその活動は世界の多くの人々にみられ、評価されます。そのなかで、「人権」と「テロ対策」の二つの原理を自らの都合で使い分け、さらにそれを他国に強要する米国の姿勢が、好意をもって広く受け入れられるはずはありません

先ほど確認したデータで表される経済力や軍事力は、いわば「力の源」です。しかし、力が大きいだけでは、人はついてきません。リーダーシップを発揮するには、言い換えれば自発的なフォロワーを増やすには、損得計算に働きかけたり、強制力を行使したりするだけでなく、その言葉や行動に「魅力」が必要です。米国が世界中で影響力を発揮できた背景には、経済力や軍事力の大きさだけでなく、それらに裏打ちされた豊かな生活、自由な社会、クリエイティブな文化風土などが、多くの人を引き付けてきたことがあります。文化や価値観によって、強制ではなく、支持や信頼を得られる力を、国際政治学者ジョセフ・ナイは「ソフトパワー」と呼びました。この米国の「ソフトパワー」は、「対テロ戦争」で大きく損なわれたといえるでしょう。同時に、これが米国のリーダーシップを損なった大きな要因であることもまた、疑い得ないところです。

米国の自縄自縛:市場経済と民主主義

米国のリーダーシップが損なわれた2000年代半ば以降、中ロはその間隙をつくように、これまで付き合いの浅かった、言い換えれば米国の影響の強かった地域や国へのアプローチを強めています。中国の場合は2010年のハイチ大地震に対するPKO派遣、ロシアの場合は「アラブの春」で生まれたモルシ政権を打倒したエジプト軍事政権との2013年の安全保障協力協議などが、その典型です。

多くの国にとって、投資の主体や貿易の対象が、別に西側先進国でなければならないというわけでないことは、言うまでもありません。すなわち、新興国の台頭だけでなく、米国が推し進めたグローバルな市場経済化そのものも、米国のリーダーシップを徐々に侵食する要因といえるでしょう。

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同時に、(時に単なるレトリックであったとしても)やはり米国が推し進めた世界レベルでの民主化は、これまた米国のリーダーシップへの懸念材料となる側面があります。図3は、中東各国で2003年に行われた調査の結果です。「イスラームには本質的に自由や民主主義を抑圧する側面があり、これらの普遍的価値を理解させることはできない」という「イスラーム本質主義」が米国で広がった、そしてイラク攻撃が行われた、まさにその年の調査からは、中東各国のムスリムには、国ごとに差はあれ、そして彼らのいう「民主主義」がどのようなものを指していたにせよ、基本的に民主主義の価値を受け入れる姿勢をみせるひとが多かったことが確認されます。

しかし、世界的に民主化を推し進めようとした歴代の米国政府の関係者たちは恐らく理解していなかったかもしれませんが、民主主義の価値観が普及することと、その国が親欧米的になることは、決して同義ではありません。インド、インドネシア、ブラジル、トルコなどにみられるように、国民の投票で選出された政府が、欧米諸国なかでも米国と距離を置いて付き合うことは、珍しくありません。

図3にもあるトルコは、政党政治が定着した、中東で稀な国と位置付けられてきましたが、同国では2002年にイスラームの価値を強調する公正発展党が選挙で政権を獲得しました。そして、トルコでもやはり、'Inocence of Muslims' に対する抗議デモをはじめ、反米デモは頻繁に起こっています。また、エルドアン首相は米国連邦予算が執行できない事態に、「我が国政府は政府職員に給与を支払わなかったことはない」と誇らしげに語ったとロイター通信は伝えています。

つまり、民主主義が普及することは、国民が意見や要望を表現しやすくなることであり、それが結果的に、従来は権威主義体制のもとで覆い隠されていた反米世論を噴出させることすらあるのです。その場合、当該国の政府は、政府間の関係としてワシントンと決定的な対立は避けるにせよ、少なくとも表面的には米国への批判を行いやすくなります。これもやはり、米国自身が推し進めた変化が、米国のリーダーシップを侵食するものといえるでしょう。

覇権国・米国の憂鬱

念のために繰り返せば、米国が世界最大の経済力、軍事力を備えた国であることに、この25年間に大きな変化はありません。一般に超大国(Super power)と呼ばれるものは、国際政治学において覇権国(Hegemon)とも呼ばれます。19世紀の覇権国は、文句なしに、「七つの海を支配した」英国でした。しかし、その英国は20世紀に入る頃、工業生産高で米国に抜かれ、やがてドイツにも抜かれました。英国の圧倒的な覇権が揺らいだことが、そして当時「孤立主義」の原則をとっていた米国が覇権国の座に就く意思をもたなかったことが、二度の世界大戦を引き起こす国際政治環境を醸成する大きな要因となりました。当時の英国と比較すれば、米国はいまだ覇権国と呼べるにふさわしい「力」を備えているといえるでしょう。その意味で、「世界大戦がすぐ発生する」などと煽る必要も乏しいでしょう。

ただし、最大の「力」をもつ米国の、リーダーとしての「魅力」が色あせつつあることもまた確かです。そして、米国のソフトパワーが衰えつつある状況は、次回の大統領選挙でどの候補が勝っても、おいそれと回復できないといえます。日本ではいまだに、米国の大統領制、二大政党制を一般的なモデルと捉えるひとが多くいますが、先進国のなかで米国と同様の政治体制を備えた国はありません。そして、厳格な三権分立に基づく大統領制と、イエス・ノーを明確にする二大政党制・小選挙区制は、社会内部の分裂を加速させる契機となります。「キリスト教徒で一定の所得がある白人」という共通項が支配的だった時代と異なり、米国社会内部の亀裂が深刻化している現代は、何らかの国際的な方針を大統領が打ち出すことは、国内政治上のリスクに容易に転化しやすい時代でもあるのです。これもやはり、米国のリーダーシップを制約する一因といえるでしょう。

その一方で、米国を取り巻く国際環境は、もはやほどくことができないほどもつれています。米国自身が推し進めた市場経済化で新興国が台頭し、米国自身が推し進めた対テロ戦争で「人権」と「テロ対策」の齟齬やユニラテラリズムが露わになり、そしてそれに対して米国自身が推し進めた民主化によって、各国における反米世論が噴出しやすくなる。このような行き詰まり、窮迫は米国のリーダーシップが構造的に揺らぎ始めていることを示しています。覇権国・米国が抱える憂鬱は根深いものであり、そのリーダーシップが衰えることに関する評価は様々あるとしても、世界が今後ますます流動化することは確かといえるでしょう。

付記

歴史家で国際政治学のパイオニアの一人と目されるエドワード・カーは、1939年に出版した『危機の二十年』において、第一次世界大戦の終結に当たってヴェルサイユ条約が結ばれた1919年からの20年間を、「危機」と表現しました。この20年間は、一方で国際連盟が創設され、戦争が国際法で取り締まられるようになったり、海軍軍縮条約で主要国間の軍備バランスが確認されるなど、世界平和に向けた取り組みが活発になった時期でした。

しかし、カーはそれらの取り組みが、基本的に'ought to' つまり「〜であるべき」という理想に基づき、制度や法律を整備するのに忙しく、'be' つまり「〜である」という現実認識を欠いたものであったと総括しています。実際、世界恐慌後に「生存圏」を確保するためにドイツ、イタリア、そして日本が行った対外膨張に対して、国際連盟や国際法は無力でした。そして、カーが『危機の二十年』を発行したまさに同じ年、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が幕を開けたのです。

この記事のタイトル「窮迫の25年」は、言うまでもなく『危機の二十年』からヒントを得たものです。

冷戦終結後の25年間は、市場経済化と民主化が世界を覆った時代でした。先ほどもあげたジョセフ・ナイをその嚆矢として、国際政治学では「通商の増加は、国家間の相互依存関係を深めるため、戦争を抑制する効果をもつ」と考えられています。また、それほど幅広く受け入れられているとは言えないにせよ、特に米国の国際政治学の世界では、ブルース・ラセットらによって「民主的な政治体制のもとでは国民の戦争回避の欲求を政策に反映させやすいため、世界レベルで民主主義を普及することが戦争を抑制する」と考えられています。先進国なかでも米国が、冷戦終結後に世界レベルで市場経済と民主主義を広げようとした背景には、政権ごとに濃淡はあっても、これらの発想があったといえます。

しかし、世界がこれまでになく市場経済化と民主化を経験したこの25年間は、果たして世界が平和に向かうプロセスだったといえるでしょうか。それは、カーが言うところの、'ought to' の発想に基づくものでなかったと言い切れるでしょうか。冒頭に述べたように、各地で対立や摩擦が噴出し、大国間の軋轢が顕在化する様相からは、世界全体がある種の行き詰まり、窮迫に向かう趨勢を見出すことができます。これに鑑みたとき、少なくとも市場経済と民主主義に世界平和に関する万能の効能を期待することはできません。

しかし、ただの悲観主義に陥ることは、単なる楽観主義と同様に戒めるべきでしょう。後世の一般的な評価において、カーは理想を語らず、現実を直視することの重要性を説いた「リアリズム国際政治学」の始祖の一人と目されます。しかし、『危機の二十年』からは、カーの別の側面を見出すこともできます。

「リアリズムが、ユートピアニズムの繁茂するさまを抑える矯正のはたらきとして必要とされる段階があるのであり、同じように他の時点ではユートピアニズムが、リアリズムのもたらす不毛な結果を防ぐために呼び出されなければならないのである。未成年の思考は、どうしても目的にむかって走りがちとなり、いきおい際立ってユートピア的となる。とはいえ、目的を全くしりぞける思考は、老齢の思考である。成年の思考は、目的を観察および分析と化合させる。こう考えると、ユートピアとリアリティとは、政治学のもつ二つの様相である。健全な政治思考と健全な政治生活とは、ユートピアとリアリティとがともに適切な在りようをとるところにのみ見出されることになる」(日本語訳:井上茂『危機の二十年 1919-1939』、岩波書店、34-35頁)。

カーの指摘を踏まえて現代を振り返ると、市場経済や民主主義に関するアプリオリな楽観主義と、逆にこれらに対する単純な悲観主義は、いずれもとるべきでない道といえるでしょう。特に後者の場合、いかに万能でないとはいえ、市場経済や民主主義を捨てることがよいことなら、北朝鮮が世界で最も素晴らしい国となります。すなわち、市場経済や民主主義は基本的に不可避の原理であり、重要なのは、これらが社会の不安定や国家間の摩擦、さらに国際的な秩序の崩壊を引き起こすことを抑制するための規制や管理を、どこまで認めるかということです。そして、それに関する'ought to' を探るためには、'be' を知るところから始めるべきことを、現代の我々にカーは説いているように思えてならないのです。


南スーダンにおける内乱:自衛隊PKOの試金石か

2011年にスーダンから分離独立を達成した南スーダンで、戦闘が激化しています。12月15日、首都ジュバで軍の一部が蜂起し、これを鎮圧しようとした部隊との衝突を皮切りに、19日には要衝ボルが反乱部隊によって制圧されました。既に多くの市民に犠牲が出ている他、米国人の救援にあたっていた米軍機が被弾するなど、深刻化する事態に、米国のオバマ大統領や国連の潘基文事務総長が相次いで憂慮を示しています。さらに、同国で油田開発などに携わっている外国人も相次いで退避しています。

南スーダンが全面的な内戦に陥った場合、それは独立したての南スーダンの将来に悲観的な前途を予感させるだけでなく、地域一帯の不安定化を促すことも懸念されます。のみならず、南スーダンの問題は、日本のアフリカ政策や国際協力にも深く関わるといえます。

南スーダンの内乱:キールとマシャール

先述のように、南スーダンは2011年7月に、スーダンからの分離独立を達成しました。この独立の経緯や意義については、以前に取り上げた通りです。ただし、そこで懸念として触れていたことが不幸にして結果的に当たってしまったのですが、今回の内乱は「南スーダンのスーダン化」と言えます。

もともと一つだった頃のスーダンは、北部にアラブ系ムスリムが多く、南部はアフリカ系キリスト教徒が中心で、人口に勝る北部が南部を支配する構図が定着していました。北部のイスラーム政権を率いるアル・バシール大統領が、イスラーム法を強制するなどしたこともあり、南北間での内戦が激化。結局、2005年1月にアル・バシールと、南部の解放闘争を率いたスーダン人民解放戦線(SPLA)ジョン・ギャラン指令の間で、即時停戦や6年間の暫定統治の後に独立の賛否を問う住民投票を行うことが合意されたのです。

この合意に基づき、スーダン南部では2011年1月に住民投票が行われ、7月に独立を達成しました。しかし、これにともない初代大統領に就任したのは、ギャラン氏ではなく、サルヴァ・キール氏でした。ギャランはバシールとの合意から間もない2005年7月、ヘリコプター事故によって死亡していました。この事故には陰謀説も飛び交いましたが、真偽は不明です。いずれにせよ、ギャランの跡を受けてSPLAを率い、初代大統領となったキールは当初、地域ごとのバランスに配慮した政権を樹立しました。そのなかで、副大統領に就任したのが、今回の内乱の一方の当事者となったリエク・マシャール氏でした。

ゲリラ組織の離合集散:その後遺症

マシャールは英国ブラッドフォード大学で哲学の博士号も得たインテリで、ギャランとともにSPLAを率いた経験も持ちます。しかし、スーダン全土を南部中心の国とするか、南スーダンとして独立するかといった路線の対立だけでなく、ディンカ人のギャランとヌエル人のマシャールというエスニック(民族、部隊)な対立も顕在化し、1994年にマシャールは一度SPLAから脱退しています。【Feyissa, Dereje (2011). Playing Different Games: The Paradox of Anywaa and Nuer Identification Strategies in the Gambella Region, Ethiopia. Berghahn Books.】

その後、マシャールはヌエル人主体のゲリラ組織・南スーダン防衛軍(SSDF)を結成し、北部に対する武装活動を展開しましたが、2002年にSSDFを率いて再びSPLAと合流。独立にともない、SPLA内部での実権を固めていたギャランの後継者で、やはりディンカ人のキールを補佐する形で、副大統領に就任したのです。

この経緯が示すように、キールとマシャールは、同じSPLAに所属しながらも、基本的には別の派閥で、しかもマシャールが旧SSDFメンバーに支持されていることからも、必ずしも良好な関係ではありませんでした。その冷たい対立が火を吹いたのは、今年7月にキール大統領がマシャール副大統領を含む閣僚を一度に罷免したことでした。マシャールはこれを「キールの独裁化」と非難。一触即発の状況下、軍内部のマシャール派による蜂起により、今回の武装衝突に至ったのです。

「南スーダンのスーダン化」

周知のように、アフリカの国境線は、19世紀のヨーロッパ列強の植民地化によって引かれた境界線をもとにしています。南スーダンの独立は、初めてこれを変更したもにであり、その意味で世界史的に意味があります。

一方で、かつてスーダン内部であった人種、宗派間の対立が、南スーダンにあってはエスニックな対立に置き換えられていると言えるでしょう。これらの文化的な差異が対立に至る背景には、政治権力が経済的利益に転換する構造があります。南スーダンは産油国で、かつてのスーダンにあった油田の約8割を抱えます。

石油などの資源が出ることが、政府収入とともに汚職を増加させ、さらに権力者が物質的利益で自らの支持者を囲い込む一方で、自らに敵対的な集団を強権的に抑え込む傾向を強くすることは、「資源の呪い」と呼ばれる現象の一環です。キール大統領の閣僚罷免は、この文脈から理解されます。また、蜂起から間もない22日、マシャール派の部隊が油田地帯のユニティ州(今の南スーダンに鑑みてなんと皮肉な名称か)を制圧したことも、偶然ではありません。いずれにせよ、南スーダンの対立は、異なるグループ同士の政治的、経済的利害をめぐる対立という意味においてかつてのスーダンと同様であり、それがここでいう「南スーダンのスーダン化」なのです。

日本にとっての南スーダン

一方、南スーダンの問題は、日本にとっても無縁ではありません。自衛隊は2008年10月から、当時のスーダン南部で展開していた国連スーダン・ミッション(UNMIS)に要員を派遣しており、現在は陸上自衛隊の330 名規模が施設部隊がジュバに駐留しています。

本来、PKO部隊の派遣は、防衛省・自衛隊の管轄です。しかし、その他のPKOミッションと同様に、そしてその他のPKOミッション以上に、南スーダンへの部隊派遣は外務省の強い要望によって実現しました

もともと、自衛隊のPKO参加の第一号である1992年の国連カンボジア暫定機構(UNTAC)への派遣は、その直前の湾岸戦争(1991)で憲法上の理由から部隊を派遣せず、130億ドルを拠出したにも関わらず、国際的にほとんど評価されなかったことのショックから、外務省が推進して決議された1992年の国際平和維持活動協力法に基づくものでした。さらに、この背景には、やはり1990年代の初頭から外務省が掲げた、国連改革と安全保障理事会常任理事国入りという目標がありました。そこには、安保理常任理事国となる、言い換えれば政治大国を目指すためには、「カネだけでなくヒトも出す」必要がある、という認識があった(ある)と言えるでしょう。

安保理常任理事国入り問題はさておき、紛争地帯の安定に寄与することは国際社会の安定に欠かせず、引いては日本の安全にも関わるという意味において、PKO派遣そのものの意義はあると思います。ただし、自衛隊の場合は武器使用の制限が他国以上に厳しく、現場レベルでの活動に制約があります。2001年の法改正で、従来の「要員の生命保護のための必要最小限の武器使用」だけでなく、「自己の管理下に入った者(例えば避難民など)」や「武器、弾薬などの防護」のために武器が使えるように基準を緩和しました。しかし、他国の(PKO部隊を含む)軍隊への攻撃に対して自衛隊の部隊が反撃することや、離れた場所にいる文民を保護するために駆けつけて武器を使用することは認められていません

このため、自衛隊の部隊は停戦監視と治安維持というPKO本来の目的を遂行することが困難です。今年1月のアルジェリア人質事件の後、自民、公明両党は自衛隊法の改正提言をまとめましたが、その際にも武器使用基準は最終的に維持されました。この観点から、自衛隊のPKO派遣が、戦闘に直面する危険性が比較的少ないミッションや、そのリスクが低い地域への派遣が多く、しかもその任務の多くが物資輸送や道路整備などの復興支援にかかわるものであったことは、不思議ではありません。

ところが、南スーダンは、武器が多く出回っており、さらに近隣には中央アフリカ、ソマリア、ウガンダなど、ムスリム系、キリスト教系を問わずゲリラ組織が跋扈する国が多いため、これまでに自衛隊が派遣されたカンボジアや東チモールなどと比較しても政情が不安定です。そのため、防衛省がこれに難色を示したのですが、他方で治安が悪い土地への派遣ほど対外的なアピール効果が高いことから、外務省はむしろ積極的で、これにより2012年の部隊増派が実現しました。

パッチワークの先にあるもの

今回の武力衝突を受けて、政府は「自衛隊の駐屯しているエリアは概ね平穏」と説明しています。かつてイラクへの自衛隊派遣をめぐり、国会での質疑のなかで「自衛隊のいるところが非戦闘地域だ」と豪語した小泉元首相を思い出してしまうのは、私だけでしょうか。

ともあれ、仮に自衛隊の駐屯しているエリアで戦闘がほとんど発生していないとしても、そもそも現在の南スーダンで安全な場所は、ほとんど想定できません。つまり、いつ何時、自衛隊の駐屯しているエリアやその近辺で戦闘が発生してもおかしくないと言えるでしょう。PKO部隊は積極的に戦闘に関わることを目的としませんが、かと言って襲撃の対象にならないわけではありません。南スーダンでは19日、国連南スーダン派遣団(UNMISS)基地がマシャール派とみられる部隊に襲撃され、インドからのPKO要員が3名殺害されています。

例えば、他の国連PKO部隊が襲撃された場合、あるいは近隣で文民がゲリラ組織に襲われている場合、自衛隊の部隊は国内法を優先させて関与しないべきなのか、それともPKO活動の国際的なスタンダードに従って可能な限り救援に向かうべきなのか。そこに関する議論は棚上げにされたまま、対外的なアピールのための派遣という既成事実だけが積み重ねられてきたのが、日本のPKO派遣といえるでしょう。一番気の毒なのは、判断を縛られながら判断を求められる、現場の自衛官です。政府・外務省はいうまでもないことですが、市民・有権者の側にも、最悪の事態を軽視する、正常性バイアスに近いものがあるのかもしれません。

武器使用に制約が多いのは、いかなる形であれ、現地で戦闘にコミットすることを忌避する思考を背景にするといえるでしょう。しかし、PKO部隊を送り出すということは、例え意図的でなくとも、戦闘にかかわる可能性があることをまず再認識すべきだと思います。対内的なアピールとして武器使用を制限して自衛官の手足を縛りながら、対外的なアピールとしてかつてなく危険な地域に部隊を派遣するという、パッチワークのような対応をしてきたツケが露呈しつつあるのであり、「自衛隊のいるエリアは概ね平穏」と言って済ませられる話ではありません。

そして、これは国際協力全般にとってだけでなく、日本の対アフリカ・アプローチにも関わる問題です。これまで再三取り上げてきたように、アフリカではテロ組織の活動が活発化しています。安倍総理は今年6月のアフリカ開発会議(TICAD V)で、アルジェリアの事件を念頭に、安全保障分野でのアフリカへの協力として、PKO訓練センターへの支援などを通じて、今後5年間に3000名の平和構築にかかる人材を育成することなどを約束しました。そこでは明言されていませんが、この地へ急速に進出する中国を念頭に、アフリカにおける国連PKOミッションへの参加も増える可能性は小さくありません。すなわち、同様のデッドロックが今後ますます増えることは、容易に想像されるのです。これらに鑑みれば、南スーダンでの内乱は、今後の自衛隊PKO派遣や対アフリカ・アプローチを占う試金石でもあると言えるでしょう。


中央アフリカ軍事介入の構図:フランスの対アフリカ政策に関する覚え書き

 12月6日、かねてからフランスが国連安全保障理事会に提出していた、内戦と人道危機が深刻化する中央アフリカ共和国へ軍事介入する決議が採択され、フランス軍1200名とともにアフリカ各国から3600名の兵員が派遣されることになりました。国連決議を受けて中央アフリカに展開したフランス軍は、散発的な戦闘に直面しながらも、概ねスムーズに首都バンギをはじめとする各地の治安を回復させ、反体制派の武装解除も始まりました。

 フランスがアフリカで軍事活動を行うことは、稀ではありません。しかし、今年に入っての事例は1月のマリに続いて二度目で、以前と比べて頻度が高くなったことは確かです。フランスはなぜ、アフリカでの軍事活動を活発化させているのでしょうか。また、そこにはどんな意義や問題があるのでしょうか。

 これらを考えるにおいて、まず中央アフリカの状況についてみておく必要があります。なぜ、中央アフリカには各国部隊が派遣されることになったのでしょうか。

中央アフリカの政情不安
 世界銀行の統計によると、中央アフリカの一人当たりGDP(2005年平価)は約369ドル。サブサハラ・アフリカ平均の約992ドルを大きく下回ります。一方、2000年から2012年までのGDP成長率の平均値が、サブサハラ・アフリカで約4.7パーセントなのに対して、中央アフリカは約1.2パーセント。中央アフリカでは金やウランが採掘されますが、アフリカのなかでも所得が低く、さらに目立った成長も実現していないのです。

 この経済停滞は、中央アフリカの歴史を彩ってきた政治的混乱と並行して生まれてきました。1960年に独立して以来、中央アフリカでは4度のクーデタが成功し、軍事政権が樹立されては−例えその間に一時的に民主政に移行したとしても−さらに別の軍事政権が樹立されるという悪循環が続いてきました。その間には、1966年のクーデタで政権を握ったボカサ参謀総長が1976年に「中央アフリカ帝国」の樹立を宣言し、皇帝に即位するという奇怪な出来事すら発生しています。

 同国の政治的な混乱は、冷戦終結後のアフリカ諸国を覆った、欧米諸国からの民主化圧力にさらされてからも続きました。1991年、当時のコリンバ大統領(1986年のクーデタで政権を握った)が憲法を改正し、複数政党制が憲法に明記されました。新憲法に基づいて1993年8月に行われた大統領選挙で、野党系のパタセ候補が当選したのですが、1996年4月には給与の遅配に不満を募らせた一部兵士による反政府・反大統領の抗議運動が勃発。同年11月には軍の一部が蜂起し、鎮圧に失敗したパタセ政権の要請に基づき、1998年4月には国連PKO(平和維持部隊)が派遣される事態となったのです(後述)。

 治安が一時回復したことを受け、1999年9月に実施された大統領選挙では、パタセ大統領が再任。そのうえで2000年2月に国連部隊は撤退し、中央アフリカに平穏が戻ったかにみえました。

 ところが、2001年11月には、再び軍事衝突が勃発。国際的な監視に基づいて実施されていたとはいえ、選挙で不正が横行するなど、中央アフリカでは他のアフリカ諸国と同様、選挙で権力を掌握したパタセ大統領が独裁化する傾向をみせていました。そして、やはり(必ずしも多くでなくとも)いくつかのアフリカ諸国でみられるように、政府に批判的な軍隊をけん制するために大統領が個人的な軍事組織を編成したことが、軍隊との関係をより悪化させる契機となりました。2001年の軍事衝突は、パタセ大統領に批判的なボジゼ元参謀総長が率いる部隊と、大統領親衛隊の間で発生したのです。

 結局、2003年3月にボジゼ元参謀長は権力を掌握。翌年には憲法を改正し、さらに2005年には大統領選挙が実施され、ボジゼ新大統領が誕生したのです。その後、2011年の大統領選挙でボジゼ大統領は再選されました。しかし、ボジゼ大統領もやはり、恣意的な選挙運営や反政府勢力の強権的な取り締まりなど、歴代大統領がみせた兆候と無縁ではありませんでした。さらに、2000年代のアフリカが「最後のフロンティア」として域外国からの投資に沸き、急激に成長したのと比べて、冒頭で示したデータからうかがえるように、ボジゼ大統領の任期中の中央アフリカでは、経済停滞が顕著だったと言わざるを得ません。

 経済成長や貧困削減に目立った成果が出ず、汚職が絶えないなか、ボジゼ退陣を求める武装勢力が結集し、2012年9月にセレカ(サンゴ語で「同盟」の意味)が設立されました。中央アフリカでは人口の約70パーセントがキリスト教徒といわれますが、セレカは少数派のムスリムがほとんどです。内戦後のリビアなどから武器や人員が流れ込み、兵力を増したセレカは、2012年12月に主な都市を占拠するに至ったのです。

 今年1月、中部アフリカ10ヵ国が加盟するECCAS(中部アフリカ諸国経済共同体)の仲介のもと、ボジゼ大統領とセレカは、セレカのメンバーを軍に編入することなどを条件に停戦を合意。しかし、3月にはセレカが「停戦合意が守られていない」と主張して攻撃を再開。ボジゼ大統領は亡命し、3月25日にセレカのリーダー、ミシェル・ジョトディア氏が暫定大統領に就任したのです。

 これをフランスや周辺国は批判。4月3日に隣国チャドで開催されたアフリカ諸国の会合では、ジョトディア氏を正式の大統領と認めず、18ヵ月以内の選挙実施を求めることが確認されました。ジョトディア氏はこの要求を受け入れ、選挙実施を協議するために、セレカ以外の勢力も含んだ暫定議会を設置。さらに、18ヵ月以内に実施される大統領選挙に自身は立候補しないことを明言したのです。これらはフランスおよび、フランスと連携した周辺のフランス語圏諸国からの外交圧力を受けた対応といえるでしょう。

 ところが、もともとゲリラ組織の連合体であるセレカは、上層部の意向と関係なく、末端兵士がボジゼ派などとの間での戦闘を継続したばかりか、民間人への襲撃も頻発。8月には国連安保理が「中央アフリカは完全な無秩序状態に陥りつつある」と警告しています。ジョトディア政権は9月にセレカ解体を発表しましたが、メンバーのほとんどがこれを拒絶し、略奪や虐殺はさらにエスカレート。国連の一部などでは「大量虐殺(ジェノサイド)」の表現が用いられ始め、さらに約40万人が避難民になるなど、状況が極度に悪化するなか、今回の軍事介入が決定されたのです。

「人道的介入」の是非
 少なくとも今回の中央アフリカの場合、それを「大量虐殺」と呼ぶかどうかはさておき、多くの人が死傷していることと、ジョトディア政権がセレカに対するコントロールを失ったことは確かです。民間人に対する蛮行を制止するために外部が関与することは、人道的な観点から必要でしょう。そして、当該国の「国家元首」であるジョトディア氏が一応同意し、さらに国連安保理での決議を経ている以上、フランスやアフリカ諸国が部隊を派遣することは全く合法的なものです。

 とはいえ、「人道的」な目的のために、「合法的」な手続きにのっとって実施される介入であっても、問題がないとは限りません。

 冷戦終結後の1990年代、旧ユーゴスラヴィアやルワンダなど世界各地で発生した民族紛争に対して、欧米諸国は「人道的介入」と称した軍事介入を行いました。「(個人が人権をもつように)各国はそれぞれ国家としての主権をもつがゆえに、立場上対等である」という主権概念と、ここから生まれる「いずれかの国が他国に優越することはないのだから、他国の内政についてどの国も関与してはいけない」という内政不干渉の理念は、近代国際政治の大原則です。しかし、国家主権と内政不干渉を強調することは、他国で発生している非人道的な行為に関しても、何もできないことになります。「人道的介入」は、「人権、人道の観点から、国家主権を場合によっては無視することもやむを得ない」という発想に基づきます

 しかし、問題は「場合によっては」という部分です。つまり、誰が、どうやって、この「場合によっては」を判断するかの明確な基準はありません。したがって、実際に介入する側、あるいは介入を主張する側の恣意によって、「介入の是非」が左右される部分があることは確かです。

 それは、フランスとアフリカの関係からもみられます。フランス語圏のルワンダでは、1990年に発生した内戦の最終局面として、多数派のフツ系住民と少数派のツチ系住民がお互いに殺しあう事態が発生しました。このルワンダ大虐殺(1994)に対して、しかし国連は米英が関与に消極的だったこともあり、フランス軍の「人道的な関与」を認めるにとどめました。これを受けて、フランスは「トルコ石作戦」と銘打った介入を行い、フランス軍が「人道ゾーン」を設置して文民の保護を図りました。

 しかし、実際に「人道ゾーン」が設置されたのは、むしろフツ系住民の多いエリアで、ツチ系住民の多くは、この介入によって安全を確保されることはありませんでした。さらに、フツ系の民兵が人道ゾーンを通じて近隣諸国へ逃亡することを容易にしたほか、フツ系民兵による蛮行は人道ゾーン内部でも発生したといわれます。このアンバランスな対応の大きな背景としては、フランス政府がそれまでフツ系政府との友好関係をもち、これがルワンダ国内でのフランス企業の操業と連動していたことがあげられます。つまり、ルワンダ内戦へのフランスの関与は、そのタイミングでどちらが被害を受けているかではなく、それまでの関係に基づき、フツに肩入れするものであったといえるでしょう。これは、介入する側のそれまでの関係性において、保護される者とそうでない者が分かれた一つの事例です。

一歩引いたアプローチへのシフト
 1990年代、フランスはそれまでのアフリカにおける立ち位置の修正に迫られていました。ルワンダ内戦への不可解な関与はその一例ですが、のみならず中央アフリカもまた、「アフリカの憲兵」としてのフランスの役割を再考させる契機になりました。

 中央アフリカでは1996年から国軍の一部、約100人が反乱を起こし、国営ラジオ局を占拠して大統領親衛隊と衝突しました。これは、アンドレ・コリンバ大統領(任1981−93)が打ち立てた、ヤコマ人など南部出身者を優遇する政権が、1993年大統領選挙における、北部出身のサラ人であるアンジュ=フェリクス・パタセ(任1993−2003)の勝利にともなって崩壊したことへの反発が一因となりました。つまり、南北間のエスニック対立が大きな背景となったのです。

 ともあれ、パタセ大統領の辞任を要求する反乱に対して、フランスは1600名ともいわれた在留フランス人の保護を目的に、在留フランス軍を2300名まで増派しました。ところが、フランスはパリでの留学経験をもつアフリカ人エリート層と緊密な人的ネットワークを構築し、当該国政府と深い関係を築くスタイルを長年とってきたのですが、この場合はコリンバ派ともパタセ派とも友好関係があるため、中立での関与を余儀なくされたのです。その結果、フランスはコリンバ派からもパタセ派からも敵視されるに至り、結局フランスは単独での事態収拾をあきらめ、1997年2月に周辺のフランス語圏(ガボン、ブルキナファソ、マリ、チャド)の部隊で構成される、800名規模のアフリカ諸国間バンギ合意監視団(MISAB)を指導するポジションにつきました。さらに、MISABは翌1998年4月に解消され、これに代わってナイジェリア人を司令官とする国連中央アフリカ共和国ミッション(MINURCA)が派遣されました。「アフリカの紛争はアフリカで解決するべき」というのは、当時のコフィ・アナン事務総長の方針でもありましたが、中央アフリカで手を焼いたことが、フランスの対アフリカ政策を見直す一つの契機になったといえるでしょう。

 ルワンダや中央アフリカの経験を経て、1990年代の末以来、フランスは駐留フランス軍の縮小や簡素化を柱に、それまでの家父長的といっていいアプローチを改めるようになりました。中央アフリカで、単独での対応からフランス語圏を中心とするMISABの編成・支援に役割をシフトさせたことは、その典型です。また、その後はフランス語圏のみならず、英語圏諸国も含めて、アフリカ各国の軍隊に対する共同演習やPKO訓練なども行われるようになりました。

 とはいえ、フランスがかつてのヨーロッパ植民地勢力のなかで、唯一アフリカに兵力を駐留させる国であることはかわりありません。深い経済的な結びつきを反映して、現在アフリカには約24万人のフランス人が居住しています。これを保護するため、フランス軍は(いわゆる外人部隊を含めて)約1万2000人の兵員をアフリカに駐留させています

再び積極的アプローチへ
 このような背景のもと、今回の中央アフリカの場合も、2012年12月の段階でオランド大統領は「フランスがアフリカ各国の体制を支える時代は終わった」と述べるなど、フランス政府は直接的な関与に必ずしも積極的ではありませんでした。これが一
転して介入に転じた背景には、いわば大義が揃ったことがあげられます。

 必ずしも自由かつ公正なものであったとは言いにくいですが、一応選挙で選出されたボジゼ大統領が亡命を余儀なくされたことは、欧米諸国が冷戦終結後にアフリカ諸国に求め続けてきた、民主主義に反します。これらを踏まえて、フランス国内では、今回の介入が「かつての独裁者を支援するためのものとは違う」という意見も聞かれます。

 第二に、あまりにも無軌道な殺戮が相次ぐことは、人道に反します。フランスの国連大使などが、再三ジェノサイド(大量殺戮)の疑いを強調することは、介入の大義を保全するという観点からも理解できます。

 第三に、セレカがイスラーム中心で、しかもリビアなどから兵器や人員が流入していることは、反テロの観点から好ましくありません。1月のマリへの介入も、同様の文脈で捉えることができます。

 第四に、そして最後に、現地からの要請です。昨年12月、セレカの攻勢を前にして、首都バンギにあるフランス大使館の前では、危機感を抱いた市民により、「軍事介入しないこと」への抗議デモすら発生したことや、介入後のフランス軍が行く先々で歓迎される様子を伝えるフランスAFPの報道は、これを印象付けています。

 ただし、これらの大義の陰に、フランス自身の利益があることもまた否定できません。中央アフリカからみて、フランスは最大の貿易相手。さらに、資源ブームのなかでフランス企業はアフリカ向け投資を増やしていますが、2007年にフランスのAreva社は、首都バンギから北東900キロにあるバコウマ(Bakouma)でのウラン鉱山開発に25億ドルを投資しています。これに代表されるように、ボジゼ前大統領はサルコジ前フランス大統領との友好関係に基づき、フランスからの投資を呼び込んでいました。しかし、その過程で不透明な人事や資金移動も指摘されています。バコウマにあるArevaのプラントは、昨年12月にチャドから侵入したテロ組織の攻撃を受けています。すなわち、ボジゼとフランスの友好関係の象徴であるArevaのプラントは、反体制派からみれば旧宗主国と汚職にまみれた大統領が結合した象徴であったといえるでしょう。

 とはいえ、いかに歴史的、経済的に関係が深いとはいえ、フランス自身の経済状況が好調といえないなか、軍事介入は必ずしも有権者の評判がよくない選択です。さらに、ルワンダ内戦での不透明な関与を含め、フランスの対アフリカ政策に植民地主義的な側面があったことは、多くの国が知っています。そのなかで、仮に当該国でのプレゼンスやフランス企業の権益保護といった要因があるにせよ、それを直接的に打ち出すことは、いかに図々しくとも困難です。その意味で、大義が出そろったことは、適切な表現でないかもしれませんが、フランスにとって「渡りに船」だったといえるでしょう

 しかし、ここで注意すべきは、その動機づけに経済的な要素があったとしても、そのこと自体を非難することがナイーヴに過ぎるということです。一般に行為の「正しさ」は、動機づけと結果で測ることができます。両者が一致して「正しい」ことが最良であることと、両者が一致して「正しくない」ことが最悪なことはもちろんでしょう。しかし、問題は残る二つのタイプ、つまり動機づけが公明正大でも、結果になんら影響を及ぼさない対応と、動機づけに「不純な」ところがあっても、結果的によい影響をもたらす対応のうち、どちらを優先させるかということです。少なくとも中央アフリカの場合、今回の軍事介入によって救われた生命や守られた人道があるという観点に立てば、動機づけが立派でも何もしない対応より、現地の人々にとって意義があったといえるでしょう。

 ただし、さらにまた注意すべきことは、「結果重視」のアプローチからすれば、フランスの対応は短期的に中央アフリカの治安回復や人命保護に役立ったにせよ、中長期的には同国の将来にとって好ましいかどうかは話が別だということです。経済的な結びつきを強め、政府間での人的ネットワークを構築する一方、自らと友好的な政権が国内からの脅威にさらされた場合には、軍事力でこれを保護する。そのプロセスに「民主主義」、「人道」、「反テロ」といった大義が加わるにせよ、フランスがドゴール時代からの家父長的な対アフリカ政策から、必ずしも抜けきっていないといえるでしょう。そしてこれが、ボジゼ政権のように、一応は選挙によって樹立されながらも、国内の文化的差異に配慮せず、一部の既得権益層に利益を還元し、反対派を武力で取り締まる政権の延命を促す一因になっているのです。

 フランスの国連大使は、「来年後半までの選挙実施」を強調しています。選挙をすること自体はともかく、この状況下ではどんな政権が誕生しようとも、旧宗主国への依存度においては変わりありません。そして、問題があったときに頼ってくる政府があることは、フランスにとって、一方では面倒事に首を突っ込まざるを得ないものの、逆にそれが当該国への影響力を強める契機にもなっているのです。その意味で、アフリカにとっての問題は、外部からの介入そのものではなく、介入を要請せざるを得ない状況が再生産されていることにあるといえるでしょう。

石破発言の何が問題か:石破氏あるいは自民党現執行部に関する思想的解析

 特定秘密保護法案を批判するデモに関して、自民党の石破幹事長がブログで述べたことが、問題となっています。その要諦は、デモを指して「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」と述べ、「主義主張を実現したければ、民主主義にしたがって理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべき」と続きました。

 これに対する批判が噴出すると、「テロ」の表現を削除したうえで、しかし「大音量のデモは一般の人々に畏怖の念を与える」ものであり、「本来あるべき民主主義の手法とは異なると思います」と続きました。

 その発言がいかにも管理者的であることに加えて、それでなくとも「秘密」になり得る範囲が広く、秘密指定の恣意性に対するチェックが判然としないなどの批判が多い特定秘密法案に対する抗議デモに関するコメントであるだけに、世情の反感を呼んだことは全く不思議ではありません。

 一方で、その主張内容を検討すると、石破氏の姿勢や思想的立場に関するいくつかの特徴を見出すこともまた容易です。

 第一に、テロという表現がもつ意味合いから。その主張内容にかかわらず、大音響で絶叫することが、他の市民に畏怖や嫌悪感を抱かせることは否定しません。しかし、それは右翼の街宣車であれ、徒党を組んで日章旗を掲げるヘイトスピーチの集団であれ、同じであるはずです。ところが、石破氏あるいは自民党の幹部から、これらに対して「テロ」という表現が用いられたことは、寡聞にして聞いたことがありません。

 そもそも何をもってテロと呼ぶかには、客観的な基準はありません。かつて、パレスチナ解放機構(PLO)議長として、イスラエルに対する武装闘争を率いたヤセル・アラファトは、米国が自身やPLOを指して「テロリスト」と呼んだことに対して、「パレスチナの解放・独立のために戦っている自分たちがテロリストならば、英国からの独立戦争を戦った米国人の祖先たちもテロリストだったことになる」と応じました。つまり、「テロリスト」の用語には反社会的な犯罪集団という意味合いが強く、特定の他者に対してその用語を用いることは、自らの立場からみて相手を「敵」とみなす意思表示に他なりません。近年で言えば、少数民族の自治拡大などの要求を掲げるチベット自治区や新疆ウイグル自治区のグループを、中国政府は「国家分裂を扇動する『テロリスト』」と呼んでいます。

 (本人は否定したものの)ナチスの御用学者と呼ばれたカール・シュミットが言うように、政治が友ー敵関係を識別する営為であるとするならば、「敵」は排除する以外にありません。「テロリストとは交渉しない」というのが多くの国の公式の立場です。もし、特定の他者をテロリストと呼ぶならば、それは「彼ら」と話しても無駄だという宣言に他ならないことになります。

 それぞれの個人が固有の文化や立場によって立つ以上、「人間がお互いに最終的に理解し合えないものである」と捉えることには同意します。しかし、少なくとも議会制民主主義の政治家たるものは、認識ギャップや意見の隔たりを埋めるよう努力することが求められこそすれ、立場の違いを排除の対象と位置付けるかのような発言は、認められるべきではありません。そこには、異なる思想信条をもつことそのものへの配慮が見受けられません。その場合、議会は単なる数の勝負の場になります。

 第二に、これに関連してより問題なのは、石破氏の言う「本来あるべき民主主義」に関してです。今回、批判を受けた石破氏は「整然としたデモや集会は民主主義にとって望ましい」としていますが、他方で特定秘密保護法案への抗議デモを念頭に、「本来あるべき民主主義の手法と異なる」として譲っていません。

 石破氏の主張は、「要望があるなら選挙で代表を送り出せばいい」ということだと思います。そして、我々国民には投票の権利がある以上、これはこれで正論でしょう。また、古くはフランス革命後の混乱にみられるように、あるいは最近で言えば、抗議活動と連動したクーデタによって、選挙を経た政府が一年あまりで引きずり降ろされたエジプトの例にみられるように、直接行動が常に正しいと言えないことも確かだと思います。

 ただし、何をもって「整然としたデモや集会」と「そうでないデモや集会」を識別しているかは、(テロの認定と同様に)判然としていません。例えば、ブラジルやトルコ、あるいはウォール街で発生した抗議運動のように、公共の場を常態的に占拠する動きが国会前であったのでしょうか。少なくとも、公安委員会に届けられたデモの範囲内であるわけで、それを「整然としていない」というならば、法律そのものを与党幹事長が否定したことになります。すなわち、その他の絶叫調のデモについては触れず、特定秘密保護法案に批判的なデモを念頭に置いたもの、言い換えれば政権に批判的なデモだけを狙い撃ちにしたかのように、「整然としていない」という趣旨で捉えるのは、要するに活動の形態ではなく、主張内容が気に入らないから控えるべきと言っているのに等しくなります。大本営の発表を祝う提灯行列のようなものならよい、ということでしょうか。いずれにせよ、自民党であれ他の政党であれ、国会での演説に品のないヤジが飛び交うのは、「本来の民主主義」で「整然とした」ものなのかとさえ言いたくなります。

 さらに、いわゆる民主主義の原理に照らせば、直接行動が常に正しいと言えないのと同様に、議会の決定に全て委ねて何も言わないのが常に正しいとも言えません。一般に「民主主義」と呼ばれる原理は、(中国などの社会主義体制の国と異なり)少なくとも先進国においては、「自由民主主義」と呼ぶ方が正確です。これは「自由主義」と「民主主義」という異なる二つの原理が、本来的には相入れないものでありながら、歴史的な経緯のなかで接合したものに他なりません。

 近代の西欧諸国なかでも18世紀の英国では、専制を否定する思想として、「思想信条の自由」や「身体拘束からの自由」といった個人の権利を恣意的な権力行使から守るべき、という自由主義が発達しました。この思想が制度として具体化されたものには、(権力の集中を防ぐための)三権分立、(国王でさえ従うべき法律を策定するための)議会制度、さらに米国で発達した(立法府の法令が憲法に違反しないかを司法府が判断する)違憲審査、などがあります。

 なかでも注意すべきは、議会制度そのものは本来、政府に権限を集中させないための自由主義的な制度だということです。実際、18世紀の英国では有権者は大土地所有者に限られていました。むき出しの自由主義には、万人の平等を旨とする民主主義と異なり、貴族主義的な色彩が濃厚なのです。

 一方、やはり専制を否定する原理として、近代西欧で発達した「民主主義」は、国民・市民自身が主権者であるべき、という思想です。「自分たち自身の問題には、自分たち自身で対応するべき」と捉える民主主義が、古代ギリシャの都市国家で誕生したことは、広く知られます。しかし、中世から近代にかけて、民主主義は「貧民の暴政」をもたらすものとして警戒されました。保守主義の元祖E.バークだけでなく、自由主義の父J.ロックも、民主主義には否定的でした。フランス革命後の国民公会で権力を握ったジャコバン派が、「人民の意志」に沿わない少数派を、多数決原理で次々と断頭台に送る「恐怖政治」に陥ったことも、民主主義への警戒感を強めたと言えるでしょう。

 しかし、19世紀に入って人口が増加し、さらに産業化によって階級間格差が広がる一方で、都市住民や労働者の社会的影響力が大きくなるなか、狭い意味での民主主義は選挙権の拡大という形で実現していきました。その後、成人普通選挙だけでなく、政治活動を実質的なものにする「結社の自由」や「報道の自由」が発達するなかで、民主主義は議会制度を旨とする自由主義と結びつくことになったのです。いわば、むき出しの自由主義とむき出しの民主主義がもつ弊害を乗り越えようという営為のなかで、本来的に相反する二つの原理が結びついたのです。裏を返せば、どちらに偏りすぎても、弊害のみが目立つ結果をもたらし得ると言えるでしょう。

 以上の簡単な説明を踏まえて石破氏発言を振り返ります。まず、石破氏が言うところの「本来あるべき民主主義」とは、この分類に沿っていえば、基本的に議会を構成する議員を通じて意思表示を行うべきと捉える、極めて自由主義的なものです。すなわち、議会や選挙を重視するがゆえに、選挙の間の時期の政治活動には、そもそも消極的な評価しか与えない立場です。

 現代の政治学において、これはオーストリア出身のシュンペーターや米国の政治学者R.ダールに代表される、「手続き民主主義」と呼ばれる立場です。この立場は国民・市民の統治能力に信を置かず、代表の選出という「手続き」に主権者としての役割を限定すべきと捉えるエリート主義です。

 もちろん、手続き民主主義は一つの政治的立場であり、その信条そのものを否定することはできません。ただし、問題は、石破氏本人がいかに「整然としたデモ」を容認しているとはいえ、同じく大音量の他のデモには触れず、自らに批判的なデモだけをやり玉にあげる一方で、手続き民主主義を「本来あるべき民主主義」とあたかも客観的真実であるかのように擁護することが、「次の選挙まで何も言うな」と言うに等しいことだということです。

 先ほども述べたように、中世以降、民主主義は「貧民の暴政」をイメージさせる、マイナスのシンボルでした。実際、古代ギリシャの民主制は、参政権を手に入れた無産市民が富の平等まで求めるようになり、階級間対立が激しくなるなかで、「市民」としての自覚が失われるなかで衰退しました。今日においても、有権者の投票行動が気まぐれで恣意に流れやすく、それが常に正しいわけでないことは確かだと思います。その意味で、貴族主義的、あるいはエリート主義的な長期的視座は必要でしょう。

 ただし、それが立場の異なる者への配慮や敬意を欠けば、「エリートに誤りはない」という「無謬性」の原則によって立った共産主義国家と紙一重となってきます。自由民主主義が非常に脆いもので、常に自由主義と民主主義のバランスを取り続けなければならないものという認識が、石破氏には薄いようです。

 同じく絵に描いたようなエリート主義者でも、例えば第二次世界大戦で戦勝国の座に英国を導きながら終戦間際の選挙で敗北し、「民主主義は最悪の政治体制だ。ただし、今まで試みられたあらゆる政治体制を除けばだが」と言い放ったW.チャーチルには、さすがと言うべきか、少なくとも国内の対立者を競争相手と捉えて(少なくとも公式には)最低限の敬意を払い、排除すべき「敵」に例えないだけの礼節がありました。また、そこには異なる思想信条を他者がもつことへの一種の敬意がありました。石破氏の発言にはこれらの礼節や敬意が乏しく、もはや英国の保守党のような貴族主義的な自由主義とも異質だと言わざるを得なくなります。

 それでは、石破氏の発言からみえてくるものは何か。それを検討するヒントは、「法」の捉え方にあります。

 安部首相は中国を念頭に、東南アジアやヨーロッパを歴訪するなかで、「法の支配」を重視する国同士の連携の重要性をしきりに強調しています。しかし、英国で生まれた「法の支配」の理念は、恣意的な公権力から法によって個人の人権を保護する、という考え方です。一方、19世紀のプロイセンでは、政府の活動が法にのっとって行われるべきという「法治主義」が発達しました。これは法の内容までは問題にならず、法に則していれば人権侵害すら容認されます。自民党に限らず、わが国の多くの政党の議員が好んで使う「法治国家」という用語は、後者の系統に属すると言えるでしょう。石破氏の発言からは、法を根拠に、国家の一体性を強く求め、さらに政府に批判的な議論を「公共の秩序」の名の下に押さえ込もうとする、極めてヘーゲル的あるいはプロイセン的な国家主義が浮かんでくると言わざるを得ないのです。

いかなる自由も無制限に認められるべきでないことには同意します。他者の尊厳を著しく損なうヘイトスピーチを行う個人・団体が、そして個人の私生活をやたらと覗きまわるマスメディアが「表現の自由」を謳ってそれを正当化することには反対です。また、あらゆる行政活動をオープンにすることが不可能なことは、あらゆる報道機関がニュースソースを開示できないのと同じです。ゆえに、表現の自由や知る権利が制約されることがあっても致し方ないでしょう。

しかし、「国益」や「公益」の名のもとに、与党幹事長が異なる立場の(まさに彼らが重視するところの)法にのっとった活動さえ否定し、さらにそれがあたかも「反民主的」であるかのようにレッテルを張ることは行き過ぎでしょう。そこには、自由主義や民主主義の冠をつけた国家主義があると言えるのです。

なぜ世界は保守化するか 序 エドマンド・バークにみる「正統な」保守主義

日本と世界の「保守化」
日本の保守化は、その賛否はともあれ、いまや多くのひとが認めるところでしょう。自民党が提示している憲法改正草案は、全体としてはそれほどでないにせよ、その前文は極めて復古調です。政治的な関係の悪化にともない、実際に縁を切れるはずもないにもかかわらず(あるいはそれ故に)、中国、韓国に対する排他的な感情の広がりは隠しようもなく、昨年10月の内閣府による意識調査では、「中国に親しみを感じない」「韓国に親しみを感じない」が、それぞれ前年度より9.2ポイント、23.7ポイント増加して、80.6パーセント、59.0パーセントとなっています。また、近年では若い女性の専業主婦志向がいわれます。経済停滞へのをはじめ、男女対等がいわれながらも職場や雇用機会で必ずしも対等でないことへの反動など、要因はいくつか考えられるとしても、いずれにせよこれも広い意味での保守化といえるでしょう。

いわば朝野をあげた保守化の波は、しかし日本に限ったことではありません。日本でもよく知られる、連邦政府の権限拡大とオバマケアに反対する米国のティーパーティー運動は、開拓時代からの「自己責任」の精神を尊重する点で、米国版の保守主義です。ヨーロッパ各国だけでなく、ロシアや南アフリカなどの新興国でも、外国人嫌いや移民排斥運動が広がりをみせています。中国では、毛沢東思想の復興とあわせてナショナリズムの高揚が指摘されています。

保守主義とは何か
これらはいずれも、広く言えば「保守主義」あるいはそれに類する思想の広がりを示すといえるかもしれません。ただし、注意しなければならないことは、それが本来の保守主義とは必ずしも一致しないところがある、ということです。

近代以降のイデオロギーには、大きく三つの潮流があります。自由主義、社会主義、保守主義です。このうち、保守主義は18世紀英国のエドマンド・バークをその始祖とします。下院議員だったバークは、しかしフランス革命を痛罵した『フランス革命の省察』の執筆で、歴史にその名を刻むことになりました。

バークによるフランス革命批判は、極めて多岐に渡る論点を含んでいますが、その基本的な発想を敢えて要約すれば、以下の4点にまとめることができます。
  1. 人間の理性には限界があるため、是非善悪を全く客観的に判断することはできない。
  2. 不完全である以上、理性のみに基づいて既存の社会を改革することは、予期せぬ結果をももたらし得るため、危険である。
  3. 一方で、今の社会、習慣、価値観などは、先人たちが繰り返した試行錯誤の末に生まれてきたものであり、不完全で非合理的であったとしても、間違いが少ないがゆえに生き残ってきたものである。
  4. ゆえに、完全な理性を望めない人間は、伝統という「偏見」のなかで生きていかざるを得ないし、それにのっとった生き方の方が正しい。

理性への懐疑
バークが生きた18世紀、ヨーロッパは「理性の時代」でした。ドイツのカントに代表されるように、人間の理性に無限の期待を寄せ、絶対王政のもとでの「無知蒙昧」を批判する啓蒙思想が広がりました。そのピークが、1789年のフランス革命でした。アメリカ革命がアメリカ合衆国の独立という極めて一国単位の特徴が強かったのに対して、フランス革命で発布されたのは「人権宣言」でした。つまり、国単位で区切られることなく、人間が人間である以上、すべからく持つべき権利が謳われたのです。この普遍性こそ、理性や啓蒙思想の一つの到達点であり、その後の人権規範の基盤になったといえるでしょう。

ただし、革命後のフランスで、「反革命的」とみなされた人々が、国民公会によって相次いで断頭台に送られた「恐怖政治」が示すように、いわば剥き出しの理性は、社会を際限のない混沌に突き落とすことにもなりがちです。「もし貧困からの解放と人民の幸福が革命の唯一真実の目的であるとするなら、『偉大な犯罪ほど徳に似ているものはない』というサン=ジュストの青年らしい冒涜的な機知は、ただ日常的な観察の結果にすぎなかった。なぜなら、実際、『革命的進路を目指して行動している人びとには』すべてが『許され』なければならないということになったからである」【ハンナ・アレント(1995)『革命について』(志水速雄訳)、筑摩書房、136頁】。

一般に信じられているのと異なり、絶対王政時代のフランスが、当時「平民」と呼ばれた人々にとってだけでなく、多くの貴族にとってさえも住みやすいものでなかったことは、アレクシ・ド・トクヴィルの『アンシャン・レジームと革命』からもうかがえます。さらに、「『正しいこと』を実現するためには、『正しくない』ものを排除せねばならない」という発想は、分かりやすいかもしれませんが、無菌状態の実験室や手術室と異なり、あるいは勧善懲悪の時代劇や西部劇と異なり、現実の人間社会は限りなく複雑で、ある一面からみて「正しいこと」が、他面からみて「正しくないこと」は珍しくありません。のみならず、動機づけは「正しい」ものでも、それに基づく行動が常に「正しい」結果をもたらすとは限りません。国民公会の成立以前に書かれた『省察』のなかでバークは、人間の限られた理性で既存の社会を裁断し、一方的に断罪することに、独裁の予兆をかぎとっています

そのうえで、バークは人間の行動規範として、理性ではなく伝統をあげています。「伝統」とは多くの人間が長い時間をかけて積み上げてきた営為の結晶体であり、これが存続しているということは、たとえ不完全であっても、大きく間違っていないことを意味する、ということです。これに従えば、歴史を通じた「自然のなりゆき(natural cource of things)」のなかで生まれてきた価値観に沿って行動する方が、「正しい結果」にたどり着く確率が高くなります。バークはこれを敢えて「偏見」と名づけ、「理性の時代」にあって、人間の理性の限界を強調し、従来の社会や価値観を尊重する論陣を張ったのです。

バーク保守主義の非民主性
バークの掲げた主張は、「理性によって見出される、人間としての普遍的な権利」を認めるフランス革命の理念と根本的に衝突するものでした。当時、英国では既に議会選挙が実施され、国王の専制から人権は法によって保護されていました。しかし、バークにとってこれらの自由は、英国の歴史的産物であり、英国という特定の社会の成員にのみ引き継がれる生得権でした。つまり、それらの権利が保護されるのは、「人間として」ではなく「英国人として」だったのです。バークにとって、人間とは固有の伝統や文化でのみ生きられるものであり、それらと無縁の理性的・抽象的な「人間」というものはあり得なかったといえるでしょう。この観点からすれば、「人間としての権利」とは絵空事に他なりません。

外国人との識別だけでなく、バークは英国人のなかでの身分に基づく権利の差異を積極的に承認しました。その象徴は、当時英国で浮上していた、普通選挙権をめぐる問題への対応でした。産業革命により、資本家層の発言力が増し、従来の大土地所有者以外にも選挙権を認めるべきという論調が高まるなか、バークはこれに反対しています。普通選挙が議員を有権者に対する「投票請願者」にし、大所高所からの判断を難しくするというのが、その理由でした。有権者の移り気な投票行動への警戒感は、理解できなくもありませんが、少なくともその立場が民主的と言い難いものだったことは確かです。良くも悪くも、バークは万人の平等ではなく、社会の有機的な一体性、言い換えればタテ系列の社会を重視する貴族主義者だったといえるでしょう。

これを反映して、バークは「人類愛」より「家族愛」「郷土愛」を優先させています。「小さな部分に愛着をもつこと、社会の中で自分が所属する小さな群れを愛することは、公共的愛情の第一の動機である。これこそ祖国愛からひいては人類愛へと我々を導いていく長い連鎖の第一環である」。つまり、家族や郷土といった具体的な集団、土地への愛着をもつ人間が群れることで社会が、国家が、人類ができているのであり、その最初の部分を愛することが全ての始まりだというのです。これは、例えばJ.J.ルソーなどの社会契約論者が、国家・社会だけでなく家族すら契約によって成り立つと捉えたのと対照的で、いわば血縁・地縁という、人為によって左右されない、共同体的な結びつきを重視するものといえるでしょう。

バークの進歩性
一方、バークの主張には、本人の意図にかかわらず、進歩的な側面もありました。『フランス革命の省察』は当時の英国王ジョージ3世からも絶賛されましたが、バーク自身はジョージ3世とも対立していたのです。ジョージ3世は国王が実質的な政治権力をもつ親政を復活させることを図っていましたが、これは1688年の名誉革命によって生まれた「国王は君臨すれども統治せず」の原則に逆行するものでした。

既に述べたように、バークは歴史的な営為の積み重ね、言い換えれば「自然のなりゆき」がもつ拘束力を重視しました。英国では名誉革命によって国王(君主政)、世襲の上院(貴族政)、選挙を通じた下院(民主政)の混合政体が生まれました。一見したところ、パッチワークのような、あるいは増築に増築を重ねた家のような、整合性のないものです。しかし、理性的にみれば「正しい」かどうか疑わしくとも、それが一定の期間、存続してきたことは、それが社会に根付いていることを示します。それを人為でひっくり返すことが、「正しい」結果に帰結するという保障はありません。つまり、バークにとって名誉革命体制は、それが「本当に正しい」かどうかではなく、実際に一定の期間を通じて存続してきたこと自体に価値があるものだったのです。そのため、後に「保守主義の元祖」と位置付けられながらも、バークがジョージ3世と対立したことは、不思議ではありません。

これに加えて、バークは議会政治の確立に努めたことでも知られます。「議員は選挙区のではなく国民全体の代表」という観念は、バークが打ち出したものです。さらに、当時は同じ主張のグループが集まる政党は「徒党」とみなされていましたが、特定のグループの利益ではなく、国民全体の利益の実現を念頭に置いた政党の発展が議会政治に欠かせないと主張したのも、確認される限り、バークが最初でした。

保守主義の身上としてのバランス感覚
こうしてみてくると、「保守主義の元祖」と位置付けられるバークに、柔軟な発想があったことが分かります。バークによると、「何か変更のための手段をもたない国家は、自らを保存する手段をもたない」。つまり、時代の変化に応じて、伝統の核心部分を守るための改革はいとわない、というのがバークの立場でした。さらに、自らを指して、「一貫性を保とうとするひと、しかし彼の目標の統一を確保するための手段を変えることによって一貫性を保とうとしたひと、そして彼が乗っている船の均衡が一方に積み荷をしすぎて危険になるようなときには、その均衡を保つ方に彼の理性というささやかな重しを運ぶことを願っているひと」と説明しています。これはすなわち、バランス感覚を旨とするということです。

一般的に、保守的というと頭が固いひと、時代の流れに合わないひとを指す言葉として使われているように思います。しかし、少なくともバークは単純な王政支持者でなかっただけでなく、昔に戻ることをよしとする復古主義者でもありませんでした。旧来の伝統をいかにして現状に適応させて活かし続けるかが、その最大の関心だったといえるでしょう。

これに照らして、例えば日本の話に戻れば、安倍総理の「戦後レジームからの脱却」という言葉に表されるように、戦後60年間の歴史をなかったかのように扱うことが、果たして「保守主義」の名に値するかは疑問です。確かに、日本国憲法は必ずしも当時の日本人の意思で作成されたものでないかもしれません。また、どんな状況になろうとも、一行も書き換えさせないというのは、これまた教条主義といえるでしょう。とはいえ、いかなる経緯であれ、既に社会に根付いているものを根底からひっくり返すことは、バークの「バランス感覚」とはかけ離れたものです。

「正統でない」保守化はなぜ進むか
しかし、これはひとり日本に限ったことではありません。英国人と外国人の権利を識別したバークの主張にあるように、保守主義にはもともとある程度のナショナリズムが含まれます。しかし、例えば近年のヨーロッパの排外主義は、保守主義よりさらに「右」にあるものです。すなわち、今の世界でみられる保守化とは、正統な保守主義の復興という次元でなく、それがよりラディカルに表れているものといえるでしょう。

過ぎたるは猶及ばざるが如し」というように、何事も行き過ぎれば問題です。自由主義が行き過ぎれば、世界がパーマネントトラベラーであふれることになります。社会主義が行き過ぎれば、革命の嵐が吹き荒れます。そして、保守主義も行き過ぎば、他者の権利や尊厳を無視する傾向が強くなります。

果たして、このような「正統でない」保守化は、なぜ世界で進むのでしょうか。次回から、これを考えていきたいと思います。

ところで、今回紹介したバークは、先日発売されたKindle版『佐門准教授と12人の哲学者』にも登場します。そちらでも書いたのですが、一般的な知名度が、欧米諸国と日本でこれほどギャップのある哲学者も珍しいように思います。しかし、歴史的な経緯を重視するその視点は、今日の「経路依存性」に関する議論にも影響を及ぼしています。また、日本でも有名になったマイケル・サンデルらの共同体主義は、基本的にはバーク保守主義の延長線上にあります。これらに関心のある方も、ない方も、ご一読いただければ幸いです。尚、現在英語版の準備が最終段階です。西洋政治哲学をアジア人がアレンジした作品を携えて、近日グローバル市場に進出する予定です。これもある意味で、「自然のなりゆき」なのかもしれません。

シリア内戦に対する軍事介入:可能性、背景、特徴

 誰が化学兵器を用いたか
 8月21日、2年以上にわたって内戦が続くシリアの首都ダマスカス郊外で、化学兵器によるとみられる攻撃が発生し、子どもを含む数百名の死者が出ました。これを受けて、シリア情勢は緊迫の度をこれまでになく高めています。

 シリア政府は国連による現地調査の要請を受け入れましたが、安全上の問題から、調査団の活動は遅滞を余儀なくされています。そのため、8月28日現在、誰が化学兵器を使用したかについて、国連は正式な発表ができていません。

 しかし、その一方で、米国やフランス、イギリスをはじめとする欧米諸国は、既に「アサド政権が反体制派を攻撃するなかで化学兵器が使用された」とする見方を固めており、これに対する制裁として軍事介入の検討を本格化しています。また、サウジアラビアなど近隣アラブ諸国からなるアラブ連盟も、アサド政権が化学兵器を使用したとする決議を採択しています。

 一方、アサド政権はこの事件への関与を否定し、化学兵器は反体制派が用いたと主張。欧米諸国による軍事介入は、内戦に乗じてシリア国内に流入し、活動を活発化させているアル・カイダなどの過激派を利するような混乱を呼ぶと警告したうえで、さらに「世界が驚く自己防衛」についても言及するなど、強い拒絶反応を示しています。

 シリア国内でも、アサド政権が化学兵器を使用したとする見方を疑う意見もあります。また、軍事介入に関しても、反体制派をはじめこれを歓迎する声がある一方、イラクやリビアのように混乱が増幅することを懸念する声もあり、賛否が分かれていると伝えられます。

 欧米諸国は軍事介入するか
 学兵器使用の真偽だけでなく、介入の是非をめぐって意見が衝突するなか、しかし欧米諸国は既に軍事介入に向けての準備をほぼ完了しつつある模様です。8月28日、反体制派の連合体「シリア国民連合」と、これを支持する各国グループ「シリアの友人」主要11カ国(米、英、仏、独、伊、トルコ、サウジアラビア、エジプト、ヨルダン、UAE、カタール)代表がイスタンブールで会合を開き、この場で欧米諸国が「数日以内に軍事活動を開始する可能性」を伝えました。

 米国政府はこの介入が「アサド政権を倒す」ためのものでなく、「化学兵器使用に対する懲罰」の意味合いが強いことを強調しており、手段も地上軍の派遣をともなう大規模なものでなく、空爆が中心とみられています。

 しかし、軍事介入に対しては、冷戦時代からシリアを中東での拠点としてきたロシアが反対を表明しています。また、外国による介入を嫌う中国も、これに同調しており、国連安保理での決議はこれまで同様に困難な見通しです。果たして、国連安保理での決議が得られなくても、欧米諸国は介入するのでしょうか。

 シリアへの軍事介入を促す要因
 米諸国が空爆に限定した軍事介入を行う可能性をうかがわせる要因は、まずアサド政権の特質にあります。これまでにも、1999年のコソボ、2003年のイラクなど、国連安保理での明確な決議を経ずに、米国やNATOが特定の国に対して軍事介入したことはありました。しかし、これまでの事例は、コソボのミロシェビッチ政権のように「人道に対する罪を犯した者に制裁を加える」、あるいはイラクのフセイン政権のように「大量破壊兵器を保有している危険な体制を崩壊させる」という大義であっても、少なくとも結果的には「介入する側(欧米諸国)からみて都合の悪い政権を倒す」ものとなってきました。

 シリアの場合、冷戦時代から欧米諸国と敵対する傾向が強くありました。米国が主に支援するイスラエルとの関係においては、これにテロ攻撃を行っているレバノンのヒズボラを支援してきました。また、やはり欧米諸国と敵対するイランとも友好関係にあります。さらに、2011年からアサド政権の退陣を求める反体制派との内戦で、2013年8月までに100万人以上の難民を出すなど、シリアは地域の不安定要因の一つとなっています。これらに鑑みれば、アサド政権が欧米諸国からみた「都合の悪い政権」であることは明らかです。

 さらに、2011年以来、米国、フランス、イギリスは再三に渡って国連安保理でシリアへの介入を提案してきましたが、いずれも中ロの反対で実現してきませんでした。中ロの反対の根幹にあるのは、「国家としての主権は絶対で、何人もこれを侵してはならない」という考え方(主権尊重)です。これに対して、欧米諸国は「人道の危機」を唱えてきましたが、中ロに容れられませんでした。その意味で、欧米諸国が「介入を正当化するさらなる理由付けと契機」を求めていたことは確かです。化学兵器を含む大量破壊兵器は、戦闘と無関係の市民を巻き添えにする点で、強い「タブー意識」があります。したがって、「アサド政権による化学兵器の使用」は、その真偽にかかわらず、そしてシリアが化学兵器禁止条約に署名していなくても、介入を正当化する大義にはなり得るでしょう。

 軍事介入を制限する要因
 かし、欧米諸国にとっても、アサド政権に全面的な攻撃を仕掛けることに、リスクが大きすぎることもまた確かでしょう。そのために、「空爆を中心とする、化学兵器使用に対する制裁」としての介入が行われるであろうとみられています。

 まず注意すべきは、欧米諸国の国内情勢、なかでも経済状況です。米国のみならず、ヨーロッパ諸国もまた、金融危機のダメージから立ち直りつつあるいま、各国に新たな戦線を開く余裕はありません。シリアへの軍事介入に関する懸念から、各国で株価が値下がりに転じたことは、これを象徴します。現段階でシリアに介入することが、必ずしも国内で支持を得にくい状況にあることに鑑みれば、欧米諸国が(自国兵士に死傷者の少ない)空爆に限定した介入で対応しようとしていることが理解されます。

 次に、「都合の悪い政権に対する軍事介入」の不人気です。ロシアや中国ほど明確に反対せずとも、特定の政権を標的とした、欧米諸国による一方的な軍事介入に好意的な国は、難民の増加などで戦闘の悪影響を被っている周辺国(この場合はアラブ連盟諸国)を除けば、必ずしも多くありません。1990年代のように欧米諸国の発言力が段違いに大きかった時代ならまだしも、新興国の台頭で「国際世論」というものが多元化する現代にあって、人道や地域の安定といった大義を掲げるにせよ、結果的に自分たちと敵対する政権を打ち倒すために軍事介入することは、その後の欧米諸国の立場、評判にも係わってきます。今回、米国政府が「アサド政権の崩壊を目指す軍事行動でない」ことを強調していることは、これを反映したものといえるでしょう。

 以上に鑑みれば、欧米諸国のシリアへの介入は、空爆を中心とする軍事活動をともなう点で2011年のリビアの場合と同様ですが、国連の決議を経た介入でない点で、これと異なるものになるとみられるのです。

 入る前から出口を探す必要
 はいえ、軍事介入が混乱を助長し、アル・カイダなどテロ組織の活動を活発化させる契機になり得るというアサド政権の主張は、それが介入をけん制するためのレトリックであったとしても、予想される事態からかけ離れていないと思われます。

 リビアの場合、反カダフィ派は国民評議会として政治的・軍事的に勢力をほぼ一本化することに成功し、NATOは空爆と並行してこれに軍事訓練などを提供しました。実際の首都トリポリ陥落は、評議会勢力が行いました。つまり、リビアの場合は支援すべき対象が明確で、それを内戦の勝者の立場に立たせることで、手を引くタイミングを掴みやすかったといえるでしょう。

 しかし、シリアの場合、イランやレバノンから流入したイスラーム過激派勢力は、シリア国民連合とも敵対しており、三つ巴、四つ巴の争いを展開しています。このなかで軍事介入することは、仮にアサド政権の勢力低下につながったとしても、入れ替わりにアル・カイダなどのテロ組織の勢力を増しかねないのです。シリアがソマリアやアフガニスタンのような「破綻国家」になれば、各地を追われた過激派にとっては絶好の隠れ家となります。その意味で、欧米諸国はシリアに介入する場合、これまで以上に、入り口に入る前から出口について見通しを立てなければならないといえるでしょう。

エジプト危機は克服できるか:国際的な仲介努力とエジプト内部の対立が示す力学

 エジプト危機とムスリム同胞団の孤立
 11日、エジプトの暫定政府は、ムスリム同胞団の支持者たちによる、首都カイロでの座り込みの強制排除に取りかかる意思を表明しました。13日には警官隊とムスリム同胞団の衝突で1名が死亡。暫定政府の正当性をめぐって市民同士の衝突も発生しており、エジプトは今後より危機的な状況に向かう兆候を示しています。

 エジプトでは7月3日にクーデタが発生し、昨年6月に就任したモルシ大統領が拘束されました(クーデタに至る経緯については、こちらを 参照)。これによって、ムスリム同胞団をはじめとする穏健派イスラーム政権は、わずか1年で崩壊したのです。軍部はその後、ムスリム同胞団の幹部たちを相 次いで拘束。一方でその他の穏健派イスラーム組織には新憲法の制定に向けた協議への参加を呼びかけ、ムスリム同胞団の孤立化を図ると同時に、暫定政府の正 当性を高めようとしてきました。IAEA(国際原子力機関)事務局長を勤めた経験と、ノーベル平和賞を受賞したことで国際的に知名度が高い、リベラル派のモハメド・エルバラダイが副大統領に就任し たことは、内外に「軍部の独裁でない」とアピールするものです。また、軍部の呼びかけに呼応して、2011年11月の議会選挙で、ムスリム同胞団の政治部 門であるFJP(自由公正党)に次いで第二党となったアル・ヌールは既に暫定政権に協力しています。しかし、イスラームの教義により忠実なサラフィー主義 に基づくアル・ヌールは、リベラル派のエルバラダイを副大統領に据えることに反対するなど、暫定政府は「反ムスリム同胞団・反モルシ」以外の共通項を欠いたものであるといえるでしょう。

  失業率の悪化など、モルシ政権が国民生活を必ずしも改善できなかったことは確かです。さらに、必ずしも「イスラーム国家の建設」などを謳っていないもの の、イスラームに特別な価値を認める内容の憲法を、イスラーム系組織以外の勢力が反発するなかで採択したことが、国内の分裂を深める大きな要因になったこ とも否定できません。これらの背景のもと、反政府組織タマロド(Tamarod)は6月から抗議デモを主導する一方、ツイッターやフェイスブックを通じ て、モルシ大統領に退陣を求める署名活動を展開。エジプト総人口の約3分の一に当たる2200万人が署名したと発表し ています。タマロドはアラビア語で「反乱」を意味し、その支持者の多くはリベラル派やキリスト教徒とみられます。そして、この運動と連動するように、モル シ大統領就任から1年を目前にした時期に抗議デモが頻発したのです。しかし、いかに不人気とはいえ、国民参加の選挙で選出された政権を軍事力で打倒するこ とは、認められるべきでないでしょう。

欧米諸国のエジプトへの関与
 ルシ支持者らと暫定政府との対立が抜き差しならないものになり、緊張が高まるなかで、米国EUは 仲介を試み、さらに暫定政府に対しては治安部隊による暴力的な鎮圧の自制を求めてきました。一方で、安部政権が「法の支配」や民主主義の価値を(主に中国 を念頭に)熱心に掲げながら、この事態に何もアクションを起こさないことは、さして驚くことでもありません。ただし、欧米諸国の行動もまた、必ずしも民主 主義の理念だけに突き動かされたものではありません。

 もともと、2011年の政変で失脚したムバラク大統領を30年に渡って支援したの は、西側諸国、なかでも米国でした。パレスチナ問題を巡るイスラエルとアラブ諸国の対立を背景とする、四度に渡る中東戦争は、エジプト政府の不満を高める ことになりました。他のアラブ諸国政府が、外交上はともかく、実際には兵力をほとんど派遣しないなか、一貫してイスラエルとの最前線に立ち続けたのはエジ プトでした。

 エジプトの疲弊を恐れたサダト大統領(任1970-81)は、米国の仲介のもと、1978年のキャンプ・デービッド合意 で、イスラエルとの単独和平に踏み切りました。これは他のアラブ諸国から「裏切り」とみなされましたが、他方で相次ぐ中東戦争に全面的に関与し続けたエジ プト政府からすれば、「パレスチナ解放」や「イスラエル打倒」を掲げながらも実際には協力しようとしないアラブ諸国との関係より、眼前の脅威であるイスラ エルと和平合意にこぎつけることで、自国の安全を確保するとともに、経済的衰退を食い止める決定だったといえるでしょう。

 いずれにせ よ、これによってエジプトはアラブ諸国のなかで数少ない、イスラエルと国交をもつ国となりました。パレスチナ問題で一貫してイスラエルを支援してきた米国 にとって、エジプトはアラブ諸国における重要な友好国になったのです。それは同時に、エジプトの当時の体制を支えることが米国の利益になったことを意味 し、その結果、サダトやその後を受けたムバラク大統領による反体制派の弾圧を、米国をはじめ西側諸国は容認し続けたのです。そのなかで、世俗的なリベラル 派だけでなく、イスラーム勢力も政治活動を制限され、なかでも貧困層に支持者の多いムスリム同胞団は、軍の支持を背景とする世俗的なサダト/ムバラク政権 からみた最大の脅威となり、弾圧の対象となりました。これがイスラーム過激派の台頭を促し、1979年には貧弱救済などを主に行っていたムスリム同胞団か ら分裂した急進派アル・ジハードのメンバーがサダトを暗殺するに至ったことは、弾圧とテロの悪循環を示します。

 2001年以降、米国 ブッシュ政権が最優先課題とした対テロ戦争は、エジプト政府をして、ムスリム同胞団を「テロ組織」として弾圧する大義名分を与えるものになりました。他方 で、ブッシュ政権はテロが起こる背景の一つとして、政治的な異議申し立てができない状況があると考え、これに基づき2003年には中東各国の民主化を促す 「中東民主化計画」を掲げたことで、ムバラク政権は少なくとも形式上、民主化に舵を切る必要に迫られたのです。これを受けて2005年、エジプトでは史上 初となる、複数候補による議会、大統領選挙が実施されましたが、ムスリム同胞団は公式には参加が禁止され、ムバラク陣営が勝利しました。米国をはじめ西側 諸国の政府は、エジプト政府がテロリストの取り締まりと民主化を両立させたと高く評価しましたが、反ムバラク勢力からみた場合、これが権威主義的なムバラ ク政権による出来レースと弾圧を容認するものであったとしても不思議ではありません。

欧米諸国の現在の懸念
 「ラブの春」に先立つこれらの経緯に鑑みたとき、現在のエジプト危機に対する米国やEUの仲介の背景には、民主主義や人権といった理念にとどまらない動機付けがあるといえるでしょう。

  1. ムバラクが失脚したとはいえ、軍の要職を占める幹部の多くは旧体制時代と変わっていない。言い換えれば、クーデタを起こした軍にとって、モルシ支持者の中核であるムスリム同胞団は長年敵対し続けた相手である一方、西側諸国なかでも米国は1970年代以来、友好関係を保ってきた間柄である。同時に、穏健派とはいえイスラーム主義的なモルシ政権に、米国が少なからず警戒感をもっていたことも周知の事柄である。この状況下で、たとえ米国にとってモルシ派より暫定政府の方が組みやすいとしても、あるいはそうであるがゆえに、わずかでもクーデタに理解を示せば、(その真偽はともあれ)クーデタそのものが「米国の策謀」という印象を与えかねない。
  2. 少なくとも民主的な手続きで選出されたイスラーム主義政権を、(反モルシ派の支持を受けていたとはいえ)世俗的な軍部が力づくで転覆させたことは、穏健派イスラーム主義のモルシ政権のもとでやや静かにしていた急進派の活動を活発化させる契機になり得る。 これはちょうど、1990年のアルジェリア議会選挙でイスラーム救国戦線が勝利したことに警戒感を募らせた軍部が、選挙結果の無効を宣言して事実上の軍政 を敷き、これがその後の同国におけるテロと武力鎮圧の連鎖をもたらしたのと同じパターンである。アルジェリアの場合、西側諸国は軍部の行動を黙認したが、 これがイスラーム過激派の反欧米感情を一層悪化させる結果となったことに鑑みれば、今回の危機の沈静化に失敗すれば、エジプトで内乱が起こりかねず、ひい ては新たな対テロ戦線が開くことになりかねない。
  3. 親米的なムバラク政権が倒れ、独自の外交方針を模索するモルシ政権ができて以来、米国とエジプトの経済関係は停滞してきた。これと入れ違いに、中国やロシアが急激にエジプトへ経済的に進出している。 やはり2011年の「アラブの春」のなか、エジプトの隣国リビアでカダフィ体制が崩壊した。従来、中ロはカダフィと友好関係にあり、リビアでの油田開発な どで存在感を保っていたが、政変後はそれがあだとなり、新体制とは必ずしも良好な関係にない。すなわち、リビアでの旗色が悪くなったことは、中ロをしてエ ジプト進出を強めさせる契機になったとみられるのであり、そうだとするとエジプトへの関与を弱めることは、西側諸国にとって、北アフリカ一帯の勢力圏の縮 小に繋がりかねない。



 以上に鑑みれば、欧米諸国が暫定政府によるモルシ派の強制排除に憂慮を示し、慎重な対応を求めるため、継続的に関与していることは不思議ではありません。とはいえ、死者を出す衝突が頻発していることから、米国やEUによる仲介が効果をあげているとは言い難い状況です。

エジプト危機のゆくえ
 定政府からみれば、取れる選択肢は大きく二つあるとみられます。

  第一に、一部であってもムスリム同胞団を暫定政府に取り込み、挙国一致体制を演出することです。しかし、もう一方の当事者ムスリム同胞団、特に長年抑圧さ れてきた貧困層からなる末端の支持者たちにとって、これは受け入れにくいところです。今さら暫定政府に参加しても、欧米諸国に近い軍やリベラル派の風下に 置かれるであろうことは、容易に想像されます。

 ただし、このまま対立を続ければ、いずれ本格的な衝突が避けられなくなることも確かです。その意味で、ムスリム同胞団の幹部たちが「暫定政府への参加」という最低限の利益を確保する行動に踏み切れるかが、最悪の事態を回避する大きなポイントになるで しょう。とはいえ、これも楽観はできません。いかに幹部といえど、激昂した支持者らを抑えることは容易でなく、下手をすれば「裏切り者」にされかねませ ん。のみならず、クーデタの直後に主だった幹部たちは軍によって拘束され、その統率力は大幅に低下しているとみた方がいいでしょう。よって、これは期待し にくいところです。

 第二に、抗議デモの排除に象徴されるように、最終的にムスリム同胞団との衝突に至り、これを「テロ組織」に位置づけることで、自らの正当性をアピールすることです。もちろん、これはまさに内乱を招きかねない選択であり、リスクが高いものです。また、軍部はともかく、リベラル派やその他の暫定政府に協力している勢力が、これに同調するかは不透明です。

  第一、第二の選択肢のいずれにもリスクが多いことから、実際には暫定政府は双方の戦術を織り交ぜながら、ムスリム同胞団に迫るものと考えられます。しか し、アル・カイダなど国際テロ組織が、民主的な方法でイスラーム的な支配の確立が困難であることを強調し、武装蜂起を説くメッセージを発していることもあ り、追い詰められ、組織としての求心力を低下させたムスリム同胞団の末端支持者が暴発する危険性についても楽観はできず、エジプトは今、内乱の縁にあるといえるでしょう。


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