イラン情勢の緊迫は、日本では案外話題になっていないように思います。しかし、これは日本経済にとってだけでなく、世界全体に大きな影響を及ぼす点で、欧州通貨危機なみの問題です。
今回のイラン危機の発端は、昨年11月8日に国際原子力機関(IAEA)がイランの核開発疑惑を指摘した報告書を提出したことにあります。それを契機に、アメリカ議会は12月14日にイラン企業との取引に対する制裁を強化した法案を決議。さらに、12月31日はオバマ大統領が、イラン中央銀行と取引のある各国の金融機関を、アメリカ内部で規制する法案を可決。アメリカで取引する全ての国が、アメリカの対イラン制裁と無縁でなくなったのです。イランが開発したミサイル「アシュラ」の射程圏内に収まるEU諸国も、基本的には制裁でアメリカと同調しています。11月24日にはフランスがイラン産原油の禁輸措置に踏み切ったほか、EUも経済制裁を次々と決定しています。
この対立は、日本にとっても無関係ではありません。日本が輸入する原油の10パーセント強はイラン産です。一方で、イランから石油を輸入すれば、アメリカの制裁に引っかかることになります。1月12日、訪日中のガイトナー財務長官に対して、安住財務大臣はイランからの原油輸入を削減してきた「実績」を強調することで、日本の銀行に対して、アメリカの先の法律の「例外規定」の適用を求めました。そのうえで、安住大臣は今後とも輸入に占めるイラン産原油のシェアを減らす考えを示しましたが、これが基本的には欧米諸国に軸足を置いた対応であることは言うまでもありません。
これに対して、イランのアフマディネジャド大統領は核開発が平和利用目的であることを強調し、さらにIAEAの報告書が西側先進国の情報に基づいていると批判し、両者の対立は加速。12月上旬に米軍の無人偵察機がイラン東部で撃墜されたことも、火に油を注ぐことになりました。12月末には、ペルシャ湾のホルムズ海峡をイラン海軍が閉鎖する可能性についても言及し、さらに周辺海域で10日間の軍事演習を行いました。ホルムズ海峡が閉鎖されれば、世界の原油の7割近くが集中するペルシャ湾岸諸国の原油輸送に、深刻な影響が出ます。「原油不足」の懸念は、ただでさえ高止まり傾向のあるエネルギー価格を、さらに押し上げる効果があります。こうして、イラン危機は世界に影響を及ぼす火薬庫となったのです。
イランの核開発疑惑そのものは、以前からあったものです。それがこの時期に急にクローズアップされたことには、イラン側から欧米諸国の「政治的意図」を疑う指摘があります。アメリカが支援していた皇帝(シャー)が打倒された1979年のイラン・イスラーム革命以来、イランと欧米諸国、なかでもアメリカとの間には根深い不信感がありますが、それだけでなく2010年末からの「アラブの春」で、中東・北アフリカ一帯の勢力図が大きく変わったことに鑑みれば、それは故のないことだと思います。
シリアではアサド政権に対するデモと、政府・軍による弾圧の悪循環が続き、多くの死傷者が出ています。従来は身内に甘いアラブ諸国ですら、この状況はもはや看過できず、アラブ連盟がアサド大統領に退陣を求め、さらに国連安保理に問題を付託しようとしています。しかし、リビアと異なり、シリアの場合は欧米諸国も軍事介入に消極的です。それはアサド政権がロシアや中国だけでなく、核・ミサイル開発が進むイランとも友好関係にあるからです。つまり、欧米諸国によるイランへの強硬姿勢は、膠着するシリア情勢を打開するための「絡め手」としての側面もあるのです。
また、独裁体制が崩れたアラブ諸国の情勢変化による影響も、看過できません。イスラエルと国交を結ぶ数少ないアラブの国であったエジプトではイスラーム系政党が躍進し、これまでムバラク政権のもとで押さえ込まれてきた対イスラエル批判が、公然と噴出するようになりました。孤立感を深めるイスラエルでは、近隣の国、特にその核開発の主たる標的としてイスラエルを暗黙に想定してきたイランに対しては、警戒感が充満しています。アメリカとしてはパレスチナ問題で譲歩を迫る「見返り」として、イスラエルの警戒感を慰撫する必要に迫られているといえるでしょう。
さらにまた、アメリカ、イラン双方の国内事情もまた、この危機を増幅させる要因としてあげられます。
「アメリカ大統領選挙の年には戦争が起こりやすい」というジンクスがあります。大統領選挙を控え、国内世論向けに得点を稼ぐ手段として、戦争が活用されているという見方です。もちろん、アメリカ政府は否定するでしょうが、経済の失速と連動してオバマ政権への支持が低迷する状況があることは事実です。この状況下、国際的な危機に対応することが、政権にとってのプラス要素になることは言うまでもありません。つまり、イラン危機はオバマ政権にとって、政権浮揚のチャンスという側面も内包している、とみることに無理はありません。
他方、イランのアフマディネジャド大統領にとっても、欧米諸国に強硬に対峙することには、国内的な意味があります。近隣諸国で独裁体制が崩壊するなか、イスラーム体制の護持を掲げる保守強硬派のアフマディネジャド大統領にとっては、欧米諸国との対立が自らの支持基盤である保守派からの支持を固める手段でもあります。また、保守穏健派でイラン最高指導者のアリー・ハメネイ師は以前から核開発に否定的ですが、欧米諸国による制裁という「対外的な脅威」を強調することは、アフマディネジャド大統領にとって、公式の立場上は抵抗できない最高指導者の意思を押し切る格好の口実にもなります。
もちろん、これらの国内的な事情は推測の域を出ません。しかし、いずれにせよイラン、欧米諸国のいずれにとっても、実際に戦火があがる状況はリスクが高すぎます。正面から軍事衝突に至った場合、イランに勝ち目がないことは明らかです。とはいえ、核弾頭の有無はともかく、ミサイルがEU圏に届く可能性や、あるいは原油価格が天井知らずに高騰するリスクに鑑みれば、欧米諸国としても経済制裁で矛を収めることが最善の結果であることは間違いないでしょう。
ただし、経済制裁が長引いても、それがイランの核開発を止める効果があるかには疑問があります。イラン産原油の輸出先は、22パーセントが中国、13パーセントがインド向けです。18パーセントを占めていたEU向け輸出がなくなっても、これらの制裁に消極的な国に流れることは、容易に想像されます。
ところが、ここまでヒートアップしたなかで中途半端にけりをつけてしまえば、お互いに先ほどの「国内世論」の逆襲を受けることになります。欧米諸国とイランの政権担当者は、今まさに振り上げた拳の落としどころを模索している最中にあるといえます。
大学はそろそろ試験の季節です。それが済むと入試一色に染まります。そんなわけで、各大学で担当しているコマの試験を行っているのですが、先週行った明治学院大学の試験終了後、とある学生にチョコレートをもらいました。2月中ごろに学生と接することがほとんどないのですが、前倒しでバレンタインのチョコレートをもらうのは、個人的には極めて稀です。じゃあお礼は・・・と思ったら、「ブログでの紹介」を希望されました。「それでいいの?」と思いながら、あれこれしている間に、書くのが随分遅くなりました。ありがとうございます、中村さん。ちなみに、これによって成績が左右されることがないのは、言うまでもありません。あくまで念のため。
ところで、チョコレートがカカオ豆を原料とすることは広く知られます。私が(一応)専門にしているガーナは、世界有数のカカオ産地です。しかし、少なくとも個人的には、ガーナで食べたチョコレートが美味しいとは正直思えませんでした。マクドナルドの例がよく知られているように、世界各地に広がるものは、一見したところ同じようであっても、それぞれの土地に応じてアレンジされて、初めて受容されることが一般的です。
これは、何も食べ物に限った話ではなく、理念やものの考え方においても共通します。仏教はその典型で、統一的な経典がないことや、明確な教義がないことも手伝って、伝播する先々の文化や価値観と融通無碍に結びつき、波及していきました。現代の日本では、「葬式仏教」と揶揄されるように、多くの人にとってお寺との結びつきはお葬式や法事といった死に関する領域が主ですが、これは霊魂を否定する最初期のインド仏教にはなかった特徴でした。それが中央アジアを経て、中国の先祖祭祀の習慣と結びつき、日本に伝播するなかで、独自の進化を遂げた結果です。
世界宗教と呼ばれるもののうち、このように仏教はいわば開放度が高いことで知られる一方、キリスト教やイスラームは教義が明確である裏返しとして、伝播した先の土地の文化や習慣と衝突することも稀ではありませんでした。とはいえ、キリスト教やイスラームも全く硬直的とは言えず、それぞれの土地柄と結びつくこともあります。アフリカの、特に農村では、病気になったときに伝統的なシャーマンに祈祷をお願いすることが今でも稀でなく、そのなかにはキリスト教徒もムスリムもいます。これが一神教の教義からかけ離れた習慣であることは、言うまでもありません。土地ごとのセルフアレンジを許容する懐の深さをもってこそ、理念の普遍性が保たれるといえるでしょう。
その意味で、エジプトの選挙結果は自由民主主義の普遍性を占う一つの試金石になるかも知れません。
1月21日、エジプトの選挙管理委員会が議会選挙の結果を発表しました。このなかで、全議席の3分の2を占める比例代表の議席のうち、38パーセントをイスラーム同胞団系の自由公正党(FJP)が、29パーセントをイスラーム保守派の「ヌール党」が抑えました。これにより、全議席の約半数がイスラーム系政党によって占められ、FJPが第一党となりました。この選挙結果を受け、23日に開かれた初議会では、FJPの幹事長が議長に、ヌール党とリベラル政党の「ワフド党」から1名ずつが副議長に選ばれました。これはいわば、党派を超えて議会が結束し、エジプトの再生を図っていくことを内外に示したものといえるでしょう。
欧米諸国の保守派のなかには、これに懐疑的な声もあるようです。例えば、アメリカ新保守の論客として知られるジョン・ホプキンス大学のJ.ムラヴィックは、選挙が行われる前から、ムスリム同胞団が過去に暴力行為にも加担したことを批判し、イスラーム系政党が標榜する自由や民主主義は、「哲学的なものでなく戦術的なものに過ぎない」(Commentary, Sept. 2011)と断定していました。これに代表されるように、自由や民主主義がアラブでだけは通用しない、なぜなら文化や価値観が異なりすぎるから、という主張は「アラブ例外主義」とも呼ばれます。これは、特定の文化や価値観が固定的で、全く変化しないという前提に立つため、「本質主義」とも呼ばれますが、いずれにしても有名な「文明の衝突」もこの前提に立つ議論といえるでしょう。
文化や価値観の不変性を強調することは、変動が激しい現代において、安心感を得やすい議論かもしれません。アメリカ大統領選挙の共和党候補者サウスカロライナ州予備選挙で、宗教的価値観を重視するニュート・キングリッチ候補が、優勢が伝えられていたミット・ロムニー候補を退けたことは、示唆的です。これらの現象は、文明論的に言えば、グローバル化による市場の猛威が個々人を直撃し、国家がこれを充分保護できないなか、近代以降に国家と市場に従属してきた社会が復興しつつあることを示すものと言えるかもしれません。とはいえ、特定の文化や価値観の不変性を強調することは、他者に対する不寛容と表裏一体のものになりがちです。
9.11以降に顕著となった欧米諸国における反イスラーム感情は、しかしそれ以前からも根深くありました。1991年のアルジェリア議会選挙で、イスラーム系団体の「イスラーム救国戦線」(FIS)が勝利するや、独立以来の世俗主義が脅かされることを嫌った軍部が介入し、選挙結果を反故にしました。軍政が敷かれるなか、先進国、なかでも旧宗主国のフランスは、世俗的でフランス語を話すアルジェリアエリート層の利益を保護する政府を支持し、FISへの弾圧を容認したのです。1990年代は欧米諸国がアフリカなど開発途上国に民主化を強く求め始めた時期です。しかし、その一方で、欧米諸国はイスラーム的な主張を展開する政党の勝利を拒絶しました。これが中東・北アフリカにおける、欧米諸国の「自由民主主義」に対する不信感を大きくしたことは否めません。
あれから20年が経ちました。さすがにこの状況下で、エジプトの選挙結果に正面から異議を唱える国はないでしょう。しかし、先述のように、「例外主義」や「本質主義」に基づく、欧米諸国からの警戒感は拭えず、これが欧米諸国とアラブ、イスラーム圏の相互不信に拍車をかけているといえます。
アラブの春の後の各国で、イスラーム系団体が選挙において自由や民主主義を強調したのは、全面的に宗旨を転換したのではなく、支持を広げるための手段であったとみることにおいて、先ほどのムラヴックの主張に異論はありません。これまでにも再三取り上げてきたように、政変の主体が貧困層であったことは、その傍証です。しかし、「だからアラブで民主主義が根付くことはない」と主張するのは短絡的だと思います。
ある程度の規模を得るためには、コアな支持者以外の支持を幅広く獲得することは、聖俗を問わず、いかなる政党であれ一般的な手法です。第二次世界大戦後の先進国では福祉国家化が進展し、保守政党であれ革新政党であれ、これに正面から反対することはできなくなりました。その結果、保守と革新の対立軸が薄れた状況を指して、ダニエル・ベルは「イデオロギーの終焉」と呼びました。これは同時に、あらゆる政党が、党勢の拡大のためには、イデオロギーに固執せず、幅広い政策を取り入れることで、支持基盤を広げるようになったことを意味します。1980年代に環境保護を訴えて台頭した西ドイツの「緑の党」が、勢力の拡大に併せて、「シングル・イシュー・パーティー」からの離脱を図ったことも、この文脈から理解できることです。
つまり、イスラーム系政党が自由や民主主義の価値を擁護し、貧困対策を打ち出すことは、議会選挙という洗礼を経ることで、いわば「イスラーム国家建設」といったコアな支持者しか得られない主張からの転換を図る、言い換えれば「シングル・イシュー・パーティー」からの脱却を図る手法である、と言えるでしょう。そして、このことをもってイスラーム系政党が「本質的に自由や民主主義と親和的でない」と批判しても、それは批判のための批判に過ぎません。なぜならば、国民・有権者にとって重要なことは、その政党の指導者や幹部たちの「本当の思想」ではなく、「何を約束し、何を実行するか」だからです。
日本のチョコレートも、ガーナのチョコレートも、チョコレートである点は同じです。アメリカのマクドナルドと、日本のマクドナルドも、マクドナルドであることは同じです。それぞれに好みや差異はあっても、「どれが本物か」といったことで対立がある限り、それはユニバーサルなものにはなりません。もし、自由や民主主義が普遍的な価値をもつと強調するのであれば、小異を捨てて大同をみる心構えや寛容さこそが必要であり、たとえ迂遠であっても、それしか欧米諸国とアラブ・イスラーム圏の根深い確執を溶く道はないと思うのです。
ミャンマーで1月14日、政治犯302人が釈放されました。2010年に20年ぶりに総選挙が行われて以来、ミャンマーは段階的に民主化を進めてきました。それに合わせて、日本を含む先進国はミャンマー政府との協議を行うようになっており、昨年12月にはクリントン国務長官がテイン・セイン大統領だけでなく、アウン・サン・スー・チー氏とも会談しています。今回の政治犯釈放で、アメリカの大使館再開も加速するものとみられ、長く孤立してきたミャンマーが国際社会への復帰プロセスにあることは確かのようです。
しかし、その一方で、この一連の動きがミャンマーにおける自由と民主主義を実質的なものにするかは、慎重に判断すべきでしょう。2010年の総選挙は、2008年に実施が発表されました。その前年、ヤンゴンで僧侶を含む数千人規模のデモが発生し、これを軍事政権が武力で鎮圧したことで、ミャンマーは欧米諸国からだけでなく、近隣の東南アジア諸国からも厳しい批判にさらされました。これを受けて実施が決まった2010年の総選挙は、軍事政権自身が進めたものでした。その結果、新憲法では議席の4分の1は軍関係者で占められることが定められ、選挙で選出された議員も多くが旧軍事政権関係者です。いわば、2010年選挙は、外部からの批判を緩和することを直接的な目的にしたものだったのです。
もちろん、たとえ形式的なものであっても、政治的な発言や投票の機会が確保されるようになったことは、過小評価すべきでないでしょう。また、軍事政権が権力を一手に握っている状態では、政府による主導以外に民主化が進まなかったことも確かで、そのこと自体を批判しても仕方ないと思います。
しかし、1990年代のアフリカでもそうでしたが、外圧への反応として権威主義的な政府が体制転換を行った場合、新政府は自らの権力を脅かさない範囲内での自由化や民主化に留めることになりがちです。つまり、外部からの批判を避けるための形式を整え、他方では政治活動を合法的に取り締まる法律(例えば「暴動教唆罪」など)を残す、というやり方です。アフリカではこれにより、制度的には複数政党制でも、実質的には一党制に近いような国が多く残ることになりました。
1991年に反政府ゲリラ組織「愛国救済運動(MPS)」が政権を武力で奪取し、1996年に複数政党制が明記された憲法が採択されたチャドでは、定期的に選挙が行われているものの、その後も一貫してMPSが議席の多くを占めてきました。現在、MPSは188議席中110議席を確保しています。そして、選挙では政府・MPSや、その支持者らによる野党支持者への妨害やいやがらせが絶えません。2008年には、最大野党党首ンガレジ・ヨロンガが当局に拘束され、隣国カメルーンで監禁・拷問されていたことが発覚しました。
それでも、先進国はチャド政府、およびMPSを率いるイドリス・デビー大統領に寛容で、少なくとも制裁や批判が正面から行われることは、ほとんどありません。その最大の理由は、大きく二つあります。一つは、チャドが日産17万バレルの産油国であり、先進国がその主な顧客であること。もう一つは、隣接するスーダン、リビアに対抗するための「手駒」としてチャドと友好関係を維持しておく必要性を見出していたことにあります。
資源と、目障りな国への牽制。この二つの要素は、ミャンマーにも該当します。ミャンマーは世界最大のルビー産出国であるだけでなく、天然ガスも産出します。このうち、天然ガスは年間約85億立方メートルを輸出しており、その多くは中国向けです。先進国がミャンマーの軍事政権に経済制裁を敷いている間に、中国がその利権の多くを確保してきたことに鑑みれば、先進国には、こぞってミャンマーとの関係改善を望む環境があるといえるでしょう。それだけでなく、人件費が上がった中国からインドシナ半島への各国企業の生産拠点流出は顕著で、地理的に言えば、その先にあるのはミャンマーです。
しかし、欧米諸国にしてみれば、ミャンマーとの関係改善をしたくとも、人権侵害などを理由に経済制裁を敷いてきた手前、そこに何らかの変化がない限り、行動パターンを変化させることは困難でした。ミャンマーの軍事政権がそこをどこまで見切っていたかは不明ですが、少なくとも結果としては、振り上げた拳の下ろし時を探っていた先進国に、絶好の機会を提供したことになります。
一方で、ミャンマーにしても、先進国、特に欧米諸国と敵対的な関係であり続けることは、決して得策とは言えませんでした。既に述べたように、先進国が経済制裁を敷くなか、ミャンマーと経済関係を深めたのは中国でした。いわばミャンマーは、先進国に対するカウンターバランスとして、中国に依存してきたのです。しかし、他の東南アジア諸国と同様、中国のオーバープレゼンスは、ミャンマーにとっても好ましいものではありません。基本的には中国との友好関係を維持するにしても、欧米諸国との関係を築いておくことは、対中関係における自らの発言力確保につながるのです。
このように眺めてみれば、ミャンマーにおける「民主化」は、ミャンマーと欧米諸国の間の利害の一致の産物と言えるでしょう。そして、一旦利害が合致すれば、チャドでそうであったように、欧米諸国は人権侵害や民主化を理由に制裁や非難を行うことは控えるようになります。そうであるならば、例え体制転換が行われ、政治犯が釈放されたとしても、ミャンマーでは今後とも、自由や民主主義といった理念を制約する制度が残存し、ビルマ人以外の少数民族の権利が脅かされる状況に大きな変化が生まれるとは考えにくいのです。
金正日総書記がついに死亡しました。この数年来、体調不良が伝えられていたので、ある意味では驚くことでないのかもしれませんが、それでも唐突の感は否めません。今年9月に出版された『世界の独裁者』(幻冬舎)で取り上げた20人のうち、カダフィに次いでの死亡です。
果たして、これで北朝鮮がどうなるのか。TVをみていると、政府も有識者も、あるいは海外メディアもいろいろと予測していますが、大きく分けて二通りの見方があるように思います。
一方には、世代交代が進んだことで、過去との決別が可能であろう、拉致問題や核・ミサイルといった旧体制の弊害が改善される契機になるだろう、という見方があります。しかし、この期待には同意するのが困難です。北朝鮮で金正日が一人で物事を決めていたのなら、最高責任者の交代で大きな変革が生まれる可能性もあります。
しかし、現実には金正日は、大きな政治的影響力をもつ軍部の歓心を買いつつ、これを抑える形で権力を維持してきました。つまり、「独裁者」とはいえ、一人で万事を決めていたわけでないのです。ですから、世代交代したことで、自動的に北朝鮮が国際社会に復帰するとは、ほとんど期待できません。
第二に、金正日の退場によって北朝鮮が不安定化する、という見方があり、こちらの方が現実に即した予測だと思います。後継者となった金正恩や、金正日の妹・金敬姫らは、軍と長く無縁でした。彼らが金正日ほどに軍をコントロールしきれないだろうことは明らかです。したがって、軍が政府中央への発言力を強めることにより、「瀬戸際外交」やミサイル輸出といった、軍の存在感をアピールする北朝鮮の行動が増えることが予測されます。
軍にとっても、現在の体制の維持は大前提です。そのなかで、できるだけ発言力を大きくしようとし、さらに集団指導体制の下、金正恩や金敬姫らはある程度、軍の要望を呑まざるを得ない状況が生まれると考えられます。その意味では、一年、あるいは半年以内に、ミサイル実験が再び行われたり、あるいは昨年の延坪島砲撃事件のような出来事が発生することも、あながちないとは言えません。
「独裁者」と目される人間が、自分ひとりの意思で物事を決めていることは、実はほとんどありません。どの国、どの時代であれ、ほとんどの場合、「独裁者」の周りには権力と、そしてそれに起因する富を求めて、砂糖に群がる蟻のように、ひとが集まってきます。「独裁者」は彼らを従えながらも、その支持に基づいて自らの権力を保持している以上、彼らの要望に応えなければならなくなります。
ロシアのプーチンは、ソ連崩壊後の新興財閥による汚職に厳しい姿勢を示し、大統領就任後に軍や治安機関の力を用いて彼らを排除していきました。しかし、結局は独裁的な権力をもつプーチンの威光をかさにきた軍や治安機関による汚職が蔓延し、プーチンはそれを黙認せざるを得なくなりました。これは、「独裁者」が支持者に支えられながら、支持者に絡めとられていることを示す、一つの典型例です。北朝鮮に話を戻せば、金正日が金正恩に代わったからといって、権力の中枢に群がることで利益を求めるひとがいなくなる筈はありません。
しかし、やや矛盾するかもしれませんが、指導部の変化が、日本を含む関係国にとって一つのチャンスになる可能性もまた、否定できません。軍の影響力が大きくなればなるほど、金正恩らはそれを抑えようとするエネルギーに駆られる可能性が大きくなります。しかし、国内に軍に対抗できるほどの組織はありません。つまり、金正恩が軍の力を政権中枢から段階的に削り落としていこうとした場合、外部の力を借りざるを得なくなります。その段階まできたとき、はじめて北朝鮮の新執行部は外部と真剣に交渉しようとすることになると考えられます。
したがって、当面は軍の影響力が大きくなり、それを慰撫するために、外部に対して挑発的な行為が続くことになると思いますが、それを超えた先に、金正恩らが軍との関係に修正を加えようとするタイミングを見計らうことが、日本をはじめ、周辺国にとって重要な課題になるといえるでしょう。
海の向こうのエジプトやモロッコに目を向けている間に、大阪のダブル選挙で「維新の会」が圧勝し、橋下徹前知事が市長に当選しました。大阪府で生まれ、大学入学まで過ごした私としては、やや複雑な感が否めません。
今回のダブル選挙は、日本におけるポピュリズムが一つのピークを迎えたことを示しています。
日本では一般的に、渡邉恒雄読売新聞主筆を中心に、ポピュリズムに「大衆迎合主義」という訳語をあて、その情動性や非合理性を強調する論調が支配的です。無論、これらの側面は否定できませんが、ポピュリズムを単に「台所の政論」のように扱って済ませることは、その本質を見誤るだけでなく、むしろその本質を覆い隠す議論になりがちです。【ポピュリズムについては、以下を参照。拙稿(2007)「ポピュリズムの理念的枠組み:自由主義との対比を中心に」、『カルチュール』(明治学院大学教養教育センター付属研究所】
P.タガートによると、ポピュリズムを解明する要点は、次の5つです。1)代表制への敵意、2)理念化された過去の共同体への憧憬と「普通の人々」の道徳的優位性、3)状況に応じて様々なイデオロギーに染まるカメレオン的性質、4)大規模な社会変動に対する危機感、5)その短命さ、の5つです。
世界各地におけるポピュリズム運動としては、例えば移民排斥を訴えるフランスの極右政党「国民戦線」や、原発廃止と環境保護を訴えるドイツの「緑の党」を、その典型としてあげることができます。また、減税を訴えるアメリカの「ティーパーティー」や、逆に格差解消を訴える「ウォール街占拠運動」もこれに加えてよいと思います。
その主張内容は一見バラバラですが、これらの組織・団体には、以下の点で共通します。
これらはいずれも、複数政党制に基づいて定期的に選挙が行われながら、大企業や労働組合、さらに宗教団体といった動員力・資金力のある組織の利益が優先的に表出し、それらに属さず、自らの利益が政治に反映されにくい階層・集団が、議会制民主主義そのものに敵意をもつに至ることで生まれました。多くの場合、その敵意は、議会制民主主義のもとでエリート、あるいはエスタブリッシュメントの地位を占める政党(議員)、大企業や労働組合などの大利益集団、そしてその政府を支える官僚に向かうことになります。そして、「政治と無縁の『普通の人々』である我々(we)」が「政治にまみれている彼ら(they)」より、道徳的に優れており、その意思を政治に反映させることで、より「善い」社会が生まれるはずだと強調します。
つまり、理論的には政党は社会の多様な利益を吸い上げ、それを議会という政治的意思決定の場にもちこむという、いわば国家と社会の架け橋の役割を担うべきものです。しかし、現実には特定の組織・団体が動員力・資金力を背景に、議員や政府の行動を大きく左右します。これは政権交代を経ても、オバマ大統領が大企業を擁護せざるを得ないことに象徴されます。その結果、これらの巨大利益団体に属さない階層・集団は、政治的な無力感を味わうことになり、「彼ら」に対する憎悪や敵愾心を募らせ、議会制民主主義そのものを否定する主張を、多くの場合は議会制民主主義の手法にのっとって展開することになります。いわばポピュリズムとは、政党の利益表出能力が十全でない限り、議会制民主主義が必然的に生み出す「鬼っ子」といってよいでしょう。
ただし、ポピュリズムは強固で一貫したイデオロギーを備えているわけではありません。そのほとんどは、「普通の人々」としての道徳的優越感に加えて、大規模な社会変動に起因する危機感と、ここから派生する、理念化された共同体への郷愁を求心力にします。金融危機や移民の急増といった社会変動に直面したとき、多くのひとは危機感を募らせます。これがポピュリズムの母胎となるのです。ティーパーティーが「古き善きアメリカ」をイメージ化するように、あるいは「国民戦線」が「白人キリスト教徒の共和国」たるフランスをイメージ化するように、ある特定の時期の社会を理想化し、そこへの回帰を求めることで勢力を拡張したことは、その典型例です。
これらを踏まえて今回の大阪ダブル選挙をふりかえると、橋下氏のポピュリストぶりが浮き彫りになると思います。府知事就任以来、とにかく橋本氏は地方官僚たる府職員を批判し続けました。さらに、現在の中央−地方関係を掌握する霞ヶ関の中央官僚や、永田町の国会議員もまた、批判の対象になりました。
もちろん、現在の日本の統治構造に何の問題もないとは言えません。他方で、政府や府職員を集中的に批判することで、橋本氏は「『彼ら』に立ち向かう『普通の人々』の味方」のイメージを定着させていったことも、確かだといえるでしょう。今回の市長選挙で、民主党や自民党をはじめ、常日頃は独自候補にこだわる共産党までが平松候補を応援したことは、結果的には橋下氏の「反政党」、「『普通の人々』の味方としてのイメージ強化に繋がりました。
そして、橋本氏の代名詞ともなった「大阪都構想」もまた、そのポピュリズムの賜物といえます。たまに帰省すると、大阪の衰退ぶりは顕著です。もちろん、今も西日本の中心地であることは確かですが、昔日の面影はないように思います。NHKの朝ドラ「カーネーション」の舞台である岸和田市には、私の母校があります。かつて、大阪南部(泉州)は繊維産業で栄え、戦後復興を支えた根拠地の一つとなりました。私の子ども時代、実家の周辺にはタオルや毛布を織る工場が立ち並び、機織り機械の音がやかましく響いていました。しかし、現在は中国製品に押され、いまやほとんどの工場は閉鎖され、マンションか駐車場になっています。かつて景気のよかった時代を懐かしみ、その再生を願う点で、大阪市のみならず大阪府全体が、日本中のどこにも増して、特定の一時期の社会への回帰を願う素地があるといえるでしょう。
産業の構造転換に遅れたという意味で、長期化する閉塞感に加えて、昨今の金融危機です。これらの社会変動に対する大阪の人々の危機感が、その状況に有効な手立てを打てているように見えない府・市への不満が、既存の政党の枠組みに囚われず、「彼ら」への露骨な敵意を示し、景気がよく、東京と張り合っていた頃への大阪への回帰を叫ぶ橋本氏への支持に傾いたとしても、不思議ではないでしょう。つまり、大阪の人々が「大阪都構想」を受け入れたとすれば、それは未来志向というより、多分に「回帰」のニュアンスが強いように感ぜられます。いずれにせよ、「維新の会」への支持が、いわゆる「無党派層」に目立ったことからも、既存の秩序そのものに対する敵意を吸い上げることに、橋本氏らが成功したことは確かです。
言ってみれば、ポピュリズムとは大利益集団や官僚制度によって支えられる、既存の議会制民主主義に対するアンチテーゼです。量的マジョリティである「既得権から排除された人々」を糾合し、多数派であることを最大の武器として、既存の秩序に転換を迫るパターンにおいて、多くのポピュリズム運動は共通します。
そのなかで、それ以前はいずれの政党からも問題として認識されてこなかった政策課題を政治の場に持ち込むことも稀ではありません。「国民戦線」の移民排斥や、「緑の党」の原発廃止は、その規範的評価はともかく、あらゆる政党が等閑視していた課題に対する、多くの人の漠然とした不満や不安を吸収したものです。フランスやドイツでは、これらが勢力を拡大させた結果、既存政党もこれらの課題について触れざるを得なくなりました。その意味で、ポピュリズムを単に情動的とか非合理的といって片付けようとすること自体、エリートの無謬性を強調する議論に他ならないと言えるでしょう。
ただし、ポピュリズムは「友−敵」関係を強調することで勢力を拡張させるため、宿命的に善悪の二分法に陥りがちです。その「友−敵」の線引きは内部にも向かうため、ポピュリズム運動は絶え間のない内部分裂を繰り返すことになります。また、既存の政党を否定して政界に進出すれば、当然のごとく自らも政党化せざるを得なくなり、「反政党」としての求心力は損なわれることになります。つまり、ポピュリズムと呼ばれる運動のほとんどは、既存の秩序の一部となって生きながらえるか、分裂の挙句に消滅するかのいずれかの道をたどってきました。これが、タガートのあげたポピュリズム最後の特徴、「その短命さ」です。
繰り返しになりますが、ポピュリズムそのものは十全でない政党の利益表出能力が生む、議会制民主主義に必然の現象です。そして、それが提起する政策課題が、少なからず多くの人々の日常的な不満や要望を反映した側面があることも否定できません。ただし、「彼ら」に対する無条件の敵意を求心力とするため、社会の中に分裂を生みやすく、さらにその方針はいきおい破壊的にならざるを得ません。破壊の先に繁栄があるという保障はありません。ポピュリズムには常にリスクと隣合わせなのです。
そして、そのようなポピュリズムは、議会制民主主義にとっての試金石でもあります。つまり、ポピュリズム運動で爆発的に広がった要望や意思が、既存政党に吸収され、従前の議会制民主主義に取り込まれることで、ポピュリズムは衰退してきました。他の政党がより穏健な、しかし厳格な移民政策を導入したことで勢力を衰退させたフランスの国民戦線は、その象徴です。いわば、ポピュリズム運動がもたらした過激な政策要望を他の既存政党が吸収し、より穏健化させて建設的な政策立案に昇華させられるならば、議会制民主主義そのものは健全に機能し続けることができるのです。この観点から、橋本氏と「維新の会」が示した「大阪都構想」に対して、既存政党がどう対応するかを注視することが必要になってくるのです。
11月24日、エジプト・カイロで軍による権力の放棄を求める広範なデモが発生しました。当初は、もともと軍による暫定統治に難色を示していたイスラーム勢力の平和的なデモだったものが、ムバラク政権崩壊後も失業や格差といった社会問題が解消されないことに不満を募らせた若年層がこれに加わり、結果的に治安部隊との衝突で数名の死者がでたようです。
「アラブの春」の一つの象徴であったムバラク体制の崩壊と、その後のエジプトは、生みの苦しみの最中にあるといえます。「独裁者」がいなくなった状況下で、物質的な充足そのものを政府に求めるか、あるいは国民自らが統治の主体となる状態を尊重するか、のいずれかです。
以前から再三取り上げているように、「独裁者」を打倒することが自動的に「自由」や「民主主義」をもたらすとは限りません。むしろ、社会問題の解消を政治的な変化に求めすぎれば、それが実現しなかった場合に、容易に反動が訪れます。つまり、「どの政府も自分たちの生活をよくしてくれない」という不満です。
この不満は、しかし逆に、「生活をよくしてくれる政府がよい政府」となり、さらにこの主張を推し進めれば、「生活さえよくしてくれるなら強権的な政府でも構わない」となりがちです。この結果、人々が求める形で、独裁の連鎖が生まれることも稀ではありません。1969年にクーデタでイドリース王政を打倒したカダフィ自身が独裁化したことは、その典型です。
生活状況の改善を政治に求めること自体は、否定されるべきではないでしょう。個々人の安全や物質的な充足は、単に私的な利益にとどまらず、社会全体の安定や繁栄に寄与するものです。しかし、万人が満足できる一元的な社会環境を想定することは困難です。
にもかかわらず、社会問題の解決のみを目的化すれば、あり得るはずのない一元的な解決策を求めるあまり、容易に独裁に至ります。「こうするしかない」という解決策の断定的な提示は、時に人に安心感を与えます。しかし、それは結果的に、絶え間のない政治的不安定をもたらしかねないのです。
ポスト・ムバラクのエジプトが、社会問題の解決のみを政府に求めて「独裁者の連鎖」に陥るか、あるいは手に入れた「自由」を確保するための民主的な政治体制の構築に向かえるかは、いまだ予断を許しません。
一方で、近隣の諸国からは、1年前と異なる政治情勢の変化が見て取れます。そして、それは中東・北アフリカ地域における、さらに本格的な政治の地殻変動の前触れを予感させるものです。
「アラブの春」の起点となったチュニジアで10月23日に行われた憲法制定議会選挙では、穏健派イスラーム政党「アンナハダ」が勝利しました。また、11月26日に行われたモロッコの選挙でも、イスラーム主義政党「公正発展党」が議席を伸ばしているようです。
これらイスラーム主義政党は、他の世俗的な政党と同様に、中東・北アフリカの諸国で長らく規制の対象になってきました。いずれの国でもイスラーム主義組織は、ムスリムの五つの義務のうちの一つである「喜捨」の精神に基づいて、貧困層への食糧支援や学校・病院建設など、本来は政府の業務でありながら政府が提供できない、あるいは提供しない公共サービスを、代わりに提供することで、貧困層への支持を広げてきました。そのため、各国政府からみれば、イスラーム主義組織や、その政治的部署であるイスラーム主義政党は、自らの支配の正当性を脅かすものであったのです。
チュニジアやモロッコでこれらの政党が選挙に参加し、多くの議席を占める状況は、イスラーム主義組織の浸透度を物語ると同時に、自由や民主主義といった「普遍的理念」が中東・北アフリカに定着する可能性を示唆しています。
ドイツの哲学者G.W.F.ヘーゲルは、「普遍」と「特殊」を相克する「個別(真の普遍)」を生む弁証法を確立したことで知られます。ヘーゲルの時代のドイツでは、革命後のフランスの影響を受けた合理主義的・理性的なエリート層と、これに抵抗する民族主義的・ロマン主義的な排外主義勢力との争いが絶えませんでした。一方的に「普遍」を受け入れることは、これに無条件に従うことから「自由」ではない。しかし、やみくもに「特殊」を強調することは、合理性を欠いた「恣意」に過ぎない。
そこでヘーゲルのたどり着いた境地は、「特殊」のなかに「普遍」の要素を見出すこと、つまりドイツの歴史的特殊性のなかに、「人権宣言」に象徴される普遍的価値観に適う要素を見出すことでした。抽象的な理念を観念的に受容するのでなく、皇帝支配やキリスト教といったドイツの文化や歴史のなかに、それに相通じる要素を見出すことで、普遍的な理念を自らのものとできる。これなら、「普遍」への一方的従属でも、特殊への憧憬といった、合理性を欠いた「恣意」でもない。こうしてたどりついた段階を指してヘーゲルは、「特殊」があって初めて成立できる「普遍」より高い次元にある、「真の普遍」と呼んだのです。当時のドイツが置かれていた環境からヘーゲルの弁証法を読み解けば、そこにはフランス革命が生んだ普遍的理念と、ドイツの歴史的特殊性を接合することに苦闘した姿が浮かんできます。
第二次世界大戦後、カール・ポパーの著書『開かれた社会とその敵』に代表されるように、特に英米圏でヘーゲルは「全体主義体制を生んだ人間の一人」と位置づけられました。確かに、最終的には個人と国家の有機的結合や官僚支配を正当化する議論に行き着いた点から、ヘーゲルに全体主義的傾向があったことは否定できないでしょう。しかし、他方で「文明国」フランスの影響を受け入れつつ、近代化に立ち遅れたドイツをいかに守るかに苦慮したその問題意識は、いわば近代文明の最先端地で「普遍」の中心地である「ライン河以西」では王道でなくとも、むしろ世界のほとんどの国では、多かれ少なかれ共通するものといえます。戦後の日本も、例外ではありません。
現代の中東・北アフリカに目を転じれば、多くのひとにとってイスラームは今も社会の規範であり、その善し悪しはともかく、「宗教は個人の精神の領域にとどめるべき」という世俗主義は浸透しきっていません。まして、先述のように、これまで多くの人の生活をイスラーム主義組織が支えてきたことを顧慮すれば、チュニジアやモロッコの選挙結果は驚くものではありません。のみならず、イスラーム主義政党の躍進は、選挙や議会といった近代西欧文明の所産が、イスラームという固有の文化と結合する可能性を示しています。
「アラブの春」の後、イスラーム主義政党が各国で林立する様相は、欧米諸国からはやや警戒をもってみられています。しかし、およそ200年前にヘーゲルの、「普遍」は「特殊」との結合によって初めて「真の普遍」にたどりつけるという指摘を考えるのに、今日の中東・北アフリカほど意義深いケースは稀かもしれません。「本家」として非欧米地域に民主化や人権擁護を求めてきた欧米諸国には、その観点からも、中東・北アフリカの今後をよく注視してほしいと思います。
ニューヨーク、ウォール街を起点とした、若者や失業者を中心とする抗議活動は、全米のみならず、各国に飛び火しました。貧困と格差に代表される社会・経済的な不満を募らせた人々が、ツイッターなどのソーシャルネットワークを駆使して抗議活動を展開する点に、昨年暮れからの「アラブの春」、そして夏のロンドン暴動と同様の構図を見出すことは容易です。
もちろん、その類似性は否定できません。ただし、「アラブの春」、ロンドン暴動、そして「ウォール街占拠」の三者は、微妙な違いを備えていることも看過できません。これらは、三者三様の深刻な問題を内包しているのです。
アラブの春は、多かれ少なかれ権威主義的な政府に対する異議申し立てでした。そのような活動が法的に規制されているため、抗議活動は必然的に暴力的な側面を備えることになります。そして、原油価格の高騰にともなう中東・北アフリカへの資金流入がインフレを招き、国民の多数が石油ブームの恩恵から見放されていたことが、連鎖反応的に政変が拡大した大きな背景にありました。
ハンナ・アレントが「青年マルクスがフランス革命から学んだのは、貧困は第一級の政治的力になるうるということであった」と言ったように、貧困や格差といった社会問題が政治変動をもたらしたという点で、アラブの春は古典的なパターンをたどっています。しかし、フランス革命、ロシア革命、さらに開発途上国の独立といった社会問題に起因する政治変動は、必ずしも自由や民主主義につながらなかったことも、また確かです。その意味で、アラブの春がもつ政治的な意味合いについての評価は、今後の観察に拠らなければなりません。
一方、ロンドンとウォール街の場合は、少なくとも民主的な政府のもとで発生しただけに、その意味ではアラブより深刻です。すなわち、選挙を通じた政権交代と、国民の意志を政治に反映させることが可能でも、自分たちの生活が一向によくならないという不満は、政治体制そのものに対する批判にもつながりかねません。
とはいえ、ロンドンとウォール街の間にも、違いが見られます。ロンドンの場合は、ウォール街と異なり、単に所得が少ないだけでなく、移民など文化的差異に基づいて、社会のなかで疎外感を味わってきた人間が、暴動の中心になりました。つまり、彼らは日常的に感じていた経済的な不満に加えて、社会的な鬱積をも晴らそうとしていたように思われます。
ただし、そういうフラストレーションを晴らすこと自体が目的であったため、政府や社会に対して建設的な異議申し立てを行うというより、露骨な略奪という犯罪行為に向かったと捉えられます。一方で、そういう行為が社会の多数派の支持を得られるはずもなく、また暴動の参加者も、既存の社会そのものの転換を図ったとはいえません。つまり、従前の社会で生きるという前提のもとで、そのなかで鬱積した不満を爆発させたという構図が、そこに見て取れるのです。「支配する側―支配される側」を転換させて、日常的なフラストレーションを晴らすことを目的とした点で、語弊があるかもしれませんが、ロンドン暴動は一種の「祭り」だったといえます。
ところが、ウォール街の場合は、少し意味合いが違います。「自分たちが99パーセント」という主張に象徴されるように、彼らは「多数者」であることを錦旗として、「少数者」たる富裕層を批判し、さらに富裕層を優遇する政府にも批判の矛先を向けます。ロンドンの場合、自らを正当化する言辞は、暴徒からあまり聞かれなかったように思います。
しかし、ウォール街の場合は、抗議活動に集まる人たちは、自分たちの「正しさ」を熱烈に強調しているようです。それは、行為が暴力的あるいは犯罪であるか、あるいは主体となった人間の教育水準の高い低いにも関係しますが、より根本的にはロンドンと異なり、ウォール街占拠の運動自体が、代表制に基づく議会制民主主義そのものに対する、一種の異議申し立てであることがあります。
ウォール街に集まったのは、文化的差異といった規定要因は乏しい一方、経済格差の弊害を直接的に受ける人たちの集まりで、さらにオバマ政権誕生に貢献したリベラル派の若者を中心としている点に特徴があります。いわば彼らは、ブッシュ政権のもとで格差に不満を抱き、そのチェンジを求めてオバマ大統領誕生の原動力となった階層です。しかし、オバマ政権誕生後も、アメリカでは経済が停滞し、失業率も改善の兆候が見られません。
二大政党制が定着している国では、政権交代によってドラスティックな方針転換が、制度上は可能です。とはいえ、現実には大企業や組織力のある労働組合など、特定の社会勢力の発言力は、政権交代があっても容易に衰退することはありません。政権が交代しても大きな変化がないなかで、議会制民主主義そのものに対する不満が鬱積したとしても、不思議ではありません。
貧困や格差といった社会的病理を緩和しなければ社会そのものに大きな混乱をもたらすことは不可避です。その意味で、完全に撲滅することは困難であるにせよ、その状況を改善することは、どの国にとっても愁眉の課題です。
しかし、ここで注目したいのは、「多数者」であることをアプリオリに「正しい」と規定することの危険性です。少なくとも近代の議会制度のもとでは、多数決の原理は「多数者の意見で決議をとる」という、いわばゲームのルールにのっとったもので、そこに道徳的な正しさがあるとは保障されていません。
18世紀以前の内乱が絶えなかったイギリスで、「叩き割った頭の数が多いほうが物事を決めていた」のが、「生きている頭の数の多いほうが物事を決められる」ようになった点で、議会制民主主義がもつ歴史的意義は否定できません。また、「少数派が正しくない」と決め付けないことが、議会制民主主義そのものを生きながらえさせてきた利点でもありました。しかし、それは一歩誤れば、「数さえ集まればそれでいい」という「数のゲームの罠」にはまり込むことを意味します。
いずれにせよ、選挙や議会で多数者が優先されるのは、「多数者に支配を任せる」というルールを社会が受容しているからであり、それは「多数者」であることが「正しい」ことを保障するものではありません。むしろ、多数者が絶対に正しいと捉えたがゆえに、「多数者の主権」が容易に「多数者の専制」に陥り、「少数者の権利」を侵害したことは、多くの革命でみられたことです。数の多さにだけ依存して、自らの正当性を主張することは、結局のところ議会制民主主義が容易に陥りがちな、「数のゲームの罠」にはまりこむことです。にもかかわらず、ウォール街に集まる人々は、きわめてナイーブにこの点を見過ごしているように思われます。議会の場でなく、街頭で多数派であることが「正しい」というルールを、社会が受容しているとはいえません。その意味で、もしウォール街の抗議活動が何らかの正義を模索するのであれば、「多数者」に頼らない、より真摯な考察が求められるといえるでしょう。
とはいえ、多数派であることに安住する傾向は、我々の日常生活でもありふれた光景です。どこだかの自動車メーカーが、「一番売れているのが、一番いい」という主旨の、およそ自律性からかけ離れたコピーで自動車を販売しているのは、その典型です。もちろん、自律性を欠いているのは、「売れたものがいいもの」と思っている側だけでなく、「売れているからいいんだろう」と思う側も同様なのですが。
情報が氾濫すればするほど、より簡便な指標を求めたがる心理は理解できるとしても、それは本来、「いい」とか「正しい」といった価値基準と無縁であるはずのものです。その価値基準を見直すことが、「多数者」に安住して「少数者」を排除することのない社会をつくるうえで、不可欠のことだといえるのです。
前々から告知しながら、遅れに遅れていたiPadアプリ『佐門准教授と12人の哲学者』がようやく正式リリースされました。売れても、売れなくても、それは販売の結果であり、内容の善し悪しを示すものではありません。ただ、一人でも、二人でも、それを手にしてくれた人が、「いい」、「正しい」といった価値基準を振り返り、それを見直すきっかけになってくれれば、と願ってやみません。
今年のノーベル平和賞に、リベリアのエレン・サーリーフ大統領が選出されました。サーリーフ大統領は、2005年の選挙で勝利し、2006年に大統領に就任しました。1984年、ギニアビサウでカルメン・ペレイラが、アフリカ初の女性大統領となりました。しかし、これは軍事政権からの民政移管にともなう臨時大統領職で、しかもわずか数日で軍事政権によって解任されたため、実質的にはサーリーフ大統領がアフリカ初の女性大統領といってよいと思います。
1990年代、リベリアを含む西アフリカでは、冷戦終結後の国際情勢の変動や、経済状況の悪化を受けて、各地で内戦が相次ぎました。このなかで、少年兵の問題や小型武器の蔓延、さらにエスニック・クレンジングと呼ばれた虐殺行為がクローズアップされました。リベリアの内戦は小康期間をはさんで、1989年から2003年まで継続しました。内戦終結の直後に就任したサーリーフ大統領は、勤務経験のあるUNDPなどの支援を受け、戦闘員の社会復帰や女性の社会参画で高い評価を得てきました。それが、今回のノーベル平和賞受賞に繋がったのです。
ノーベル賞の各賞のなかで、平和賞はとりわけ政治色が濃く、ノルウェーひいては西側先進国の意向が反映されやすいのですが、それでもアフリカの女性が同賞を受賞したことは、率直に言って評価すべきことだと思います。
アフリカでは、紛争などの非常時にはもちろん、平時においても、日常的に女性の権利が侵害されています。配偶者の死後、その弟などに「財産」として相続される、あるいは財産相続権が保障されない、土地利用が制限される、親族によって姻戚関係を決定される、などなど。列挙し始めると、かなり長文のリストになってしまいます。
このような女性の権利の制限は、主に慣習法と呼ばれる、国法と異なる法体系によって正当化されています。慣習法とは、エスニシティ(民族)などの単位で、昔から適用されてきた決まりごとの総称です。その運用は、エスニシティの首長が担うことが多く、さらに成文化されていないことがほとんどです。
いわばローカルな社会規範やルールである慣習法は、しかし時に国法とバッティングします。例えば、多くのアフリカの国では、憲法で両性の平等がうたわれていますが、慣習法では一夫多妻制がいまだに認められています。国法と慣習法の間にあるこのような齟齬は、多くの場合、等閑視されています。
アフリカ諸国政府からは、文化相対主義に基づき、グローバルな人権規範を強要されることへの反論もあります。しかしこの反論は、価値基準の相違だけでなく、国内の政治的な背景に由来する部分もあります。アフリカにおいて、首長はいまだに大きな影響力を人々に対してもっており、政府と権力を分有する状態が続いています。そのため、各国政府は欧米諸国からの要請もあって、女性の人権保護に熱心な顔をしつつも、国内政治的には、首長の権限を脅かすような慣習法の規制には踏み込めないでいるのです。[六辻彰二(2010)「現代ガーナにおける女性の権利保護:人権、慣習、政治の交差点」]
いずれにしても、このようにアフリカでは、慣習法という、国家権力とは異なる、いわば社会的な権力による、女性の権利の侵害あるいは制限が常態化しています。裁判所の不足から、民事訴訟に相当する司法手続きが、慣習法で運営される「伝統的裁判所」によって行われることも、稀ではありません。その場合、首長が司法判断を下すことになります。いきおい既存の社会的権力に有利な判決が下りがちですが、ほとんどの貧困層や農村住民にとって、公的な司法へのアクセスが難しいことから、結局は慣習法にのっとって問題を処理せざるを得ないことが多いのです。ただし、これが従来からある、人権の制約に繋がることは、言うまでもありません。
人権の侵害というと、一般的に政府が国民に対して行うものと思われがちですが、近代以降の欧米諸国で人権規範が発達した際にも、やはり家族をはじめ、社会から個人に対する権利の侵害が問題視されました。現代のアフリカでは、いかに国法で「法の下の平等」が謳われていても、実際には女性をはじめ、若年層や移民といった社会的弱者の権利が社会的権力から保障されることは、困難なのです。
ただし、注意しなければいけないのは、「文化相対主義」はアフリカ諸国政府の単なる方便と言い切れない、という点です。原子論的な個人主義に立脚した、近代西欧の人権規範が、世界のどこでも通用するとは限りません。アフリカのように共同体的な紐帯が濃密な地域では、なおさらです。それが誤っていると一方的に断じることは、一種の文化帝国主義にあたります。
とはいえ、グローバルな人権規範がそうであるように、ローカルな文化もまた、万能ではありません。重要なことは、両者の接合です。その場合、人権を制約する文化であっても、個人がそれを受容するかしないかの選択権が実質的に保障されるか、あるいはローカルな文化の文脈でグローバルな人権規範を「翻訳」し、「解釈」して受容するか、のいずれかが必要です。いずれも一朝一夕にできる作業ではありませんが、グローバルな人権規範とローカルな文化のいずれか一方だけを、無批判に受容することが難しい現代にあっては、アフリカに限らず、全ての社会において必要な事柄です。
もちろん、大統領が女性だからといって、それがスムーズに進むとは限りません。しかし、アフリカでは国家権力と社会権力が、それぞれの領分を守って権力を分有し、そのなかで社会的弱者の権利侵害が等閑視されてきました。その意味で、従来の秩序と異なる権力構造が生まれたことで、グローバルな人権規範とローカルな文化の接合が進み、アフリカ社会に大きな変化が生まれる可能性があることを、サーリーフ大統領のノーベル平和賞受賞は示していると言えるのです。
ただし、このような明るい話題がある一方、いわば従来型の「独裁者」は、いまだにアフリカで根強く権力を握っています。社会権力と「住み分け」を行うにせよ、あるいは社会権力を押さえ込むにせよ、その多くは国家権力を独占し、国民の権利を侵害しています。エジプトのムバラク体制やリビアのカダフィ体制は崩壊したものの、カメルーンのポール・ビヤ大統領や、チャドのイドリス・デビー大統領、さらにジンバブエのロバート・ムガベ大統領など、これまた列挙し始めると、かなりのリストになります。
彼らが行っているのはは、文化相対主義で正当化することが困難な人権侵害です。とはいえ、社会権力に基づく人権侵害と同様、一概にそれを批判することが妥当とは限りません。繰り返しになりますが、グローバルな人権規範は、必ずしも万能ではないのです。その意味で、「なぜ『独裁者』と呼ばれる人間が存在できるか」を検討することは、「なぜ人権侵害に繋がる文化があるか」と同様、「普遍的」と目されるグローバルな視点からだけでなく、「特殊」であるローカルな視点からみることにも繋がります。
先週29日、幻冬舎から拙著『世界の独裁者』が発売されました。米紙『ワシントン・ポスト』が毎年発表している「世界最悪の独裁者ランキング」に準拠して、世界の20人の「独裁者」の素顔を描き出すことを狙いとした本です。いわば「現役」の独裁者に焦点を絞ることで、流動化する国際情勢をみる一つの視点を提供したつもりです。
ご一読いただければ幸いです。
9月23日、ついにリビアの首都トリポリが陥落しました。反政府組織のアンブレラ組織「国民評議会」側の部隊に追われ、最高指導者カダフィはアルジェリア方面へ逃亡中と伝えられています。彼の胸中に去来するものを測ることはできませんが、恐らく「大量破壊兵器を処分しなければよかった」ということではないでしょうか。
いずれにせよ、これでリビアの体制が転換することは、ほぼ確実とみられています。内戦中から欧米諸国、あるいはサウジアラビアなどカダフィと対立していた穏健派アラブ諸国からの支援を取り付けた国民評議会の主導で、欧米諸国寄りの国家が建設されるであろうことは、衆目の一致するところです。実際、国民評議会の幹部が、「カダフィを支援してきた」という理由により、中国系企業の石油権益が保護されない可能性に言及し、これに対して中国政府が保護を要請する事態も生まれています。
権益の保護がどうなるかはさておき、カダフィ体制が崩壊することは、中国、ロシアといった、これまでリビアと友好関係にあった諸国にとっては、大きな打撃です。逆に、目障りだったカダフィを排除できた上に、石油の埋蔵量で世界7位のリビアへのアクセスを確保できたことで、欧米諸国にしてみれば笑いが止まらない状態、と言うと言いすぎでしょうか。ともあれ、エジプトやチュニジアの新欧米派政権が倒されたあととなっては、中東・北アフリカにおける欧米諸国の重要拠点として、リビアが浮上することになります。
一方で、カダフィ体制の崩壊は、この地域一帯に少なからず動揺を生むことになると考えられます。なかでも、カダフィの影響を受けた他の「独裁者」たちにとって、リビアの体制転換は大きなダメージとなります。
1980年代以来、アメリカをはじめ欧米諸国と敵対する一方で、カダフィは地域一帯にその影響力を浸透させるため、近隣諸国の反政府系組織に軍事援助を行ってきました。スーダンのバシール政権に近く、ダルフール内戦の当事者となってきたイスラーム組織「ジャンジャウィード」の幹部の多くは、もともとリビアからの軍事訓練を受けた人間です。また、バシール大統領自身も、ベンガジに設置されていた「世界革命センター」で、カダフィから影響を受けた「独裁者」の一人です。バシール大統領がICCから国際指名手配を受けるなか、一際大きくこれを批判したのは、カダフィでした。
バシール大統領に代表される、中東・北アフリカの「リビア・コネクション」は、今回のトリポリ陥落によって、総崩れの可能性が大きくあります。これは、一面において中東・北アフリカの安定に資すると考えられます。スーダンだけでなく、ソマリアのイスラーム組織「アル・ジャバーブ」を支援するエリトリアのイサイアス大統領など、地域の不安定要因となってきた「独裁者」たちの、精神的・物質的支援者がいなくなったことを意味するからです。
ただし、他方では、カダフィ体制の崩壊が地域の不安定化を生む面も、否定できません。スーダンのジャンジャウィードは、ダルフールから追い出したアフリカ系住民が隣国チャドへ難民として逃れると、その難民キャンプを標的に、越境攻撃を繰り返すようになりました。チャド軍とジャンジャウィードの戦闘が頻発するなか、2006年にチャド政府はスーダンとの国交断絶を宣言しました。半年後に両国の関係は正常化しましたが、これを仲裁したのがカダフィでした。
チャドのデビー大統領もまた、欧米諸国では「リビア・コネクション」の一員とみられることがあります。しかし、実際にはデビー大統領は軍人として、チャドに侵攻してきたリビア軍と戦火を交えた経験もあり、カダフィの影響は必ずしも大きくありません。しかし、それでも仲裁を申し出たカダフィの面子を壊すことはできず、スーダンとの国交正常化に臨まざるを得なかった、というのが実情でした。
カダフィは各国の非政府系武装組織を支援することで、イスラームとアラブ民族の一体性を強調する「ジャマーヒリーヤ」体制を、地域一帯に拡大しようとしてきました。そのなかで、政府レベルだけでなく、ジャンジャウィードなどの武装組織レベルに至るまで、その影響力を浸透させてきたのです。逆に、例えばバシール大統領は、ジャンジャウィードを必ずしもコントロールしきれていません。したがって、カダフィの退場は、これらの武装組織にとっての重石がなくなったことを意味し、少なくとも短期的には、地域の混乱が過熱する可能性が否定できないのです。
iPad用の電子書籍アプリを作りました![佐門准教授と12人の哲学者]
公式サイト
カレンダー
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
| 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
| 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
| 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
| 29 | 30 | 31 | | | | |
|
最新エントリー
カテゴリー
アーカイブ
プロフィール
search this site.
sponsored links
others
mobile
powered